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06/10/03 | 現実感がない。 疲れ切って、さらに風邪気味なのでそうなのだろうか。 以前にも書いたのだが、過去がうまく思い出せない。 いや、思い出せても、手応えがない。 自分はこの二十数年間何をしてきたのか、これをしたという皮膚感覚がない。 ひょっとしたら、自分は死に近いのではないかと思ってしまう。 と、夕飯を食う前は思っていたのだが、夕飯と酒を口にしてしまえば、そんなことも切実ではなくなってしまう。 手ざわりがないのは変わりはしないのだけれど。酔いのおかげなのか、どうなのか。 「現代詩手帖現代詩新人賞」は、一次選考にも漏れてしまった。 六百あまりの応募から、数十が予選通過という、たぶん十分の一の選考だったようだ。 選に漏れたことは口惜しい。 私の詩が、どれだけ特殊であるかということであろう。 悔しまぎれのへらずぐちではあるが、 私は言葉によって何かを描こうとはしていない。 言葉をつづることが、何かを指し示している。 「指が月をさすとき、愚か者は指を見る」と言うが、 私はその指を描いているのだ。 私が言葉で描いている世界は、じつは私の伝えたい世界ではない。 言葉の重なりがもたらす「響き」だけが、私があなたに伝えたいすべてだ。 これまでもここに書いてきたが、 私たちが気をつけなければならないことは、 言っていることが正しければすべてが正しいと思いこむことだ。 言っていることが正しくとも、言い方が正しくなければ疑わなければならない。 平和を神聖視する思想が、戦争を神聖視するのと同じ言い方で語られるならば、 私たちはその平和を疑わなければならない。 詩、というより、言葉は、 言葉が指し示す何かよりも、 指し示すその指の形にすべての思想が表れているのだ。 私たちは、たとえば高村光太郎や三好達治たちの「戦争協力詩」を弾劾するが、 私たちが相手にすべきは、言葉の重なりが何を伝えているかなのだ。 戦争協力者はいかようにされて排除されてもかまわないというのが、平和主義者の言であるなら、平和主義者と戦争協力者との間にどれほどの差があるというのか。 だから、私は言葉が指し示すものをそれほど信じはしない。 言葉がどう使われているかだけが、言葉の重なりが伝える「響き」だけが、 私の信じるほとんどである。 今回落選はしたが、信号は発した。 誰が信号を、信号として受け止めてくれるだろう。 傲慢ではあるが、そのことで、日本の現代詩が問われているのである。 かなり傲慢であるけれど。 |
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