僕の名前は、北天(ほくてん)。 歳は15になる。
嘉条(かじょう)の都・陽興(ようこう)から少し離れた、この小さな街に住んでいる。
『住んでいる』と言っても、一人暮らしではないし、当然僕が世帯主というわけでもないんだけど。
「北天―、ごめんちょっとお皿拭くの手伝ってー?」
今、賄(まかな)い所から僕を呼んだのは、僕の唯一の血縁。
返事をして、声のした方向へ行くと、声の主が手を止めずに振り返る。
歳は僕と同じ。僕より少し背が低くて、僕とよく似た顔かたち。
彼女の名前は南天(なんてん)。僕の、双子の妹だ。
食事の支度と片付けは、主に彼女の仕事。
やり方を学んで、勝手が分かるようになってからは、さすが女の子と言うべきなのか、はたまたただ単に性分に合っていたのか、彼女は率先してその役割を始めるようになった。
多分、後者なんだと思う。
女だから、家事が好きだとか、家事をしなければならないという考えは、統計という形にその人を無理矢理はめ込もうとしているだけだ。
男は外で働くに都合のいいように、女は子を産み育てるに都合がいいように出来てはいるけれど、必ずしもその定義は絶対じゃないから。
・・・とまぁ、これは、僕たちのお師匠様の受け売りなんだけど。
ええと、『お師匠様』というのが・・・
「あ、そうだ。お師匠様がまたなんか居間の机の上ごちゃごちゃさせてたから、また夕飯までに片付けといてくれる?」
「・・・はァ?」
僕の拭いた皿を片付けながら、毎度の事のように南天が言った。
僕は、思わず手にしていた皿(最後の一枚だったと思う)を放り出して、居間へ取って返した。
「どうした北天、息せき切って」
僕たちの暮らしている家は決して広いとは言えないと思う。
実際、賄い所から居間の入口まではほんの数歩しかない。
当然、息を切らせるような距離ではなくて。
僕が息せき切っているように見えたのは、きっと気持ちだけが全力疾走したくらい急いでいたからだと思う。
「・・・・・・何ですかお師匠様このありさまはッ!!」
僕は、声を荒らげていた。
それほどまでに、部屋の中はすごい状態だった。
僕たちが『居間』と呼ぶ部屋の中心には、僕たちが食事を摂ったり、時にはお客様を通したりする広い机がひとつある。僕と南天とお師匠様、三人が席につく分には充分な大きさだ。
そこは今、本やら紙の束やらが、あるいは積み上げられ、あるいは広げられたまま重ねられたりしている。その隙間を縫うように、細工に使う工具が見え隠れしている。机の上だけならまだ分かるけど、使っていない椅子の上と言わず床の上と言わず、本に限らず木材の破片やら螺子(ネジ)やら、形にはなっているけどなんだかよく分からないものが所狭しと押し合いへし合いしていた。
はっきり言って、モノの山だ。
僕はこれに良く似た光景を、昨夜やっともとの状態に――机と床の、本来の板が見えるように――戻した覚えがあるんだけど。
一瞬、時間が巻き戻されたのかと思ったくらいだ。
「・・・・・・あぁ」
僕の言葉に、周囲を見渡しようやく合点がいったように相槌を打つ目の前の人。
・・・これが、僕や南天が『お師匠様』と呼ぶ人。
お師匠様は、本名を『永泉(えいせん)』という。
お師匠様は結構背の高い部類に入る人だと思う。今も、ゆっくりと席を立って『これだけ散らかす予定は無かったんだが』とか言いながら辺りを見回しているけど、少なくとも僕たちよりも頭ひとつ分以上は確実に大きい。(僕も、背が高いわけじゃないけれど) でも、だからと言って武人のようにがっしりしているという事は無くて、すらりとした印象の人だと思う。
髪や瞳は淡い茶色で、右目にだけかかる丸い片眼鏡をかけている。誰かに尋ねるときは、これだけ言えば大抵お師匠様だと通じる。 昔、目が悪いわけでも無いのに、どうして眼鏡をかけているのか尋ねた事がある。けれど、返って来た答えは『特に他意は無い』らしい。眼鏡の奥には、男の僕でもはっきりと綺麗だと言える素顔があるのに。
お師匠様は、何処か読めない、不思議な人だ。
お師匠様は、驚くくらい沢山の知識を持っている。
僕たちが一緒に暮らすようになって以来、尋ねた大抵の事に、お師匠様はさらりと答えをくれた。
まるで、字引がその頭に入っているようだった。僕も南天も、お師匠様には知らない事は無いのだと思ったくらいだ。
けれど、僕には最近少しだけ考える事がある。
お師匠様はとても博識で、何でも知っているけれど、ひとつだけ、知らない事があるんじゃないかと。
そう、お師匠様は、モノを扱う事には長けていても、モノを片付ける事に関しては、まったくの素人と言うべき人なんじゃないだろうかと。
一度、『たまには自分で片付けてください』と言った事がある。
けれど、朝方から片付けを始めたのに、夕方になっても一向に事態が改善しなかった(というよりむしろひどくなった)ので、結局僕が片付けたのを思い出す。
生活しているのだから、物が散らかったり、汚れたりするのは仕方無いことだとは思う。
僕だって、散らかす事はあるし、別に掃除を任されるのが嫌だからこんな事を思っているわけじゃなくて。
・・・ただ、お師匠様の散らかし方とその速さは、多分普通じゃないと思うから。
二日に一回の頻度で大掃除をさせられては、僕だってたまらない。
机の上の本を片付けながら、僕はそんなことを考えていた。
ああお師匠様、片付けようとしなくていいです。多分、僕の仕事が増えるから。■
「お願い南天!今日の買い出し当番代わって!!」
「・・・どうしたの、急に?」
明けて翌日の昼下がり、僕は一念発起によって、南天に手を合わせていた。
この機会に、お師匠様が何をどうやってあれだけ短時間で一部屋を変貌させているのか、それを見極めてやろうと思ったから。
原因が分かれば対処法だってあるかもしれない。
幸いな事に、渋々とだけれど、南天は僕の頼みを聞いてくれた。
「それじゃあお師匠様、買い出しに行ってきまーす」
本当は、行って来るのは南天だけど。
僕の声に、いつものように居間の方から、『ああ、気を付けてな』と声が聞こえた。
二日後には陽興に市が立つ。
お師匠様は、煎じた薬や自分で作ったからくり、壊れ物の修理、(他にも沢山あるのだけれど)などで生計を立てている。
先日依頼を受けていた物の修理は終わっていたので、今日は暇になると思う。
そんな時、お師匠様は大抵手持ち無沙汰にまかせて居間に大惨事を引き起こす。
居間の中は、つい今しがた昼食を終えたばかりだから、少なくとも机とその周辺はきれいに片付けられている。
入口近くに身を隠して、僕はそっと中をうかがう事にした。
出歯亀みたいだとは思うけれど、ごめんなさいお師匠様。
僕と南天がやりとりしている間に、お茶を淹れてきていたらしい。こちらに背中を向けた姿の向こうに細長い湯気が見える。
一口それを飲む仕草があって、お師匠様はひとつ息をついた。
窓からは昼下がりの陽が差し込んでいる。一見穏やかな光景。
お師匠様は、もう一度茶杯を机に置いて、立ち上がった。
足を運んだ先は・・・隣の書庫だ。
居間の奥には小部屋があって、主にお師匠様が手に入れた書物が所狭しと並べられている。
僕には何の本だかよく解らないような、難しい内容のものも沢山ある。
でも、書庫の整理も結局は僕がするのが日常になっていて、勝手が分からなかったりするのは、少し辛い。
お師匠様は、適当にしておけば良いと言うけれど、そういうわけにも行かないと思う。
この間、槍瑛(そうえい)さんが来て、渋々と書庫の片付けをさせられていたので(槍瑛さんは、お師匠様の知り合いで、宮に務めている若い男の人)、今度は整理する要点を訊いておこうと思う。
あっ、出てきた。
お師匠様の手には、数冊の書物があった。
それを机上に置いて、自分は椅子に腰を下ろす。そうして、上から順に一冊ずつ手元に置いて、静かに頁を繰り始めた。
今日は読書に専念するのだろうか。
・・・違う。
読書とは言えない流し読みの速さ。ぱらぱらと頁を繰ってはすぐに次の本に手を伸ばす。
読み終えた(?)本は、何事も無かったように机の空いた部分に次々と積み上げられていく。
積み上げる、というより並べている、といった方が正しいのかも知れない。
あるものは頁を開いたまま、あるものは栞代わりの紙の切れ端を挟んで。
足元にも置き始めたのは、不要な書物だったのだろうか、それとも机の上が一杯になったからだろうか。
やがてお師匠様は席を立った。
居間の片隅には、(僕のまとめておいた)お師匠様がからくりを作る為の材料となる木材などの入った箱がある。
お師匠様はその前に立つと、書物と同じように、おそらく使おうと思っている材料を物色し始めた。
ああもう、邪魔になるからって、使わないものまで床に置かないでください。
と言うより、必要ないなら元に戻してください。
見繕ったいくつかの材料を机に置くと、今度は棚の引出しを開けた。
ここには主にお師匠様の使う工具が入っている。
ひとつの箱にまとめたものを、棚にしまってあるのだけれど、お師匠様は箱そのものを取り出した。
必要なものを見繕うと、箱の中より取り出した方が多くなるかららしい。
本の海の中に隙間を作って、工具箱を据える。
席に戻ったお師匠様は、木材の採寸をしたり、強度を確かめたりし始めた。
だから、使った工具を手元に並べていくから机の空きが無くなるんですよ。
・・・ひどいものでは、栞代わりに本の間に挟み込まれる工具も何本かあった。
ほんの、数刻の出来事だったと思う。
あとは、この繰り返し。大体どういう行程か、僕はまざまざと見せ付けられた。
からん、ころん。
棚の上で、小さな鳴り子を付けた時計(これもお師匠様の作ったもの)が時間を告げた。
「・・・茶が冷めたな」
それまで作業に打ち込んでいたお師匠様が、顔を上げて時間を確認した。
本の海の中から茶杯を引き上げる。よく今までその机の上でこぼれもしなかったものだ。
そうして、こちらにやってくる・・・と分かっていた筈なのに、僕は何故か隠れる事も出来なくて、見事にお師匠様と目が合ってしまった。
「北天?なんだもう帰っていたのか?」
「・・・お師匠様、この有り様はどういうわけか訊いてもいいですか?」
僕は努めて静かに尋ねてみた。
一向に動じる気配が無いお師匠様を見ていると、叫ぶ気力も失せたのかもしれない。
「・・・・・・あぁ。」
ほら、やっぱり。
振り返って、部屋の中を見渡したお師匠様は、聞き慣れた相槌を打った。
その後はもう、いつもの通り。
帰ってきた南天が見たのは、いつもの通り忙しなく居間を片付ける僕と、その入口に立って書物を繰るお師匠様だったらしい。
「・・・お師匠様、たまには自分で片付けたらどうです?」
「しかし、片付けるまで入るなと言ったのは他ならぬ北天でな」
お師匠様と南天が何か話していたけれど、僕は本の間から工具を掘り出すのに必死で、よく聞こえていなかった。
■
世の中、いつ何処で何が役に立つか分からないだろう。
だから、どれもすぐに手に取れるようにしている。
事も無げにそう言ってのけたお師匠様を前にしては、『使ったものは、すぐ元に戻す』なんて書いた張り紙も紙の無駄だと思ったのでやめた。
そうして、いつも通りに時間は進み。
「努力はしてみよう」
夕飯の後、(僕がすっかり片付けた)居間で、お師匠様はそう言った。
けれど、僕は、
「・・・・・・いえ、もういいです」
何故だか、そう答えていた。
「北天の根負け?」
茶杯にお茶を注いでいた南天が言った。僕は、もう一度頭を振る。
「・・・多分あれは、お師匠様の性分なんだと思います」
それで、それを片付けてしまうのは僕の性分。
大変だとは思うのだけれど、それでも、嫌いな事ではなくて。
お師匠様が、片付けるのも得意じゃない事は、(分かりたくなかったかもしれないけど)よく分かったし。
僕の知らない事をお師匠様が答えてくれるのと同じように、お師匠様が散らかしてしまうなら、僕が片付ければいい話で。
我ながら、変な性分だと思う。でも、多分僕たちはそれでいいのだと思う。
「・・・でも、あれ以上ひどい有り様にはしないでくださいね?」
それでも、ほんの少しだけの念押し。
席につこうとしていた南天が小さく吹き出して、お師匠様も、少しだけ笑って、こう言った。
「努力はしてみよう」
多分、それが、僕たちの構図。
〜終〜
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