ウィリアム・ダフティの“イマジン”

ウィリアム・ダフティをご存知ですか? ウイリアム・ダフティは、1970年代にアメリカでベストセラーとなった『シュガーブルース』の著者です。この名前に聞き覚えがある人は、日本語版『砂糖病』を読まれたかもしれません。ウィリアム・ダフティは桜沢如一の著作を翻訳するなど、アメリカにおけるマクロビオティック運動の黎明期に、彼独自のあり方で運動に関わりました。今回は、マクロビオティック実践家でもあったウィリアム・ダフティについてお伝えします。

1960年代の出会い

彼の名声を高めたのは、いうまでもなく著書『シュガーブルース』です。これまでに百六十万部以上売り上げたこの本は、1975年にアメリカで出版されました。ダフティはそれよりも前、マクロビオティックがアメリカでまだあまり知られていなかった1960年代初頭に、いち早くその教えにたどり着きました。そしてその教えが、彼自身が抱えていた問題を解決する啓示になりました。彼の問題とは、砂糖病です。

ダフティは若い頃から甘いものに目がなく、第二次世界大戦の軍隊生活のなかでも、麦芽乳、チョコレート、パイ、コカコーラを貪り、除隊後記者として働き始めてからも色々な病気に悩まされていました。1965年夏、ダフティは桜沢如一に出会います。そのとき桜沢はこういったそうです。「アメリカが北ベトナムに本当に勝ちたいと思うなら、アメリカは砂糖やキャンディやコカコーラを詰め込んだ酒保を北ベトナムに落とす必要があるね」

1965年といえば、桜沢が逝去する一年前です。晩年の桜沢は「世界武者修行」と称して世界各地を講演に回っていました。1960年代に入ると、桜沢はアメリカ合衆国に逗留することが増えました。アメリカでは東海岸と西海岸でそれぞれ元塾生の久司道夫と相原信雄がマクロビオティック運動の拠点を築きつつあり、それに合流するかたちで桜沢も普及活動に邁進します。

桜沢は1960年に著書『ゼン・マクロビオティック』をアメリカで出版します。アメリカでの桜沢の存在は、1963年に三白眼の危険を説いたことでも知られるようになります。三白眼は、ご存知のように観相で不吉な運命を予想させる凶眼です。その例として彼があげたのが、時の大統領ジョン・F・ケネディでした。ケネディ大統領の危機を指摘した桜沢のインタビュー記事がヘラルド・トリビューン紙に掲載されて三ヶ月後、ケネディ大統領は暗殺されます。ダフティは桜沢の著書『あなた方はみな三白だ』を翻訳し、それは『You Are All Sanpaku』として1965年に出版されます。

もうひとりの恩人

この頃、ダフティはもうひとり、彼の人生を変えた人物に出会います。その運命的な出会いのようすは、『シュガーブルース』の冒頭で「むかしむかし私がまだどうしようもない蔗糖中毒だった頃、グロリア・スワンソンが私のせいで角砂糖と一戦を交える、という忘れ難い事件が起きた」という一文とともに描写されます。それはニューヨークの日刊記者が集う記者会見場で偶然ダフティの隣に座っていたグロリア・スワンソンが、ダフティがコーヒーに角砂糖を入れようとしたときに鋭い口調で、「砂糖は毒よ。私の家では使わないわ。私は欲しくありませんからね」と警告したできごとでした。

グロリア・スワンソンについて紹介しておきましょう。グロリア・スワンソンは、無声映画時代のハリウッド女優です。17歳でデビューし、20歳代にはハリウッドを代表するスター女優になります。ファッションリーダーと目され、数多くの男性と浮名を流し、事業を興し、自ら映画を製作するなど、常に能動的な生き方でその存在感を示してきました。1950年、彼女が51歳のときに、映画「サンセット大通り」に主演、その衰えぬ美貌と役者魂でみごとに返り咲きます。

グロリア・スワンソンにはもうひとつ、自然食実践家としての顔がありました。20歳代の終わり頃体調不良を食事療法で治療する医師に診てもらったことから、菜食主義者になりました。人と同じものを食べず、撮影現場に自分の食べるものを持参したそうです。そのときもミス・スワンソンは記者会見場でだされた昼食メニューの黒パンと牛肉の燻製のオープンサンド、粗製ライ麦黒パンとサラミのオープンサンド、コーヒーにはいっさい手をつけず、持参した無農薬の果物をひとつ口にしただけでした。彼女はその果物をダフティに分けてこういいます。「並大抵のことじゃないけど、これはひとりひとりが自分で気づかなければならないことだって今は悟っているの」

このグロリア・スワンソンとの一件以来、ダフティは砂糖を口にすることをためらうようになります。そして遂に、自らが砂糖中毒であることを発見します。そしてすぐさま砂糖をやめる行動を起こします。家にあった砂糖と砂糖の入った食べ物をすべて捨て、完全穀物と野菜だけを食べるようにしました。するとほどなく禁断症状に襲われ、のたうち回って苦しんだ末に、すっきりとした感覚で目覚めます。マクロビオティックの教えに基づいた食事によって体重は自然に減り、ダフティの肉体はよみがえります。

砂糖病から生還したダフティは、人類史的見地から砂糖についての考察を深め、一冊の本に結実させます。その本「精製砂糖―何にもまして甘い毒―」と帯文に記された『シュガーブルース』は、大衆に砂糖の危険への目をひらかせただけでなく、文明のあり方までも考えさせる深い内容となっており、栄養関連の古典的名著として現在も販を重ねています。

1979年、『シュガーブルース』の日本語版が出版されます。その序文のなかでダフティが披露した印象深い話は、次のようなものです。あるとき四世代が一同に会した家族団らんのなかで、ダフティは彼の母親の曽孫に当たる2歳のマークに「抵抗しがたい絶対的な魅力」を感じます。何か特別なところがあると思われるその子は、実は生まれてこのかた砂糖をまったく食べていませんでした。マークの母親がマークに砂糖を食べさせなかったのは、むろんダフティの著書があったからです。

彼の言葉を引用しましょう。『…この私から彼らは学ぶことができたのだ。そして、私たちはみな、そうしてよかったと思うことができたのだ』さらに『私がこの私の家族の喜びに溢れたまろやか団欒を語ったのは、この喜びを日本のみなさんと分かち合いたいと思ったからであり、またとりわけ、あなたがたの国からやってきたあの人と分かち合いたいと思ったからだ。あの人とは、私たちが心から感謝している桜沢如一氏である』

『シュガーブルース』が世にでた翌年の1976年、ダフティとスワンソンは結婚します。ダフティ60歳、スワンソン77歳。年齢差もさることながら経歴的にも異色の組み合わせのふたりは、しかしながら反砂糖運動をするうえではこのうえない同士だったといえるかもしれません。ふたりは全国を回って、本の販売促進活動をしました。

テレビ出演したグロリア・スワンソンとウイリアム・ダフティ(1978年)

《記事》『グロリア・スワンソンとウィリアム・ダフティが勧めなかったとウィンキー、ディングドング、ワンダーブレッド』

シュガーブルースの呪いが解かれた世界を“イマジン”する

『シュガーブルース』をいたく気に入った有名人が意外なところにいました。ジョン・レノンです。ジョン・レノンは『シュガーブルース』を何冊も買って、周りの人に読むことを勧めたそうです。

彼の秘書フレデリック・シーマンの著書『ジョン・レノンの最後の日々』のなかに、そのようすが次のように記されています。

「かすかな手振りを交えた彼の話は、やがて砂糖の危険について熱のこもった議論に入っていった。ジョンは私に『シュガーブルース』という題名の本を読んで、ベターネイチャーで目を覚ましておくようにといった。ベターネイチャーとは地元の健康食料品店で、彼の食べ物の大部分は私がこの店から調達していた。彼はグロリア・スワンソンの夫君が書いたその本を、砂糖が“毒”であることを暴露していて素晴らしいと褒めた。彼はショーンを、多くのアメリカ人の子どものように、長じて肥満でニキビ面の青年になるような“砂糖中毒”にさせたくないと思っていた」『The Last Days of John Lennon』by Frederic Seaman

『シュガーブルース』は、ただ単に砂糖の害を呼びかける栄養本ではありません。精製砂糖を過激にもヘロインになぞらえて、砂糖に冒され続ける地球という視点をわたしたちに提示しました。

『ヘロインは、化学薬品以外の何ものでもない。罌粟の実から乳液を取り乾燥させると阿片になり、阿片を精製するとモルヒネになり、それをさらに精製するとヘロインになる。砂糖もまた化学薬品以外の何ものでもない。砂糖きびや砂糖大根の絞り汁を精製すると糖蜜となり、糖蜜を精製すると赤砂糖になり、それをさらに精製すると最後に奇妙な白い結晶となる』ウィリアム・ダフティ著・田村源二訳『砂糖病』より

砂糖はヘロインと同様人間を破壊するものであり、それが至るところにばらまかれている暴力を、ダフティは告発しています。その視点は、ダフティが桜沢の著作から受け継いだものだったかもしれません。『あなた方はみな三白だ』のなかで桜沢はこう述べました。

『…東洋医学がむかしから知っていたことを西洋医学もあう日認めることになるだろう、と私は確信しています。それは、砂糖が疑いもなく人類史上最大の殺人者であるということであり、阿片や放射能の死の灰よりもずっと致命的なものであり、特に米を主食としている人々にとってそうであるという事実です。砂糖は近代工業文明が極東やアフリカに投げ込んだ最大の罪悪です』ウィリアム・ダフティ著・田村源二訳『砂糖病』より

ダフティは、オノヨーコを通じてジョン・レノンと知己になります。海外の旅行先から絵葉書を送るなど、ダフティ夫妻とレノン夫妻は親交を結びました。1971年にニューヨークに移ったジョン・レノンは、アルバム『イマジン』を発表。アルバムタイトル曲の『イマジン』は、戦争のない平和な世界を願いその世界を「想像してごらん」と私たちに呼びかけました。

天国はないと想像してごらん
それは簡単なこと
地獄もなく わたしたちの頭上には空があるだけ
すべての人がただ日一日を生きていることを想像してごらん

国境はないと想像してごらん
それは難しいことじゃない
殺す理由も、殺される理由もなく
宗教もない
すべての人が平和に生きていることを想像してごらん

従軍経験のあるダフティの胸に、この歌はどう響いたでしょうか?彼もまた夢想したでしょう、砂糖のない世界を、すべての人が病気もなく健康で生き生きとした世界を。シュガーブルースの序文で彼はこんなことをいっています。『この私はといえば…“名誉退職した砂糖中毒者”として触れ回って奇妙な名声を得、この地球という惑星がシュガーブルースの危機に晒されている、と警告しようとした道化にすぎない』といささか謙遜しながらも、しかし彼の目は確実に、砂糖から解放された惑星の姿を追いかけていたのではないでしょうか。

きみはぼくのことを夢想家というかもしれない
でもぼくはひとりじゃない
いつの日かきみもぼくたちに加わって
世界はひとつになる

ダフティの夢はもちろん、彼ひとりのものではありません。それは桜沢如一の見た夢であり、また世界に飛び立っていった彼の教え子たちが願った夢であり、マクロビオティックの教えを心に響かせる私たちが引き継いだ夢でもあります。その地球の姿をあなたもどうか「想像して」みてください。

2016年4月

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