雨のち晴れ

 晴れていた空を一斉に濁った雲が埋め尽くし、大粒の雨が降り注ぐ。
蒸し暑くなり始めた初夏の日の夕立だった。

 「うわあ、降ってきたなあ」

回廊の中腹、煙るほどに降りしきる雨の帳を眺めながら、陽里(ようり)は呟いた。
雨は、嘉条(かじょう)宮廷の甍とぶつかり、絶え間なく音を立てていた。
 やがて、雨の音とは別の音が陽里に近付いてきた。

「・・・ちくしょー、イキナリ降ってきやがって・・・」
「あれ?龍真(りゅうしん)。ひょっとして訓練中だったの?」

陽里が振り返った先には体格のいい一人の男。茶色の髪がわずかに濡れている。
突然の夕立に訓練を中止せざるを得なくなった嘉条将軍・龍真だった。

「おー、ひょっとしなくてもな。近くに屋根があって助かったぜ」
「風邪とか気を付けなよ。明雷(みんらい)さんのお世話になっちゃうよ」

 やわらかい笑顔で陽里が忠告する。整った顔立ちに似合った優しい声音であったが、
その内容は、龍真の背中を寒くさせた。

「冗談じゃねえ、アレに介抱された日にゃ何されるか分かったモンじゃ・・・ていうかあいつ、
どこか出掛けてんのか?朝から見ねぇけど・・・」
「そう言われてみれば・・・。まだ帰ってないの・・・」

 二人の男が顔を見合わせたのと、遠方から侍女の悲鳴が聞こえたのはほぼ同刻であった。

「何だぁ!?」
「入り口の方だね」

話を中断させたまま、声のする方向へ向かう二人。しかし。

「ちょっ・・・、龍真、速・・・」
「ゆっくり来いゆっくり!!」

 切れ者と名高い嘉条文官、陽里の唯一最大の欠点は、その体力の無さであった。
しかし龍真は龍真で、最初からスピードを合わせる気は毛頭無かったらしく、男二人の距離は
瞬時にして開いていった。

         *        *       *       *       *

「み、明雷!?」

 現場に到着して、最初に龍真の目を引いたのは、先ほど話題に上りかけた明雷その人であった。
侍女数名の中心に彼女はいた。しかし、周囲を驚かせたのは、ただ立っているだけだからではなかった。
 その体の髪の毛から足の爪先までは、まるで川にでも飛び込んだかのようにずぶ濡れになっていた。
普段から左目を隠す長さの青い髪はぺっとりと頬に貼り付き、緩く三つ編みにした後ろ髪もほどけかかり、
肩から背中にかけて絡み付いている。愛用の白衣も何も関係無く水に濡れ、柔らかな体の線があらわになっていた。
 なるほど悲鳴も上がる訳だ、と内心あきれていた龍真に、明雷は楽しそうに笑った。口元から八重歯が覗く。

「やっほぉたっだいまぁーv見てー、水もしたたるイイオ・ン・ナv」
「やっほぉじゃねえだろ!どこほっつき歩いてやがったんだてめーは!!」
「やぁん、龍くんお父さんみたーい。普通に買い物してたらイキナリざーってくるんだもーん。もうたいへーん。
でも、これだけ濡れたら少々足掻いても一緒だと思ってさぁ、そのまま歩いて帰ってきちゃったv」

 明雷は、ぺろりと白衣の裾を持ち上げてポーズを取った。依然、水滴はぽたぽたと落ち続けている。
そして本人の表情は笑っている。鼻歌まで歌っている。誰も何も言えなかった。

 この女軍医は常にこのようなテンションであった。常にへらへらとして、へべれけの酔っ払いのように
捉え所が無い。かと思えば、若い男が患者なら喜び勇んでちょっかいをかけてくる。彼女に遊ばれた
純粋な新米兵は少なくない。
 そして当の本人――明雷は変わらず楽しそうだった。

「まー、でもちょーっと驚かせちゃったみたいねー。ごめんごめーん」
「明雷様、そのままではお風邪を召しますわ。お着替えに・・・」
「だぁいじょぶだいじょぉーぶ!ナントカと天才は風邪をひかないので―す!!」

 手を貸そうとした侍女を制してその場でくるりとターンして見せる明雷。
冷たい目で見守りながらツッコミを入れたのは龍真だった。

「ナントカだけ、の間違いだろ」
「やぁん、龍くんひどぉい。そーゆーこと言われたらまるで明雷がナントカみたいじゃな・・・」

 ずぶ濡れの体が龍真の隣を通り過ぎようとした時だった。ぷつりと糸が切れた人形のように
千鳥足の体は一気にそのバランスを崩した。

「あぶねっ・・・!」

 反射的にそれを支えた龍真に、水の冷たさの間を縫って、熱が伝わってきた。

「・・・このバカ、本気で風邪ひいたんじゃねーのか?」
「大変、早くお部屋に・・・」
「いーよ、モノはついでだ。オラ、部屋までしっかり立て」

手を貸そうとした侍女を制して、龍真は細い腕を自分の肩に掛けた。

「やぁん、おんぶかお姫様だっこがいい〜〜」
「ワガママぬかすなッ!!」

意識的にか、無意識的にか訴えられた要求を却下して、医務室へ向かった。
足跡のように、歩いた先から廊下に水滴が続いた。
 ちなみに陽里と再びすれ違ったのはこのあとである。

     *      *      *      *      *

 明けて翌日。

「・・・器用な伝染(うつ)され方したねえ・・・」

 一室の寝台に横たわった相手に、陽里は言った。窓の外には朝から雨が降っている。

「うるせー・・・」

 横たわったまま、龍真は髪をかきあげようとした。しかし、指に触れたのは氷嚢の冷たさだった。
風邪なんて、何年ぶりのことだろう。感覚が掴めなかった。天井が高い。

「それとも、自分の不養生かな?」
「バカ言え。絶対あいつがまとめて伝染(うつ)して行きやがったんだ・・・」
「まあ、確かに本人ピンピンしてたみたいだけど・・・」

どうにか会話は出来るものの、熱の所為か、言葉を繋ぐのも一仕事の気分だった。

「あるいはダブルブッキングか・・・。ま、何にせよお大事にね」
「お゛ー。多分これくらい1日寝てりゃ治る・・・」
「じゃ、私も仕事があるからこれで」

 陽里の足音が遠ざかる。雨の音でも子守唄代わりに大人しく寝ていよう。
龍真が、そう考えた直後だった。入り口あたりで陽里がポツリと言った。

「龍真、噂の白衣の天使が看病に来てくれたみたいだよ」
「・・・はァ?」

「あらー陽里くーん、お見舞い?龍くんの具合はどーお?」
「みッ・・・!!」

 聞き間違えようのない気の抜けたソプラノに思わず飛び起きようとしたが、熱をもった体は
思い通りに動いてくれない。上半身を起こしかけてよろめく。
 改めて見た先に立っていたのは、確かに噂の人物・明雷であった。

「本人は1日寝てれば大丈夫って言ってますけど。じゃあね、龍真」
「待ッ・・・待て陽里!この女と二人っきりにすんじゃね・・・」

 伸ばした救いを求める手は、陽里に届くことも無く。静かに扉は閉められた。
ただ一人残った明雷は、普段のテンションのまま近付いてくる。手には小さな鍋と椀を乗せた
盆を持っていた。

「はーい、白衣の天使とぉちゃーくv あん、ダメでしょお?風邪ひきさんは無理に動いちゃv」
「てめーに言われたかねぇな諸悪の根源・・・」

上半身を起こし、寝台にもたれたまま、龍真は呟いた。

「やぁん、ひどぉい。せっかく責任をもって看病に来たのにー」

 昨日の濡れ鼠とはうって変わって、綺麗にまとめた髪の奥からいつもの瞳が笑っている。
『微笑み』と言えばいいのだろうが、彼女の場合、常に『にやけている』と言った方がいいような、
しまりのない笑い方なのだ。普通にしていればそれなりに綺麗な顔をしているのだが、当の本人には
意識的にそうしようという気はあまりないらしい。

「今日はあなたのナイチンゲールになってあ・げ・るv きゃv」
「てか、お前に何かされると治るモンも治らねぇ気が多大にするんだがな・・・」
「まーまーまー、そう遠慮しないでー」

 龍真の言葉を遮りながら、寝台傍の円卓に盆を置き、次に彼女が取った行動は。

「えいやっ」
「な゛ッ・・・!」

布団の上から龍真の脚に馬乗りになることだった。白衣の下の短い裾から白い脚が覗いても
気にする気配はない。

「つっかまーえたーv」
「ってめッ・・・何しやが・・・!」
「だーって、こうしないと龍くん逃げちゃいそうなんだもーん」

憤る龍真を尻目に、明雷はそのまま鍋から椀に湯気の立つ粥を取り分けた。そしてレンゲで一口掬って
前に差し出す。

「風邪ひきさんにはお粥が一番。おいしいよぉ、ハイ、あーんv」
「ちょっ・・・待てコラ!!」

 思わず逃げようとしたが、背中には寝台の背もたれ、目の前には明雷その人と、龍真に逃げ場は無かった。
明雷はきょとんとしたが、すぐに分かったように、

「え?あっ、そーかそーかごめーん。このままじゃ熱いよねえ。ふーふー、ハイ冷めた。あーん」

再び嬉しそうにレンゲを差し出してきた。

「じゃなくて!メシくらい一人で食えるっつってんだ!!ていうか降りろ!!」

すると、明雷は深く溜め息をついた。

「・・・分かんないなあ、病気の時に一人で御飯食べて何が嬉しいのよぉ?しかも、こーんなにぷりてぃーな
白衣の天使が食べさせてあげるって言ってるのに―。龍真、キミは何がそんなに不満なのかなあ?」
「強いて言うならその白衣の天使サマが俺の上に馬乗りになってるコトでございましょおかねえ?」

同じになった目線を、引きつった笑いで返す。
しかし明雷も負けてはいない。わざとらしく驚いたように彼女は言った。

「たーいへんです龍くん。ご飯はこれしかありません。明雷から貰わないと、ご飯が食べられなくなってしまいますよ?
困りましたねえ。ほら、あーん」
「勝手にやってろ。メシが無いなら無いで寝て治すから。オラ降りろ!!」

本気で熱が悪化してきたのか、体の自由がきかなくなってきた。言葉を返すのが精一杯の上、自分の言葉さえ
頭に響いた。

「だからー、食べて栄養つけなくちゃ治らないでしょー?だだっ子ねぇー」

それでも明雷はそこから動こうとはしなかった。
長い沈黙。静かな雨音だけが響いていた。やがて。

「・・・もういい」

大きく息を吐いて、呟いたのは龍真だった。

「ハイ?」

椀とレンゲを持ったまま、明雷は首を傾げた。

「・・・マジ、力入らなくなってきた・・・」

 龍真は、完全に無防備に背もたれに体を預けていた。熱の所為か、わずかに潤んだ目は明後日の方向を向いて
焦点が合っていない。明雷の顔がぱっと明るくなった。

「それじゃあ・・・」
「食います。食わさせていただきます・・・」

そっぽを向いたまま、力いっぱいの棒読みで、龍真は負けを宣言した。

「やったーー!んー、いい子いい子v」

もはや頭を撫でられても抵抗できなかった。危害で無いだけマシである。
 相変わらずのしまりのない笑顔で明雷は改めて粥を掬った。椀の中身は、不毛なやりとりの間に粗方冷めてしまっていた。

「ハイ、あーんv」
「・・・・・・」

 嬉しそーなカオしやがってこっちは恥ずかしくて仕方ねーんだぞコラ、という愚痴をこぼす気力も無く、龍真は、大人しく
口を動かす事しか出来なかった。

「おいしい?」
「・・・たいへんおいしゅうございます・・・」

 この棒読みの返事の本音は、誰も知らない。

     *     *     *     *     *

「・・・ったく、たかがメシ一杯で何でこれだけ体力使わなきゃならねーんだよ・・・。俺確か病人だろ・・・?」

薬まで飲み終えて、改めて横になった龍真が愚痴る。
空になった椀を片付けながら明雷が笑って背中で返した。

「それはー、龍くんが素直に言うことを聞かないからですねー。最初っから大人しく食べてれば余計な体力使わずに・・・龍くん?」

反応が無いので振り返ってみれば、寝台の主は既に小さな寝息を立てていた。起きる気配は無さそうである。

「・・・うーん、可愛いなあ。だからかまけたくなるのよねー・・・」

いつもの笑顔に、少しだけ優しさをたたえて。明雷は、龍真の前髪を少し払ってやった。

「お大事にねv」

静かな足音が遠ざかっていった。

     *     *     *     *     *

 更に明けて翌日。

「・・・ホントに一日で治しちゃったね。たいしたもんだ」
「・・・ま、イロイロあったけどな・・・」

 感心する陽里に、すっかり熱のひいた龍真が返した。それでも昨日の失態は、思い出しただけで情けなくなってしまう。
さっさと忘れてしまおうと思っていた。
 すると、陽里が思い出したように手を打った。

「あ、そうだ。イロイロと言えばさ」
「何だよ?」
「明雷さんと、イイ仲になったってホント?」

間。

「・・・ハァ!?」

一瞬聞き間違いかと思った。陽里は続ける。

「あれ?事後承諾なのかな?昨夜から明雷さん本人が触れまわってるんだけど・・・」
「・・・・・・・・あンの天然アル中女・・・」
「あ、本人」
「何!?」

陽里が指差し、龍真が振り返った先には。

「・・・そしたら龍くんてばねー?『君に食べさせてもらう料理はとってもおいしいよ』だってーvvもー、明雷のト・リ・コって感じ―?」

侍女数名を掴まえて、たいそう楽しげに触れまわる嘉条軍医・明雷の姿があった。

「・・・くぉら明雷!!てめェあること無いことたれ流しやがって!!」
「やぁんダーリン、オ・ハ・ヨv」
「誰がダーリンだこのセクハラ軍医!そこ動くな!!」

 その場には、ターゲット捕獲に向かった龍真を見送る陽里だけが残された。

「・・・あること無いこと・・・ねぇ。・・・デマばっかりでもないのかな・・・?」

 その呟きを聞いたのは、誰もいない。


 雨上がりの空はよく晴れて。

   

●あとがき●

 龍真氏若かりし頃のショートストーリー。結構思いついたままに書きました。
ちなみに陽里氏は本編キャラ・桐巳君のパパだったりします。
彼から遺伝したのは主に頭脳。それ以外は母親譲りらしい。
 明雷嬢は、湖成の前に軍医だったオネーサン。別に故人とかいうワケでは
断じてなく、現在も人生愉しんで生きてます(笑)。

 読んでくださってありがとうでした。

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