第四幕
【水底の まほろなりたる 夜半の月 未だ伝への 透霞(とおがすみ)かな】
「・・・・・・!」
「声も出ぬか?」
潮風が強く吹き付ける岬には、一面に紅い敷物が敷かれているようだった。そのあまりに鮮やかな色は、感嘆の息さえ飲み込むほどだ。その果てには、青空と紺碧の海が広がり、紅をより一層引き立てている。血と同じ色なのに、それはとても美しく見えた。
「毎年この時期に咲くようでな」
悪餓鬼どもが見つけて来おった、とイサリヒコはマサゴの脚を地に付けた。平衡が上手く取れない彼女は、彼の腕に支えられながら足元に咲く花を見渡した。
「・・・陸(おか)の花も、美しゅうございます」
「陸の花、も・・・?」
イサリヒコは首を傾げた。マサゴの言葉は、まるで陸以外にも花を知っているような口ぶりだった。
「海にも、花はございますゆえ・・・」
「それは初めて聞くな。どのようなものだ?」
マサゴは、記憶を辿るように少しずつ話し始める。
「・・・大きな幹を持つ花にて、一面に咲き誇ります」
「されど、水面(みなも)よりそのようなものの影さえも見た事は無いが」
陸は海を見下ろせる。言葉通りの花が存在するならば、その断片くらい船乗りの類が目にしそうなものだ。けれど、マサゴは静かに首を振った。
「その枝葉は白銀(しろがね)、花弁(はなびら)は水の如き透(とお)にござりますゆえ、水面よりは見る事叶わぬかと存じます」
「ほぅ・・・、この目にすれば、さぞ美しかろうにな」
残念な事よ、と彼は笑う。知らぬことなど無くなったと思っていたこの海原には、未だ及び知らぬものが幾つもあるのだろう。その一生を賭して尚見出せないものが。
「イサリヒコ・・・。あなた様も、皆も、なにゆえマサゴを受け入れてくださるのでしょう?」
不意に、マサゴは視線を上げ、傍らに立つ男を見上げた。いつの間にか、怖いとは感じなくなった面差し。初めてこの地にやってきてからの僅かの間に。目の合った館の者は、誰も『彼』を怖いとは言わなかった。
その反応は、『彼女』に対しても同じだった。今しがたの宴にしても、髪の色も瞳の色も違う、まして、人には似て非なる生き物と知っているだろうに。子供も翁も皆、誰一人として彼女を奇異の目で見なかった。
「・・・我らも、陸より追われた者であるからやもしれぬな」
「え・・・?」
イサリヒコの言葉は、静かだった。彼は、ぽつり、ぽつりと話し始めた。語られる事の無かった昔の事を。
「・・・我ら水塚(ミナヅカ)は、水辺に住まう小国であった。それが、戦乱の世に敗れたがゆえに陸を追われ、この島に落ち延びた。その折、父も母も亡くなられた・・・」
潮騒が途絶えぬ限り、忘れる事の出来ない遠い日の哀しみ。どれだけ波が寄せて帰しても、決して無くならない浜辺の砂のような傷痕。
「わしは、民に紛れ生き長らえ、・・・やがてこの水軍を興した。ただ父上や母上や、・・・死した者すべての命と引き換えに永らえた我らの命、無下に捨つるはあまりに申し訳が立たぬ。・・・それだけだった」
住まう地を無くした者の生きる術は限られる。生き延びたのは、女子供すべての頭数を数えてもひとつの軍にも満たないほどだった。
「陸を恋しゅう思うたわけではない。この小さな水軍が、今更陸の覇権争いに乗り出せよう筈も無い。・・・ただ、生きられれば良かった。潤いなど無くとも、日を食うに困らぬだけの糧さえあれば、生きてさえゆければそれで良いと・・・」
腕の立つものは殆どすべて、武器とも言えぬ武器を携え船に乗り込んだ。無謀だと知っていた。けれど、彼らは皆、島に残す者の為に立ったのだ。
「されど、実際にはあがない切れぬ物を求めて陸を荒らす賊に成り果てたに過ぎぬ。我らの奪った一握りの米で、陸では飢えて死ぬる者もおるやもしれぬのにな」
生きる事は、その利己心を満たし続ける事だ。獣は本能のままに、その欲するものを手に入れる。しかし、人は利己という言葉を知っている。本能が求める度に、その心を満たし、そして病んでゆく。その病は、同じ痛みを持つ者と群れる事で忘れられる。けれど、決して消えることのない傷痕。人が、人である限り。
初めて彼女が『糧』を奪った時、僅かに体の力の抜けた感覚があった。しかしそれはほんの僅かの事で、動くに差し障る事は無い。ただそれだけで生きられるという真魚が、イサリヒコには少し羨ましく感じられた。
「もう、十年以上も昔の話よ」
彼の言葉に自嘲的な笑いが含まれた。
「そうして、幾度目か知れぬ侵略の折・・・そなたを見つけた」
「・・・・・・」
「あの男は・・・唐辺(カラベ)は、都より流されてきた者。あ奴に感謝しようとは思わぬが、今こうしてそなたを連れておるのは、この奇なる運命(さだめ)のお陰やも知れぬな。」
確かにそうだとマサゴは感じた。真魚は、その糧を得る為の陸人以外に、滅多にまみえるものではない。糧を得ればすぐに水面へと消えてゆく、まさに泡沫(うたかた)の存在。それが、陸に繋ぎ止められ続けた果てに、今こうして目の前の男があの地獄から救い出してくれた。
マサゴは、消え入りそうな声で尋ねた。
「・・・イサリヒコは・・・不死の体を得ようとは思われませぬか?」
「何を急に申すかと思えば・・・真魚の言い伝えか、真魚と交わりし者は不死の体と魂を得ると」
真魚の噂は幾つも真偽の定かでないものが陸に流れてはいた。しかし、真魚という存在はまだしもそれらの噂はどれもこれもあり得ないような夢物語ばかりだとイサリヒコは思っていた。
「・・・陸人は、古来より不死に焦がれるものと聞き及びます。・・・マサゴは、イサリヒコに命救われた身。されどまだ、何もご恩を返せてはおりませぬ。・・・ゆえに・・・・・・」
そう言って、見上げてくる瞳には、意志ではなく、恐れとしか取れない色が隠せずにいるようだった。無理も無い。それは、何も解らぬまま彼女に与えられ続けた毒のような痛みそのものなのだから。
「・・・まこと、真魚と交われば不死をもたらすと申すのか?」
陸に流れる風聞は、根も葉もないものだろうと思っていた。しかし、紛れも無い真魚そのものが言うからには、ただの噂とも言い切れないのか。けれど、イサリヒコにとって噂の真偽などどうでも良かった。その言葉は、噂ではなく目の前の娘自身の意志を問うもの。マサゴは、言葉に詰まり僅かに視線を逸らした。
「・・・真偽の程は真魚にも及び知らぬところ・・・。真魚は、陸に上がれば陸人と同じに姿を変えるものにござりますが、さりとて真魚には・・・男(おのこ)と交わる慣(ならい)を持ちませぬゆえ・・・」
「されば、真魚は如何にして子をもうける?真魚は不老長寿と聞くが、決して不死ではあるまい」
「真魚は、成体となりてより後(のち)に糧を得た男の天寿を見守るものにございます。その者の命尽くる折、その真魚は子を宿すもの・・・」
「・・・マサゴは、わしに抱かれるも構わぬと、・・・そう申すのか?」
真魚が陸人と如何に異なる生を生きるかははっきりした。イサリヒコはもう一度だけ問うた。今度は含みを持たせない真意を問う言葉で。
「・・・・・・マサゴは・・・・・・」
か細い娘は俯いて言葉を詰まらせた。そこから先は言葉に表されなかったが、その儚げな身に起きた事を知る者ならば誰も、その続きを紡がせようとは思わないだろう。
「無理はせぬ事だ」
イサリヒコは一言ですべてに幕を下ろした。そうして、艶を取り戻した清流のような髪を静かに撫でてやる。マサゴは、恐る恐る顔を上げた。
「交わる術さえ知らぬ者に伽(とぎ)を強いる気も無い」
「・・・されど、それではマサゴは何も・・・」
「わしは別に、伽が欲しゅうてあの牢を探しておった訳ではない。あの唐辺は、我らが陸におる頃よりの天敵。奴等は憎いが奴等の捕らえた者に私怨は無い。逆に我らの力となる者おればと思うておった。・・・ただそれだけの事」
「されど・・・・・・」
彼女の気持ちが分からない訳ではなかった。恩を受ければ、出来る限り何かを返したいと思うのは当たり前の事だ。しかし、何も身に帯びない真魚に出来る事などそう有りはしない。彼女なりに必死に考えたのだろう。そうして辿り着いた答えは、ひとつしかなかったのだ。
イサリヒコは、マサゴから視線を逸らせ、目の前に広がる紅い花と蒼い世界に目を遣った。視線の果ては滑らかな弧を描いて、ふたつの蒼と紅い陽が溶け合おうとしている。大きく、絶え間無く続く潮騒に紛れて、宴の楽の音が僅かに届いてくる。彼は、柔かな声音で言った。
「・・・そうだな。そなたがどうしてもわしに借りを返したいと申すならば、今しばしの時をくれぬか?」
「時・・・?」
マサゴの見上げた先で、子供のように優しい目をした男が小さく笑った。
「わしは今果報者らしくてな。望みらしい望みが浮かばぬ」第五幕
【暗天(やみぞら)に 灯る漁灯(いさり)の 落つる影 雲路の月の 夢の間に間に】
マサゴは、館の一室の窓から外を眺めていた。そこからは、島に生い茂る緑と、その向こうに彼女が初めてこの島に連れて来られた時の船着き場が見える。そこには今、その船は見えなかった。『彼』はまた、外の世界に出払っていた。
彼女は視線を落とし、自身の手のひらを見つめた。骨の浮き出るほどに痩せこけていたあの時からは信じられないほど、その身は元の形を取り戻していた。着物の裾から覗く脚もまた、今は陸人と同じ形(なり)ではあるが、真魚の姿に戻ったとしても滑らかな曲線を描く事だろう。
その身を屍のようになさしめたのは陸人であった。しかし、これだけに癒してくれたのは、この島。そして、ここに生きる陸人たち。潮騒は、その奇異な運命(さだめ)の中、変わらずに同じ音だけを奏でていた。
「海が恋しゅうございますか?」
不意に、声がかけられた。驚いて振り向くと、立っていたのはスオウだった。マサゴの反応に優しく微笑んで、手にしていた着物を広げ、畳み始める。
「それともお屋形様が・・・?」
僅かに意地悪く続けられた言葉に、マサゴは顔を赤らめた。目の前でくすくすと笑う彼女もまた、同じくらい『彼』に近い場所にいるのだ。
「無理もございません。この水軍の者は皆、お屋形様をお慕いせずにはおれぬもの」
不思議なことに、とスオウも窓の外を眺め遣る。大人びた美しい女だった。その視線に宿るのは、彼を『想う』光。
「・・・ご心配には及びません。お屋形様はお強い御方。」
じきにお戻りになられるでしょう、と彼女が言うが早いか、船着き場に島で一番大きな船が寄せるのが見えた。
●
屋敷の門が開かれ、待ちわびていた姿が入ってくるのが見えた。けれど、マサゴはこれまで一度も表立って彼を出迎えた事は無かった。イサリヒコは、出迎える女達から離れて見守る視線に気付いたのか、戸の奥に見え隠れする銀の髪の娘に声をかけた。
「如何(いかが)した・・・?」
鎧を身に着けたまま、歩み寄ってくる姿。しかし、マサゴには急にその姿が恐ろしく感じられた。
もう、恐ろしくは無いと思っていた。その血まみれの鎧を身に纏う人そのものは、決して恐ろしい存在ではない。
そう理解した筈なのに、その身に染み付かせた紅い死臭にだけは、どうしても慣れる事が出来なかった。
慣れぬ足取りで踵を返し去っていく姿は見慣れた。けれど、イサリヒコは一度もそれを追う事は出来なかった。
●
忘れられない光景があった。
今、彼はそれを目にしていた。
夜の松明に照らされて、不気味なほどに白く光る刃の群があった。
それが鈍い音を立てて屠る、炎よりも紅い色があった。
悲鳴と、喧噪と、哄笑と。一番大きかったのは何の音だったろう。
思考を鈍らせる家屋敷と土の焦げる臭い。吐き気を誘う血の臭い。
渇いた喉を湿らせたのは、土を含んだ雨と、そこで枯れたやも知れない涙。
握り締めた土に混じる小石が手のひらに噛み付いた。
父は、残された僅かの兵を率いて討って出た。
目の前に降りそそぐ矢と石の礫(つぶて)。
名を呼ばれた。誰かが包み込むように小さかった体に覆い被さった。
見慣れた女の着物。ゆっくりと振り仰ぐ。 その先に、銀(しろがね)の髪。
紅に、染まって。
「ッ・・・・・・!!」
薄闇の中、イサリヒコは跳ね起きた。荒い息が闇に溶けてゆく。着物を纏わぬ体躯に、汗の粒が浮いていた。
「・・・・・・・・・」
「・・・如何(いかが)なさいました?」
隣に眠っていたスオウが目を覚まし、彼を見上げた。彼女のしなやかな体にも、着物は身につけられていない。汗ばみ、乱れた髪を掻き上げて彼は呟いた。
「・・・夢を、見た・・・」
遠い日の夢。終わりと始まりのあの日。
「マサゴ・・・・・・」
そこに、『彼女』は居ない筈なのに。
「真魚の姫にございますか?」
身を起こすスオウに、イサリヒコはひとつだけ頷く。障子の向こうにまだ光は無い。布団の擦れ合う音だけがあった。
「・・・いつまでもこの館に留め置く事は、あれにとって良いものではないのやも知れぬ・・・」
まるで自身に言い聞かせるような言葉を聞きながら、スオウは布団の上に掛けられた白い襦袢を引き寄せる。
「なにゆえにございます?かの姫は、初めて館に参った折からは信じられぬほど、よう笑みを見せるようになられたとお見受けいたしますが」
目の前の男は、動く様子を見せない。ただ、物憂げな眼で足元の薄闇を見つめ続けている。
「・・・真魚は慈悲の生き物という。陸の上で血を流し、そ知らぬ顔の出来る我等とは違う・・・」
「・・・お屋形様は、まことあの真魚の姫がいとおしゅうて仕方の無いご様子」
襦袢の帯を締め、スオウはするりと布団を這い出した。そして、小さな灯りを点し、部屋の隅にある箪笥に向かった。彼の言葉を聞きながら。
「あれは、わしの血を浴びた姿にひどう怯える。それを表に出すまいと振る舞うゆえ、逆に痛々しいほどだ。・・・水底に棲み暮らし、争いを憂う真魚には、さぞ奇異なものに見えるのであろう。」
どれほど身を清めても、真魚にはその穢れが見えるのだろう。焚き染めた香のように、その身から離れない死臭が。イサリヒコは失笑した。
「・・・わしとて、所詮は唐辺をどうこう言えた立場では無いのやも知れぬな」
すると、薄闇の中立つ白い影がくすくすと笑った。影は、音も無く歩み寄り、再び隣に膝をつく。
「・・・何が可笑しい?」
「お屋形様は、ご自分が如何にお優しい御方であらせられるか、ご存知無いのでございますね」
そう言って、スオウは手にした手ぬぐいでそっと彼の額の汗を拭った。そうして、静かにその体を拭き清め始める。
「略奪者たる水軍の頭目として、他を虐げる者が慈悲深いと?」
「お屋形様が、好きで血にまみれておられるなどと思う者は、この島には誰一人おりますまい」
慣れた手付きで腕を拭ってゆく女。その言葉とともに、水で流せぬ穢れを清めるように。
「お屋形様が浴びる血は、本来ならば我らも共に浴びる筈であった血も同じにございます。お屋形様は、あの日死してもおかしゅうない我らをお救いくだされたも同然。あなた様が我らに生きよと申さねば、我らはとうに生きる事を諦めておった事でしょう」
手を止め、彼女は彼を見上げた。化粧を解いたその素顔は、美しいまま昼のそれよりも幾らか幼く、柔らかな表情を見せていた。彼女もまた、同じ光景を知っているのだ。
「スオウ・・・」
「国を追われ、孤島の賊と成り果てた身なれど、我らがあなたを『お屋形様』とお呼びするは、皆、あなた様を一城の主と・・・我らが主と信じておりますがゆえ」
彼女だけではない。この島は、そこに住まうようになった者達が漸く見つけた安息の場。まだ頼りになるとは言えなかったであろう君主の世継ぎを、信じ、共に生きようとしてくれた者達。この手にどれだけの命を預かれるか解らなかった。けれど、彼らは付き従い、笑ってくれた。
「・・・どうぞ、御心のままにお進みくださりませ。あなた様が是と信じお選びになられた道ならば、我らは皆喜んでお供つかまつりましょう」
傍らに微笑む娘の黒髪を、男は静かに撫でてやる。そっと身を寄せてくる体を抱き寄せて、消え入りそうな声で一言だけ呟いた。
ただ一言、「済まぬ」と。
第六幕
【天高(そらたこ)う 舞いたる透の 血潮をや 伝ふ光の 永(なが)の旅路に】
世の流れは、時に大きな渦を巻く。
抗うことも叶わず、ただその渦中へと沈みゆくしかない渦を。
「も、申し上げますお屋形様!」
イサリヒコの元へ物見の者が駆け込んで来たのは、紅花(あかばな)も盛りを過ぎた、良く晴れた日だった。
「何事か」
「お、お早く、物見の塔へ!」
彼は立ち上がり、急く物見の後を追った。傍らで心配そうに見上げてくる蒼い瞳だけが心に尾を引いた。
そこからは、海の果てに浮かぶ陸の影が見渡せた。いつもならばそれだけしか見えない穏やかな海に、今は眼を疑うような光景が広がっていた。
「あれは・・・」
巨大な船影数隻の間に、小振りで同じ形の影が幾つも並び立っていた。水鳥の親子を見ているようで、滑稽にさえ見えた。しかし、それは紛れも無い船であり、その舳先は揃ってこちらを向いている。イサリヒコは押し殺した声を洩らした。
「馬鹿な・・・!」
海を隔てて見える陸は、辺境へと追いやられた貴族崩れの男の領地だった。陸に囲まれた都の者は、船を駆る事に慣れていなかった。それが幸いしてこの小さな水軍はこれまで生き延びて来れたのだった。
しかし、目の前に迫る大船団の旗は、紛れも無くその男――唐辺の家紋を掲げたものだった。
「あ、あの唐辺にいつの間にこれほどの力が・・・」
傍らに立つ物見の男が僅かに歯を鳴らしながら呟く。息をひとつ呑むと、イサリヒコは男を叱咤した。
「落ち着け、地の利は我らぞ。・・・皆に伝えよ、唐辺めが水軍たる我らの牙城を踏み荒らそうとしておるとな」
●
船団が小さな島に辿り着き、その腹の中から溢れ返るほどの兵卒を吐き出すまでに、半刻も経たなかったやも知れない。
一軍を任された男が、刀を振り上げて声高に叫んだ。
「殺せ!!これは御上(おかみ)のご意志ぞ!水軍にまつろう者は女子供であろうと容赦いたすな!一人残らず息の根を・・・!」
しかし、高らかに部下を鼓舞する筈だった言葉は、一刃の下に掻き消された。頭と繋がっていた胴の切れ目から血潮が吹き上がる。思わず悲鳴を押し殺した兵卒は、痙攣する体躯の向こうに立つ影を見ていた。
「・・・ぬしらに易々とくれてやる命、この島には無い」
吐き捨てたイサリヒコは、その刀に絡まった血を振り落とし、吼えた。
「雑魚に用は無い!ぬしらの大将は唐辺であろう。奴めは何処(いずこ)に隠れおる!臆したか出合え!!」
その牙は、咆哮止まぬうちに新たな獲物を地に臥させた。
島中に萌ゆる緑の方々(ほうぼう)に、幾つもの火の手が上がった。
静かだった島は、獣たちの屠り合う地獄へと姿を変えていた。
「お屋形様」
幾つ命を切り捨てただろう。始めに手にしていた自身の刀はとうに切れ味を失い、幾本目かの敵の刃でまた一人を斬り伏せた時、イサリヒコを呼んだ声が、その背後の一人を斬り捨てて背を合わせてきた。
「ハヤヒコか」
「命ぜられました通り、姫御前はヤエらと共に西の岬に。・・・敵大将は?」
「何処(いずこ)にこそこそ隠れおるか、未だ姿現わさぬでおるわ」
荒い息の舌で、イサリヒコは失笑した。
「・・・お屋形様、姫御前のもとにお行きなされませ」
背の向こうから、ハヤヒコは静かに言った。
「・・・何だと?」
「唐辺めは、真魚の姫御前に執着しておったと申されましたな。・・・なれば、ヤエらだけでは心許のうございます」
その先で、刃が鎧と肉を裂く音がする。言葉を交わす間も戦は続いていた。
「されど・・・」
「ここはそれがしがお引き受けいたしましょう。光持たぬ身なれどこのハヤヒコの腕、お屋形様が一番良くご存知にございましょう」
小さな島だ、何処にいようと、侵入者の圧倒的な兵力に向かうには苦しい。ただ一人に任せるのは、半ばその者を見棄てるようなものだろう。けれど、彼は任せよと言った。これまで幾度と無く、何よりも信じられたその声音のままで。
それは、自身が誰よりも心強いと知っている者の言葉だったから。
「・・・・・・頼む」
一言だけ返し、イサリヒコは西へ地を蹴った。
●
履かされた草履はとうに脱げていた。
どちらの側を軸にしても変わらないほど、その両足は慣れない行為に悲鳴を上げていた。
早くお行きと、背中を押してくれたヤエは無事だろうか。
いつか、力強い腕に抱き上げられて通った林の海を、マサゴはたった一人で泳いだ。
「あっ・・・!」
皮肉にも、岬に茂る蔓草が彼女の足を引き止めた。あるいはもう、彼女の脚は限界に来ていたのかもしれない。
「っ・・・・・・」
着物の裾から覗いていた真っ白なそれは、痛みを帯びて赤く腫れ上がっている。這うようにして一歩でも遠くへ向かおうとするか細い体の後ろで、複数の男の声が上がった。
「いたぞ!女だ!」
地に座り込んだ娘の姿を、男達はいぶかしげに見遣った。女には違いない。しかし、その髪の色は、色を帯びていないかのような白銀。片方だけ見え隠れする瞳は、海の蒼を映したようだった。
「な・・・なんだ、この女・・・」
「もしや・・・お屋形様の囲うておられたという真魚・・・?」
それは、島の者の言葉ではなかった。島の者ならば、この陸の真魚を知らぬ者はいない。ならば、彼らの言う『お屋形様』とは、『彼』ではない――忘れてしまいたかった『あの男』の事だ。
「なれば、殺すわけには参らぬな」
「誰ぞ、縄を持て!!」
背後に続く兵に言い放ち、先頭にいた二人がマサゴを捕らえようと歩み寄った。
命令を受け、踵を返した兵の悲鳴が上がった。
驚き、振り返った兵二人と、マサゴの視線の先には、くずおれた兵に目もくれず、真っ直ぐこちらを睨みつける視線があった。
「・・・その者に触れる事、何人たりともまかりならん」
「なッ・・・!!」
「す、水軍の長か!」
それは、マサゴが誰よりもすがりたい者だった。たとえ、それが血にまみれた恐ろしい鎧姿であっても。彼は――イサリヒコは低く言い放つ。
「命惜しくば退け。手加減してやれるほど、今のわしは冷静ではない」
そうして、今しがた吸った血糊もそのままに、刃を突きつけた。その殺気に、兵は思わず身構える。
「・・・何を!賊の長の首級(しるし)、我らが手柄としてくれるわ!」
ふたつの影が一斉に牙を剥いた。『彼』は、冷静ではないと言った。しかし、ふたつの刃を迎え撃った影は、怖いくらいに静かに確実に、その相手を仕留めていた。
「・・・加減は出来ぬと申した筈だ」
赤く染まった刃で空(くう)を切ると、イサリヒコは倒れ臥した相手を見下ろした。哀しいほど、冷たい瞳で。
「・・・イサリヒコ!」
近付いた彼は、確かに恐ろしいと思った。けれど、次の瞬間マサゴはその首筋にしがみ付いていた。自分は助かったという安堵が、他者を傷つける恐ろしさを上回るなどあり得ないと思っていたのに。
突如として島中を覆った死臭の所為だ。誰もを――真魚である自分さえも狂わせてゆく狂気の力の所為だ。彼女は、そう自身に叫んでいた。
「・・・・・・よう耐えた」
場違いなほど優しく降ってきた言葉さえ、限り無く嬉しいと感じた。
しかし、甘い夢には必ず終わりがつきまとう。それは、ひどく残酷な。
「マサゴ・・・ここより、海へ帰れ」
「え・・・・・・?」
彼の眼は、強く、哀しげなものだった。イサリヒコは、努めて抑えた声音で続ける。
「敵軍は烏合の衆なれど、数は我らの比ではない。ここが落とされるのも時間の問題だ」
それは、優しさだった。何よりも慈悲深い言葉だった。けれど、これまでかけられた言葉の中で、もっとも辛い言葉だった。
いつの間にか、陸から離れたくないという風変わりな真魚がそこにいた。
海が恋しくない訳ではない。いつか、帰らねばならない。
けれど、それはこんなにも急ではならなかったのだろうか。
マサゴは、震える声で言った。
「・・・・・・されど・・・・・・」
「勝手な真似をしてもらっては困る」
「!?」
続く言葉を見出せずにいると、不意に小馬鹿にしたような声が掛けられた。イサリヒコの腕の向こうに見える、『あの男』の姿。真昼の今、日の光の元で目にしても尚、変わることのない光を帯びた眼と、薄笑いを浮かべた口元。そして、耳鳴りのように残る声。
「・・・唐辺・・・!」
振り返り、睨み付けたイサリヒコに、男は落ち着いているが、恨みだけを込めた声で言い放った。
「賊めが、わしから真魚を奪いおった挙句、わしに断りも無く海へ帰すだと?そのような真似、わしが許すと思うてか」
見ればその背後には、幾人もの兵が退路を塞ぐほど集っている。皆少なからず返り血を浴び、鎧の色を変えている。成る程唐辺本人も鎧をまとってはいる。しかし、執拗に華美な装飾を施されたそれは、一滴の血も浴びてはいない。誰からも傷付けられていない、けれど、その耳につく声だけで、一体どれだけの者を傷付けてきたのだろうか。
「・・・むざむざ生き地獄へ引き渡すような真似、おぬしではあるまいし、出来ると思うか?」
イサリヒコは、マサゴを庇うように背後に遣ると、その汚れ無き鎧姿を皮肉るように言った。
「何を履き違えておる。わしは頼み入れておるわけではない。命じておるのだ。・・・いずれにせよ、御上の命(めい)に従い、水軍の者は残らず皆殺しとなる。今『それ』を手放した所で何も変わりはせぬわ」
高圧的な口調だった。これでは、果たして誰が賊なのか知れない。
「ならば尚更聞き入れるつもりは無い」
イサリヒコの手にしていた刃が閃いて、正面に突きつけられる。
「減らず口を・・・この数を相手に敵うと思うてか!!」
男の言葉は、いつも自らを汚す事は無い。声を合図に、背後の兵が、一斉にイサリヒコに刃を向けた。
彼は、この優しい人は、一体どれほどの血を浴び続けてきたのだろう。その涙を枯らしてまで。
「き、鬼神じゃ・・・」
一人がそう洩らし、すべての兵が、たった一人の男との距離を取る。既に仲間の数人は地に倒れこんでしまっている。肩で息をし、けれど一片の隙さえ見せない男は、おそらくすべてを打ち倒すまで隙を作る事は無いようにさえ感じられた。
「・・・悪足掻きをしおる・・・されど・・・」
あざ笑うように吐き捨てて、口元をいやらしく持ち上げた男に、その場の誰が気付いただろう。
直後、静寂な空気を裂くような破裂音が響き渡った。
「な・・・・・・」
イサリヒコの胸から、血飛沫が飛んだ。誰の返り血でも無い、彼自身の鮮血だった。その場にいた誰もが眼を見開いた。たった一人、薄笑いを浮かべる男以外は。
「・・・・・・!!」
マサゴは、声にならない悲鳴を上げた。あまりに突然の、しかし明らかな傷に、イサリヒコは手にした刀で辛うじて自らの体を支えた。あり得ないような勢いで体から溢れ出す血は、押さえ込もうとした片腕を毒々しいまでの紅に染めてゆく。
「・・・ほう、急所は外しおったか。ほんに何処までもしぶとい奴よ」
唐辺は変わらず離れた場で、その手に煙を吐く小さな筒を遊ばせていた。見たことも無い形だったが、イサリヒコを抉ったのは紛れもなくその短筒だ。彼は玩具で遊ぶように、その一部を弄ぶ。
「陸を追われたぬしは知らぬであろうがな。舶来よりの素晴らしき武器じゃ。ぬしなどには勿体無いが、よう味おうて死ぬが良かろう」
そうして、再びそれをイサリヒコに向けた。鋼の部分に掛けられたたった一本の指が動いただけで、また耳を裂くような破裂音が響き渡り、イサリヒコはついに刀を掴んでいた手を離し、そのまま地に倒れ込んだ。
「・・・イサリヒコ!・・・イサリヒコ!!」
駆け寄り、その体に触れたマサゴの白い指が、一気に紅に染められる。
「・・・ぬしが頼みにしておった賊は死におった。さあ真魚よ、大人しゅう我がもとへ参れ」
にやついた口元を隠す事無く、唐辺の草履が地を踏みしめ、漸く歩み寄ってきた。
その真魚は、ただ嘆き悲しんでいるのだと思われた。しかし、
「触れるな。」
睨み返した隻眼には、涙を流していた。しかし、そこに怯えなどは無かった。
「・・・何だと?」
いぶかしんだ唐辺は聞き返す。真魚の言葉は静かだが、厳しいものだった。
「・・・我は、イサリヒコの・・・この水軍の者。そなたのような者に、二度と触れられとうは無い!!」
「何を強がるかと思えば笑わせおる。ぬしに何が出来る?わしを殺すとでも申すか?真魚と交わり不死を得た事は、ぬしが一番よう知っておろう!」
そう言って、唐辺は声を立てて笑った。彼は、マサゴをあの地獄に留め置き続けた張本人だった。そこでの一方的な営みを知る者は、他ならぬ彼と、目の前の真魚だけであった。
しかし、怒りだけだと思っていたマサゴの瞳は、次の瞬間、息を呑むほど冷たいものに思われた。
「・・・殺せぬやも知れぬ・・・されど、狂わす事は出来る」
「何・・・・・・!?」
それは、歌うような光景だった。だが、そこに人に聞こえる音は響かなかった。
大気と、聞こえぬ音を『聴く』者の神経を震わし、砕く真魚の歌声。
優しさなど無い、ただ怒りと憎悪を歌う狂謳(くるいうた)。
真魚は怒りなど見せぬ慈悲の生き物。
そう、『あの時』はただ恐ろしさだけが心を支配していた。
けれど、真魚が真(しん)に怒りという感情を生み出した時、自らを御しきれぬ憎悪を植え付けられた時。
――人は初めて、真魚という異形の恐ろしさを知る。
「・・・あ・・・・・・・・っ・・・ああぁあああぁぁぁあアアッッ!!」
あり得ないような甲高い悲鳴を発し、頭を抱え場に膝をつく男。口元から涎を垂れ流し、見開いた双眸は天を見上げていたが何を映す風でも無い。やがて、いともあっけなくその体は地に倒れ臥してわずかに痙攣するだけになった。
「おッ・・・お屋形さま・・・!!」
「ば・・・化け物!!」
「にッ、逃げろぉぉっ!!」
目の前に座り込んだ、肩で息をする娘と目が合うか合わないかの内に、狂い果てた主君さえも見捨て、こけつまろびつ走り去ってゆく鎧の男たち。それは、ひどく滑稽な姿だった。
娘――マサゴは、誰もいなくなった岬の果てで、腕に抱いた男の名を呼び続けた。
「・・・イサリヒコ・・・!イサリヒコっ・・・!!」
掠れる声がもどかしい。娘は、零れる涙もそのままに呼び続けた。
「・・・・・・マ・・・・・・サ、ゴ・・・・・・」
「・・・イサリヒコ!!」
潮騒に紛れ消え入りそうなほどだったが、確かに彼の唇は動いた。マサゴは、彼の負った傷から溢れ出す血を懸命に押さえようとした。その紅に染まった真白い手に、もうひとつの血にまみれた大きな手が重なる。
「・・・わし、の・・・・・・望・・・・・・叶え、・・・・・・くれ、る・・・か・・・・・・?」
『行く』者は知っているのだ。『残る』者よりもはっきりと、『その時』を。
洩れる息の狭間から、途切れ途切れの言葉が紡がれた。一語たりとも聞き漏らすまいと、マサゴは顔と顔とが触れるほどに彼の体を抱きしめた。
岬の下で、波が砕ける音がした。
音の余韻の中ゆっくりと顔を離すと、娘はひとつだけ頷いた。
白銀の睫毛に溜められた涙が、頬を伝って零れてゆく。
その細腕に抱かれた男は、少しだけ微笑んで、やがて、ゆっくりと娘の腕に体を預けた。
そうして、二度とは動かなかった。
彼女はその体を抱いたまま、ゆっくりと、ゆっくりと、岬の果てに向かい始めた。
わずか数歩の距離を、懸命に。 海に、向かって。
軽々と彼女を支えていたその体は、彼女よりも遥かに大きく、白く細い腕は震えを隠せなかった。
彼女の脚は赤味を帯びていたが、痛みは感じられなかった。それよりも、痛いのは心だから。
やがて眼下に広がる蒼は、呑み込まれそうなほど眼に痛い空と海。
潮の歌が聞こえる。喧噪も悲鳴も、もう何も聞こえない、音を失った島への鎮魂歌。
娘は、腕の中の体をそっと地に寝かせた。
右頬を覆い隠していた包帯を解き、そして自らの着物の帯に手をかける。
波と衣擦れの音の中、そこに現れたのは一糸纏わないしなやかな白い体。
娘は身につけていた着物でそっと地に横たえられた体を包み、抱いた。
いつか、そうしてもらったように。
紅い花咲く岬から、ふわり舞うように海に消えたふたつの人影を、誰が目にしただろうか。
―――海に咲く花を、見せて欲しい。
何処までも続く蒼の世界。陸人の棲めぬ深淵。
水底から湧き上がる泡のような透の花弁が真魚の周囲に溢れ始めた。
白銀(しろがね)の大樹に咲き乱れた花は、蒼の世界を透明に染め上げてゆく。
『・・・イサリヒコ・・・ご覧になれますか・・・?』
花弁の海を、静かに降りてゆく銀の影。
その腕に抱かれた者の瞳が開く事は無い。
目の前を埋め尽くす花弁(はなびら)は、真魚の瞳から零れ落ちた滴に似ていた。
海原に生き、海原へと還る者を、優しく、いとおしく嘆く真魚の流す透の涙。
―――この者は、海へと還る者だ―――
やがて、真魚の瞳は、花吹雪に変化を見た。
腕の中からたなびく紅の帯が、するりと花弁に溶けた。
少しずつ、少しずつ、透の花弁が色付いてゆく。
『・・・・・・・・・・・・・・!』
真魚の目の前は、鮮やか過ぎる紅に転じた。
強く、時に恐ろしく、けれど、何よりも優しく、美しい生命の色に。
真魚は、そっと腕の中に眠る者に口づけた。
糧などではない、何よりもいとおしい者に。
とめどなく溢れ続ける真魚の涙は、海の蒼へと、溶けて、消えた。
終章
オレンジ色の夕焼けは、いつの間にか水平線にその上端を浮かばせるだけになっていた。空には、オレンジから紫を経て薄暗さが一面に広がっている。
「・・・昔話は、これで終(しま)いだ」
女性の言葉に、少年は何も言えないでいた。波音だけが、変わらずさざめき続けている。
「・・・そんな花が・・・」
「信じるか、信じないかはそなた自身」
彼女は、そう言ってゆっくりと立ち上がった。長い髪が膝辺りまでその体を隠した。
遠くで、少年の名を呼ぶ声が聞こえた。
「もう、お帰り」
「・・・うん・・・」
優しい彼女の言葉に、少年は頷く事しか出来なかった。踵を返そうとして、彼は、一言だけ彼女に向かって尋ねた。
「・・・ねえ、・・・お姉さんの、名前は・・・?」
その声に、女性はゆっくりと少年の方を見た。今まで見えなかった右頬が露わになる。そこには、一帯に古い傷痕があるように思えた。しかし、薄闇の中それはただの影にも見えた。けれど、信じられないくらいに優しく、美しい眼差しだった。
そうして、夕焼けの中金色に見えていたその髪は、いつの間にか銀色に転じていた。
彼女は、一言だけ呟いた。
――マサゴ、と。
そうして、音も無く暗い色に変わった海にその体を滑らせた。少年は、ただそれを見つめていた。
「・・・こんな所にいたの?」
背後で母親の声が響いた。懐中電灯の光が少年を照らし出す。
「勝手に行かせたお母さん達も悪かったけど、まったく変な所ばっかり強情なんだから」
「・・・うん・・・ごめん・・・」
「あら、帽子見つけたのね」
「うん・・・」
「ともかく、無事で良かったわ。さ、戻りましょう。今夜は花火をするって言ってたでしょう?」
声は、砂浜を歩き、やがて消えた。
●
そのすらりとした脚は、なめらかな流線型に姿を変えていた。
けれど、それが水を蹴ることは無く。
静かに、ただ静かに水底へと沈み続ける銀の体。
それは、真魚の見た泡沫の夢だったのか。
――イサリヒコ・・・・・・、マサゴは、貴方に救われた命を、
貴方の命を、生きました。
また・・・貴方の腕に、抱(いだ)いてくださいますか?
また・・・貴方の御傍に、居させてくださいますか・・・・・・?
それは、あの日見た陸の花に似ていた。
見上げれば、闇をくり抜いたような円(まど)かなる月明かり。
海は、その差し込む淡い光を溶かし、静かにきらめき続ける。
やがて、潮の音が変わり、水面の影が音も無く色を変える。
月を溶かした闇色から、眼を灼くような、鮮やかな紅へ。
人知れず咲き誇る、紅(あか)の大輪。
それは、語られなかった物語。
水底に棲まう真魚の涙。
海へと還る生命の色を、優しく溶かす、紅(くれない)の花の物語。
ー終ー
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