これは、今は昔の物語、まだ、妖(あやかし)と呼ばれるものがこの地にいた頃の物語。 ー序ー
鈴音山(すずねやま)の峠にたたずむ竹林が、風に揺られて、ざわざわと音を立てた。
昼だと言うのに動くものは竹林以外何も無い。怖いくらいに静かな峠を、一組の男女が通りがかった。燃料となる薪を集めにきた麓の村の若い夫婦である。
「ねえ、あんた?やっぱりこの竹林は不気味だねえ」
「大丈夫さ、一人ではないのだから」
そうは言っても、決して平気とは言い切れないほどの静寂。手早く薪を拾い集めて、さあ帰ろうと男が女を振り返った時だった。
鈴の音がしたような気がした。そして不意に強い風が吹く。男は思わず腕で目を覆う。ざわざわと騒がしい笹の音がやんだ頃、漸くそっと腕を払う。
そこに動くものは、ざわざわと、風の余韻を孕んで揺れる竹林と、立ち尽くした男の、瞬きを繰り返す眼(まなこ)だけだった。
ー壱ー
「・・・また天狗が出たらしいなあ」
「あの峠の竹林かい?女ばかりかどわかされるって話だな」
「何でも次の日の朝に向かってみたら、着物の切れ端だけだったって話だ」
「天狗も所詮女子(おなご)の方が好きじゃということか」
「何にせよ、恐ろしい事よ」
「まったくまったく」
「・・・『妖(あやかし)祓い師』がいてくれりゃあ、天狗なんぞひとひねりだろうに」
「都ならいざ知らず、こんな田舎にそんな人いやしねえさ」
鈴音山の麓の村と峠に挟まれた道沿いの茶屋に、行商人やら村の者やらが集まって、まるで若い娘のように噂話に花を咲かせていた。彼ら男にとって、女ばかりを狙った一連の事件は、恐ろしくないとは言い切れないものの、女たちよりその危機感は薄いと言える。
その茶屋の前で、一人の男が足を止めた。かしましく話している男たちと背中合わせに台座に腰を下ろす。
「はいよ、いらっしゃい」
店の主人が男の存在に気付き、注文を取りにやってくる。
「柏餅をひとつと、茶を一杯」
「はいよ」
主人が奥へ入っていく。男と背中合わせになっていた者が、振り返って声をかけてきた。
「兄ちゃん、旅の人かい?」
「ええ、まあ」
その割に、男の身なりは幾らか奇妙な風体だった。僧侶の墨染めと見紛うような黒い直衣(のうし)、荷と指貫(さしぬき)こそ白かったが、首元には水晶らしき数珠。その間に規則的にひと回り大きい紫水晶と紫の房が連ねてある。しかし髪は結わえず烏帽子を被ることも無く、肩辺りまでのざんばらの黒髪であった。顔立ちは、特に美丈夫というほどでもなく、何処にでもいそうな優男といった具合だ。
「だったらこの先の峠を越えるんだよな。良かったなあ、男のなりで」
「何かあるんですか?」
店の奥から主人が注文の品を持ってくる。熱い茶を啜り、柏餅を一口齧って男は尋ねた。
「いやあ、さっきも話してたんだがな・・・」
「・・・おい兄ちゃん、あんたひょっとして妖祓い師じゃないのか?」
不意に、ひとつ向こうの台座から別の男が話に割って入ってきた。
「何?こんな若い兄ちゃんがそうなのか?」
「はあ、一応。妖祓い師の、榊龍衛(さかきりょうえ)と言いますが」
柏の葉を丸めながら、黒衣の男は名乗った。割って入ってきた男はしてやったりと満足そうに頷いた。
「まさに、噂をすれば何とやら、だ。麓の村に行ってみな、仕事があるぜ祓い師さん」
「・・・はあ?」
ー弐ー
仕事があると言われては、やり過ごすわけにも行かない。言われた通りに向かった麓の村では、神か仏がやって来たかのような言われようだった。『うちの娘の仇を討ってくれ』、『これで恋人も浮かばれる』。言われ様は様々であったが、村の者の言い分はひとつ、『峠の天狗を退治してくれ』。
山の端には満月が見えようとしていた。雲も少ない、いい夜だ。
龍衛は一人、村を出た。山に入る手前で立ち止まり、呼吸を整え、呪を呟く。
「光明変幻(こうみょうへんげん)」
龍衛の中肉中背の男の体が、静かな風に巻かれ、ひとまわり小さく、華奢になる。肩までのざんばら髪は、別物のように長くつややかになってゆく。周囲の風が晴れる頃、山の入口には男の直衣を纏った一人の若い娘が立っていた。妖祓い師の持つ術のひとつであった。娘の姿となった龍衛は、例の竹林へと足を進めた。
話に聞いた通り、件の竹林は生き物など何もいないかのような静けさだった。時折、ざわざわと笹の揺らめく音がするだけ。それだけを聞きながら足を進めると、やがて山道がやや開けた場所に出た。精神を研ぎ澄まして辺りの気配を探ると、僅かにだが妖気の残り香が残っている。これが天狗の妖気だろうか。そう考え、龍衛が周囲を見渡した時だった。
鈴の音が、響いた。そして。
『そこな女子(おなご)』
遠くで聞こえたのか耳元で囁かれたのか解らない、音色にも似た声が聞こえた。
『こちらへ来い・・・』
自分の術のものではない、風が身体を取り巻いた気がした。
闇へと転じた視界が再び鮮明になってきて、龍衛は竹林ではない場所にいることが解った。
「ここは・・・?」
屋外ではない。周囲と天井にはごつごつとした岩肌が見える。洞窟か何かだ。
なるほどここが天狗の住み処か。先ほどの風は、どうやら天狗の術のひとつらしい。瞬く間に場所を移動する為、人間の体には、一瞬気を失ったような感覚が与えられてしまうのだ。
龍衛は自分の座っている足元を見遣った。同じような岩肌に僅かな干草が敷いてある。しかし、その上に紅く光る陣が見て取れた。目の前にゆっくりと手をかざすと、目に見えない壁のような存在を感じる。天狗の使う結界だろう。その力は小さく、龍衛にならば破れない事も無い。だが、普通の人間を留め置くには充分だった。
やがて、月明かりの差し込む入口の方からひとつの影法師が伸びてきた。その方向に目を遣れば、影法師の主は予想していたよりも小さな者だった。
「おお、気付いたか」
そしてその声は予想よりもだいぶ高い。その謎は、声の主が近付いてきて初めて解けた。
「お前が・・・天狗か?」
覗き込んできたのは、大きく丸い金の瞳。長い黒髪を、顔の横と頭頂部とで結わえている。意識が途切れる前に聴いた鈴の音は、その足結(あゆい)の小鈴のものだろう。そして何よりも、その体は娘の姿になった龍衛よりも更にひとまわり小さく華奢だった。顔立ちからも判る。陣羽織の背に見える黒い羽さえ無ければ、目の前の天狗は村の少女と殆ど変わらない姿だったのだ。
「左様じゃ、篝(かがり)という」
屈託無く笑う金の瞳。こちらを食い入るように見ていたかと思うと、目の前の天狗は驚きとも疑問ともつかない顔をした。
「そなたは、篝の眼を恐れぬのじゃな。・・・おぬし、名は何と申す?」
「え?・・・りょ、龍衛だが」
「龍衛か・・・男(おのこ)のような名じゃのう。・・・のう、龍衛?おぬしは、篝の母上か?」
「はぁ?」
天狗の少女から発せられた予想もしなかった問いに、龍衛は思わず聞き返した。
「篝の母上は人間(ひと)の子じゃ。篝の父上は天狗じゃが、母上は人間の子じゃ。篝は母上にお会いしたいのじゃ。のう、おぬしは篝の母上か?」
「ひょっとして・・・母上とやらの顔を知らないのか?」
天狗――篝の口ぶりは、そんな疑問を抱かせるものだった。そして、その表情が僅かに曇りを見せる。
「左様・・・篝は母上の顔も姿も覚えておらぬ。母上には幼き頃、幾度かお会いしただけじゃ。父上は、母上は長い黒髪の美しい娘だったとだけ話してくれた」
「その・・・父上はどうしたんだ?」
「父上はもうこの世にはおらぬ。・・・鬼に・・・殺されてしもうた」
「じゃあお前、ずっとここで一人で暮らしてたのか?」
少女は少し言葉を詰まらせ、返事の変わりにひとつだけ頷いた。いつの間にか、質問する立場が逆転してしまっている。しかし篝はそんな事を気にかけてはいない。龍衛の問いかけに、ひとつひとつ答える様は、本当に、幼い人間の少女と変わらなかった。
「だから・・・篝は母上を探しておるのじゃ。のう、おぬしは本当に篝の母上ではないのか?」
「・・・・・・悪いが、俺は、お前の母親じゃない」
龍衛は、静かに答えた。こんなに純粋な視線を否定するのは気が引けたが、嘘を言うわけにもいかない。どれほど純粋な目をしていても、どれほどあどけない姿であっても、今目の前にいるのは、多くの娘を攫ってきた天狗なのである。そして、龍衛はそれを退治にやってきた妖祓い師であった。
目の前の天狗は、華奢な肩を落とし、寂しそうな表情を見せた。少女の背後の月光も、いつの間にか翳りを見せていた。
「そうか・・・。おぬしは、篝の眼を恐れないし、言葉を交わしてくれたから、あるいは・・・と思ったのだが」
「なあ、その・・・お前が母親だと思って、今まで多くの女子をここに連れてきたのは解る。しかし・・・母上ではなかったからと言って、喰らってきたというのは・・・」
聞かずにおれない真相。しかし、返された答えはあまりに意外なものだった。
「何のことじゃ?」
「・・・え?」
「篝は連れてきた女子を喰ろうてなどおらぬ。確かに、母上ではなかったのは残念じゃが、女子はみな、あの竹林に送り届けてきたぞ?」
篝は、初めて聞くことに意味が解らないといった様子で首を捻った。今度解らなくなったのは龍衛の方だった。
「・・・だが、麓では、かどわかされた娘は誰も帰って来ていないと・・・」
「知らぬ。篝は何もしておらぬ。人間(ひと)の子を喰ろうた事などない!」
頭(かぶり)を振る篝。龍衛は改めてじっくりと目の前の妖(あやかし)の少女を見た。
どうして今まで気付かなかったのだろう。それだけの数の人間を喰った妖ならば、隠しても隠し切れない血肉の匂いを纏っているはずだ。ところが目の前の少女にはそんな匂いはまったく感じられない。手を汚した事の無い、弱いながらも天狗としての妖気しか感じられなかった。
空には風が起きたのだろう。洞穴の入口に差す月明かりが二転三転していった。
「・・・解った」
龍衛が呟く。
「じゃあ俺を、同じようにあの竹林に戻してくれ」
ー参ー
月光の降る竹林に、一陣の風が逆巻いた。四散していくその狭間から現れたのは、黒い翼を持つ少女と、長い黒髪の若い娘。
「・・・確かに送ったぞ」
龍衛を見上げ、篝はすぐに踵を返そうとした。しかし、龍衛はその肩に手を遣った。
「な、何じゃ?もう用は・・・」
「いいから、もう少しここにいてくれ」
凛とした瞳は、篝ではなく周囲を見遣りながらそう言った。
音の無い竹林に、時を刻むものは何も無い。あるとすれば、もの言わぬ天上の丸い月だけだった。おそらく、実際にはさしたる時間は経っていないのだろう。ざわざわという竹林の鳴き声は、感じた時間の長さほど数多く聞こえなかったように思う。
やがて、変化は起こった。ざわざわという音が、次第にただの音ではなく、何かの『気配』へと転じていくのが解った。獣のような純粋なものではない。もっと禍々しい、背筋の凍るような――。
「そろそろ限界なんじゃないのか?」
静寂を終わらせるかのように、龍衛が誰にともなく言葉を発した。――ように見えたのは初めだけで、すぐにそれは、ひとつの『存在』に向けて発せられたものだと解った。
ふたつの人影と竹林との間に、闇夜よりも更に濃い闇が生まれ始めた。その様子は水の中に落とされた墨に似ていたが、その闇はどんどん濃くなっていき、やがてひとつの形を成し始める。
目の前にひとつの山が出来たようだった。熊よりも更に大きな闇色の体躯。そこから生えた腕は、篝の胴周りよりも太く見える。顔には大きくぎょろぎょろと光る紅い目。口には溢れ出しそうなほどびっしりと鋭い牙が並んでいる。いびつな形に禿げ上がった頭には、牙にも劣らない尖った角が幾つも突出していた。
――鬼だ。
『何故じゃ、何故貴様その天狗を放さぬ!!』
腹の底に響くような声が発せられる。言葉を失って立ち尽くした篝を庇うように、龍衛は長い黒髪を揺らして前に進み出た。
「こいつに見られちゃまずい事でもあるのか?」
『何だと!?』
触れれば壊れてしまいそうな娘に恐れもなく返され、鬼は唸った。びりびりと大気が震えるのを感じながら、篝はやっと口を開いた。
「こやつ・・・」
「天狗?」
「こやつは・・・・・・篝の父上を殺した鬼じゃ・・・!」
紡がれた言葉は、真実。あの日、何も出来ず、ただ見ている事しか出来なかった真実。幼い眼に、恐怖として刻まれた記憶が形を結ぶ。
「驚いたな、そこに繋がるのかよ」
龍衛は鬼に隙を見せないように、篝と鬼を見比べながら失笑した。大気の震えが伝わったように、驚きと恐れを隠せないまま篝は続ける。
「父上は、確かに殺された・・・。じゃが、こやつも・・・、この鬼も合い討ちになった筈・・・!」
か細い声をかき消すように、鬼の笑い声が響いた。
『このわしが、あのような腑抜けの天狗に殺られるものか。人間の女子を逃がす為にこのわしに歯向かった愚かな天狗などに!・・・確かにあの天狗には深手を負わされた。しかし逃げ延びたわしは、生き残る為の最良の糧を手に入れたのよ』
表情など見て取れないような醜悪な姿から、笑いを含んだ声がした。
「まさか・・・まさか!!」
篝の顔色が蒼ざめるのを楽しむように、鬼は牙の間から息のような黒い霧を吹いた。
『そうよ、おぬしの父親が逃がしたと信じていた人間の娘・・・おぬしの母親よ!人間の足に追いつく事など、深手を負っていようと容易き事。・・・なかなかの上玉だった。肌が白くて、長い黒髪の美しい・・・そうさな、娘、おぬしのような形(なり)の女子であったわ』
味を思い出すように、牙の間から黒味がかった紅く太い舌が僅かに覗く。鬼の言葉に、龍衛が続けた。
「・・・それで?今もこうしてこの天狗が連れてきて逃がした娘を、こいつの目を盗んで喰らっていたと?」
『その通り、姿と妖気さえ消せば、その小天狗の目を盗むなど朝飯前。人間の中にも、我等妖(あやかし)の気配を感じ取れる者などそうはいない。奴等は娘を喰ろうたのは天狗だと信じて疑わぬ。・・・今宵のおぬし以外はな』
龍衛と篝を馬鹿にし続けていた鬼の口調は、ここに来て一転した。
『おぬし、何者ぞ。人間の血が混じっている出来損ないとは言え、この小天狗さえ気付かなかったわしの妖気の残り香に気付くとは、ただの女子ではあるまい?』
遥かに上方から睨めつける視線を、黒髪の娘は睨み返した。
「小細工だけかと思えば、意外に頭が回るじゃないか。そうだな、確かに俺はただの女じゃない」
「・・・・・・?」
その袖の後ろから、篝は隣の娘を見上げた。自分でさえ震えを感じずにいられないのに、どうして、ただの人間の娘が鬼を相手にこんなに気丈に振る舞えるのだろう。
『正体現わせ!!』
刹那、鬼の腕が、苦無(くない)のような爪を振り下ろした。反射的に背後に飛び退く龍衛と篝。先刻まで二人の立っていた場所は、火薬か何かで吹き飛んだかのように、大きく抉れていた。
「・・・光明変幻」
鬼と距離を取った位置で、黒髪の娘が呪を唱えた。篝は、自分の術に伴うものに似た風を感じた。天狗である自分が化かされているのかと思う光景だった。たった今まで目の前にいた娘が、その衣服に丁度いい体格の黒髪の若い男に変わってしまったのだ。
「おぬし・・・」
「俺は妖(あやかし)祓い師。平たく言えば、お前みたいな存在(もの)の天敵だ」
言葉の向けられた先には、鬼の姿。男――龍衛は、首にかけていた数珠を外す。
『妖祓い師だと?人間の分際で小癪な術を』
「小癪で悪けりゃ盛大なやつを見舞ってやるよ。お前みたいな下衆には勿体無いくらいのな」
『ぬかせ!』
「天狗、下がってろ」
鬼の爪が振るわれるのと、龍衛が篝を促しそれをかわすのはほぼ同時だった。竹林の中に入った篝が見たのは、月明かりの下に揺れる、ふたつの影法師だった。ひとつは巨大な影そのもの、ひとつは墨染めのような黒装束。前者の繰り出す爪の軌跡を、後者は確実にかわして行く。
「思ったよりすばしっこいじゃないか」
『おのれちょろちょろと・・・』
こんな人間の優男、一撃でも当てることが出来れば確実に致命傷を負わせる事が出来るのに、その一撃を悉くかわして行く。不快極まりない相手だ。鬼はぎりぎりと歯を鳴らした。
『ならば・・・これでどうだ!!』
不意に、鬼は目標を変えた。赤い眼が捉えたのは竹林の影に立ち尽くす小さな体。
「天狗!!」
特定の者を護る術は心得ていたが、それを唱える時間は無かった。龍衛は、反射的に力一杯地を蹴った。
竹林の一角が、ばきばきと恐ろしい音を立てて崩れ落ちた。篝には、一瞬何が起きたのか理解出来なかった。ただ、あんなにも大きな破壊音の渦中にいた筈なのに、自分は生きていて、その惨事をまさに自分の目で見ているという事だけが解った。闇色の混じった竹の緑の中に、黒い着物が見え隠れしている。
「・・・祓い師・・・?」
「っ痛ぇ・・・」
しかし、篝の眼は、先程とは明らかに違うものを捉えていた。
「・・・その、髪・・・」
篝の呟きは届いていなかった。黒かった筈の龍衛のざんばら髪は、同じ長さだが、一瞬で色が抜け落ちたかのように白いものになっていた。竹に紛れて、同じ色の黒い髪の塊が落ちていた。篝が見ていたのは黒髪の鬘(かつら)だったのだ。
『思うた通りじゃ。・・・しかし、妖祓い師が妖(あやかし)の天狗を庇うとは、何処まで愚かなのやら。・・・ほほう、珍しい髪の色をしておるな。男の肉など旨くは無いが、おぬしは珍味やもしれんな』
大気を震わす声に、篝が振り返る。鬼が、こちらに向かって一歩を踏み出そうとしていた。
「・・・させぬ!!」
力では敵わない事は明らかに判っていた。しかし次の瞬間、篝は自分の数倍もある闇色の鬼に向かって飛び掛っていた。
『邪魔だ!!』
棍棒のような鬼の腕が、篝を払い落とす。小さな体は砂利の上に転がった。
「天狗!!」
漸く上半身を起こした龍衛がその瞬間を目にしていた。
『父子揃って死に急ぐものよ。人間の娘ならいざ知らず、天狗の・・・しかも人間の血の混じった天狗の小童(こわっぱ)など喰らう気にもなれぬわ。そこで大人しく見ているがいい』
遥かな高見から鬼の言葉が吐き捨てられる。篝は必死で身体を起こそうとした。しかし、払い退けられた衝撃の所為なのか、あるいは身体の芯が感じている恐怖の所為なのか、身体は思うように動かず、その場に這いつくばるだけだった。
「・・・父上・・・、母上ぇっ・・・!」
指が地面を握りしめる。目の前にいる仇に、一太刀も浴びせられない悔しさと哀しさとが、頭の中で渦を巻いていた。
『さあ祓い師とやら、覚悟せい』
鬼が一歩ずつ竹林に近付いていく。風が止んでいる。鬼が龍衛に歩み寄る音以外聞こえるものは何も無い。月明かりに照らされて、鬼から伸びた影が龍衛を捉えた。
その刹那。
『これは・・・っ!!』
鬼が唸り声を上げて足を止めた。いや、止められたのだ。鬼の足元に広がる深紅の円陣。天狗の結界術だ。
『この・・・小童が小癪な真似を・・・!!』
「祓い師っ・・・早く・・・!!」
這いつくばったまま天狗に向けられた篝の腕が、重い荷に耐えるように小刻みに震えている。その小さな妖力で、鬼の妖気と巨体を足止め出来る時間などたかが知れていた。自分に、仇を討てる力は無い。しかし、自分を助けてくれた者なら、妖祓い師の名を持つこの男なら、自分の成し得ない事をやってくれる。そう信じたからこそ、篝はあらん限りの力をこの結界に注ぎ続けた。
「天狗・・・・・・任せとけ」
鬼の隙をついて龍衛が立ち上がる。鬼に向けて、真っ直ぐに数珠をかざした腕を伸ばし、早口に呪を呟く。
「疾風(はやて)し風御霊(かざみたま)、其(そ)結わいて鎖と成せ・・・光明風陣(こうみょうふうじん)」
龍衛の手から生まれた風が、意志を持ったように鬼の身体を絡め取ってゆく。振り解こうと足掻く体躯は、たちまちに血とも体液ともつかぬ黒い液体を噴き出してゆく。龍衛の呪は続く。
「天(てん)来たれ 天来たれ
天(あま)翔くる雷神(いかづちのかみ)
畏(かしこ)みて其の名を喚(よ)ばう声を聴け」
『やめろ・・・やめろ!!』
紅い円陣は掻き消えていた。しかし鬼の身体は動かす事もままならない。龍衛の声に喚ばれるように、上空の大気がからからと音を立て始める。
「天(あま)つ御雷(みかづち)の神力(かむちから)を以って
天を背(はい)し地を屠(ほふ)る愚劣なる骸(むくろ)を裁け
・・・光明天雷(こうみょうてんらい)」
深く、静かな呪が発せられた。
天空から、大蛇のような雷が唸り声をあげて巨大な影を屠ってゆく。鬼の身体に絡み付いていた風たちが、一瞬霧散したかと思うと、竜巻のように逆巻いて天へと舞い上がる。大気を抉る鬼の咆哮が雷の音に混ざり合い、闇色の体躯は更に深い色に姿を変え、ぼろぼろと地面に崩れ落ちた。
風と雷の余韻が去っていった頃、龍衛は懐から小さな瓶を取り出した。栓を抜き、鬼であった黒塊に水のようなものを振り撒く。焼け石に水を打ったように煙る音を立てて、黒塊は消え去っていった。
篝は、そこで初めて唾を飲む事が出来た。あれほどの轟音と共に降って来た雷は、不思議な事に鬼以外の存在にはまったく害をなしていない。煽りを喰らってもおかしくない位置にいた龍衛にも篝にも、始終を見届けた竹林の一葉にさえ、焦げ痕のひとつも見当たらなかった。
「・・・言ったろ、『お前みたいな』下衆には勿体無いくらいだってな」
黒塊の最後の一欠片まで消えていくのを見届けて、龍衛が呟いた。その白髪(はくはつ)は、月の光を受けて銀にさえ見える。
「助かった、怪我は無いか?・・・天狗?」
歩み寄り、ひとまず座らせてやった少女は、顔を上げない。やがて龍衛にもその理由は解った。
「・・・父上・・・・・・ははうえぇっ・・・!」
龍衛からも見える篝の膝に、雨も降っていないのに大粒の滴が零れ落ちていたのだ。それは、握り締めた拳と言わず袴と言わず、瞬く間にびしょびしょに濡らしてゆく。
物言わなかった竹林が、再びざわざわと囁き始める。一人ぼっちの天狗。その小さな小さな嗚咽を絡め取っていくように。
「・・・なあ、天狗・・・じゃなかった、ええと・・・篝?」
何も言わず、揺れる小さな肩を見守っていた龍衛が、やがて声を掛けた。小さな少女はまだしゃっくりを続けているが、ゆっくりと、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。龍衛は、静かに続けた。
「・・・兄貴じゃ・・・父上や母上の代わりにはならないか・・・?」
―結ー
「・・・のう、龍衛?」
「なんだよ」
鈴音山の峠を越えたあたりで、肩の上から声を掛けてきた少女に、男は答えた。肩に跨った少女は信じられないほど軽く、何の苦にもならない。
「此度(こたび)の報酬・・・まことにそのようなもので良かったのか?」
少女はその金の瞳で、不思議そうに男の口にしているものを見た。男は包み紙の中から同じものをひとつ取り出して頭の上に差し出してやる。
「いいんだよ、術使うと甘いもんが欲しくなるから。それにあの村から大金巻き上げるほど人でなしじゃないしな。取れる所からしっかり貰ってるからいいんだよ」
夜明けに戻って来た妖祓い師を見た村の人々の反応は一変していた。黒髪だと思っていた若い男の髪が、雪のような白であった事もさりながら、何よりその妖祓い師は、脇に天狗の少女を連れていたのである。真相を説明され、もう峠に危険は無いと言われても尚、その異質なふたつの存在を快く思う者は少なかったのである。
村を出て、茶屋に立ち寄った時、茶屋の主人が頼んだより多くの柏餅を包んでくれていたのだった。
「・・・やはり・・・篝を連れるのは龍衛に迷惑なのではないか・・・?」
手渡された柏餅を齧りながら、少女の声がくぐもる。しかし、男の反応は変わらなかった。
「お前がいなくても、俺の髪の色を見りゃ大抵の人間の反応はあんなものだ。今更天狗を連れようが連れまいが変わらねえよ」
そう返した男の頭には、峠で拾い戻した黒髪の鬘が被せられていた。
「あの変化の術を使えばよいのではないか?」
「あれは見た目以上に集中力使うから四六時中は無理」
昨夜の出来事など嘘のように、鳥達のさざめく声がする。緑の天井を抜けて日の光が雨のように差し込んでいる。
「・・・のう、龍衛?」
「・・・なんだよ」
再び同じやりとりが交わされた。しかし、今度は疑問ではなく、進言。
「篝と・・・異形の妖(あやかし)とおるのは辛くないのじゃな?」
「先刻言ったろ?」
「・・・ならば、何故まだ黒髪の鬘を被っておるのじゃ?篝は・・・篝は、鬘など被っておらぬ龍衛の方が、良いと思うぞ?」
男から、少女の顔は判らない。少女から、男の顔は判らない。一瞬の沈黙。やがて。
「・・・それもそうだな」
男は呟いて、被っていた鬘を脱ぎ捨てた。眼前に山道の終わりが見えた。
天狗を連れた、白髪(はくはつ)の妖(あやかし)祓い師の名が各地に聞かれるようになるのは、もう少し先の話である。
これは、今は昔の物語。まだ、妖(あやかし)と人間(ひと)とが、同じ大地に生きていた頃の物語。
ー終ー
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