「賜物を生かして」


夏海夫人撮影による写真
 
西南女学院大学人文学部教授
苅田教会牧師

鍋倉勲先生






主日礼拝説教    2009年10月18日(日)
聖書 エフェソ人への手紙4章11〜16節
 


 
 
苅田キリスト教会
はじめに

 この度は御教会におかれましては村島潔先生の牧師就任按手式をお迎えになり、心からお祝い申しあげます。このような大切な日にお招きを戴きまして心から感謝いたします。御教会には岩永先生ご夫妻がお元気で伝道・牧会に励んでおられた頃何回か寄せていただきました。
 岩永先生ご夫妻との出会いと励まし、ご指導がなければ今日の私のクリスチャン生活、伝道・牧会の生活はないわけです。そういう意味で今回,無きに等しいものをお招きくださり、今は天にある先生ご夫妻のことを覚えて深く感謝いたしております。

 さて、始めに一つのお願いがあります。インドに伝道者として生涯を捧げえられたスタンレー・ジョーンズ博士は戦後日本伝道のため北は北海道から南は鹿児島まで10回ほど来日されました
 1971年が最後の来日となりましたがある日、当時西南学院大学神学部長でありました尾崎主一先生から呼ばれて今回の伝道集会でスタンレー・ジョウーンズ博士の通訳をしてくれよう推薦したいと言う要請がありました。 最初は躊躇していましたが「君にとってもきっと有益で学びの機会になるだろう」と励まされてお引き受けしたのでした。私の担当は広島、四国、北九州市の超教派による合同集会での奉仕でした。

 スタンレー博士は集会の始めに必ず三本指を高く上げて「イエスは主なり」と信仰告白を奨励して説教をされていました。四国の松山でのこと、時の日本のアシュラム運動のリーダーであった榎本保郎牧師と私に日本の教会でもこの運動を広めて欲しいとのお勧めがありました。

 早速集会の奉仕を終えた時、鳥飼教会にも諮りました。初代牧師のギャロト博士も賛同者だったことも手伝って受け入れられ、私の在任期間中は続きました。1993年アメリカへ再留学した折も小倉春が丘教会に協力牧師に招かれたおりも、現在牧師として仕えている苅田教会でも毎週の主日礼拝で取り入れております。
 今朝、御教会ではいかでしょうか。有難う御座います。それでは、ご一緒に「イエスは主なり」感謝いたします。
  
 さて、昨晩ホテルで池田先生から御教会の本日の週報を頂きました。部屋に落着いて早速拝見しました。巻頭言に掲載されている黙示録からの解説を熟読しながら私たちが神様に礼拝を捧げる意味が分かりやすく解説されていて祝福に与かりました。丁度、真ん中ほどの欄に、私たちが如何にしてキリスにあって生きることの喜びが黙示録7章に明示されています。


 地上における鍋倉先生ご夫妻
最後の写真

 岩永牧師夫妻
台湾伝道旅行にて
先に天に召された岩永先生ご夫妻、先輩のクリスチャンたち、私のライフパートナーでありました夏海のことなどを偲びながら感謝の思いで床に着きました。

 今朝、少々早く起きて平和公園に散歩に出かけました。アジアからでしょうか色々な言葉で話しながら散歩している人、祈りをささげている人々もありました。ホテルに帰って今日の聖書と先ほどの週報にもう 一度目を通したのですが、今日の礼拝はこれで十分ではないかと思いました。
 しかし、折角お招きをいただきましたので今日のために与えられた聖書の箇所から「賜物を生かして」という主題のもとに聖書の光に照らされながら主の御心を求め、共に考えてみたく存じます。

 テキストのエフェソ人への手紙4章11節から16節を読んでまいりますと使徒パウロはまず11節でエフェソの教会宛に「ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師としてお立てになった。」と書かれているのです。私たちが自分でなるのではなく、神がお立てになるのです。その目的は何でしょうか。4章の12節、13節に明確にその答えが述べられています。

「それは,聖徒たちをととのえて(原語では軍人を戦場へ送る時に訓練して整えるのと同意語)奉仕のわざをさせ、キリストのからだ(教会)を建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さまでにいたるためである。」と奨励します。換言すれば神が私たちを選んで立ててくださり、無きに等しい土の器を磨き上げ、訓練して神の奉仕の業に適したものとして用いようとされるのです。

 このようにして神はご自身の教会を造り上げるためにクリスチャンを選んでご自身の業をおすすめになります。世間では一般的に教会と言えば教会堂の建物と考え易いのです。
 しかし、神の教会は建物のサイズや教会員の多少はその本質においては関係ないのです。言うまでもなく大きな礼拝堂を持ち多くの信徒に恵まれていることは喜ぶべきことでしょう。しかし、それが教会評価の決定的な基準とはいえません。そういう視点から言えば長い伝統のある教会、立地条件のよい教会、案内チラシや葉書一枚出さなくても毎週のように新来者のある教会も事実あります。

 その意味では私の場合、神学校卒業以来どちらかと言えば恵まれすぎたようにも思われます。卒業と同時に就任した東京の大井教会では礼拝出席も150名から200名に向かう上昇期でありましたし、2年後の品川への開拓伝道も株分け方式で最初から30名位の信徒と共に転々と会場こせ変わりましたがスチュワードシップ面でも豊かに祝され二年目には教会組織となりました。
 しかし、それは当時の品川教会の信徒の中に大事業家や特に裕福な信徒がいたかではなくクリスチャンスチュワードシップの課題をライフワーク、自分に与えられた使命として熱心に打ち込んだ執事がおり、そのことに献身して全国的に奉仕しておりました。そこから殆どの信徒たちが立ち上がって献金にも励み、土地が狭かったこともあり、鉄筋コンクリートの礼拝堂も2年目のクリスマスに立ち上がり、クリスマス礼拝を新会堂で守れた喜びの思い出が蘇ってきます。

 1965年連盟の推薦で、米国留学試験を受け幸いにも合格して、ケンタッキー州ルイヴィルにある南部バプテスト神学校へ入学しました。
 アメリカでは最初、車もなく神学校の最も近いクレセントヒル教会に教籍を移して、礼拝を中心に諸活動にも参加しました。主日礼拝は1000人前後の信徒が参加し、神学校の教授家族や事務スタッフの家族や神学生家族も多く、夕礼拝、水曜日の信徒訓練会、祈祷会などすべて驚くことばかりで、よい学びともなりました。夏海は積極的に教会学校や聖歌隊に入ったりして奉仕の生活をエンジョイしていました。

 5年間の学びを無事終えて1970年の8月に帰国しました。鳥飼教会から招聘を受けて受諾しておりましたので早速9月から牧会に着きました。そのころ、日本では教会闘争、神学校でも学生によるストライキがあり、まさに私には浦島太郎の感がしました。1971年度の春頃から徐々に学園も収まりましたが大事な神学生(献身者)を多数学園から失くしたことは誠に残念で今でも心が痛みます。
 それでも1970年9月から1993年8月までの鳥会教会での伝道・牧会生活には楽しい思い出が沢山あります。そこには成熟した信徒も多く育てられていました。まず手を着けたのが教育館の建設でした。アメリカの南部バプテスト教会の成長・発展の背後に教会学校の果たす役割が多大であったことを学んで帰国したからでした。

 鳥飼教会はギャロットご夫妻やキャンベル先生など宣教師等の影響で教会教育・信徒訓練が盛んで教育館の必要を感じていたことも幸いでした。会員同士が心を合わせて祈り、「賜物を生しあって」取り組みました。当時としては容易ではなかったのですが、3300万円の費用も満たされたのです。                                
 1993年9月から短期再留学のため同年8月に教会を辞して度米しました。今回は客員研究員という立場でしたので午前中は好きな授業やゼミに自由に出席し、午後は市内のホスピスやホームレスのシェルターの見学、参加で実践面での学びを積みました。この期間中、新約学の教授のご配慮で奨学資金が与えられて夫婦揃ってイスラエエル研修旅行に参加する機会を得たことは忘れがたい恵みとなっています。

西南女学院チャペル
 

 先にも少し触れましたが1994年4月、帰国と同時に新しく開学したばかりの西南女学院大学からの招きに宗教主事・キリスト教学担当教授として赴任しました。
 同年4月から専任牧者のいなくなった小倉春が丘教会からの要請に応じて、協力牧師をつとめるようになりました。
 この教会は伝道の視点からも環境的にも恵まれ、信徒の群れも熱心で希望に溢れていました。
 1999年の3月、やっと専任牧師を迎えてほっとした頃、苅田教会から同様な状況が起こり、当時この教会の活動会員は数名でしたが、礼拝には西南女学院の中・高生が20名近く参加していました。
 当時は中・高生は日曜日の教会礼拝出席が義務づけられていました。
彼女たちが牧師辞任とのことで不安がっているとのことで、学院の宗教主任をしていた私は要請をうけて協力牧師となり、退職後牧師として今日も苅田教会に仕えております。現在の祈りと課題は、来年のクリスマスには新会堂建築を目標に励んでいます。


 このビジョンを発議し、熱心に取り組んでいた代表執事の松下ツイ子姉や我が家の夏海、さらに中山幸子姉と次々と天に召されていきました。
 苅田教会にとって、大きな試練と同時にチャレンジの時を迎えています。現在、苅田教会は小さな教会ではありますが、キリストの教会ですから主の御業が遅々たる歩みではありますが続けられています。
 私は苅田教会に遣わされてはじめてゼロから開拓伝道に従事し、苦闘しながらキリストの教会を立て上げていかれる伝道者・牧師たち深い尊敬の念をもって拍手を送っています。


佐世保バプテスト教会
 
 佐世保教会時代の岩永牧師ご夫妻の教会形成を目指して、忠実に主に仕えて歩まれた姿を拝見しながら尊敬の念を抱き、そこでご指導を仰ぐことになりました。最初、小さな家庭集会から始まりました。ご夫妻に学んだことは熱心な祈りと足を使っての積極的伝道でした。正しく羊飼いが迷える羊を探し歩くように、本当によく歩かれました。

 今日の佐世保教会の存在は、ご夫妻の祈りと実践を神が祝してくださった証の足跡です。今ひとつは、神に選ばれた信徒たちがそれぞれ各自に与えられた賜物を生かして主に従った時、主が岩永牧師 を用いて教会の業へと巻き込んでくださったことです。

 
 池田定男先生方は、若い時から開拓伝道の当初から岩永牧師夫妻の手足となって奉仕しておられました。私など単なる客のような態度で教会の業に打ち込まなかった状況を恥ずかしく思います。ただ弁解がましく申しますと、当時二人の夫人宣教師が経営していたWorld Mission to children(世界児童伝道団)という混血児のための福祉施設ではたらいていて、十分教会の仕事に打ち込めなかったという事もありました。

 佐世保はアメリカの海軍基地で軍人たちとの交渉などで少し手助けをしたり、チャプレンの礼拝説教の通訳として用いていただいたことは恵みでもありました。そのことは後の神学校時代の学びや留学時代の大きな助けともなり、今でも感謝しています。

 さて、本題に返りましょう。使徒パウロは「教会はキリストのからだであり、キリスト者はその肢体である」といっています。キリストの肢体としてしっかりと連なっているものは、不安なものは何もないと言うのです。16節以下において独りで出来ないこともキリストの体につながっているならばお互いに助け合い、補い合ってそれぞれ分に応じて賜物を生かしあい、すべてが益となって働き、体を成長させ、自ら愛によって体は作り上げられていくと勧めます。一つのからだと多くの肢体が有機的に働きあう関係を、人間の体の各部分の働きになぞらえて、実に明快にキリスト教会とクリスチャンの生きた関係を語ります。

「キリストの体としての教会にとって誰一人不要な人はありません。それぞれ与えられた異なった賜物を生かし合えばよいのです。人間の内的、霊的な問題も同じです。26節以下において使徒パウロは「一つの肢体が悩む時はともに悩み、また一つの肢体が尊ばれると他の肢体も共に喜ぶ。」といっています。

上智大学の名誉教授デーケン博士は、よくドイツの有名な諺を紹介されます。
「喜びを分ち合えば二倍になり苦しみを共に担えば半減する」と。共感を覚えます。


 私は先の佐世保のミッションに在職中は7〜8人の女性の働き人の中で男性はただ私だけでした。数字的に言えば無きに等しいものでした。しかし、ミッションの働きにとっては、必要とされていたことを今でも喜んでいます。そのことを思い出す時、先日の大村教会の丸田牧師の就任・按手式に招かれていった時、素晴らしい一枚の絵をいただきました。これが永井隆博士による作品のコピーです。

 ご覧下さい。実に含蓄のある作品で感激しました。ユーモアに富んでいます。この豚の絵の中で描かれている小さなシッポは無視できません。これがなければ絵にならないのです。

 この絵が傑作品となるためにはシッポが一役買っています。永井博士は題して「シッポも一役」と銘打っています。私たち一人ひとりのクリスチャン(信徒)はキリストの体なる教会にとって正しく豚のシッポのような存在かもしれません。しかし、主の目には尊く価値あるものとされ、キリストの十字架の犠牲によって(代価を払って)贖われている存在なのです。

 キリスト福音を伝える使命を与えられています。鳥飼教会で就任後、最初の仕事は教育館の建設でした。それは地域の人々が日曜日の主日礼拝だけでなく、いつでも教会に足を運び、福音に触れる機会を与えようとする場を提供することでした。会員の中には様々な賜物を持っている人が多くいて全年齢層の人々が参加できるようなプログラムを提供し、その活動は現在も続いています。

 御教会におかれましては岩永牧師、池田牧師両先生方が一貫してこの地を愛し、開拓し、地域の方々に仕えて来られました。今回、村島潔先生を三代目の牧者としてお迎えになりました。この機会に会員お一人お一人が再献身の思いでご自分に与えられた賜物を主に捧げ共に生かしあって主に嘉される教会を立て上げ、益々神の栄光と人々の救いの為にお励みくださいますよう期待し、主の御祝福をお祈りいたします。 

                                            文責  池田契子