かわらばんFRESH673

2016年7月17日


語り始めるのに何十年もの沈黙が必要だった(いのちのことば社)


      いま、平和の願い 語り継ぐべき戦争の記憶(前号よりつづく)
 
家族を探して

  明くる日、火はだいぶんおさまっていました。でも家族が心配なものでしたから、とにかく帰ることにしました。T字型の相生橋を通ったときに、南側の欄干が北側に倒れ北側の欄干がみな川に落ちていることに気付きました。家に帰りましたら、頭の骨が一つ、それから私は剣道をしていましたから、その剣道の面が一つ、その二つだけが転がっていました。


 私の家には、母方の祖父(呉に住んでいたのですが、爆撃でやられて、こちらに疎開してきていたのです)、母と姉と妹の五人で住んでいました。姉は陸軍病院に勤めていて、朝早く出て家にはいませんでした。妹は女学校一年生でしたが、ちょうどその時、病気をして休んでいました。


  ですからこの頭の骨は、母か祖父か妹のものかと思ったのですが、誰のものか分かりま
せんでした。頭の骨を持ち運ぶこともできませんでしたから、近くに落ちていた脊椎の骨
二つポケットに入れて、持って行きました。(中略)


 我が家では、空襲など何かあったら、岡山県の鴨方というところに父方の祖父の郷里がありましたからそこに集まろうということになっていました。それで、七日目(八月十三日)だったでしょうか、そこへひとりで何とか行ったのですが、お母さんか誰かいるかなと思ったところ、やはり広島に住んでいた父方の祖父が助かってひとりで いました。


 私は、一枚のシャツと一枚のズボンと、一足の靴しかなく、いわば着の身着のままだったので、その親類の家で着替えをもらって、風呂に入れてもらいました。
その晩泊めてもらってまた広島へ帰ってきました。

 八月十四日、終戦の前の日ですが、姉が勤めていた陸軍病院のあったところへ行ってみることにしました。何か分かるかもしれないと思ったからです。文字どおり跡形もなくなっていた病院跡に、数人の兵隊さんが いたので「原野と言いますが姉がこちらに勤めていたのですけれども」と言いましたら、「原野さん、ここから山二つ超えた戸坂というところで、小学校が陸軍病院になっているから、そこにいるかもしれないから、行ってごらんなさい」と言われました。それでさっそく行き、捜してみたのですが


  わからないのです。顔はみんな腫れているし、包帯も何もありませんから、そこらの布切れで傷のところを当てているものですから、だれがだれかわかりません。
 仕方がないので、帰ろうかなとおもいましたら、向こうのほうから「原野さ〜ん」という声がしました。
「原野ですが」と答えると、「あなたのお母さんと妹さんかも知れないから、行ってごらんなさい」と 。


 行ってみますと、廊下に担架に乗せられた母がいました。後ろから光を浴びたようで、両手と両足と背中の出たところ全部を火傷して、寝ていました。それから、妹は足を怪我して、動けずにいました。こういうところですから、薬も何もありません。そして、蛆が傷口の膿を食べに来ます。むずむず這ってくるその蛆を箸で取り除くのです。そんな状態でした。   
             
                 (次は忘れられない、三つのこと につづきます。)


   
 兄弟姉妹会(1)


 私の兄の提案で何年かごとに兄弟姉妹会をと、それぞれの伴侶と共に集まっていました。
静岡で集ったときは、兄弟姉妹5人の伴侶は揃っていました。数年前、広島・大久野島で集った時、兄は一人となっていました。この度は私も一人となって、仙台に向かいました。
 二人の弟と妹はそれぞれ伴侶を伴い、みんなで八人集いました。夫は一人息子でしたから、この兄弟会をとても楽しみに喜んでいましたよ。
 

      

 塩釜ともしびチャペル            妹と上の弟の妻と下の弟の妻


 私は村島牧師に迎えられ、まず“塩釜ともしびチャペル”に向かいました。妹から頼まれリードオルガンのメンテナンスのため立ち寄りました。無事、ごみをとり油を差したところに、兄の運転するレンタカーで
弟たちが来ました。北海道からの弟夫妻は、直接ホテルで合流。夜は、女性のみ四人で十二時頃まで
おしゃべりし、楽しい時を過ごしました。       K子
 



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