岡山あちこち


藤戸の浦(1)

 本土から児島へ渡る要衛の地、藤戸に元暦元年(1184)12月源平両軍が藤戸海峡をはさんで対陣した。

 平氏は船を漕ぎ出してきて渡ってこいと指し招くのであった。

 この挑発に源氏の武将たちは無念の思いで浜に轡を並べ海を眺めるばかりであった。

この沈滞した空気を打ち破ったのが佐々木盛綱であった。彼は浦人から対岸に通じる一条の浅瀬を教えられていた。
 勇躍波浪凌ぐ寒中ものともせず、この岩鼻から馬躍らせ乗り出し一気に海中を押し渡り先陣の偉功を立てて平氏を屋島へと敗走させた。
写真は乗り出し岩
藤戸の浦(2)

 佐々木盛綱はこの功で備前国児島を賜り入国して、訴訟があるのもは申し出よとふれると一人の老女が盛綱に亡き者にされた吾が子を返してくれと訴える。

 先の藤戸の戦いに、この老女の子の漁夫に海の浅瀬を教えられ先陣の功を立てたのであるが、この事が他に漏れるのを恐れて、かの若者を亡き者にしたのである。

 この藤戸寺(倉敷市)は盛綱が源平両軍の戦死者の霊を慰め、敵陣に一番乗りの手引きをしてくれた若者の霊を祀るため大法要を営んだ寺である。
 藤戸合戦の三ヶ月後に平氏一門は壇ノ浦で滅び去るわけであるが・・・屋島の合戦を次ぎの与一でどうぞ。
那須与一公墳

 渚にある岩に向かって祈った(祈り岩)。矢筈を弓にかけて、的を見た。
的が揺れているのではない、己が揺れているのだ・・・無心に手と腕が動いた、ひゅうーと放った矢は扇の要際を一寸ばかり残してふゅうと射切った。
 どぉ〜と歓声が上がった、平氏も源氏も・・・

 元暦二年(1185)二月十九日讃岐屋島の戦いのハイライトである。

 勇名を馳せた与一は全国の五荘を拝領した、備中荏原庄もその一つであった。しかし、与一(宗隆)は病死をする。諏訪宮(井原市)は弟(宗晴)が建久三年(1193)に諏訪神社の二神を勘請し着任した。
 その昔、荏原の那須氏がその祖与一公を偲んで建てたそうですよ。
中国地方の子守唄

 ねんねこしゃっしゃりませ ねたこのかわいさ〜♪ この子守唄、遠い昔からこの地方に歌い継がれて来ました。

 小さい頃からこの子守唄で育った声楽家上野耐之は昭和3年作曲家山田耕作の前でこの素朴で優しい唄を披露したところ、山田耕作は大いに感激し、すぐ編曲し「中国地方の子守唄」として発表全国に反響を呼びました。

 そのご、イタリアに留学した上野はミラノ放送局から「日本の子守唄」として放送したところ「世界の子守唄」だと絶賛されたそうです。
写真は上野の生家と高屋の町
宿場町を歩く(1)

 山陽道(西国街道)は高屋宿が備中で次ぎの神辺宿から備後になります。
この高屋地方(井原市)は安土桃山時代棉の実が伝わり、自然条件に適していた為、綿花が多く栽培された。江戸期になって藍が伝わると藍染めの木綿が織られ始め紺木綿として織物が発展し、今日の織物の町となったそうですよ。

 ジーンズを始めたのも日本で最初といわれ、外国産に押されている今と違って織物が全盛期だった頃の高屋は活気に満ちた町だったろうと思いますが・・・

 古い町並みを彷彿とされる家々は町の南に国道が出来たため、今はもう住宅街としてひっそりとした佇まいになっていますね。
宿場町を歩く(2)

 今市駅

 旧山陽道を神辺宿から高屋宿をすぎ宿場七日市を過ぎると今市駅という間宿がある。
今は全く住宅だけの町も江戸時代には小田川を上って来た高瀬舟がここ今市駅で終点になり、多くの物資や情報が集まり大いに賑わったらしい。

 参勤交代には七日市の間宿(あいのじゅく)として当時は上宿12軒中宿62軒もあったという。
また、この今市西町には那須氏の中堀城が有ったとも言われ歴史ある町だったのですね。
 ちなみに今市(井原市)の町名は江戸期から呼ばれていて、今とは江戸期の事を指すらしい。

 町の中ほどに樹之枝庵という割烹料理屋さんがありますが、そのすぐ側に今市本陣の記念碑が建っています。

 さて次ぎは矢掛の宿まで足を伸ばしましょうか。
宿場町を歩く(3)

 矢掛宿

 旧山陽道18番目の宿場町、矢掛宿は(小田郡)で、一歩町に入ると妻入り商家群があり江戸の昔に入りこんだような気持ちになりますね。  

 その中でもひときわ気高さを保っているのが、矢掛本陣(石井家)であり脇本陣(高草家)であろう。どちらも白壁、鬼瓦、虫籠窓、なまこ壁など日本建築の粋が結晶されている。

 同じ宿場内に本陣と脇本陣が対になっているのは珍しい、どちらも国重要文化財である。
神辺本陣と違うのがこちらは高貴な方が宿泊される本陣であるということです、道理で道理で・・・

 櫓の建物はやかげ郷土美術館で書家田中塊堂と洋画家の佐藤一章の作品が展示されていました。

 私の母の実家に近く、この町には子供の頃よく遊びに来たものです。懐かしいですねぇ。
吉備真備公(1)

 矢掛宿を小田川を東に沿って歩むと真備町(吉備郡)という町に入ってきます。
 
 このあたりの豪族下道氏の長男として生まれた吉備真備は716年22歳のとき留学生として唐に渡り勉学に励んで19年後帰朝した折、多くの典籍、測量器具、武具、楽器など又、囲碁の請来やカタカナの発明、麺の製法等など持ち帰って天皇に献上したそうです。

 その後、右大臣に任命されるも750年筑前守として左遷される・・・なんとなんと。


しかし、752年再度唐に渡り鑑真を伴って帰朝する等など偉大な行政官いやまた政治家だったと思われます。
吉備真備公(2)

 その吉備真備公の菩提寺が吉備寺であり、その南の小高い山の中に吉備公墳が祀られていましたよ。

 近くには吉備真備公が岩の上で弾いたという弾琴岩があります、そしてなんとなんと、最近開通した井原線のここの駅名が吉備真備駅とは・・・あぁ〜

 宿場町を歩く(1)(2)(3)から吉備真備公まで東へ東へ進みますと次はもう岡山3大河川の一つ高梁川に近くなります。
金田一耕助誕生の里

 高梁川のたもとの川辺宿から車で東へ約5分、岡田藩の陣屋(今の岡田小学校)が有ったという、古い家々の有る静かな田園の村落に着く。

 明治35年神戸に生まれた、推理小説の巨匠横溝正史は、父の出身地柳井原近くのこの地岡田(吉備郡真備町)へ昭和20年戦禍を避け、終戦後の約3年半疎開生活を送ったという。

 トリックを考えだす為に、ここの地形や、史跡を幾度も歩き川辺宿をテーマにした「本陣殺人物語」をかわきりに「八つ墓村」「獄門島」等の名作を執筆し、おなじみ名探偵金田一耕助を誕生させています。
写真は上が川辺の宿と下が横溝正史の疎開先
雪舟と宝福寺

 今、全国各地で雪舟の没後500年回顧展が開かれています。そこで雪舟にまつわるお話。

 宝福寺(総社市)の小僧、雪舟は修業もせずに絵ばかりを描いていたそうな、見かねた和尚は懲らしめに寺の柱に縛り付けたとさ。
 雪舟は悲しくなって涙をぽろぽろ流したそうな、この涙を動く足で鼠の絵を描いたんじゃてぇ。

 すると、この鼠が突然雪舟を縛っている縄を噛み切ったそうじゃ、これを見た和尚はビックリしたんじゃてぇ。
 そして和尚は雪舟に絵を描く事を許したそうな。

 その後の雪舟は京都の相国寺で水墨画の周文の薫陶を受けたと・・
その後中国に渡って修業をした雪舟は、天童山徳禅寺で「四明天童寺第一座」の称号をうける。雪舟は今の総社・備中赤浜に生まれています。
吹屋の町並み

 県道をはずれくねくねと細い道を車で登る事10分、突如としてくすんだ赤の家々が現れる。
寒冷地独特の石州瓦そして紅殻塗り込み壁、紅殻格子の家々・・ここが吹屋(成羽)の宿場街である。

 暑い暑い夏の平日に行きました、にもかかわらず大勢の観光客があちこち散策していているのに先ずビックリ、国選定重要伝統的建物群保存地区「吹屋ふるさと村」と言う言葉に乗せられてやって来た人々ですよ。ふぅ〜暑い!!

 吹屋街道の拠点として当地で産する銅、紅殻と中国山間地の砂鉄、雑穀などの集積地として江戸の昔から大いに賑わっと思われる面影が随所に見受けられる。

 吹屋よいとこ金吹く音が 聞こえますぞえ 窓坂え 
  吹屋よいとこ金掘るところ 掘れば掘るほど金がでる

 これらの荷は馬の背に乗せられ下(しも)の成羽の川から高瀬舟に乗せて備中玉島港を経由して上方方面に輸送されて行きます。玉島の賑わいの一端はここ吹屋の銅山等が担っていたという事になりますね。
旧広兼邸(吹屋)

 横溝正史の八ツ墓村のロケ地で有名な旧広兼邸です。

大野呂の庄屋を務めていた広兼氏は享和文化の頃2代目元冶が、小泉銅山と銅の捨石から取れるローハ(紅殻の原料)の製造を経営し巨万の富を残します。
 
 写真を見て頂ければ分るように豪奢な邸宅を構え、谷一つ隔てた山には当家個人の天広神社と衆楽園と呼ばれる広大な庭園があります。

 母屋の右には大正時代当主の結婚式に一度だけ使われたと言う離れが造られています。
その時代は何とも思われなかったのでしょうか?、母屋の2階には女中部屋、楼門の左に長く続いている建物には門番、下男、番頭、厩肥落とし場、下女、厩、子牛小屋に農作業部屋と続いています、人馬一体とは云え下女の両隣が厩肥落とし場と厩とは・・番頭の厠は厩肥落としと共有ですと、人間として扱われていなかったのでしょうか。
吉備路を歩く(1)

備中国分寺

 国分寺は国分尼寺と共に鎮護国家を祈る為、天平13年(741年)に聖武天皇の勅願によって建てられた官寺です。
 備中国分寺(都窪郡)の寺域は東西180mで周囲は築地土塀が巡らされ、中には南門・中門・金堂・講堂・塔などの伽藍が配置されています。

 平日にもかかわらず吉備路を大勢の人が歩いており、又自転車で各史跡を覗いていたりしていました。
 丁度私が国分寺に着いて写真を撮っていると九州大分から車で来たというご夫婦にお会いしました、この田園風景の素晴らしさを感歎されていましたよ。
 今夜のお宿は下津井との事、そこであればサンセットが素晴らしいですよとお教えしましたが。
由加神社と蓮台寺(1)

 その昔、盤座信仰(巨岩を信仰の対象)として近郷の人々はもとより、朝廷や江戸期には岡山藩主池田候代々の祈願所として栄えた地ですよ。

 江戸時代、諸国の人々はお伊勢さんや金刀比羅さんにお参りするのが一番の楽しみでしたし念願でした。
 金刀比羅さん、金刀比羅さんへと多くの旅人は歩いて来ます、讃岐に渡る前にここ由加神社大権現さんに足を止め災難、交通安全、家内繁栄を祈ったと言います。
 参道のお店で名物のお団子を食べたり、一夜の宴を遊郭などで過ごしたのでしょうね。

 そして、下津井港から、金毘羅舟舟〜追い手に帆かけてシュラシュシュシュウ〜〜♪と丸亀から金毘羅さんへお参りしたんだろうなあ〜
由加神社と蓮台寺(2)

 その昔、七人の王子が新天地を求めて唐琴の地へやって来たそうな。 彼等はその後、由加から唐琴、渋川などにそれぞれ住みその土地を開いたと言う。
 彼等は由加神社(倉敷市)を祭り、その子孫は氏子として、大権現の祭りには山坂越えて真夜中に棒の先に提灯をつけ参拝に来たという。
 由加大権現は、明治の神仏分離令で真言宗蓮台寺と由加神社に分かれ、今ではそれぞれ多くの参拝者を集め競っていますね。

 蓮台寺

今から1200年前、行基菩薩が五塵の垢を洗う聖地瑜伽山に、阿弥陀如来、薬師如来を「瑜伽大権現」として、おまつりしたのが始まりとやら。
 客殿は重層の入母屋造りの大構造物であり、玄関、御成門、茶室等写真を見て頂ければお分りの様にまさに甍の波ですね。  
 円山応挙の「竹鶏の図」を始め国宝級の絵画など美術寺として有名ですね。
由加神社と蓮台寺(3)

 由加神社

航海安全の神、手置帆負命と彦狭知命が祭られています。
 本殿は宝暦2年(1674)の建築とされ元禄13年(1700)の大火でほとんど焼け唯一残った建物とか。

 備前焼で出来ている大鳥居と備前藩主池田候の奉納の子連れ獅子が皆さんをお待ちしていますよ。
 あの塩原太助寄進の玉垣も境内に有りますよ、大勢の人が全国諸方から参詣しているのですね。
境内では名物のあんころ餅を売っていました、いつもお参りした時にはこれを買って帰るのが私のいつもの慣わしです。

 このお山からすぐの所へ最近由加温泉が出来お昼でも入浴出来るので便利になりましたね、勿論入って来ましたよ、大浴場から庭の景色を見ながらゆっくりと浸かって来ました。

 由加・金毘羅両参りと言うことで森の石松も参っていた、由加一日旅でした。
吉備津神社

 悪事を働いて人々を困らせている温羅(うら)という鬼を朝廷から派遣された吉備津彦命(第七代孝霊天皇の皇子)が犬飼部の犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)鳥飼部の留玉臣命のみ(とめたまおみのみこと)猿飼部の楽森彦命(ささもりひこのみこと)という3人の部下を率いて鬼を退治したそうな。これが神話であるが、昔話の桃太郎の鬼退治と共通点があると思いませんか。

 今日の吉備文化の基礎を築いた吉備津彦命大神を奉る山陽道屈指のこの大社(岡山市)は、仁徳期の創建で「延嬉式」では、最高位を与えられ一品(いっぽん)吉備津宮とも称されて古来より備前、備中、備後、美作、開拓の大祖神として尊崇されています。

 比翼入母屋造の「吉備津造」はわが国唯一の様式で日本建築の最高傑作といわれ、本殿と拝殿は国宝となっています。
 面白いもので岡山、広島東部辺りでは、病気などになると、ここの御竈殿で、竈に火を入れて御竈の鳴動の音によって吉凶を占って貰っています。
 神秘的な行事で「本朝神社考」や「雨月物語」等でも出てきます。
金光教本部

 福山から倉敷に向けて走る事約一時間、金光の町に入ると左手に巨大な建物が見えてくる、金光教本部(浅口郡)である。
 前を走った事はあるがまだ中には入った事がないので、今日その金光教本部へ行ってきましたよ。

 金光教の教えを聞きました、概略は次の様です。
金光教の基本的な教えは、神と人・人と人・人とすべてのものが共に生きる世界を求めて、一人一人がかけがえのない人生を心豊かに生きる事、となっています。

 天地金乃神をお祭りし、生神金光大神により結界取次をして頂けるという事です。
すなわち、人間の様々な問題を生き神様の取次ぎによって神様がお助けの道をお示しになるそうです。
 荘厳な雰囲気と分り易い経典で私達迷える人にも的確な指針を与えて下されそうで「一度本殿にお入りになってゆっくりなさいませ」と言われましたが・・・うん良い教えだ、後日妻と一緒にお参りしてみようかなと思いになりましたもの。
瀬戸大橋

 秋雨に煙る瀬戸大橋を見上げて思い出す・・・

 子供の頃宇高連絡船の列車に乗って高松へ遊びに行った時の事・紫雲丸事故を新聞で読み子供心に暗澹たる気持ちになった事を・時代は下り高松勤務時代出張からの帰路宇野駅から急ぎ連絡船に乗り込み甲板へ上がり潮風に吹かれながら啜ったうどんのうまかったこと・そして昭和63年4月瀬戸大橋が開通した月に私は高松を去った。

 その後、瀬戸大橋を走る電車の中からきらきら光る瀬戸の穏やかな海を眺めて感動した。

 大久保甚之助が描いた夢の架け橋は現実のものとなり多くの人々の足として四国の経済を大きく変えている。
高松最上稲荷

 もうすぐ年末 高松最上稲荷(岡山市)は、初詣になると岡山はもとより兵庫県の播州方面広島の備後辺りまで掛けてそれはそれは多くの信者で賑わいます。

 なにしろ日本一大きな鳥居から2キロの駐車場へ着くまでまあ2〜3時間は覚悟が必要ですから。門前町の賑やかな売り子の声に励まされて漸く本堂に着きます。
 
 今日はその高松最上稲荷へお参りに行ってきました、京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷とともに3大稲荷として大勢の参詣者を誇る高松最上稲荷は(ここから少し説明)8世紀報恩大師に最上稲荷(最上位経大菩薩)が降臨、祭祀した事に始まりますよ、元々天台宗の寺院でしたが慶長6年日円が日蓮宗に改宗させたと・・経王=法華経と日蓮の教えを根本としています。
 昭和29年最上稲荷教団として開教・稲荷山妙教寺を総本山として多くの信者を迎えているとやら。
 という事で神仏混合だそうです。南無妙法蓮華経・・・・
 
円通寺

 良寛さんは子供が好きで、鞠つき、かくれんぼ等は馴染み深い話ですが、晩年になっての良寛は貞心尼との恋物語などなにやら心が穏やかになってくる話ばかりです。

 その良寛和尚(1758〜1831)は、22歳の時から約18年間修業されたと言われる円通寺(倉敷市)。曹洞宗の名刹で行基の開基とされ、本尊の聖観音も行基の作と伝えられる。

 境内には本堂、開山堂、高方丈や良寛が雲水達と読書に励んだ良寛堂、そして起居をともにした白雲閣などが建ち並んでいます。

 良寛堂で見た一句

静かに坐っていい息をしよう
 
今日一日いい汗流そう 

今ここをいい出会いにしよう
鷲羽山

 中学生の頃ガキ仲間と始めてキャンプを張ったのがここ鷲羽山(倉敷市)でした。頂上近くの綺麗な水が流れている山蔭で飯盒炊爨したことを思い出しつい感傷的になっていましたわ。

 ひゅう〜ひゅ〜と荒ぶる寒風の松林をエッサホイサッと登って行きました。いやいやもう昔の面影はすでに無くなっていましたわ。でも展望台から見る多島美は昔のままに右を眺望すると技術の粋を結集した瀬戸大橋が讃岐まで延々と続いている事に感動を覚えましたね。

 ここの夕暮れの美しさは言葉さえ失うほどです。かつて帆船の港町として栄え、当時の佇まいが色濃く残っている下津井はつい其処ですよ。
田中美術館(でんちゅう)

 平櫛田中(井原市)は西江原村に生まれ後福山の松永の平櫛家の養子になる。彼は大阪の中谷省古の弟子から高村行雲を訪ね、禅僧西山禾山、美術界の先覚者岡倉天心などの影響を受け精神を重視した作品を発表しています。

 六代目尾上菊五郎を題材に20年の歳月をかけた「鏡獅子」を製作しています。現在国立劇場の正面ホールに有るのがそうです。その試作作品がここ美術館に多く展示されています。

 田中の言葉
人間いたずらに多事、人生いたずらに年をとる。 今やらねばいつできる、わしがやらねばたれがやる。

 嬉しかったのが2階展示室に人間国宝故藤原雄の窯変花入れなどの焼き物が多く展示されていた事である。
 備前焼の収集をしている私にとってなによりの眼福であった。 
黒住教本部

 備前焼の啓始め雄、建そして鈴木治等の焼き物を集めている黒住教、是非見たいものと思っていましたが吉備津様に参った時に行って来ましたよ。
 30年ほど前市内の大元から盛大にこちらへ遷座された事は記憶にありますがお参りは今回が始めてです。

 岡山市尾上神道山の本部への緩やかな山頂までは「まること」の精神で「ひとに親切にとりわけ弱い人にあたたかい手をさしのべよう」のスローガンどおりバリァフリーの動く歩道でしたよ。

 黒住教は教祖黒住宗忠が文化11年(1814)11月11日一陽来復と言われる冬至の日、万物の親神である天照大御神と一体に「天命直授」されたと言われています。

 どうぞお入りなさいと言われて本堂に上り有り難い教えを賜わりましたよ。登る朝日を拝む祈りと奉仕の「日拝」の宗教ですって、有難うございました。


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