古代アンデス
シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展
表紙
1 アンデス文明のルーツ
アンデス文明−この言葉のひびきは世界の人たちにロマンをよびかけてくる。
ナスカの巨大な地上絵、海抜3000mに近い山の中にある空中都市マチュピチュ 、
”黄金の都”・シカン、インカ帝国の黄金文化………。
古代アンデス文明は、太平洋岸にそって南北に走るアンデス山脈をはさみ、海岸より
の砂漠地帯と山地を中心に発達した。
その集大成ともいえるのが、インカ帝国の黄金文化であった。インカがアンデス全土へ
の征服を開始した15世紀前半からスペイン人に敗れた1532年までのことである。
実は、このインカ帝国の文化の重要なルーツのひとつが、モチェ文化なのだ。
モチェ文化は1世紀から8世紀にかけて花開いた。その聖地は黄金の都・シカンの近く
にあった。シカンの都は8世紀のはじめから14世紀末にかけて存在したが、モチェ文化
はそのシカンの文化形成に大きな影響を与えた。そして、シカンの文化はさらにインカの
文明に受け継がれていったのだ。
さあ、それではモチェ文化への旅に出かける事にしよう。
2 モチェ文化の聖地
ペルーの首都リマから北へ向かうこと約800km。海岸線から内陸に進んだところに
「シパン」という村があった。
このシパンがモチェ文化の北の聖地といわれている。モチェ文化はこのシパンを中心
に、海岸線の南北およそ600kmにわたる範囲で広がっていた。
この地域には二つの川が流れていた。村は砂漠地帯の中にあったが、人々はこの二
つの川から水を引いて用水路を造り、農業を発達させた。
その高い生産力を基盤に、政治的行政的組織を発展させ、そのなかでモチェ文化を築
いたのである。
3 ツタンカーメンと並ぶ大発見 「モチェ文化の王様」
シパンには巨大なピラミッド型神殿などの遺跡がある。
ピラミッドは二つ。それぞれ、底辺が100m高さが30mもあった。「アドベ」という日干し
レンガを積み重ねて造られたもので、頂上部は平らだった。
しかし、シパンが世界的な注目を浴びることになったのは、シパン王の墓の発見にあっ
た。1987年2月、そのニュースに世界中が騒然となった。「ツタンカーメン王の墓と並ぶ今
世紀最大の発見 !! 」と注目されたのである。
次いで、古シパン王の墓も発見された。
彼らの墓には大量の”財宝”が眠っていた。金銀を巧みに使った装飾品、独特な形をし
た土器などなどである。
それらは1700年以上も前のものとはとても思えないほどの、高度な工芸品、芸術品の
数々だった。また、彼らの社会の有り様をしっかりと物語ってくる埋葬品であった。
4 シパン王
砂漠の中にそびえる大ピラミッドは二つ。シパン王の墓はその脇にあった基壇(日干し
レンガでつくられた建物)から発見された。
シパン王は棺の中に横たわっていた。
その周りには、戦士や若い女性などの8人の遺体があった。
棺の遺体は金銀から作られた装飾品で身を包んでいた。黄金の仮面、金製の冠、金
の鎧飾り、金とトルコ石で鹿を形作った耳飾り、高さ45cm重さ790gの腰に下げる金製の防
具……。左手には金の塊を、右手には頭部がピラミッド型をした金色に輝く笏が、それぞ
れ握られていた。
二つの、半月型をした金製のガラガラも置かれていた。
周りにはまた、たくさんの土器があった。そのほとんどは壷で、戦士や戦争でつかまえ
た捕虜、座る人間などをかたどった象形の壷だった。日用品と違い、生け贄のかわりに
土器を人に見立てて一緒に埋めたものと思われる。
数々の黄金の副葬品とその内容、殉死者の遺体、大量の象形の壷などから、棺の中
に眠っていた遺体は地位が最も高かった人物と考えられ、発掘した調査隊はこの人物を
「セニョール・デ・シパン」と名づけた。シパン王である。
この遺体は約1700年前のものだった。
5 古シパン王
シパン王と同じ基壇の中から、もう一人の重要な人物が発見された。
周囲を5人の遺体に見守られ、何枚もの綿にくるまれて棺の中に眠っていた。
やはり黄金の品々でその身は飾られていた。しかも興味深いことはそれらに、人の形
をした動物、動物の特徴をもった人物、動物と人間の合体した像などが細工されていた
ことである。金メッキの仮面、金製首飾りやビーズや金メッキ銅と銀でつくった胸飾り、神
話にでてくる不思議な神像や神秘的な生き物などが発見された。背中に人面を背をった
クモの装飾品は、繊細な古代モチェ文化の装飾技術の力量を示している。この基壇では
今まで12の墓が発掘された。古シパン王はその中で一番底の方、つまり、いちばん古い
墓だった。基壇が代々の王家の関係者が葬られたのならば、古シパン王は、一族の創
始者なのかもしれない。
6 モチェの神様たち
モチェ文化は土器の面白さで有名な文化だ。いろいろと面白い場面が描かれているた
め、昔から何が描かれているのか謎を解こうと多くの学者が研究をしてきた。モチェは文
字がなかった文化で、当時の人たちが土器に何の絵を描いたのか文字では書き残せな
かったため、はっきりとしたことはわからない。しかし、現在では細い線で描かれた人間
の形をした動物たちや、神様らしい人物は、モチェの神話物語のある一場面の登場人
物だという説が有力になってきた。この神話物語はまだ研究の途中だが、今までの仮説
の中では一番、本当らしくきこえる。
神様にはいろいろな動物や人の形をした動物が家来として仕えている。特徴のある頭
飾りや服装をしているので、それを覚えれば、何の神様が描かれているかがわかる。た
とえば山形の帽子をかぶっているのは、太陽神か太陽神に仕える人の形をした動物
か、太陽神を護り神にする人間の戦士だ。
7 モチェの神話
むかし、むかし、モチェには2人の尊敬を集める神様がいた。昼を支配する太陽神と夜
と闇を支配する夜の神だ。2人はそれぞれモチェ人とモチェの動物たちから貢ぎ物や生
け贄を捧げられていたが、あるときから太陽神が家来の動物たちを使って、たくさん貢ぎ
物をとるようになった。夜の神は怒り、それを見た太陽神は山の中に身を隠してしまう。
夜の神が人間たちの世界を闇でおおったため、夜の神の領土である暗闇や深海から怪
物たちが現れた。夜の神の家来のフクロウや月神(月の女神)に指揮された盾や棍棒な
どの「物」までが、反乱を起こし、人間を攻撃した。
豊穣神はモチェの神様の世界の英雄だったが、怪物たちに母親を殺されてしまったた
め、戦いを決意し、死者の世界を訪れると祖先たちは協力を約束した。やがて海に大航
海に出てカニ、魚、エイなどの怪物たちと戦う。豊穣神はこの戦いで傷ついたが、貢ぎ物
や生け贄をささげることで、夜の神の怒りはやわらいだ。太陽神も豊穣神の助けを借り、
天にかえる。こうして、世界に平和は回復した。豊穣神は農作物を生み出して、モチェの
人々は感謝の貢ぎ物を捧げたのである。
夜の神様の仲間と家来8 すぐれた土器の文化
モチェ文化を代表する土器は実に独特である。ひとつには彫刻のように立体的な象形
壷がある。
とくにモチェの土器の中では、本人の顔から直接型どりをしたとも言われる、たいへん
にリアルな肖像土器が有名だ。口元にうかぶほのかな微笑、苦悩するかのように見え
る、みけんにきざまれたしわ。これは、モチェ・リアリズムの頂点をきわめる作品である。
人のかたちをした動物、動物の特徴をもった人間など神話にあらわれる怪物を表したも
のも多い。
もうひとつは、さまざまな文様、絵を描いた壷である。代表的な作品のひとつには、祖
先に捧げる儀式的な鹿狩りを、緻密なタッチで物語のように描いた壷がある。
9 いろいろな動物たち
モチェの土器の中には動物たちをかたどった土器がたくさんある。特に1世紀から2世
紀ごろ(日本では弥生時代にあたる)には今にも動き出しそうないきいきとした動物たち
の姿が土器にされた。
そのおかげで古代のモチェの地で、どんな動物がいたかもはっきりわかる。オウムや
フクロウ、コウモリ、ビスカーチャというネズミに似た生き物、海にはアシカもいた。
コンドル(ハゲタカ)は現在のモチェの地にはあまり見られなくなってしまったが、土器が
モチェ時代の墓から出ることからも、この鳥は昔はたくさん海岸地帯にいたことがわかっ
ている。
11 戦士の競争
モチェの土器には戦士が袋を持って走っている不思議な絵がよく描かれていて、昔か
ら何の絵なのかが議論されてきた。袋の中身は豆で、豆の模様を文字のかわりに使っ
て手紙代わりにしていたのだというひともいた。
インカ帝国時代にはチャスキという飛脚がいて、皇帝の命令などをすばやく伝えたが、
この豆を持った戦士がインカの飛脚の元祖だという人もいた。
今では、これは何かの儀式だと言われている。インカ帝国時代にも行われていた成人
の儀式だとも言われている。それにしても不思議で楽しくおもしろい絵だ。そのほかに
も、すもうをとっているところを土器にしたものもあるが、このような運動も神様への感謝
をこめた奉納のためのものだったかもしれない。
12 月の神殿
月の神殿はモチェ渓谷のセロ・ブランコ(白い丘)と呼ばれる三角錐の丘の麓に建って
いる。日で干しただけのレンガで造られていた。
この『月の神殿』は主に、テラス、廻り廊下、広場の三つで構成されている。
発掘の結果、北のシパンと同じような南のモチェの聖地であったことがわかった。広場
から70体以上もの遺体が出てきたのである。それもほとんどが推定年齢15〜39歳の戦
争の捕虜たちであった。
彼らの体はあちらこちらに武器による傷跡があったし、周りに埋められていた土器には
戦争、捕虜、生け贄をテーマとする図が描かれていた。また、遺体にはさまれるようにし
て、焼かれる前の土器人形がバラバラにされて埋まっていた。
そう、月の神殿とは、大がかりな生け贄の儀式をとり行うなど、モチェ文化の重要な宗
教儀式のための建物だったのである。
人々はエルニーニョがもたらす大雨などの自然災害から身を守ろうとして、生け贄を捧
げたらしい。
神殿にはダイナミックな壁画も描かれていた。色彩も鮮やかな幾何学的文様や、何を
描いたのかいあっもわからない不思議な人面などが見事である。
13 モチェ文化の生と死
人々にとって「死」は終わりではなかった。死んでも、財産や供え物などと一緒に埋葬さ
れるなら、また別の世界で生前と同じような暮らしをして生き続けられると考えていたの
である。
だから、副葬品もその人の生前の地位、役割を物語るものであった。殉死者もまた、
その主人に別の世界でも仕えることを求められ、死を共にしたのだった。
14 産業と生活
モチェ文化の社会を支えた主な産業は農業であった。川の水を引いて用水路を作った
ことによって、生産力は飛躍的に発展した。メソポタミアやエジプトなど大文明を発達させ
る基礎になった。大規模な灌漑用水路がモチェの地にも発達していた。農作物はトウモ
ロコシ、豆類、ジャガイモ、カボチャ、カモテ(サツマイモ)、ユカなどだった。
家畜もいた。ラクダ科で荷役運搬用に飼っていたリャマなどである。
海の漁もさかんだった。カニやエビ、魚などを獲るところはよく土器に描かれている。モ
チェの人たちが海に大いに親しんだ海洋民族だったことがわかる。
農業の生産が上がるにつれて富も貯えられだし、政治的行政的な組織が発達した。
そのなかで人々の身分のちがいがうまれ、シパン王のような人物が登場した。
財力を築くことによって離れた地と”交易”するようにもなった。エクアドルで採れるウミ
ギク貝などが墓の中にあることは、そのことを物語っている。また、数々の装飾品の原料
の金にしても、アンデスの東斜面で採れたものが多かった。
15 トウモロコシから造ったお酒(チチャ酒)
チチャとは、トウモロコシの実から醸造された酒のことだ。醸造はむかしから女性の仕
事だった。砕いたトウモロコシの実を女性たちが噛んで、器に吐き、発酵させた。
数日して、まだアルコール分が少ないうちに飲んだが、アルコールのせいで雑菌が死
に清潔な飲み物になっていた。社交、儀式、その他さまざまな場合にもチチャはふんだ
んに供給されなければならなかった。たとえば、毎年男たちが総出で灌漑水路の掃除を
おこなうときに、村の長は十分な量のチチャを用意しなくてはならなかった。さもないとみ
な働かないのである。
16 非常に高度な冶金技術
土器とともに注目されるのは、ひじょうに高度な冶金技術をもっていたことである。
古シパン王の時代、つまり紀元1世紀の頃にはすでに、銅の表面に大変に薄い金の膜
をかぶせるメッキ技術が発明されていた。
これは世界中の学者を驚かせた。
しかもその技術の精度は今日と比較しても、ひじょうに高いものであった。
そのことはシパン王や古シパン王の墓で発掘された金銀の装飾品が物語っているとこ
ろだ。
そしてこの冶金技術を駆使して作られた装飾品や金属製の像なども、土器と同じように、
彼らの思想や生活を表しているものが実に多い。
戦士、捕虜、”カニの怪物”、や”クモ人間” 双頭の蛇を頭にいただいたネコ科動物の
神像などなどである。
奇怪でもあれば神秘的でもある作品は、モチェ文化の人々の世界観、あるいは宇宙観とい
うものを我々に語りかけてくるようである。
以上