旅のおもいで

2002年06月09日

海野宿
 最近、田中知事になって長野の記事が全国紙に載ることが多くなりました。
良くも悪しくも今までの地方行政のあり方に一石を投じたことは確かです。

 私は善光寺を中心に長野観光を楽しんでまいりましたが、田中知事が長野オリンピックの前に選ばれていたなら、あの善光寺にぴったり合っていたJR長野駅をそのまま残しつつどのようにリニューアルしたであろうか興味のあるところです。

 というところで、長野のなかで海野格子とウダツの町並みを鮮やかに残していることで稀有な海野宿を思い出します。

 海野宿は北国街道の中にあり、たまたま国道がこの町並みを外れて開通したことが幸いして昔ながらの宿場町が色濃く残ったと言われている。

 この街道に足を踏み入れたとき、なんと道の両側に並んで建っている家々が、当時のままの原形を残しているのを見たときは、感動ここに極めりの感であった。
 ただ、観光用に整備されたとはいえ、街道の中央に用水がひかれ綺麗な水が流れており、柳や松の樹木のが風情を添える。

 家の表情も平屋あり二階建あり今はもう見かけなくなった鎧屋根も多く残っている。又、見事に上がったウダツの家々・・そして表構えも海野格子でしつらえてあり当時の宿場と養蚕で栄えた町ながらの表情である。
 町を歩いていると何やら各家々には表札が違うことに気がついた、なんとすべての表札に江戸時代から使われている屋号が掲げられてい、あぶらや、かきや、つるや、やまとや、ふじや、等など、 昔は醤油やだ油やだという事がよく分かる。
 なんとも、江戸の世界にタイムスリップしたような感の町並みであった。



 その後どのような表情の町として残っているのであろうか?再度訪ねて見たい海野の宿場町である。
2002年06月29日

近江八幡とヴォーリズの建築
 琵琶湖のほとり、近江八幡は豊臣秀次が八幡山に城を築き城下町を造ったのが始まりだと言われている。 
 私は先年ウイルアム・メレル・ヴォーリズの建築物が多く残り彼の住居(記念館)もあるこの町を散策した。 自分が定年までハウスメーカーに勤務していたため、是非訪れたかった町である。

写真2枚は七ちょめさんからの戴物です、全国の町並みの事なら是非七ちょめさんの「古い町並みを歩く」をご覧下さい。

 ヴォーリズは明治38年八幡商業高校に英語の教師として赴任するも、キリスト布教活動に理解がえられず2年で学校を去る。

 彼はこれを機にキリスト教教団近江ミッションを起こし布教に乗り出す、その為資金の枯渇をきたし本国の友人から皮膚薬の製造許可をもらい近江兄弟社を設立しメンソレータムを売り出す。 これにより資金の調達を図る。

 彼は元々建築家であった為八幡小学校を始め彼の病院あるいは地元の一般住宅も建築しそれらの建築物が今でもこのまちに良い雰囲気を醸し出している。

 その後彼は箱根に事務所を構え別荘を多く建築し、又、関学、同志社を始めミッション系の大学を全国に多く手掛けているが関西では商業施設も多く、大阪の大丸や京都の東華菜館等は良く知れられている建築物のひとつであろう。

 そこで三都の一つ京都へ・・・



私は歌舞伎鑑賞が好きでよく南座へ足をはこぶが、四条から南座へ行く道すがら、四条大橋の西詰に(対岸が南座)京都の風情には珍しい西洋建築がある、「東華菜館」である。

 この建物は元々大正13年京料理屋の矢尾政の浅井安次郎が、西洋文化華やかな中、麦酒等がかなり普及してきたのを目ざとく見抜きビヤホールとしてヴォーリズに設計を依頼し大林組が施工し竣工に至ったといわれています。 ただ、彼はクリスチヤンのため酒は嗜まず本人はレストランの設計だと思っていたが浅井が騙して設計をやらしたとか・・真実は不明ですが。

 終戦後建物を中国人に渡し今の東華菜館として復活したという。
玄関前に立って眺めるとなにやら意味ありげなドームが最上階にあり、玄関は凝りに凝った装飾図柄が過剰なまでのリレーフテラコッタである。室内も見所一杯ですので料理とともに一度体験していただきたい建物ではあります。
2002年07月06日

小浜
 若狭は朝鮮語のワカソ(行き来)が訛った言葉だとか、小浜を訪れて驚いたのですが、このあまり大きいとは云えない町に数多くの古刹があります、そして奈良(朝鮮語=ナラ[都」)との関連も深く「海のある奈良」と呼ばれている事に興味を抱いた。。

 JR小浜駅を降りると、一昔前全国に○○銀座と云われる商店街が数多くありましたが、ここでは其れがそのままに駅前から鯖街道の起点のいずみ商店街まで続いていましたよ。

 京は遠ても十八里 と言われる鯖街道の起点前の魚屋さんで早速へしこを購入しました。

 若狭湾で捕れた鯖を一塩にして、京都に運んでいるうちに京へついた時に丁度良い塩加減の塩鯖になっているそうな、それと近江の近江米を使って出来たのが京名物鯖寿司であると。



 京都といえば小浜の三丁目は千本格子の家が連なっていて、時として着物姿の女性に出会うと何やら祇園を彷彿とさされますね。


三丁目飛鳥の町並み(HP古い町並みの七ちょめさんからのご好意です)

 一旦、駅前に帰り観光バスで国宝巡りを楽しんだ。
国分寺の木造釈迦如来像を拝見し、鎌倉時代創建の姿がそのまま残っている古刹明通寺に感歎し、お水送りの寺で有名な神宮寺へと向かう。

 奈良東大寺二月堂の「お水取り」は春を告げる行事として有名ですが、なんとその水はこの寺の井戸水を遠敷川・鵜の瀬へ流すと10日たって奈良二月堂の「若狭井」にとどくそうな・・・

 花と紅葉の名庭満徳寺を拝観し、バスは若狭塗箸館に着く、塗りが良いので夫婦箸を購入、バスは一路JR小浜駅に向かう・・一日の散策に丁度手頃な小浜の町ではあった。
2002年07月14日

内子の町並み
 前日道後温泉でゆっくりと湯の町を散策し、今朝は早くから坊っちゃん湯で英気を養った所で、目指す内子へ・・・

 まだ新しい感じのお釈迦さんの涅槃像がある寺の前の駐車場に車を止め、木蝋と和紙・古い町並み、そして大正期の建築様式が嬉しい内子座を目指していざ出発・・・

 町並み街道に入る角に古い民家を改造し開放している建物に興味をそそられ入ってみる。近郷の民芸品、古陶器等が陳列され・・見ているとかなりの品格ある品々である、この地が繁栄していたであろう往時の面影が窺えた一時であった。

 江戸から明治にかけて木蝋と和紙で栄えたと云われるこの町並み、歩いていて気がつくのだが、最近観光化されていて、如何にも田舎だよ〜と云いだげに強調した急造民家にいささかげんなりする。昼食に入った食事処も、入り口には蓑をぶら下げ茅の草を装飾し、中に入ると土間に莚を敷き丸木の椅子、如何にも見え見えの田舎造り・其処までするかぁ・・・

 気を取り直して町中の木蝋の実演をしているお店を見学し、本家芳我邸の庭園を拝見し、すぐ前の上芳我邸の母屋へ入る。



 受付のお方にお話を伺うと上芳我家は文久年間、本芳我家二代目が妹に養子を迎えて芳我家の家督と晒場を与えたのが始まりだとか。

 外に出て全体を見るとさすがに木蝋で財を成しただけあって鬼瓦の鳥衾、黄土色の漆喰、海鼠壁、そして虫籠窓など・・・

 木蝋の倉庫だったといわれる建物に入ってみると、木蝋は少しの温度の変化にも影響される為、少しひんやりとした一定温度が保たれている建物が必要だったなというのがよく分かる。
 厚い土壁、高い天井、土間には一定間隔で開けられている穴からは土中から一定の低い温度が放出されている、私が在籍中の住宅会社は全室一定温度空調の為地下熱システムを勧めていたが、何も新しいシステムではなかったんだ、昔の人は既にそれくらい考えていたんだ、昔の人は偉い!!。

 倉庫を出て資料館を見学し上芳我家を辞し、次に目指す内子座へと歩を進める。

 一本の街道がわざわざ鍵状に曲がったところが憎い、昔の人は良く考えたものですねぇ、外もんが入るのを監視していたのであろう、この町も丁度道の真中辺りがそのようになっている。



そこからすぐに森文という醤油の醸造所がある、甘酒やさんも併設していて熱い甘酒を飲んでホッとする。店主の口車に乗せられ、醤油を一本求める。

 しばらく歩いて角の魚屋さんを右に曲がると、大正時代の薬屋を再現した商家に入る。母屋の奥の間に座すると前庭の緑が目に優しい。

 いずこも同じでこの商店街も本当に活気が無い、でもそれが逆に古い町並みの重さを増していると言うことは喜んで良いのか悲しむべきか・・・

 昔はどこの町や村でも、必ず一軒は大衆娯楽としての芝居小屋があったものである。
現在では讃岐の金丸座や上下の芝居小屋など全国でもわずかに残っているだけになったが・・・
大正期の本格的な歌舞伎小屋である内子座に入って驚くが、舞台に立って座席を見ると桝席が懐かしい、二階窓から入る天然の照明が柔らかくなかなかの雰囲気を出している。
 奈落を見た後、昔の映画のポスターなども懐かしく・・・

 この地はノーベル賞作家大江健三郎の生家に近いとか。 
2002年07月30日

日田
 昨夜は少し飲みすぎたかなと思いながら朝風呂で朦朧とした脳味噌に活を入れ・・・
天ヶ瀬温泉を後に一駅先にある日田へと足を向けた。

 駅前の観光案内所で見所を聞き、ぶらりぶらりと右へと歩む。静かな街だ、さすが天領であっただけのことはある何か落ち着いておっとりとした街の風情ではある。

 しばらく歩いた所に、ん?、中に入って徘徊する、なんともレトロでこじんまりとしたデパートだ、商品も時代おくれとは言えないまでも、案外地元に合った物が展示されていて微笑ましい。

 豆田町に入って俄か造りのお土産やさんで八女茶を求める。掛屋であった広瀬資料館に入って繁盛していた当時の品々、資料などを見学する。
 しばらく歩いた所に、元禄の頃より生蝋で商いを広げた豪商の草野家にはいって見る、この地方では3月のお雛祭りの日には代々続いた古い雛人形を多く飾るのが習慣になっているそうでこの家も200体も飾ざるとやら、おそらく壮観なものであろう。

 造り酒屋・醤油屋・そして家庭常備薬製造のお薬屋さん等など豪商が続く・・
何時の間にか裏通りに入っていた、昔の豆田検番所に入ってみる、当時の女将さんから賑わっていた頃の芸妓の搾取されていた生活振りや資料を見るにつけなんとも物悲しい気持ちになったのは私だけでなく妻も涙で聞いていたのを思い出す。



 町中に小鹿田焼を売っているお店が何軒か散見されたが、それではいっその事窯場へ行ってみようと小鹿田の里へとタクシーを飛ばす。

 私は焼き物の収集が好きで、趣味が嵩じて登り窯まで造った玄人はだしの友人もいますし各地窯元には何人かの知人もいます。
 
 日田から30〜40分入った山深い集落に、日田の皿山、陶郷小鹿田があった。
集落に入るとこの時期にもかかわらず結構訪れている人が多い、昨今の焼き物ブームの所為だろうか。一軒の茶屋に入って素朴な蕎麦を食す。

 村落に入ると、耳に聞こえてくるのはギィーゴトン・ギィーゴトンと鳴り響く音・・唐臼が陶土を突く音だ、なんとも心地よい音に、瀬音のせせらぎと相俟ってしばし時の移ろいを忘れさす。

 小鹿田焼といえばかのバーナードリーチが当地の坂本家に逗留し飛び鉋の技法を習った事から声価が高まり民芸ブームも重なり一躍全国区になったと言われている。
 小鹿田焼は、本来生活雑器として用いられていたものであり、大甕や半胴甕は穀物の保存に、又、醤油や味噌の仕込みにも使ったであろうし、うんすけ、引き栓の酒甕、醤油甕、小壜や茶壷等など・・・

 小鹿田焼の窯元は10軒だけである、一子相伝がこの窯場の伝統であり、今後も変わりないと思われる。
 そして私が奇異に感じたのは他地方の窯場と違って10軒の窯元ブランドで出荷し各窯場が個人銘を入れる事をしないことです。
 窯元は総て柳瀬、黒木、坂本の何れかに系譜に連なり、長男が親に習って技を覚え腕を磨いて後を継ぐ、その為次男以下は他の職業に就くといわれる。 まさに一子相伝である。

 ここの焼き物の技法は何と云っても飛び鉋であろう、あと打ち刷毛目、打ち掛、流し掛である。
私が今回求めたのは、灰抽の上に打ち掛をした蓋付き大甕である、如何にも素朴でこれなら玄関先に置いても周りの風景に馴染むだろうと思ったからである。

これがそうです

 一所懸命窯場を回り、家人とも話し込み気が付くと山の中は、夕餉の支度の煙が上がっていたものである。
2002年08月22日

金沢
 NHKの大河ドラマ「利家とまつ」の舞台金沢・・・
前田利家が入城以来加賀百万石の城下町として発展した。 何回訪れても風情ある佇まいは訪れる私達の旅情をとらえてはなさない。

 前日、山代温泉で一泊した朝この町の九谷焼窯場をまわったため金沢に着いたのが遅すぎたかな・・・少し急がなきゃあと思い、一路兼六園へとタクシーを飛ばす。兼六園へ続く坂道から城址石川門が伺える。

 兼六園って不思議な名前だなと思ってちょっと調べてみると、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望を兼ね備えた名園と言う事らしい。
 そう言えば園内の林泉回遊の配置が見事である。ここで、園内のシンボル徽軫灯篭を背景に妻の写真を撮る。

 成巽閣を見学後、県立美術館では仁清の色絵雉香炉に心を奪われる、数々の古九谷を始め前田家に伝わる名品は往時の繁栄振りがよく伺える。
 加賀友禅伝統産業会館では、さすがに着物に長けた妻の微に入り細にわたりの説明に私はいささか辟易しながら判った判ったと・・・言いながら。

 午後も少し遅くなったと急ぎ武家屋敷へとタクシーを走らす。この一角だけは瓦をのせた土塀が続き何時に間にか江戸の世界に入ったようだ。
 屋敷内に入るも武家屋敷独特のいずこも同じ造りと間仕切、庭の佇まいにこんな物かと早々にお暇する。



 浅野川に沿ってタクシーは走る、ひがし茶屋街に入ったようだ。
かつての廓の跡・・街の入り口出口に門がある、遊女の管理をしている為かと思うと胸が痛む。
 石畳の通りに紅殻格子の家々が軒を連ねる。今でもお茶屋が残っていて金沢のお偉さんの社交の場になっているようだ。

 志摩(市文化財)に入る、玄関の中は吹け抜け、階段を上がれば、低い天井の客間と控えの間がある。どの間も物入れ、押入れは無い、遊ぶ為だけの間だ。
 遊興に浸る往時の粋人の姿が目に浮かぶ。柱、鴨居は漆塗り、壁は紅殻・・何とも悩ましい部屋だ。

 

 待たせたタクシーで次をと言うと、連れて行ってくれましたよ、米と麦だけで造っているという水飴屋さんへ・・麦芽糖の飴でんがな。
 俵屋さんと言う天保元年創業の老舗、大きな暖簾の前でハイポーズと言わされて、運転手さんの気の利く事ったら。

 明日は永平寺へとの夢を馳せて再度加賀の温泉で今日はゆっくりと旅情を楽しもうか。
2002年09月07日

三徳山を訪ねて
 朝ゆっくりと自宅を出て総社から岡山自動車道を山陰に向けて走らせると、午後にはもう三朝の温泉街である。
 投宿には少し早いので今晩のお宿のすぐ近くのみささ美術館へは入ってみる事にした。
ようこそようこその立て看に誘われて中に入る、常設はガンダーラの美術と無弟の板画である。

 先ずは、ガンダーラの彫刻やラマ教の歓喜仏等いかにも怪しげな秘仏があり、ちょっと異様な雰囲気の造形物であった、これはあまり好みでない。
 二階で板画家 長谷川富三郎(無弟)先生の板画を鑑賞する、河井寛次郎先生から棟方志功を紹介されてこの世界に入ったという、無弟の作品は観る人の心のひだに染込む優しい目線で彫られた作品と思えた。
自分に「な」 1 なまけるな 1 おこるな 1 いばるな 1 あせるな 1 くさるな 1 おごるな 
 右六条 自戒自守



 岩崎に投宿 料理自慢の宿である為いつのまにか、又酒量があがっていたなあ。
朝少し早めに起き露天風呂で温まり、回遊式庭園の中にある茶室や御皇室の宿泊された入母屋造の建築を眺めながら散策を楽しむ、いい天気だ、今日は三徳山から中国庭園を回り湯村温泉まで走らせるとしよう。

 少しゆっくりめに旅館を出発したところで橋の袂のお店で橡餅を求め、目指す三徳山三仏寺へと車を走らす。ここから南東約20分位走ったところに有りましたよ。

 駐車場からすぐの所に急な石段がある、五月の頃だった為登り口から今が盛と石楠花が満開、これはこれは素晴らしいもんだ。途中食事処も小さな堂宇にも石楠花の花の饗宴だ。
 
 本堂に登る途中あたりの左側の鬱蒼と繁った樹木の広場がある、その崖際に無数の石仏が多くの石楠花の間に間に見てとれる。
 微笑んだ石仏あり、訳知り顔の石仏あり、はたまた難しい顔をした石仏ありと様々な表情が嬉しい。

 本堂あたりでは修道者が分らない事を教えてくれましたよ。
三徳山三仏寺は慶運3年(706)役の行者、神変大菩薩により開山された天台修験道の道場だそうです。
 福徳、知徳、寿徳、のご利益があるお寺として信仰されていますよ。

 奥の院は山岳修験の行場で「かずら坂」「くさり坂」「馬の背・牛の背」など難所があり、とてもじゃないがわたしゃ登れませんと遠くから眺めることにしました、 でも多くの登山者はテクテクと登っていましたが・・・



 その「投入堂」は平安時代の創建といわれ、百数十メートルの断崖絶壁に総檜舞台造りの優雅で不思議な建物は、役の行者が三枚の蓮の花びらを「仏教の縁のあるところへ落ちよ」と空中へ投げたところ、大和吉野山、伊予石槌山、そして最後の一枚がこの地に落ちた所から始まりまる・・・  ううん〜〜そうか??
 まっ、それはそうとして、本堂で清々しい気持ちで拝んだ後、下に降り途中の食事処で名物のお豆腐を食す。

 さて、次ぎの目的中国庭園燕趙園へと車を走らせた、旅館で紹介をうけた中国菜舘・依水飯店での昼食が楽しみだ。
2002年11月14日

坂本を歩く
 私達は延暦寺を参詣する時京都側から登ってと言うのが通常と思っていますが、元々最澄が入山し草庵をむすんだ入山路が坂本からだとの伝えからいくと本来は坂本が表参道であろう。
 
 先年のある日
 その坂本へ京都から京阪電車に乗って浜大津につく、そして穴太の村を眺めながらのんびりと坂本へと向かう。

 去る5月日吉大社へ参詣した折、鬱蒼とした木立の中を流れる川の岸辺で夫婦で弁当をひろげた時、頬を撫でる涼風と川のせせらぎ、時として聞こえる小鳥のさえずりに、身も心も溶け込んだあの感動をもう一度秋の紅葉に求めてやって来たわけである。

 駅から降りて日吉神社に向かって参道のお店をひやかしながら進む。途中から小川縁の道に入り見事に積み上がった石積みを眺めながら大社に到着する。



 全国3800の山王社の総本山である、東本宮、西本宮を中心に深い山の中数々の神社が祭られており荘厳な気持ちになる。 今は紅葉なかでも入り口から始まって破風鳥居の山王鳥居あたりの紅葉は素晴らしい。

 大社を出て里坊を数々見てまわる、今の時期何処の里坊も紅葉が美しく特に天台座主の御在所の滋賀院門跡の庭園は見事の一語につきる。小堀遠州の作と伝えられている。



 この町を歩いていると自然石をそのまま野面積みにし大きい石の間に小さな石を挟み素朴な所にも造形の美しい石垣が多く見受けられます。
 穴太衆の石工はその強固に構築した石垣を手掛けている石工集団で、全国の有名な城郭は殆どがこの集団が手掛けています。

 坂本に来たら是非ここと言われている鶴嬉蕎麦に足を伸ばす。この店構え流石に宮内庁御用達の蕎麦処である、ちょっと黒い蕎麦に纏わりつくつゆがさすがに老舗の味を楽しませてくれる、満足満足!!。

 夕方まで待っての紅葉狩りは値千金ではあった。
2002年12月15日

丹波篠山を歩く
 丹波篠山と言えばデカンショ節と牡丹鍋そして丹波焼(立杭焼)でよく知られていますが、今回は焼き物の町立杭から篠山まで歩いてみようと思います。

 今田町は立杭焼の窯場が約60軒もある一大焼物の産地である。
10月の陶器市は関西を始め全国大勢の好事家を集めて「陶の郷」を中心に各窯場で盛大に行われています。
 すでに何回も訪れてお馴染みの光景であるが、各釜場を冷やかして歩くのも楽しいものである。

 立杭焼は、私の好きな備前焼のねっとりしたきめこまかい陶土と違い鉄分の多い粗い陶土で出来ています、作品も焼き〆から釉薬のものまで多岐にわたっている。



 最初にお邪魔した源右衛門窯では市野先生晃司先生の作品に惚れてこれまで写真上の船底徳利と丸い灰釉のかかった大壷の2点他数点求めています。
  


昨年は先生の叔父にあたる窯場の方から江戸期の大甕(高さ85cm)を買い求め今では玄関脇に鎮座ましています。

 何回かお伺いした折ぼたん鍋の美味しい所を教えてくれませんかと聞きますと、それではと篠山で一番古い料亭を紹介してくれました。

 二階の間に通される、暫く古い料亭のしつらえを鑑賞しているところへぼたん鍋の支度が整えられる。
 牡丹の様に美しく盛り付けした猪肉に赤味噌のだしが良くからみ意外にあっさりとした肉であまみもあり美味美味である。暫く牡丹と格闘する、う〜ん満足満足である。

 しばらくの休憩の後町並みを散策する。
丁度年末でもあり各お店にはお正月用品の丹波の黒豆、山の芋、大納言などが溢れている。黒豆にしろ、大納言にしろ私達がいつも見慣れている物と違いぷっくりと大きく、つやがあり高価だが値打ちが断然違う。妻は嬉しくなり次々買い求める。
 町中の精肉屋さんの店先には猪一頭がど〜んとそのまま置かれている、ビックリ!!これが篠山の冬の風物詩でしょう。

 篠山城址に登って町並みを見渡す、こじんまりとした古い城下町の姿が見てとれる、すぐ下を見ると豪壮な石垣とそのまわりに外堀が有り結構な眺めである。
 大正時代の面影が残っている旧役場に入ってここの名産を求めた後、武家屋敷の一群に足をはこぶ。一軒の茅葺の門を入り中を覗う、敷地はかなり広いがこの質素な茅葺屋根の母屋の佇まいは何だろう、奥屋にしつられている品々も古いという事は分るが何かしら侘しい、下級武士の住まいだろうか・・・
 妻入り商家の連なる川原町界隈はさすがに往時の繁栄の面影が残っていて懐かしい。
一軒の醤油屋さんで醤油と佃煮を求める、外へ出てみるともう既に夕方の影が深まっていた。
 電車の時刻が気になりタクシーで駅まで走らせていたものである。
2003年03月07日

宍道湖北岸を走る
 今日も爽やかな朝だ、キラキラと輝く宍道湖には無数の漁船が松江名物のシジミを獲っていますよ。

 松江しんじ湖温泉に別れをつげ一路一畑薬師を目指す、10分も走っただろうか左手に豪奢な建物が見えてくる、何だろう?近づくと大勢の人達が洒落た門の中へ吸い込まれていく。なんとここは新設された美術館ではないか、これは是非見たいものと予定の出雲は断念してこちらにしょうと妻に同意を求める、即快諾だ。

 本堂に到着したのが10時すぎ、途中あまりにも車が走っていないので静かな寺かなと思っていたが意外や意外大勢の参拝者だ、それも小さなお子さん連れの若いご夫婦、お孫さんと一緒に若夫婦に同道しているお祖父母さん達、なんとこの時期(五月の連休)は「二歳児まいり四歳児お礼まいり」という子供の成長を祈願する祭りだったんですね。
 
 新緑が参道を彩る様は得も言えない美しさだ、とはいえ石段をへとへとしながら登るとありましたよ、ここが目の神様で有名な一畑薬師・
平安時代寛平6年(894)一畑山の麓赤浦海岸から漁師の与市が海中から引き上げた薬師如来をご本尊としておまつりしたのが始まりとやら・与市の母親の不自由な目が開いたり、戦国時代には因幡国新左衛門の幼児が助かった事などあり「目のお薬師様」「子供の無事成長の仏様」として多くのご利益がいただけるとして全国からの参拝客を集めているそうですよ。
 
 八万坪もあるという境内の中核の薬師本堂で家内安全、身体健全、交通安全を祈念する。
本堂の左手にある祈祷待合所で一畑山の清水で沸かしたお茶湯を有り難く戴きホッとした一時を味わう。
 さてと腰をあげて本堂の裏手にまわるとなっなんと有るではないですか数かぞえきれないほどの多くの小さな仏様が・・・八万四千仏堂といわれるお堂は安寧を願って全国から奉納された仏様が84000体安置されていますぞ。
 仏様の教えは八万四千の法門が説かれていて願主の願いがこの小さな仏様に納められていると言われていますよ。 あ〜あびっくりしたぁ。


 新緑の参道をゆっくりと降り、さて次ぎは期待の『ルイス・Cティファニー庭園美術館&イングリシュ・ガーデン』 へ、もと来た道へ引き返す。

 水の都松江は地域活性化の切り札としてルイス・Cティファニーのコレクションを集め『美・食遊・花・夢を満たす21世紀の複合美術館』として平成13年に開館したといいます。

 アールヌーボー調の扉を通り抜けると明るい光が降り注ぐパティオが現れましたよ。色彩彩の花々、緑の木々、そしてキラキラと輝く水が抜けるような青い空と対比してそれはもう素敵。
 ここから始まる世界は喧騒の外界から隔離された心地よい時間の流れを予感させるんだわさ。入ってすぐ左にあるベーカリー&カフェ「ラ・クロンヌ」・石窯で焼いたフランスパン、そして地元新鮮野菜のサラダ、そしてコーヒーをオーダーする、妻は思わず「ティファニーでお茶を」だねと・イヤア〜カッコイイ〜。

 『美の追求はあらゆる探求の中で最も健全なことである』とルイス・Cティファニーは言っている。

 回廊を通じて見るイングリシュ・ガーデンの椿も花も散り少し寂しいが、約80種もあるといわれる木に神秘的な雰囲気を感じる。

 マイセンの陶磁器とその文様に多大な影響を与えた伊万里の磁器などを鑑賞した後は目当てのティファニーのコーナーへと入って行く。
 アート・ジュエリー・家具・七宝・陶磁器・銀製品・花瓶・絵画・息を飲む素晴らし作品群に頭がくらくらして来ましたよ。そしてメーンのテーブルランプ、そしてそして4000枚のガラス片を多い所で4層にも重ねた「秋の風景・鹿の窓」のステンドグラスからもれて来る淡い太陽の光に息もなく・・・・
 


 色とりどりに咲く花々の咲く宍道湖畔庭園をそぞろ歩きながら見上げるチャペル、雲ひとつ無い青い空。  四季を通して珍しい花々が咲く温室を通りぬけるとそこに有るのはティファニーの作品をはめこんだチャペル・窓から降り注ぐ光に幸福を感じる。

 残念ながら撮ってきた写真をパソコンを不注意な操作をして削除してしまいました唯一残っている写真で雰囲気を味わって下さい。
2003年05月29日

ノスタルジック・マウイ(1)
 ハワイ諸島2番目の広さを誇るマウイ島
今朝早くからホノルルをたち機上の人となる、変化に富んだ山々の緑、海岸線に続く青い海白い波、オオーと満喫するひまもなくわずか30分の空中散歩でマウイの人になりましたよ。
  
    

 日系日本人のお歳のご・・ いや失礼・お若いベテランのガイドさんの説明を聞きながら広大なさとうきび畑の中を走る。
 島の一大産業であったさとうは日本から移住してきた人達によって発展してきたと言われています。が、昨今は収入の多いパイナップル畑に転作している所も多く見受けられます。

                   

 ノスタルジックな古い町並みを走ると徐々に周囲は深山幽谷の趣きを増してくる、かつて、カメハメハ大王がこのマウイ島を統一した時の一大戦場がここイアオ渓谷です。。
 カメハメハ軍もマウイ軍も必死の攻防を繰り広げるわけですが、その為に多くの死傷者がでてイアオ川は血で真っ赤に染まりその死体は川の流れを止めたといわれています。

 この渓谷はハワイでも特に雨の多い地域と言われていましたが、イヤマッタク、どんぴしゃりですわ。墳石錐の奇岩イアオ・ニードルを見る為に駐車場まで来たのですが途中から急に曇ってきて今はもう土砂降りの雨ですわ。
 神秘的な高峰も雨に煙り写真はチョット駄目ですね。



イアオ渓谷を下りるとみるみるうちに雨雲は薄れ椰子の木々の隙間から遠くに七色の虹が現れました、ハワイに来てから何回この様な光景に出会った事であろう。
 現地の人達はこの虹を見ると幸福になると言っていました、そうでしょうね。
サァーと降った後のこの開放感はハワイ独特のものでしょうか。

 アロ〜ハ・来ましたよ、このノスタルジックな町並み・・ラハイナ。
イアオ渓谷の戦いに勝ったカメハメハ大王はカアフマム王妃と共にここラハイナに居住します、カメハメハ大王が亡くなりリホリホがカメハメハ二世を継承するとラハイナは1845年迄ハワイ王朝として大いに栄えたといいます。

                             

 この時期から1870年代までは日本近海やベーリング海へ出航する捕鯨基地の中継地として発展していきます。今でもこの港の前にあるパニヤンの木を起点にした海岸沿いの町並みは往時の歴史を伺えさす貴重な木造建築が多く見受けられましたね。聞きますと日本人寄宿舎として使っていた建物も何となくその面影を残しつつ商店やギャラリーとして今でも活躍していましたよ。
 
                                 

 今日はアメリカでも最大級のお祭、ハロウインの日でした。町中には昼から大人も子供も顔には様々なペインテングをし奇抜な衣装をまといそれはそれはウキウキと大いに盛り上がっていましたよ。

(つづく)
2003年06月16日

ノスタルジック・マウイ2
 私は今ラハイナからカアナパリへ向っている、白い煙を吐きながら走るシュガーケイントレインの車窓から山を望むとなだらかな山裾に沿ってサトウ畑がつづく、そして海を見渡せばカアナビーチに沿って広大なゴルフ場の中にゴージャスなホテルやコンドミニアムが延々と続きます。(そうそう誰かが言ってましたよ、この辺りに千昌夫が華やかしころやっていたホテルがあれだよと・) 

 

 なんとここは1950年代この一帯にある雑木林と当時さとうきび産業が斜陽化するなかさとうきび畑を莫大な資金で一大リゾート地として開発したのがここカアナパリだったんですね。

 さぁ、もと来たラハイナへ帰りましょうか、窓から入ってくる爽やかな風、何時の間にか遠くに虹が架かっていましたよ、それにしても本当によくでますねぇ。それこそ全車のナンバープレートには虹の模様が印刷されてくらいですもの。
 目を転じると海にはヨットが悠々と走っていて何とも優雅なものですね。 

 ゴルフコースの中列車は緩やかに勾配を下っていきます、車内には楽しそうなガイドの声が流れています・(駄目だこりゃ何を言ってるのかわからんわ、こんな時に英語力がものを言うんですなあ〜)←これ独り言
 何時の間にかウクレレを奏でながらのハワイソングに変ってきます、笑いながら・唄いながら・しゃべりながら・何とも言えない土着の良い雰囲気になってきましたよ、ここで汽笛でも鳴れば最高でしょうに。



 これはホノルルで宿泊するより優雅にカアナパリで過ごすに限りますぞ・・・金と時間が許せる方は是非どうぞ・・・(つづく)
 
2003年07月05日

ノスタルジック・マウイ3
 何やらわからない町々を過ぎてさとうきび畑やユーカリの並木道を過ぎると車はいよいよハレアカラの登山道に入る。
 段々と頂上へ登るにつれまわりの木々が変わってくる、緑濃い松も日本のと違い柔らかい葉の針葉樹の様ですね。九十九折りの道を颯爽と自転車の軍団が降りてくる、バスの前後を行き来する自動車も快適なドライブを楽しんでいる様だ。
 
 潅木混じりのごろごろした石の間から所々にここにしかないと言うシルバー・ソアードという鮮やかな紫黄色い花がついた高山植物が見えます。まもなく頂上に近づきましたぞ。
 
 車から降りるとさすがに寒いブルッときましたぞ、風も結構強く吹いていて尚更に寒く感じまんがな、妻はマフラーで暖かくしているがわたしゃ寒い、でも清々しい良い天気で思わず深呼吸していましたぁ。
  
       

 ビジターセンターの駐車場から頂上を見ると銀色をした丸い建物が見える、サイエンス・シテイ天文台と言うらしい。聞きますと天体観測や人工衛星、ミサイル、等の追跡業務をしているそうですよ。

   

 さあここがハレアカラの世界最大の休火山ですよ、ハレアカラとはハワイ語で太陽の家と言うそうですが、半神半人の青年の神話はここがその舞台だそうですが・よく知りませ〜ん。←(申し訳ありませペコリ



 さあクレーターを見ましょう・・
大小の火口丘が複雑に入り組んでうねりながら下の火口の底へと続く・・・
 クレーターに太陽の光の屈折で出来る影、遠くには霧のような雲海の流れ、・・刻々と微妙に光の変化が変わる毎に違った表情を見せる火口の様は大自然の一大ペーゼントだ・・凄っ〜げぇ〜とつい言葉がでてしまいましたがや〜、気がつけば結構火口から吹いてくる寒い強い風にさらされているんだなあこれが。



 そうそうここは標高が3055mだそうですよ。
宇宙飛行士の月面着陸の訓練に使われたと言います、(月面から送られて来た写真はここのものだったというとんでもない噂も分るような気がしましたぞ)
 
終わり
 
2003年11月02日

俵山旅情
 今日の一葉へUPしていたものをダイジェストにして再掲載しています。

 海の青、人々の人情に触れた長門の一日の締めくくりに俗世界を離れて鄙びた風情を楽しもうと俵山へと車を走らせた。

 湯本を過ぎしばらく深い山の中を登って行くとエッここが?という温泉地が・・・
療養目的の湯治場だったんですねぇ。
 翌朝の温泉町の通りは写真のように閑散として旅館のお客は町の外湯へひと風呂浴びに行きます。



 1100年前、薬師如来の化身白狐のよって発見されたという俵山温泉
細いメーン通りに猫が一匹餌をあさっていました、小さな路地の石段を上がってきた湯治客はカランコロンと下駄の音を響かせながら町の湯、川の湯二つの湯場へ通り過ぎて行きました。

 約40軒あるほとんどの旅館は内風呂が無く客は外湯を利用しています、本当に湯治だけのような温泉地だったのですね。

 俵山温泉に別れを告げ今日の目的地津和野へと・・・と思ったのですが〜、駐車場から出た所に何やら意味ありげな看板を見つけましたよ、なんだこれは?、浴衣を着た温泉客もゾロゾロと歩いて行くではありませんか。
 
 5分も走ったでしょうか、国道といわれるこの道すがら小さな観音様に大勢の参拝客が押し寄せていましたよ・・
 聞きますと今日は年に一度の大法会とやら、何でだろうと観音様の祠を見上げた時にビックリしました〜。


 麻羅観音

 時は天文20年、戦国時代群雄割拠する戦国大名のなか中国地方では富強を誇る大内氏も家臣陶晴賢に攻められます。

 ここから麻羅観音の由来によると・・
天文20年9月1日大内義隆公は家臣陶晴賢に攻められ、湯本温泉の大寧寺で自刀した。翌2日長子の義尊公はこの奥で捕らえられ惨殺された。・・・・中略・・・・
 末子の歓寿丸は女装してかくまわれていたが翌年春捕らえられここで殺された。男児の証拠に男根を切られ持ち去られた。
 これを里人は哀れんでこの社を建てて霊を慰めた。・・・・後略・・・・
と言う事らしいですよ。
 ここ俵山あたりの心優しい人々は今も毎年大法会を行っていました。

 それにしてもまあ〜立派な男根ですね〜。にょきにょきと大地から立っている様は何と言いましょうか・・・・




 子宝を祈願した広島のお若いご夫婦は一年経った今日祈願成就の御礼に朝早く訪れていましたよ〜と受付のお方のおはなしでした。
 いやぁ〜元気でやってたかゃ〜・・・地元の人達の挨拶を聞きながら本尊の麻羅を拝んでいるとご住職さんのお出ましです。

 本堂の隣りにある祠には溢れんばかりの男根が並んでいました。地元の人々遠来からの参拝者そして県内各地からご来賓を戴き本堂では読経が始まっていました。

 ・・・掲載が長かったので中略します・・・  踊りだけをUPしましょう

 いよいよお待ちかのお接待のお餅投げが始まりました。交通信号はこの町には一つしかありません、ですが今日は麻羅観音大法会の為にお巡りさんも交通整理に駆り出されていましたよ。



 クライマックスの大量のお餅投げも済みご供物の数々をくじ引きで皆さんに分配します。
勿論私達夫婦にも沢山のお餅を拾わさせていただき又籤引きにも参加し多くのご供物を頂戴しましたよ。
 聞けば遠く下関や山口の方から来られている人ともお話しました、最近はここ俵山に都会から定住される方も結構多くいっらしゃるとか、そう言えば宿泊した旅館でアルバイトをしているお嬢さんも山口から最近移住されていると言ってました。

 さぁお昼も近くなりました、家内安全、夫婦円満、を願って町の人達に又お会いしましょうと言いながら私達は次の目的地へ向けて出発です。
2004年02月22日

米子下町ひとめぐり
 今日の一葉へ掲載していたものへ多少の添削を加え再掲載です。

              

 白砂青松の浜辺 少し肌寒い風のなかをザックザックと歩く、遠望すればホロホロと美保関灯台の灯りが瞬く・・・



 大山の紅葉を愛でようと思い立った旅ゆえ米子の町歩きは予定外、何時もの行き当たりばったりのおもろい夫婦のやじ喜多道中である。
 路地に迷い込んだような細い道の下町界隈を一周してみる何処の町なかのお店にも共通する悩みであろうか・・老舗看板のお店がシャッターを下ろしている・・空洞化である。

 関が原の戦い後、駿河の国からここ伯耆の国十八万石へ移封された中村一忠が米子城を築城、城下町十八町を完成したと言う。家老横田内膳は加茂川を外堀にし九ッの寺を約四百メートルの長くに並べ外攻めの守りにしたと言う。

 その後江戸明治大正にかけて港湾の立地、米子の海へ流れ注ぐ加茂川を利用して海運業が栄え今の商都米子が出来たといいます。
 
 今回はその加茂川の沿った下町周辺を少しタイムスリップしてみようと思い立ったのが今朝皆生の露天風呂のなか・・

 擬宝珠の付いた天神橋、白壁土蔵が川面に映る。
公道から一段下がった石段が港へ向って延々と続く・・ オッ 艀から沖仲士が荷物を運び出していますね、 オ〜 今度は大きな荷物を積んだ艀が港へ向って通り過ぎて行きます・・・今は昔の白日夢か。

                           

 天神橋を渡り最初に交差点を右に暫く歩くと加茂川橋へ到着、米子のネオン街への入り口辺りにある咲い地蔵あたりからもとへ引き帰す。
 念ずれば花ひらく・・咲い地蔵さんの優しい微笑み、手を合わし今日の安寧を祈念する。
加茂川橋を渡るとここから岡本一銭屋までがしょうじき村、この通りが下町の古い町並みを色濃く残している一番の見所だろうと見当をつける。
 その一角に坂口合資会社のレトロモダンな建物がある。昭和初期の建築と聞く、御影石の基壇に二本の円柱が特徴的だ。 
 江戸時代から続く米子きっての豪商坂口家は多くの不動産所有管理を始め醤油醸造等で米子の財界に大きな影響を与えている。漆喰壁と格子戸の建物は戦後天皇行幸の砌宿泊された由緒ある建物だという。

 そのすぐ近くにあるしょうじき村図書館・山陰地方にグループ展開する今井書店の母体です。
商圏が郊外にひろがる時代になって老舗といわれるお店が次々閉鎖されます、でもどうでしょう、そうであればその構えを郷愁だけにとどめず新たに心のよりどころとして再生したらどうだろう・・・と思うような建物がありましたよ。

 {長崎で西洋医学を学び鳥取藩に仕える医者であった今井兼文、廃藩置県で禄を離れるのを機に明治5年今井郁文堂として本屋を創業。
 第二次大戦ご文化復興のため「文人社」を結成ここを拠点に活発な活動を展開、1987年本の国体といわれる「日本の出版文化展」開催の推進母体となる。
 その後文芸専門店を経て「本の学校」「しょうじき村図書館・今井郁文堂」へと変遷をとげる。}
 看板からの概要でした。[地域とともに歩む時間を、これからも刻んでいきたい]と最後に刻んでいました。その心意気やよし!!

 洒落たレストランを見つけましたよ。門から長いアプローチを進むと古い土蔵が現れる、大きな甕にお花が活けていますね。ダイニングスペースに改造されている様ですね、古風のなかにモダンな空間が漂います。フランス料理を味わいたかったですがお昼は予約のみ、残念!                              

 それにしても町中を歩いていると亜鉛鉄板などの不粋な外壁が多く見受けられます、ちょっと興ざめですね。どうやら鳥取大地震の影響でしょうかね。

 しょうじき村なか辺りの岩倉町でまた素適なお店を見つけましたよ、アートを通じて心豊かな暮らしを提案とやら・・
 米子の人達のなかで制作活動を行っているアーティスト達の自主運営でなりたっています、コラボレーションという言葉からの命名とやら。
 今回は秋のお話会のようでしたよ、大きな梁が印象的な古い建物が良い状態で再生されていますね。 今も現役の赤いポストがいいですね。不思議にお向かいのお茶屋さんの軒先に杉玉、お酒でも扱っていたんでしょうか。



 今日も食べていますよ、醤油で味付けしたするめを串に刺したやつを・・これが昔懐かしいんだなぁ、実は岡本一銭屋で買ったものなんです。
 お客さんはもしかして藤田弓子さんではないですか?、エッ私のことですか違いますよ〜。
でも美しいからてっきり女優さんかと思いましたわ。オッホホそんなぁ〜・・てなおかみさんの口車に乗せられて妻が買ったのが忠太郎いか80本入りなんです。(アッハッハツそれはあなたが太っているのを逆手にとっての商売人のおべんちゃらじゃないの)←うっふっふっ私の独り言 
 丁度父兄が運動会の景品に使う駄菓子を買っていました、あれこれ買っているのを見ていると結構高額になるんですね。
 女将さんのお話によると一銭持って子供が買いに来ていた頃から駄菓子や玩具の卸問屋と小売を商っているのですと。
 鳥取大地震の際は大きな被害のあったそうです、家の中を拝見させて頂く、箪笥階段が珍しいですね。

 岡本一銭屋に別れを告げ加茂川方面に歩を進める、中ん棚橋を渡る、天神公園で一休み。
 


 ここから丁度後藤家(国指定重要文化財)が望めます、看板を要約すれば
 石見の国から移住してきた後藤家は江戸期に海運業を営み、藩の米や鉄の回漕の特権を与えられた海運問屋であった。主屋の半分が土間と板の間、構造は一部二階建ての土蔵造り、切妻屋根一部本瓦葺き、一番蔵は二階建て桟瓦葺き・・うんぬん

 米子の繁栄の基礎を造ったといわれる快五郎(1868〜1927)は広瀬の旧家から養子として迎えられる。彼は米子と堺港の倉庫業を創設し山陰各地の産物を荷役し取引先は全国各地のみならず朝鮮満州方面まで広がっていたそうである。その後タバコ事業に進出山陰のタバコ王と言われたと・。
 一銭屋さんのお話によるとこの後藤さんは鉄道建設事業に奔走したり、地元の公共施設を数多く寄贈したりと地域発展に大きく寄与したお人だと言われましたよ。JR堺線の後藤駅は彼の名前からつけられていたんですね。


 京橋を渡り四本目の角を右に曲がれば9つの寺が建ち並ぶ全国でも珍しいと言われているお寺銀座へと入って行きます。  
 米子城の要塞としたと言うお寺が延々と続く・・万福寺、心光寺、宝蔵寺、実成寺、妙善寺、安国寺、瑞仙寺、福厳院、そして周辺には吉祥院、本教寺、涼善寺などまさにお寺銀座と言われても不思議ではない風景でした。
                        
 寺通りにはお花屋さん、墓石屋さん、近くには老舗の和菓子やさん等などあり尚一層の情緒が増します。

 住職さんのご案内で名園を拝見させて頂きました、又ご近所のお方とも楽しいお話をさせて頂きました。八百屋さんで地元の自然薯を買いました。(これがまた信じられないくらい安い妻ビックリ!)
  法話のなかにありました、親が子を思う気持ちは子が親を思う気持ちの何倍にも深い愛情をもって接しているんだよって・・・


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