広島あちこち

馬乗り観音

 二十数年前かつての上司から聞いていた霊験あらたかな馬乗り観音の話を思いだし、今日は福山から北へ車で40分、紅葉の名所山野峡の、馬乗山入り口を左手に車一台がようやく走れる曲がりくねった急な坂道を心細く感じながら登ったところに在りましたよ、
その昔、うら若い少女が白い馬に乗って月詣でに来ていたという馬乗り観音が・・・

 十一面千手観音の前で有り難い説法をたまわり帰ろうとしたその時、いやビックリもうビックリ二十数年前からお会いしていない当のかつての上司が堂宇へ向かって来るではありませんか・・観音様のお導きか、はたまた偶然か?

 不思議ですね、いやビックリもうビックリですよ。

 写真の下は小田川の上流にある小さな小さな水力発電です昔からありましたが、懐かしい風景ですね。
服部大池

 福山北部にお住みの方々は春になると服部大池(福山市)の桜を楽しみにしています。

 福山藩水野氏が寛永20年から正保2年(1642〜1645)にかけて完成した領内第一の大池です。ところがこの工事、結構難工事で特に表流水を流す西側の固い岩盤を刳り貫く工事に2年もかかり土砂が留まらない・・・

 そこでこの大池の砂留めに人柱をたてる事にした。人選には着物に横継ぎを着ている娘をと決めた。たまたま母の代わりに仕事に来ていた16歳のお糸が選ばれる。
 母はもとより、お糸と恋仲の文左はこれを知り半狂乱になりこの池に身を投げてしまう。

 堤の底奥深く生き埋めにされたお糸は竹筒のもとで線香を焚き続け、その命ある限り煙は土手を漂い働く人の心をかきむしったという・・・
 備後一かや 服部池は かあいやお糸が人柱

 当時この池は法成寺村に属していた為「法成寺池」にしようとしたが、文字を解体すると「水去って寸土と成る」となり縁起が悪いとされ、今の「服部大池」となったそうな。
備後一宮 吉備津神社

 2月の節分には近郷の人達が、面白おかしく大風呂敷を広げる「ほらふき大会」、そして11月の植木市で賑わう「市立大祭」等で親しまれている、ここ吉備津神社は一宮さん、いっきゅうさんと呼ばれていますよ。

 吉備津神社は慶安元年(1648)美津野勝成造営の入母屋造の国指定重要文化財です。
祭神は備前、備中、備後、美作を治めた吉備津彦(第七代孝霊天皇の皇子)であり、岡山の吉備津彦神社の分社である。

 この境内近くには、倒幕を画策した後醍醐天皇に楠正成と共に挙兵し、その計画が失敗するや一族郎党23人と共に、吉備津神社に放火して自刃したと言われる桜山四郎の桜山城跡もありますよ。
 
 尚、一宮とは平安時代国司がその国で一番優遇したお宮のことです。
神辺本陣

 神辺(深安郡)は山陽道の宿駅として栄えた町です、当時の町並みが続く七日町の一角に神辺本陣がある。江戸期の参勤交代には特に肥前黒田藩の常宿となっていたそうです。

 この建物は約250年前そのままの姿を残しています、黒塗りの土塀に囲まれていて、正面の門を入るとお成りの間、左に二の間、右の札の間には宿泊した各大名の関札が掲げられています。

 個人所有の為一般公開は不可能でありましたが、井原鉄道開通に伴い、家主さんと交渉した事で公開されるようになり、今では珍しい日常の様子などが伺えます。

 今国際的にも大活躍のアムダを運営しているお方は、当家のご親戚にあたります。
明王院本堂

 国宝明王院(福山市)の前を流れる芦田川前には草戸千軒町があった、常福寺(今の明王院)の門前町と言われている。江戸時代初期寛文13年(1673)の大洪水で一瞬にして埋もれてしまったそうな、日本のポンペイと言われる所以である。

 明王院は大同2年(807)弘法大師の開基と伝えられる。古来当寺は観音応現の霊場として信仰をあつめている。
 木造十一面観音菩薩は重要文化財である。

 この院は鎌倉時代末元応2年(1321)に建立され建築様式は全体的に和洋であるが、細部には大幅に唐様が採用され外陣の輪垂木天井は極めて珍しい手法だそうです。内海地域では尾道の浄土寺本堂(国宝)と並んで最も古い建物である。
明王院五重塔

 本堂の隣に有るのが、国宝五重塔である。塔は貞和4年(1348)往時秀頼の時、一文勧進の少資を積んで造られたものらしい。

 建築手法は和洋の形態を良く整え、雄大で南北時代を代表する建築で全国指定19塔の内5番目の古さを誇っています。
 
 草戸千軒は当時内海にあり草戸は有数の港町だったらしく、朝鮮、中国、南方諸国とも貿易していたと言う。
 埋もれた遺跡は昭和40年代頃から発掘調査されていて、その生活の姿や遺跡物が多く展示されている県立歴史博物館は福山駅すぐ近くに有ります。

 一つ境内に国宝が並んで建っているの珍しい、福山へおいでの節は是非寄って見る事をお奨めします。
原爆ドームと原爆死没者慰霊碑

 今年もその日はやってきた。
広島は川のある街である、現在の繁華街は八丁堀辺りであるが元安川と本川に挟まれた原爆ドームのある一帯は城下町時代から大正期にかけては広島随一の繁華街であった。

 人類初の原子爆弾はこの町を始め広島市街一帯を破滅にし多くの人達はこの世の地獄を見ながら息絶えた。

 原爆死没者慰霊碑は東大教授丹下健三さんの設計により犠牲者の霊を雨風から守りたいという気持ちからハニワの家型に造られその下に死没者名簿が納められています。

 原爆ドームは被爆前は「広島産業奨励館」として広島のシンボルとなっていましたが、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分この建物南東160Mの上空580Mで原爆は投下され一瞬にして廃墟の残骸となった。

 原爆の惨禍を後世まで残そうと全国の募金で保存が施されていましたが、1996年(平成8年)12月核兵器廃絶と人類の平和を求めるシンボルとして世界遺産に登録されました。

 主語のない碑文「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」と・・・
広島県立美術館

 先日東光展を鑑賞する為に緑深い「縮景園」に隣接する広島県立美術館へ行って来ましたよ。
私が広島へ単身赴任していた時はよく絵の鑑賞に行っていたものですが、平成8年に施設及び内容を一新されてからの美術館の充実ぶりに先ずビックリ。
 都心部に有るこの美術館はひろしま美術館や広島城などの施設が続き「文化の道」沿いにあります、伊万里柿右衛門様式色絵馬は当館のシンボルとなっていますね。

 東光展の鑑賞を終え館内喫茶店のお食事も美味しくて、窓から眺める縮景園から続く緑の眺めと相俟ってセンスが良かったですよ。
 感動的な絵と美味しい食事に満足満足の半日でした。
福山城

 江戸期に入って元和5年幕府は西国の押さえとして、この地へ水野勝成(徳川家康の従兄弟)をして築城、その後5代で断絶、元禄13年松平忠雅移封、宝永7年から阿部氏移封、特に阿部正弘はペリーの黒船来航時日米和親条約を結んだ逸材で皆さんよくご存知でしょう。以来明治維新まで9代阿部氏が続く。
 大政奉還後、薩長土肥連合軍が押し寄せ天守閣にも砲弾が打ち込まれたそうです。

 天守閣は五層天守二層の付櫓の白亜が美しく、伏見城から移築された伏見櫓、筋鉄門はともに国重要文化財であり、又御湯殿等が往時のままに見る事が出来ます、新幹線福山駅からも良く見える為旅行者には喜ばれていますね。

 このまわりには福山美術館、県立歴史資料館、ふくやま文学館など福山の文化ゾーンになっています。
しまなみ海道

 民営化問題で今注目の本四架橋・・・
そのうちの一つにしまなみ海道がある、採算を考えずに造るものだから、折角の美しい橋も何か金食い虫のような目で見ると気の毒なような気がしますね。

 しまなみ海道は尾道(尾道市)から瀬戸の島々を渡って四国今治を結ぶ三橋の中では一番長い橋です。

 途中、西の日光と言われている耕三寺や平山美術館のある生口島、全国の国宝、重文の武具、甲冑の八割を所有する大山祗神社の国宝舘がある大三島などは是非一度降りてみる価値がありますね

 今回は尾道の次ぎの向島から見た橋です。
ニコピン先生 葛原しげる

 皆さんは小学校時代夕日や村祭りなどの童謡を唄っていませんでした?。
この唄のほか有名な童謡や全国の400校に及ぶ校歌を手掛けた作詞家がここ深安郡八尋で産まれた葛原しげる(1886〜1961)であります。

 しげるは琴の名手勾当の孫にあたり、教育者として従事する傍ら歌謡作詞をされます。
明るく、楽しくそしてより美しく、ニコニコピンピンをモットーに生きられたお方でニコピン先生の名で親しまれていますよ。

 夕日 
ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む ぎんぎんぎらぎら日が沈む まっかっかっかかな空の雲 みんなのお顔もまっかか ぎんぎんぎらぎら日が沈む。
 村祭り
村の鎮守の神様の 今日はめでたいお祭り日 どんどんひゃらら、どんひゃらら どんどんひゃらら、どんひゃらら 朝から聞こえる笛太鼓
今年も豊年満作で〜〜
 
厳島神社

 うえのの穴子めしでお腹は満足、渡船で対岸の厳島へ向かう、十数分で海に浮かぶ大鳥居が、緑深い山中に五重塔が、そして壮麗な厳島神社の社殿が海に浮かんで見えてくる。
 昔の人が言っていた極楽浄土へ参る事とは正にこの事かと・いやいや龍宮城とはこんなものか・

 厳島神社の創建は推古天皇即位元年(593)佐伯鞍織によると伝わるも現社殿は仁安3年(1168)平清盛によって造営されたもの。本社社殿は陶氏と争って勝利した毛利元就が元亀2年(1571)建築されたものとやら。

 回廊で結ばれた本殿を中心に拝殿、高舞台、能舞台など多くの棟が海に浮かぶ様は平安王朝の雅を今に伝えていますね。

 もみじ谷公園へ行って見ましたが、この時期少し早すぎました、顔まで赤くなるような紅葉は十一月に入ってでしょうかね。
浄土寺

 尾道の古寺巡りは港からすぐ山への狭い民家に通じる坂道を登ったり降りたりと大変です。

 真言宗、浄土寺は金堂、多宝堂、両国宝を始め重文の阿弥陀堂をはじめ山門、木造十一面観音像など数多くの文化財の宝庫として有名な古刹です。

 なにせ奈良法隆寺建立(607)と同時代推古天皇の24年(616)聖徳太子の開基と伝えられているぐらいですから。

 秋日和の清々しいある日、その重文の中の「源氏物語扇面散屏風」の特別公開を拝見しに行って来ましたよ。
 平安期大和絵独特の引目釣鼻と云うのでしょうか、目は細い線で引かれ鼻は小さく、顔全体が面長で頬のあたりから丸みを帯びた人物などの絵に紫式部の源氏物語の一節、短歌などを記した扇の60面を四季の順に配された六曲一双の屏風を拝見した時、思わず感動の声を上げていましたがヤァ〜。写真厳禁ですので皆さんに御披露できないのが残念!!。
佛通寺

 ここのところ毎日紅葉を求めて西東であるが紅葉といえば福山近郊では何と言ってもここ佛通寺(三原市)が一番でしょうね。

 というところで、行ってきました、土曜日という事もあってか凄い人出でしたよ。見頃の時期は駐車場から山門までの道の両脇は紅葉の赤で皆さんの顔が赤くなるくらい鮮やかですが、今年はちょっと盛りが過ぎていましたね、でも残り少ない紅葉と下に落ちたもみじ葉に人生の儚さをしみじみ感じさされましたよ。

 佛通寺は1397年(応永4)沼田荘地頭小早川春平が愚中週及禅師(大通禅師)を招請して開いた大寺で、最盛期には山内の搭頭88ヶ所寺西日本に末寺約3000寺も有ったそうです。
 1905年(明治38)に臨済宗佛通寺派として独立したと言う事だそうです。

 うららかな春お参りに行くと新人社員研修で禅の教えを取り入れている会社が多く見うけられますが、あの社員達はいやいや会社はデフレの今禅の教えをどの様に実践しているのでしょうかねぇ。
神明さんの町

 この時期年末からお正月にかけてお酒を飲む機会が多くなってきます。
今日は酒所広島でも全国ブランド酔心でお馴染みの山根本店がある三原の本町辺りを歩いてみました。
 酔心と言えばかの横山大観がこよなく愛した酒という事で良く知られています。

 この町並みは春を呼ぶといわれる日本一の達磨でお馴染みの神明さんのお祭りには近郷近在の人々の参拝者で賑わいます。

 今日来てビックリ、都市計画事業でしょうか道幅を広げていました、その為古い家がどんどん壊されていました。少し不便だけれどあの風情あった町並みは新しい家と商店で見る影も有りませんでした。

 地元の人々にとってみれば利便が良くなったでしょうが、歴史有る町並みを愛する人達にとって見れば何とも味気ない町になったものだと思わずにはいられませんが・・・
武蔵腰掛石

 NHKの大河ドラマ武蔵が始まりましたね。

 吉岡兄弟との果し合い佐々木小次郎との巌流島決闘などをへて完成した二天一流剣法の話は、私達をワクワクさせる物語ですが・・

 伝説の人武蔵も福山へ来ていたのですね。噂は聞いてはいましたが今日護国神社へ行ってみました。有りましたよ噂の腰掛石というのが。

 ここから由来を書いた板によると。
元和元年(1615)大坂夏の陣において、武蔵は三河刈谷三万石城主水野日向守勝成の陣に属し参戦する。寛永年中(1624〜1629)武蔵は福山城に勝成を訪う、武蔵の養子三木之助は水野家中中川志摩之助の三男なり、水野家家老中山将監は、大坂陣中におけるよしみにより武蔵を自邸のおいて饗す。その時武蔵が屋敷庭園の庭石に腰を掛けたのが・・・うんぬん
 という事で今はここ護国神社(阿部神社)に鎮座していますよ。
スサノウ神社(天王社)

 新市町は2月をもって福山市に合併されました。喧嘩御輿で名高いスサノウ神社がここ新市にあります。

 私達が子供の頃には夏に茅の輪くぐりをしたのを思い出します。
蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として文献にも記録を残している他「疫の隅国社」として延嬉式文献にも見え古い歴史を持った神社で祭神はスサノウノミコト、稲田姫命、八王子。

 本社は俗に祇園社といわれ備後国三祇園社の一つとして有名です。別名疫隅社、天王社とも言われていますよ。

 スサノウノミコトが上国の砌り、しばしばこの地に立ち寄り、巨旦を滅ぼしその兄蘇民を助けたので蘇民は五社八殿を建立しスサノウノミコトを祭神として祀ったと云われています。
 
 天満宮は本地堂と言われ東照宮の鳴き龍に匹敵すると言われていますよ。
 
上下の町並み

 かつて天領として栄えた上下は備後、備中5万石を支配する代官所が置かれ石見銀山の銀の集積の中継地として重要な位置を占めていたそうです。

 今は静かな商店街も往時の繁栄を偲ばせるなまこ壁、虫篭窓、ウダツなどがある家々が連なっている。

 旧岡田邸は田山花袋の小説「蒲団」のモデル岡田美知子の生家ですよ。

上下キリスト教会は明治時代財閥角倉家の蔵として建てられていたもので、今では広島県文化財百選建物として上下(甲奴郡)の中心地にあってwシンボル的な存在です。

 今回は写真UPはしていませんが、食事処岡田はかつての警察署で見張り櫓が特徴ですね、そして吉田本店は黒漆喰のなまこ壁が威容を誇っています。
今高野・龍華寺

 もう世の中春爛漫、桜を追って今日も山の中へ入って来ましたよ、福山から約40K世羅郡今高野へと車を走らせました。

 いやいや素晴らしい桜並木じゃあ有りませんか、今高野入り口総門から龍華寺まで道の両端にある石燈篭に火が入っていて幻想的な桜見物になりましたよ。

 今高野は鎌倉時代に紀州高野山領として太田の荘を治め繁栄した「龍華寺」は最盛時には山内に12寺院が有ったそうです。
 真言宗の大寺で開祖は勿論弘法大師さんですね。

 山の気の 水より冷し 坊の月
首無地蔵

 昭和52年5月18日の未明、府中市出口町に住むAさんの夢枕にお地蔵さんが立たれ「今地中に埋められている掘り起こして祀ってくれないか。願い事は何でも聞いてやる」とのお告げ・・・

 いつもの様に畑仕事に彼は行きましたよ・・畑の畝にある石に単車を乗り上げ転んだので危ない危ないとそこにある石を整理しようと思い掘り起こした中に有りましたよ・・今朝夢見に現れていたお地蔵さんが・・それも首がないじゃありませんか・

 その後地主さんのはたらきもあって小さな祠を建てお祀したところ近郷近在の人々の噂になり全国各地からも多くの信者を集め今のような「首無地蔵菩薩」となり現在に至っています。

 私も早くから噂は聞いていましたのでその当時から毎月参りをかかしませんでしたが転勤で福山を離れて定年で帰ってみると素晴らしい建物が出来ていてビックリしたのを思い出しています。
草戸稲荷神社

 福山駅から車で約10分芦田川を渡る頃見えて来ましたよ左手に・・ひときは鮮やかな朱の美しい建物が周囲の山の緑に映えてますね。
 川を渡って左に走る事5分明王院の駐車場につきます、先ずは明王院へ参拝です・・
さあではお隣りの草戸稲荷へ参りましょう。

 草戸稲荷は明王院の鎮守として大同二年(807)空海上人が斎き祀ったとされます、祭神は保食神、宇加之魂神、大己貴神の三神です。

 年末年始には商売繁盛、家内安全、交通安全を祈念する善男善女で県内でも有数の参拝者を集めていますよ。
エデンの海

 忠海高等女学校、東京から青年教師南條は情熱をもって赴任する。自由奔放な清水巴は何故か彼に反抗を示す。寄宿舎から抜け出し南條に見つかると"私本当に好きな人は先生です"と・・
 若杉慧の小説エデンの海は戦後の荒廃した中で私達に明るい一筋の光を照らしてくれたものです。

 私達の年代では鶴田浩二・藤田泰子、若い年代の人達には山口百恵の映画でお馴染みですね。
 
 明るい太陽が海に照り返してまぶしい、目前に広がる多島美ここはまさにエデンの海・・
  

 一息ついたところで、さあ竹原はもうすぐそこだ。
 
尾道千光寺

 一団の参詣者が本堂で みなひとの 衣のうらの たまわそも 仏ともなる 宝ならむ〜〜と一心不乱に唱えていらっしゃいますよ。
 火伏せの観音様として古くから信仰されていたここ千光寺は標高137mの大宝山に建てられています。
  境内にある巨岩、宝珠岩とも烏帽子岩いわれ見ると頂上に大きな玉が有りましたよ、何とこれが又光っていたと言うんですね。
尾道の町や海上遠く照らし千年千里も末永く弘く光る様にとの願いからこの寺が千光寺と言われるようになったとやら、そして尾道は古来から玉の浦といわれているそうですよ。

 日本の音風景100選にも選ばれている驚音楼から見る尾道水道の風景の素晴らしいこと・・
海霧

 瀬戸内の多島美は下津井の鷲羽山と共に並び賞される三原の筆影山・竜王山、それをUPしようと思い行って来ましたが・・・チョット待って下さいよ・・・海霧に出合ったんです。

 もや〜と浮びあがった島々の幻想的なこと・・よく晴れて冷え込んだ日に発生するというこの現象、珍しいのでちょっとUPしますよ。
 
竹原の町を歩く 1

 安芸の小京都、竹原 平安の時代より京都下鴨神社の荘園として栄えた町、今でも京都にちなんだ名称や旧跡が残っている。

 唐破風が美しい松坂邸・数寄屋造の吉井邸など100軒ほど江戸期の町屋が軒を連ねる国の伝統的建物保存地区だ。

 写真は小笹屋酒の資料館です。お馴染みニッカウイスキー創設者故竹鶴政孝の生家として有名ですね。 最愛の妻リタとの純愛、湖畔で誓いあった将来、その二人を祝福するルーシーそして義父の急逝は彼にとって悲しみと落胆が大きかったと言う。
 政孝によれば父敬次郎の代酒造とともに塩田、製糸など営んでいた。三男政孝が家業を継ぐも洋酒造りに専念する為親戚の酒屋に家業を譲ったといいます。

 享保十八年創業の造り酒屋の竹鶴邸は入母屋造妻入りの母屋と南に2棟が並び南の1棟は明治期には銀行だったそうです。

 下市〜上市あたりは美観地区のハイライトの様に思いました。写真下は重厚で華麗な松坂邸、入母屋平入り・てり、むくりの大屋根・漆喰塗りの大壁・塗り込め窓額縁つきの格子出窓、文政、天保頃の建物といわれています。
三川ダム

 よく降りましたね、
五月雨をあつめて早し最上川   
 梅雨の先走りのような雨が続く備後地方。

三川ダムの放水をやっているとの情報を耳にする・・野次馬根性丸出しの私何はさておき車を走らせましたよ、世羅の甲山町まで。

 満々と水を湛えた神農湖の三川ダムからの放水、山々に響く轟音、冷気を発生しながら舞いあがる霧、息を飲む光景です。

 ダムの湖底は久恵の里と呼ばれ平家の落人が住んでいたという、ここ大妻森林公園は大妻学園創始者、大妻コタカの生家があります。
江田島海上自衛隊学校

 東の東京駅と並び賞される名煉瓦建築として知られる江田島の海上自衛隊学校へ行ってきました。
 学校のパンフレットから抜粋です。
海軍兵学校は明治21年8月東京築地から江田島に移転以来、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスとともに世界3大兵学校として知る事になる。
 終戦により昭和20年12月1日約60年の幕を閉じる、以降連合軍が教育施設に使用、昭和31年1月返還横須賀にあった術科学学校が移転、昭和32年5月10日幹部候補生学校開校、翌年自衛隊江田島病院開設現在に至る。
 
三和 時安  光福寺

 あっちぃ〜〜あっちぃ〜〜大暑の最中・・涼しい高原に行きた〜い・・・と思っていたら・・・
三和の森ウインズコートに近い路縁にちょっと洒落た喫茶店が有るよと友達からの情報・・
 妻を誘ってレッツゴー、窓辺から眺める南に続く連山、高原の爽やかな涼風・・・ゆっくりとお昼を過ごしましたよ、友達の油絵も飾ってあったりして良い雰囲気・良い雰囲気・

 この近くに松で有名な古刹が有るよと言う妻の言葉に触発されて・・
ではではと車を走らす事10分そこそこ・・

 鎌倉中期の草創、天台宗より浄土真宗に転宗、住職にはお会い出来なかった為、詳しい事は判りませんが由来板によりますと

 昔青瀧山(どこに有る山でしょうかね←私の疑問)に有った桂の木の大樹をもて、他樹一切混えない堂宇を建立し「備後の桂堂一本造り」としてその名は遠くまで知られ参拝者が絶えなかったと言われています。
 度重なる災禍により残念ながら往時を偲ぶ面影は有りませんでしたね。堂宇前の松の枝振りが素晴らしかったですよ。

 西東ゆかしき松の茂る寺
下蒲刈島で遊ぶ(1)

 何と迂闊なことでしょう、古い町並みを歩くのが趣味の私とした事が・・大崎下島の御手洗へは安芸灘大橋から橋伝いに行けると思っていました。違ったんですね、今はまだ船でないと渡れないのですね。という事で急遽蒲刈島県民の浜へ宿泊・・・
 
 歩いてみました、由緒ある島と言われているわりに以外と古い町並みの風情が残っていないですね。
 町並みの一角に松涛園がありました。
江戸時代朝鮮通信使、(ふるさと紀行鞆)下関、上関に寄港しつつ下蒲刈島へ立ち寄ります。
(つづく)
下蒲刈島で遊ぶ(2)

 朝鮮通信使を核に全島庭園化構想の一環として松涛園を中心に蘭島美術館・白雪楼・蘭島美術館別館・昆虫の家・三之瀬御本陣芸術文化館を配した一帯を一日掛けて散策しました。
 
 歩いてみると本当に歴史を伝える物と言えばせいぜいこの長雁木くらいかな・・・
しかし三之瀬瀬戸を借景にした松涛園の中へ富山砺波地方の代表的な商家造りの旧有川邸、上関町の造り酒屋旧吉田邸、宮島の町屋旧木上邸、そして蘭島美術館の上にある白雪楼は枚方市の茶室、竹原の頼邸の別邸をとこの一帯に移築して歴史と文化の発信地としている事は町おこしに悩んでいる地方の町の素晴らしい町おこしの手本になるんではと思ったですよ。
       (つづく)


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