『私もまたイエスのように・・・』

西南学院大学教授 青野太潮先生
2002年6月30日(日) 礼拝説教


青野太湖教授
 

西南学院大学
 
(前文略)
 聖書の言葉も、訳によっては、全く受け取り方が違ってくる、ということについて話してみたい。
 先ほど、Tコリント2章の1から読んでいただきました。
「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。」この、「わたしも」は正確な訳である。
 1章26節「兄弟たち、あなたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。」これは、あまりいい訳ではない。
 召しそのものを考えてごらんなさい、ということで、召された時どうこうで、今どうこう言う意味ではない。
神の召しは人間的にみて知恵のあるもの、あるいは能力のあるものに対してなされているのではなくて、無に等しい者に与えられているとパウロは言っている。
 召しそのものの性格を考えてごらんさい、とパウロは言っているところが2章3節「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」
 この「わたしは」のところ「わたしも」と訳さなければならない箇所である。1節3節とも全く同じギリシャ語である。ところが「私もまた」と正確に訳している日本語訳は全くない。

 最近、岩波書店からパウロ書簡の訳を出しました。新約聖書全5巻で私は第四巻のパウロの手紙を担当したんですが、その中では「私もまた」と訳しておきました。唯一「私もまた」と訳されているのはこれだけです。
 英語も殆どこの訳はない。唯一3節「私もまた」と訳しているのは、ドイツ語のルター訳だけである。宗教改革者のマルチン・ルターは、何故そのように訳することが出来たのでしょうか。理由は後でふれます。

 何故「私もまた」と訳せないのでしょうか。そう訳すべきなのに、1節では「私もそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」 3節でも「私も衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」となると、他に誰がとなる。それはすぐ前の2節イエス・キリスト以外にはおられない。
 そのイエス・キリストを私と同じように、衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安であったと言ってよいのか、そういう訳にしない方がいいと言うことで、「私は」となった。1節では正しく訳し3節では強引に「わたしは」と訳した、2節の「十字架につけられたキリスト」というのも、いい訳ではない。
過去形で語られているのではなく、現在完了形で語られている。何が違っているのか。
過去形は、現在のことを語ってはいない。現在完了形は、まだ続いている。「十字架につけられた」過去形ではなく「十字架につけられた」現在完了形では継続している。
ギリシャ語では、もっと強く「十字架につけられてしまったたままでおられるキリスト」と訳さねばならない。
 1節3節では「十字架につけられたキリスト」という言い方をしている。現在完了形です。

 あと1箇所 ガラテヤ3章1節で、パウロは全く同じ言い方をしている。
 リント2・1,2・3とこのガラテヤの3回全く同じ言い方をし、3回が3回とも現在完了形を使っている。
日本の聖書では、共同訳の前は口語訳その前は文語訳であった。
 この文語訳は正しく訳している。「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顕されたるに、誰が汝らをたぶら誑かししぞ」と訳している。ガラテヤ3・1のみ文語訳は非常に正確に訳していたのに、残念ながら口語訳そして共同訳ですっかりそれが消えた。

「過去のある時点で十字架につけられたキリスト」というのではなくて、「復活して今、私と共に生きていてくださっているキリスト」という信仰をパウロは持っているし、その信仰をわたしたちは共有している。
その復活され、今私たちと共に生きてくださるキリストという言い方は、今も尚、十字架につけられてしまったままの姿でおられるということをパウロははっきり言っている。だから、十字架につけられたキリストが、私と同じように「衰弱し、恐れにとりつかれ、ひどく不安であられる」としても、そんなに不思議ではない。

マルチン・ルター
 

「十字架にかけられたまいしままなるキリスト」というのは、歴史的には正しくない。
 イエスは、確かに十字架につけられましたけれど、息絶えたあと,そこから下ろされ埋葬された。
 そこから復活されたと信仰は語っている。そうだとすると、十字架につけられたままの姿で今もおられるという表現は、非常に神学的な表現で信仰の表現です。
 パウロの信仰において、今生きていてくださる復活のキリストは、実に今も尚、「十字架につけられてしまったままの姿でおられるキリスト」である。

Tコリント2・3の訳を正確にしている人は,マルチン・ルターである,
「十字架の神学」という表現を歴史上初めてなした人である。
 彼は、当時のカトリック教会が理解していた
「栄光のキリスト」「栄光の神学」
 神は、栄光に溢れた方でそれを直接的にこの世に現して下さる方なんだ、私たちが祈れば神は直接的に栄光ある仕方でかなえてくださる。 ルターはその「栄光の神学」に対して「十字架の神学」を言い切った。
 弱さ・恐れ・不安そういう捉え方であった。

 

ルターの表現
について
<神の業>

 それが起こる時、必然的に隠されていて悟られない。
 それはまさに、我々の思いと認識とに正反対な層の下に隠されてあるであろう。(正反対な様相を呈している)
 神は、その業の第1として、原型であるキリストにおいて、このように取り扱い給うた。
 神は、キリストを栄光あらしめ御国に移そうとされた時、それとは正反対に死なしめ、辱め、地獄におとし貶め給うたのである。
 虚無的ニヒリスッテックに聞こえるかも知れませんが、ルターはこれを、勿論逆説として語っている。栄光あらしめ,御国に移そうとし給うたのです。その時に、彼を直接的「栄光の神学」で取り扱わず、正反対に死なしめ、辱め、地獄に貶めた仕方、神がキリストを取り扱おうとした仕方である。

※ 信徒である私たちはどんな存在であるか

 我々は信仰によって、神の肉性の中に生きているが、神はその肉性と人間性の中に生きている。
神はその肉性と人間性において、我々を統治し我々をご自身と同じ形にする。即ち、十字架につける。
それは不幸でありながら高慢な神々を、本当の人間 即ち悲惨と罪における人間にする、という仕方。
不幸でありながら高慢な神々とは、私たち人間のことを言っている。
 その神々を、本当の人間、即ち悲惨と罪における人間にするという仕方。
 
 この十字架は、我々が盗作した仕方で追い求めてきた神性を打ち砕き、我々が盗作した仕方で見捨ててしまっていた人間性と、蔑視されていた肉の弱さとを復権させる、もう1度それ自身が持っていた正当な位置に引き戻す。私たちが盗作した全く間違った仕方で求めてきた神性,つまり栄光は栄光なんだという捉え方を打ち砕き、我々が間違った仕方で見捨ててしまっていた人間性、蔑視されていた肉の弱さを復権させる


 唯、ルターは"神はキリストをも栄光あらしめようとしたとき、かえって辱め死なしめ地獄に落とされた。
 我々人間も同じく、十字架につける、悲惨と罪における人間にする、私たちが間違って追い求めてきた、栄光ある神の姿を打ち砕き、私たちが間違って見捨ててしまっていた人間性、蔑視されていた肉の弱さを復権させる"と語っている。
 ルターの結論も勿論、わたし達は肉にあって非常に弱いものであってもいいのです、ということではなく、肉の弱さにあって、そこにこそ神は働いてくださる。あの惨めにも十字架上で絶叫して死んでいかれた、あのイエス・キリストを復活させられた。
 それは直接肯定的な「栄光の神学」で捉えていたのでは決して分からないものである。ですから、復活して今生きていてくださるキリストという方は「十字架にかけられたまいしままなる姿をしている」とパウロは語っている。

 Uコリント13章4節「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱いものですが、しかし、あなた方に対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」
 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられた。だからこそ今、神の力によって強く生きておられるのです。しかし、それは直接肯定的な栄光を表すのでなく「十字架につけられたまいしままなる姿」で生きておられる.そのことが、即ち強さなのだ ということを表している。
 ですから,私たちもまた、キリストにあって(口語訳)、キリストに結ばれた者として(新共同訳)弱いものですけれども、だからこそ、あなた方に対して神の力によって、キリストとともに生きていく、強く生きていきます。
 何の躊躇もなく弱さの故に十字架につけられたと、パウロは言っている。
パウロがそう言えたのは、Uコリント12:7b〜10にある。

「わたしの身に1つのとげが与えられました。それは思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れさらせてくださるように、わたしは3度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。
 だからキリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、弱いときにこそ強いからでる。」

 わたしは、弱い時こそ強いというのは、逆説です。逆説は、ちょっと聞いた時、それはおかしいよ、違うよ,真理ではないじゃないですか? 普通一般の考えからすると、そう受け止めてしまうけど、よく考えてみるとなるほどそれは真理だ、という逆説的真理である。
 急がば回れ、負けるが勝ち、とか。急いでいる時は、慎重にゆったりした思いでしていくのが1番早道だ、そういう逆説的真理である。わたしは、弱い時に強い。神にあって、キリストにあって真理である。

ゲッセマネの祈り
 

エマオの途上

パウロは自分の肉体にとげがあると言っている。
 身体障害者だったのですね、そのとげをとって下さいと3度主に願いました。3度と言うのは、あのゲッセマネの園で、イエス様が3度祈られた。「この杯を取り除けてください。
 私は悲しみのあまり死ぬほどです」と。
イエス様の祈りも聞かれなかった。聞かれなかったかのごとくでありましたけれども、実際には逆説的ではありますが聞かれた。
 十字架につけられ絶叫して死なれたイエスでした。

神への抗議のような祈りだったけれど、神は"それでいいんだよ。あなたが十字架について苦しまないはずがない。だけど、「その苦しみの中に私の力を表しているんですよ」、という形で復活を与えてくださったわけですから、そういう復活の力がこの世の誰にでも見えるような、直接肯定的なものであるはずはない。
 キリスト教徒にとって、復活のキリストを世の人に伝えると言うほど難しいものはない。

 イエス様がここに来てくださり、我こそはキリストだよ信じなさいと言って下さったら簡単である。
決してそういうことはない。
ヨハネ20:29「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」とイエスはおっしゃった。
見て信じたら、それは信仰でない。そこにいらっしゃるのは分かりました、あなたがそこにいらっしゃるのを認めます、と言うだけで信仰ではない。信仰は、見えないものを見る、それが信仰である。逆説です。
 復活を語るとき、あまりにも、しばしば、イエスは肉をもって復活されている、堂々とした栄光の姿、力強い姿で復活し神の玉座にどっかりと座っている、そういう理解をしている。
それではどれほど本来の信仰から程遠いか。

 ローマ8:34「だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。」
"神の右に座っていて"残念ながら、この訳は駄目です。鉛筆を持っておられたら、この"座っていて"のところに×印をつけてください。鉛筆でと言いましたのは、私の後に来られた講師の方が"神の玉座に座っている"ということを、説得力のある仕方で説明された時は、それを消してください。
 ここは、"神の右に座っている"と書いてないのです。何と書いてあるかというと"神の右にあられて"としか書かれていない。なぜ神の右にあるというだけで、座っているということになるのか。
 それは、何故か、神の玉座に座っていらっしゃるという、前理解があるからである。
 パウロは全然そうは言っていない。復活された「イエスは今もなお十字架につけられたまいしままなる姿」をとって執り成してくださっているという理解をしている。

 

十字架上のいえす
 
8章26節「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。
私達はどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
 この"霊"は、聖霊のこと、復活されたイエスの霊のことです。
その霊は、弱いわたしたちを助けてくださる。
 私達がどう祈ったらいいのか分からない時、
霊自らが言葉に尽くせないうめきをもって執り成してくださる。
 27節「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。
"霊"は、神の御心に従って,聖なるものたちのために執り成してくださるからです。」

 神は、復活のイエスの思いが、どこにあるのかご存知である。その霊は言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる。言葉に表せないうめきをもって執り成して下さる方が、
 神の右にどっかりと座しておられる筈はない。イエスは、「十字架につけられたままなる姿」でおられる。私達が信じているイエス、復活されたイエスは、決して玉座にどっかり座って執り成して下さっている方ではなくて、今もなお、「十字架につけられたままなる姿」をして、私達と同じように、パウロが"弱くかつ恐れひどく不安であった"という自分の姿と重ね合わせることができる方であったということが語られている・・・・
 ということをしっかりおさえておきたい。

 今日、説教の題を「私もまたイエスのように・・・」と書きました。私もまたイエスに倣って生きていきたい、そういう思いでこの題を読まれたと思いますが、私がキリストに倣うものであるように、あなたがたもとピリピ3章でパウロは語られているが、そういう意味で言っているのではない。

 1年程前、仙台の日本キリスト教団川平教会の牧師・大沼隆先生が教会報「ひかり」に私のことを言及して下さっていた。

「倣うもの」

「使徒パウロは、私に習うものとなりなさいと言った。パウロは更に、私はキリストに倣うものであると言い放った。だから、あなた方もその様にと言うのである。さすがこの人にしてと、感服し圧倒される思いがする。
 あの敬虔なトマス・ア・ケンピスも、きっと中世末期の修道院でひたすらそのように生きたであろう。
「キリストに倣いて」 しかし私はたじろぐ。パウロに倣い、キリストに倣えば倣うほど、努めれば努めるほど、それは程遠い自分の姿を私は見る。その距離と断絶に、唯々気落ちするばかりとなる。

 そんな折、パウロ研究者・青野太潮の文章にふれた。パウロにとって、キリストの十字架は、唯々,贖罪を意味しているだけでなく、愚かさ、弱さでもあった。
 その十字架が、神による救いの出来事となったのは、丁度,悲しむ者、貧しい者、泣く者こそ幸いであると言う、あの逆説のように、唯、逆説的のみ成り立つのだ、彼はそう言う。
 この視点から、使徒パウロに倣うもの Imitatione Christiを再考すると、パウロやキリストを倫理的な模範として限りなく模倣して近づくと言う捉えかたではなく、私自身の弱さ惨めさを通して、キリストの十字架の弱さ愚かさに与かること、その死の姿にあやかりながら、何とかしてと言うその希望に向かって生きることになる。

 勿論、私たちは常にその優れた偉大な模範、お手本に見倣い、崇高ないき方を模倣する努力をおろそかにしてはならないだろう。倣うべき対象を倫理的模範として仰ぐことが悪いはずもない。だがパウロの模倣への勧めを、すでに救いを獲得した完全なものの声として聞くのではなく、後ろのものを忘れ前のものに全身を向けつつ生きている途上の人間の勧めと理解するなら、模倣そのものこそ私たちにとって慰めと安らぎとなるのである。

何故か? キリストの十字架の死が、贖罪と言う意味だけではなく、弱さ・愚かさでもあったように、私たちの人生の不条理さ、無意味としか思われない苦しみ、みすぼらしさ、弱さ愚かさを担って生きるほかないのが、人間の生の現実なのだから。
あの十字架が不当であったように、私たちの世界を生起している悲惨な現実も不当としか言いようがない。
 そんな中で、私たちはすでに救われたと安堵する信仰ではなく、キリストの苦しみに与かって、その死の姿にあやかりながら、何とかしてこの人生のかなたに希望を抱いて生きていく信仰、それがパウロの復活理解であり、そして皆一緒にわたしに倣う者となろうとの呼びかけなのである。
 キリストに倣いて、そのキリストは倫理的模範でなく、愚かさと弱さの究極となった十字架を通して、私たち1人1人の生に深く決定的に関わっておられる救い主なのではないだろうか。」

 こう言うふうに書いてくださっている。大沼先生のように理解すれば、キリストに倣うと言うことが私たちにとって慰めとなり安らぎとなる。
 何故なのか?それはキリストの十字架の弱さ、愚かさでもあったように、私たちの人生の不条理さ、無意味としか思われない苦しみ,みすぼらしさ、愚かさや、弱さを担っていきるほかないのが人間の生の現実なのだから・・・ ですから、キリストのようにと言う時、倫理的・道徳的存在になるというよりも、むしろ、私たちが倣うとか倣わないとか言う前に、すでにそういう者としておかれてしまっている。

 キリストと同じように生きることを決定付けられている。
 それを、パウロは、十字架につけられてしまったままの存在だといっている。
 ガラテヤの信徒への手紙に、パウロは、"わたちはイエスと共に十字架につけられてしまっている。
 やはり、現在完了形です。十字架につけられたままの姿をしている。この世に対して十字架につけられてしまっているのだ"と語っている。私たちはキリストにあるものとして、この世の不条理さ、無意味としか思えない苦しみ、みすぼらしさ、弱さ、そういうものを担って生きるように召されている。
 しかし、キリストにある逆説は、その弱さ・愚かさをも、本当の意味での賢さ・救い・祝福へと変えてくださるのだということを、私たちは聞き取っていくべきだと思います。

「私もまた、イエスのように・・・」 そのような時、私たちは本当に神によって与えられているこの生が、生きるということが、本当にいつも喜びに満ちた、溢れた、そう言うものであるということを信じておりますけれども、しかし、それがこの世的な意味でそうだということでは決してない。
 そうではなく、私の恵みは、今のあなたに十分なのですよ、何故なら、私の力は弱さにおいて完全に現れるのだから、というふうに言われた。復活のイエスの言葉を心にいつもしっかりと備えておきながら生きていきたい。

                     (後文略)   
                                                  文責 池田契子



青野 太潮 先生

現在:平尾教会協力牧師、西南学院大学神学部教授
教養学士(国際基督教大学)、文学修士 (東京大学)、
神学博士 (チューリッヒ大学)
 
授業担当科目 新約概論、 新約釈義、 新約神学、 新約原典、 外書講読、 演習、 キリスト教学

【著書】
Die Entwicklung des paulinischen Gerichtsgedankens bei den Apostolischen Vaetern
                          (Peter Lang Verlag, 1979年)
『「十字架の神学」 の成立』 (ヨルダン社、 1989年)
『見よ、 十字架のイエス』 (中川書店、 1991年)
『どう読むか、聖書』(朝日選書)(朝日新聞社、1994年)
共著、共同執筆、翻訳は多数あり