私がポストポリオを知ったのは

  私がポストポリオを知ったのは平成11年9月21日、読売新聞の記事でした。「ポリオ後症候群」の文字が目に飛び込んでしばらくは、内容を読むことも出来ずなぜかドキドキしていました。ポリオのことがなぜ今頃こんなに大きく載っているの?「幼児期に感染30−40年後に新たな障害」えっ!どういうこと!もしかして.....

  そこには、今まで悪くなかった手足にも筋力低下や関節痛などが起こるということが書かれてありました。すでに5年ほど前から左手の肩から肘までが上にあがらなくなっていた私には実に衝撃的な記事でした。肩から肘までは肋骨に張り付いた感じ。手首のところは勝手にピクピク動く。少し指を使うとすぐ震えてしまう。手を握っても一生懸命力を入れようとすればするほど、どこからか力が抜けていく感じ。おかしいとは思いながらもポストポリオなど知らなかった私は、また側弯がひどくなって、腕をあげると体全体のバランスが崩れるようになってしまったのか、と勝手に思い込んでいたのです。幸い指が動けば仕事にはほとんど支障がありませんでしたので、震えがひどい時は、左手は机の下で回復するのを待って使っていました。そんな中で知ったポストポリオのこと。私の左手はもしかしてこれだったのかも......謎が解けた気がしてちょっと安心したところもありました。記事にはポリオ会への連絡先がありましたが、今ここで連絡してしまうと精神的に甘えてしまう気がして、どうしても出来ませんでした。とりあえず左手はあまり使いすぎないようにすればいいのだ、ということがわかっただけで満足。新聞は切り抜いてお守りのつもりで大事にしまっておきました。

  じつはその頃、ほかの症状もいろいろとあったのです。何をしてもすぐ疲れてしまう。人と話をしていてもだんだん声を出すのが疲れてきて、気が付くと小さな声になってしまうなど....でも左手に異常を感じはじめた頃から動悸・頻脈(原因は不明)のお薬を飲んでいましたので、そのせいかもしれないとも思っていました。症状は時々だし、すぐ回復するし、きっと精神的なものだろう。もっとしっかりしなきゃと思って頑張っていました。しかしその後、体のだるさに耐えられない日がだんだん増えてきました。どんな風に表現すればよいのか、アルコ−ルを飲んだ時のようにだるくて眠くて頭はボケていてという感じでしょうか。(もともとアルコ−ルには弱いので適当な表現かどうかわかりません。ごめんなさい。)お風呂に入りすぎた時といった方が適切でしょうか。時に激しい頭痛もありました。それでも病院へ行くとどこも異常はないと言われましたので、やっぱり精神的に弱いのだと思うしかありませんでした。なぜなら、これらの症状が一日中続くということがほとんどなかったからです。例えば朝は体中の力が抜けた感じで、どんなに頑張っても動けない状態。仕事を休んでいると午後はすっかり回復したり、逆に朝は元気で仕事に行くのですが、ある瞬間から全身の力が抜けて同僚との会話も辛くなる、そんな不思議な体でしたので、やはり自分は精神的に弱い人間だと思わずにはいられなかったのです。こんなことではいけないと、仕事以外のことも積極的にやりました。何もかもそれまで以上に頑張りました。しかしわずか1年で限界は訪れたのです。平成12年9月、とうとうお守りの新聞記事を出してきて、ポリオ会にはじめてお手紙を書きました。(電話でもよかったのですが勇気がありませんでした。)本当はたくさんたくさん書きたかったのですが、弱い自分を出すのが嫌だったのと、それでもなお、今までどおり働きたい、という気持ちが強くありましたので、お手紙はほんの短いものになってしまった記憶があります。

 すぐにポリオ会の通信が送られてきました。そこには新聞には書かれていなかったポストポリオの症状、同じ様に頑張ってきた人たちの体験談、これからどのような生活をすればよいかなど、たくさんの情報で溢れていました。そしてはじめてこの疲労感が精神的なものではないこと、休むことに罪の意識を感じなくていいこと、頑張らなくていいことを知ったのです。私はやっと決心がつきました。あと半年正社員として働いたら、その後はパ−ト職員に変えてもらって、無理しない程度で働くことにしよう。

  ところが私の体はその時すでに限界を超えていたようでした。今まで異常を感じなかった右手からだんだん力が抜けてきました。(左手の時と同じです。)仕事中スタンプを押そうとしても震えて位置が定まりません。勝手にピクピク動く攣縮も出てきました。何をしてもすぐ疲れてしまって、仕事をする以前に一日中車イスに座っていることさえ苦痛です。とにかく横になりたくて、お昼休みは買い物に行くふりをして自分の車の中で休む毎日が続きました。声を出すことがつらくて、心の中ではなるべく私に話し掛けないでって叫んでいましたが、そうはいきません。そのうち電話の会話では相手に聞き返されることも出てきました。首のところもピクピク動くようになり、皮膚の下で勝手に虫が動いている感じがして、夜もよく眠れませんでした。頭を支えているのも重く、フラフラと傾いてしまいます。頭痛がひどくなると顔や歯まで痛くなることもありました。以前にも増して、あらゆる症状がひどくなり、現れる回数もあきらかに増えてきました。職場から自宅までは車で30分なのですが、車イスを助手席の後ろに積み込んで、ドアを閉める。そのまま1時間ほど車の中で休まないと帰れない日が続きました。やっと車を走らせても15分ほどでまた疲れてしまうので、本屋さんの駐車場でしばらく休んで帰る。次の信号が赤信号で止まれますように、(止まっている間少しでも休めるから)と願いながら自宅までたどり着く、そんな毎日でした。帰宅するとへとへとなのに、両親にはそのことを気付かれたくなくて、わざと元気を装っていました。幼い頃から人には甘えず何事も自分の力で頑張るように、そう言われて生きてきた私たちの親もまた、同じ様に頑張ってきたことをなによりも知っているだけに、つらく苦しいことはとても言えないのです。無理をしてはいけないことはわかっていながら、明日は今日より楽になっているかもしれない。だからもう一日頑張ってみよう。今日は昨日より少し楽だった気がする。これだったら明日も頑張れるかも知れない。毎日、毎日がその繰り返しでした。目には見えないけれどとても大変なものと戦っている気分でした。とにかくあと3ヶ月あまりもってほしい............でもそんな気持ちとは裏腹に私の体は日一日と耐えられなくなっていく............いったい私はどうなるのだろうか..........。平成12年12月14日ついに私はもうこれ以上頑張れない自分を受け入れることにしたのです。

  ポストポリオを診ていただける病院へ行きました。先生はもうこれ以上頑張らなくていいからとおっしゃってくださいました。職場の上司にも理解していただけるように、先生のほうから直接お話してくださったりと、精神的にも本当に助けていただき感謝しています。

  これで楽になれる。ハズでした。ところが私の体はその後どんどん進行してしまうのです。年が明けて平成13年1月4日安静と廃用防止のリハビリのため1ヶ月の予定で入院しました。入院前は右手の痙攣は指先だけだったのが、腕をあげると余計に震えが強くなってきました。日常生活のほとんどを右手だけで済ましていましたので、その右手が使えなくなることはとても不便でした。またある朝起きると舌の動きが悪くなっていて「らりるれろ」が言いにくくなっていていました。「ありがとう」が「あいがとう」としか言えないのです。ある日はストロ−が吸えなくなっていることに気づきました。休めばよくなるはずではなかったのか....私の体はこの先どうなるのだろうか不安な毎日でした。

  そんな入院中のある日、朝目覚めた瞬間から体中が重くだるく食事も出来ない日がありました。いつものようにリハビリの先生が来られて、ぐったりしている私の背中を何度か押してくださいました。すると体中に溜まっていた空気が抜けていった感じがして、さっきまでだるかった体がずっと軽くなって、ボ〜としていた頭がスッキリし、眩しくて開けていられなかった目は、はっきりと物を見ることが出来るようになりました。思わず「何これ」と叫んでしまった私の声は、自分でも驚いたくらいとても大きくてしっかりしていました。そして「今までこんな呼吸したことがないです。みんなこんなに楽な呼吸してるのかなぁ」と言ってしまいました。リハビリの先生は「そうよ。これが普通の人の呼吸の感じよ。」って教えてくださいました。「手や足の筋力も大事だけど、最後は呼吸が一番大事だから、少しでも自分で呼吸できる力を残しておきましょうね」とも言われました。はじめて知った呼吸障害のこと。自分がちゃんと呼吸していなかったことに気付いてもなかった私。この時痛切に感じました。仕事なんてしている場合じゃない。

  私は吸気(息を吸う)よりも、呼気(息を吐く)が弱く、BiPAP(バイパップ)という人工呼吸器も使ってみましたが、この呼吸器では私の呼吸が弱すぎてうまく感知できないらしいのです。ですから今は、4人のリハビリの先生が毎日交代で私の呼吸を介助してくださっています。新しい体外式人工呼吸器(イギリス)のHayek oscillatorが私に合いそうですが、日本ではまだ使用認可が下りていないため使うことができません。早く日本での認可が下りて使えるようになるまで、せめて今の状態を維持できていればいいのですが、呼吸する筋力は疲れたからといって休める訳にはいかず、なかなか難しいところです。

  最近ふと思い出したことがあります。そう言われてみれば幼い頃、肺を鍛えるために歌をたくさん歌いなさい、と聞いたことがあるような....。徐々に落ちていった筋力に気付くことなく、呼吸というものはこんなものだと思っていた私。この疲れかたは異常だと思って病院へは行ったものの「どこも悪くないです」「ところで足はどうされましたか?」「ポリオです。」「そうですか。」これで終わってしまうと、やっぱり頑張るしかないかって思うしかなかった私。せめてお医者さんがポストポリオのことを知っていてくだされば、ここまで進まないうちに何とか手だてがあったような気もしますが、これも私の運命だったのだと思うことにしています。なってしまったものは仕方がないですから....

  結局半年あまりの長い入院生活を送ってしまいましたが、今では理解のある優しいお医者さまとも出会えましたし、リハビリの先生方も本当に熱心によくしてくださいますので、その点ではとても幸せに思っています。

<最後に自己紹介>

  昭和38年11月生まれ。生後11ヶ月でポリオに感染。はじめは両足だけだったのが、数日後、手もだらんとして動かなくなってしまったのだが、1週間ほどで手はだんだん動きはじめ、やがて完全によくなったとのこと。(今となっては、この時が回復期だったのだなぁと思われます。)足のほうはといえば、両足に全く力はありませんでしたが、膝のところが後ろにうんと反った状態でしたので、つっかえ棒の役目をはたしていて、見かけは松葉杖で歩く?ことが出来ました。本当は、立つとか歩くという感覚ではなく、全体重は常に腕で支えられており、腕が疲れると脇で杖によりかかり、そのうち手がしびれてくるとまた腕で突っ張る、その繰り返しです。前に進む時はからだをゆすって、全体を引きずりながら前へ進みます。靴の先はいつもすぐに擦り減ってしまいました。常に不安定な状態で、誰かに少しでも触れられると、すぐバランスを崩して倒れてしまいそうな感じで、いつも神経がピリピリしていました。そんな状態ではありますが、中学までを普通校で過ごしました。

  その後養護学校高等部に進学。時代遅れのポリオだった為に、同じ障害の人と出会えなかったのは残念でしたが、精神的にはずいぶん楽な3年間を過ごすことが出来ました。しかしその頃から膝が少しずつ反らなくなってきて、つっかえ棒としての役目をはたさなくなってきてしまったので、車イスを使うようになりました。ついでにかなりの側弯もあります。

  じつは、音楽が好きで4歳からピアノを習っていましたので、将来は自宅でピアノ教室くらいはできるだろうという考えもあり、短大の音楽科を卒業しました。今ではピアノの鍵盤は重すぎて、とうてい無理な話になってしまいましたが、とても楽しい2年間を過ごしました。そして短大卒業と同時に金融機関に就職が決まり、車の免許を取ったのもその時です。

  昭和59年4月から平成13年3月までの17年間(今回の入院中に退職願を提出しました)社会へ出て働いたということが、何より今の私に大きな自信を与えてくれています。最後は少し頑張りすぎたかなとも思いますが、決して後悔はしていません。この先どんなに大変なことがあっても、ポリオ会の皆様と知り会えたお陰で頑張っていけそうです。これからもよろしくお願いします。

平成1311

次 へ     その他メニュー     トップ・ページ