ふるさと紀行

鞆の浦紀行
はじめに

 38万人住む備後地方の中核都市福山、何かと両隣の倉敷・尾道に観光の面で後進地との通説に坑しきれなかった面がある。
 元々譜代大名阿部氏の福山城をはじめ多くの観光資源がありますが、観光行政が駄目なのか、アピールが足らないのか全国に知られていないのが現状である。
 その中でも唯一全国に知られていると思われるのが、鞆の浦である。

 今回、私の目から見た鞆の浦を一文したためたいと思う。



 鞆の浦のこと
穏やかな瀬戸の海を望んだ小さな港町、鞆の浦
 この地は仙人も酔った仙酔島、弁天島、を始め大小多くの島々が点在し、江戸時代に朝鮮通信使が日東第一形勝と詠んだくらい美しい景観の港町であります。

 鞆の浦・・なんとも響きのよい名前であろう、この名前が使われたのは万葉集のなかにある。
由来について古老に聞くと神功皇后が沼名前神社(ぬなくま)を訪れ武具の鞆を奉納したからだとか、また、この港には船の往来が多くその為に船の艫からつけられたとか諸説紛紛である。
 
 いずれにせよ、この地が古来より船の往来によってまた多くの有名人が訪れたことは想像に難くない。
万葉の里
 万葉集の権威故犬養孝先生講演のテープを聞いたのはもう六年前の事であるが、先生の朗々と詠う詩を先生一流の話術と相まって会場が楽しく進んでいく様子が嬉しい。
 このなかでも鞆の浦の詩の話が出てくる。

 鞆の浦を詠んだ詩は七首と多くのこっている。
そのなかでも、大伴旅人の次の詩があまりにも有名である。
 
 鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘れえめやむ

 旅人が大宰府の長官として赴任する途中に寄港し、また三年後都へ帰ることを許された彼はかつて、妻郎女も立ち寄ったであろうこの鞆の浦に再度立ち寄るも、その時はもう妻はこの世にはいなかった。

 わぎもこが 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき

 磯の上に 根延ふむろの木は 見し人を いずらと問はば 語り告げむか

 なんと悲しい詩であろう。
「天木香木」は当時この磯に大きく枝を広げこの港に来る人々の目を楽しめていたに違いない。
 人の聞きづてによるとグリーンラインあたりに最近までこれと同じようなむろの木が有ったと言う事であるがどうなんでしょう。



 鞆の名所、対潮楼の下に「わぎもこが・・・」の歌碑が建っている。

 その後妻が聞きつけてきました。
ありましたよ、ありました。
 鞆の浦から沼隈を通り車を松永に向けて走ると金江集落があります、あったんです其処に・・・

 目道り周囲4.3m、側枝1.7m樹高8m、主幹は枯死していますが、側枝が旺盛に枝を張っています。枯死した古木の堂々たる姿を見たときはワォ〜と思わず声をあげました。感動ものでしたね。

 天木香木は別名ネズ・ムロ・モロギとも言われて関東以西の海岸沿いに自生しているそうです。


実を言いますと、この木を見たあと、あぶと観音に行きましたが、そこの海岸絶壁に小さなムロの木を妻が見つけたんですわ、なんだなんだここにあるではないかと、またまた感動したものでしたよ。
ちなみ金江の木は福山市の天然記念物に指定されています。
平家落人の里
 平家が屋島の戦いで、義経の軍勢に敗れ西へ西へと敗走し、最後は壇の浦で滅亡するわけであるが。(岡山あちこちをご覧ください)

 鞆の浦から見て西の田島(内海大橋の下あたりで敷名の泊と呼ばれた)でも、源平の戦いは熾烈をきわめたらしい。(能登原の合戦)

 この平家谷でも敗走した平道盛(平清盛の甥)ら残党は逃げて逃げてやっと、今の中山南横倉という地に住んだという。

 今は六月、平家谷では菖蒲園があり今花も真っ盛りで大勢の見物客で賑わっています、伝えによると道盛が戦いに敗れこの地で菖蒲湯に浸かって疲れを癒したと言うi言い伝えから、現在の菖蒲園が作られたらしい。村落の活性化に一役かっているという事です。

 福山市内からしばらく走るり沼隈へ行く途中を左にまわり、鬱蒼とした木々の間を車で走らすとこんもりとした山の中に見え隠れする神社が道盛を奉った「道盛神社」である。
 旧暦8月13日に行う祭礼には昔、海戦で命を落とした平家の魂が宿る「平家蟹」が能登原の海岸からはるばるこの山をよじ登って参拝に来たとやら来なかったとやら・・・

道盛神社

 村落に入ると狭い道端には、所々にいわれを書いた立て札があるが、それらによると、平家が逃亡の途中にこの地に八日隠れ通した「八日谷」、そして急な山道のため馬の鞍が横になった事からここは「横倉」、また武将が鐙を落としたという「鐙ゲ谷」等々・・・

赤幡神社

 面白い事に源氏の白旗を嫌ってこの地はなんでも赤を尊重する風習があるらしい。そして、落人が足に吸い付いた蛭を「蛭まで私達を馬鹿にするのか」と言って蛭を切り刻んだという、それ以来ここの蛭は血を吸わなくなったとか・・・
観光鯛網
 豊後水道と紀伊水道の潮が流れ込んで丁度鞆の燧灘辺りでぶつかりあいます。この潮の流れは五月頃になると鯛を始め多くの魚をつれてきて魚島の態をなします。

 「エット・エットー・ヨイヤサッサー」



 今日も多くの鯛網観光のお客を乗せた船団を従え、指揮船が二艘の親船とともに沖合いの漁場へ向かいます。

 寛永年間鞆の沖合いにある走島の村上太郎の考案した絞り網漁は、二艘の網船が指揮船に従い海中に網を下ろし、両サイドから徐々に網をしぼっていくと多くの魚が取れるという寸法です。

 仙酔島から出航した船は弁天島の前で乙姫様が豊漁の舞を披露し、船頭が島に上がって祈願をすませるといよいよ沖合いに向かって出航です。



 今日もいい天気に恵まれ沢山の鯛が捕れるでしょう。
沼名前神社
 春です。後に新緑を背負った、ここ鞆のシンボル・沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)はさすがに堂々とした古社である。
 ちょっと難しいですが、神社の説明を少し。
綿津見神を祭る渡守神社と須佐之男命を祭る祇園社が一緒に祭られた延喜式の古社です。

 なにせ古いと言えば、祇園社は崇神天皇の代疫病が流行り平癒をここで祈願され、収まったところで、吉備真備公が代参され、疫隅国社の尊名を賜ったという。
 今の京都の祇園宮、八坂神社はここの祇園宮から移されたとか・本当に由緒ある神社ですね。

 今の本殿は元和時代福山藩主、水野勝成公により建立され当時は総黒漆塗りだったそうですが、明治の国社になる前に全部剥がし今のような姿になっているそうな、勿体無いですな。



 ここの「お弓神事」「お手火神事」は古式に則って行われ、特に「お手火神事」は日本三大火祭りと云われています。
 今回は説明のみ・・
前HPの4月掲載分
ささやき(蜜語)橋
 鞆は社寺の町である。
沼名前神社の鳥居前を左に曲がると、大寺が次々と続く、歩くこと2〜3分の所に静観寺がある。伝教大師の開祖と聞く、毛利氏の本陣が置かれていた。

 その門前にあるのが山中鹿之助首塚と小さな小さな石橋である。

 まぁ〜何と小さな橋であろう、私の足で一跨ぎの石橋である。昔はこの辺りまで湾入であったらしく今と違って長い橋であったらしいが。



 橋の袂で遊女が客に艶話を囁いたとか、また、応神天皇16年百済の博士王仁来朝の折、接待使武内内臣和多利と官妓江ノ浦がこの橋で恋を囁きその事がばれて二人は海に投げられ命を落とされたとも云われている。

 又、あの有名な「承久の乱」でこの地の鞆源左衛門正友とその子正氏が、家名の誉れを残さんが為、父正友は上皇方、子正氏が幕府方に分れて戦う事になる。この親子が出陣の時この橋の袂で別れたと言われている。
 この親子の物語にも秘話があるが・・・
山中鹿之助首塚
 時代は下って元亀4年
室町幕府最後の将軍、足利義昭は織田信長により京都を追われる。
そこで、彼は安芸の毛利輝元に幕府の再興を願って側室春日の局を連れて備後鞆の浦にやって来る。

 天正6年春、毛利の軍勢小早川隆景は出雲尼子氏の立て篭もった播州上月城を攻め込む、援軍秀吉は上月城を目指すも播州三木城の別所長治が毛利軍に寝返ったため急遽三木城へ向かった。

 この時尼子軍勢三千毛利軍五万の大軍では話にならない、上月城に尼子勝久は切腹、次いで鹿之助も降伏、沼隈中山田一条山城主、渡辺又右衛門幕下河村新右衛門をして鹿之助を備中高松城へ護送中、備中河合の役(高梁市落合)にて謀殺し、首級を携えて鞆に凱旋する。胴塚は落合に有るらしいが私は未だ確認していない。

 当時、足利義昭、毛利輝元は鞆、静観寺にあって、鹿之助の首級を検視した後路傍に晒したと言う。



 鞆の浦人は密かに之を祀ったのが現在の首塚である。
阿伏兎観音
 鞆から沼隈に向けてしばらく車で走ると禅宗、海潮山磐台寺がある。その中に、沼隈半島の南端に切り立った断崖絶壁に朱も鮮やかな大悲閣がある。世に云う阿伏兎の観音さんである。正式には磐台寺観音堂といい国重文である。

私は海上から見たことは無いですが、朝鮮通信使が瀬戸内を上ってきて海上からこの観音堂を見て感歎をあげながら旅の無事を祈ったと言います。
 この燧灘を航行する船舶は航海の無事を祈ってお賽銭を海上に投げ込んだと言われている。

 今は昔元亀・天正の頃、鞆の江の浦の漁師三山治郎衛門が日頃は熊野三山信仰厚く紀州詣でをよくしていた所、夢の中で「あなたは信仰深いので霊物と三山の姓を授けよう」と言われ目が醒めて枕許を見れば鹿の箭一双・双六の賽が有ったそうな・・・(古文書より)
 そして、阿伏兎沖で漁をしていると網に掛かった重い石が・・・観世音の石仏。
能登原宝大寺の住職に相談の上、岩上に安置したところ近郷から参詣者がひきもきらず、その事を聞いた毛利元就が大檀那となり、堂宇を建築したとの伝えあり。

案内パンフより
 
 私も時折出かけてお参りしますが、海から石垣を積み上げた堂の少し海側に傾斜した、まわり回廊を歩くのは何回お参りしていても、すぐ海が顔前に迫ってくるので本当に怖いものである。
 恐る恐る堂内を覗くと布で作られた女性の乳房が沢山沢山あり、安産を願っての事であろうと思うと自然に両手を合わしていたものである。
 皆さんも一度お参りなさったら・・・ 安産の観音さんとして有名ですよ。
朝鮮通信使と対潮楼
 時は下って江戸時代
最近オープンしたホテル鴎風亭からバスセンターに向けて5分、弁天島を左に眺めながら進むと小高い山から対潮楼が張り出して見える。

 真言宗別格本山、村上天皇勅願、空也上人開祖の寺が福禅寺である。
その客殿がかの有名な対潮楼である。対潮楼の命名は、第十次朝鮮通信使の正史洪啓禧がこの客殿から見た瀬戸内の美しさに感動し、「対潮楼」と書家洪景海(息子)に書かせたと言われている。



これより前々年第八次通信使がこの客殿から鞆の浦の景色を眺め、従事官李邦彦をして「対馬から江戸までで景色が一番良いのはこの鞆の浦で日本で一番であろう」と「日東第一形勝」と筆をとり書き留めたと言う。それを刻んだ篇額が現在も客殿に掲げられている。

 朝鮮通信使は1607(慶長2年)、例の秀吉が朝鮮出兵侵略した時に捕らえられた捕虜の送還をめぐって交渉の為に日本へ派遣された回答兼刷遷使が最初である。1624(寛永元年)第三回まではこの名前が使われそれ以降は朝鮮通信使という名称が使われ、以降将軍家の代わり等の折に渡来するようになったとやら。

 一行は約三百人から五百人に及ぶ大型使節団であった。
藩は鞆に到着した一行を町を挙げての歓待をし、鞆の浦では港から対潮楼までの道筋に弐〜参メートル毎に約七千の大提灯が掲げられ、夜も昼を見紛う明るさで圧倒し、又道には毛氈や莚が三千五百枚が敷かれ見事であったという事である。

 彼等は最初釜山を出発し対馬に上がり瀬戸内を船で進み、大坂から陸路淀、京都、野津から中山道を外れて北上して行く、そう言えば{旅のおもいで}に書いている近江八幡にも、朝鮮通信使が通った道の跡と言う小奇麗な公園が有ったのを思い出しましたよ。即ち、通信使しか通れないと言う非常にお目出度い吉道と言う事であったと記憶しているが・・

 これを先導するのは対馬藩が取り仕切り、その為江戸期以降の鎖国にもかかわらず、対馬の宗氏と朝鮮との間に貿易協定が結ばれ、朝鮮人参、虎の皮、木綿、米などが輸入されている。特権だったのですね。
十六地黄保命酒
 私は遠くのお友達には、新幹線の駅で鞆名産の保命酒から出来る酒粕(保命酒の花)を買って持っていく事にしています。
 親指と人差し指そして中指でホロホロする酒粕をつまんで口の中に入れて食べるのが何ともいえず美味しいもんです。この粕は味醂粕ですので甘くて酒の匂いがぷーんとして本当に至福のひとときです。
 
 鞆の町を歩いていると保命酒の看板を掲げたお店(醸造所)が何軒か見掛けます、中には長屋門のお店もあり歴史がある酒だなあと言う事が良く分ります。
  


 大坂生玉神社の近くに医師中村壌平利時、長男吉兵衛吉長が父より相伝の焼酎薬種を製造販売していたが、難波の大洪水(承応3年)で家の被害に遭った為、知人鞆の万古屋津田六右衛門を頼って来鞆する。
 万治元年(1695)福山藩主水野家の鞆奉行中村吉衛門に願い出て家伝「十六地黄保命酒」と命名し製造販売したのが始まりと言われている。

 昔から宣伝上手はいたもんで京都四条で盤田屋小林善兵衛なる者が保命酒を売らんが為、鞆養家、盤田屋小林家伝の口碑と称し「神功皇后筑紫下向の折奉献し、名を三降酒と命じ、大酒主の姓を賜った」とか何とか言って売っていたらしい。
 中村家でも、京都で売り出すにあたりこのコマーシャルを利用したらしい、(今も昔も宣伝と言うのはすこ〜し怪しいもんですね、と言ったら怒られますかね
 そして、中村家は一手販売の権利を盾に、この小林家を廃業させている。いや〜凄まじいものですなぁ。

 その後色々あって明治以降廃藩置県で藩の保証が無くなると多くの醸造業者が出現したが、変遷を繰り返すうちに現在の数軒に落ち着いたらしい.

[ 私の実家もお酒を売っていましたからこの保命酒も売っていました、戦後しばらくの頃鞆の酒造業者は京都の宝酒造とつながりが有ったのか、宝酒造が大黒ビールを売り出した頃我が家にも卸しに来ていたのを思い出しますね。(大黒ビールはその後サントリーに権利を売って今のサントリービールになっています)]


 一軒のお店で酒蔵を見せて頂いたが大きな酒樽の中に薬草を浸していましたね、これが身体に効くのだなあと思いましたよ。
お店で保命酒と今では珍しい柳かけ(今の若い人は分らないと思いますが)を買って辞去しました。

 保命酒を入れる容器は今でも美術的要素が高く古美術商間では古備前の酒瓶として高く売買されています。
 昔は伊部焼(今の備前焼)を始め丹波焼(今の立杭焼)三田青磁、砥部焼、姫谷焼、高取焼、信楽焼、岩谷焼、梅谷皿焼、木之庄焼等々そうそうたる窯場を使っていたんですね。
 私も焼き物が好きで各窯場に友人がいますが、数年前立杭焼へお邪魔した時、一軒の窯場を訪ねた折この焼き物は鞆に出荷するのですよと言われたのを思い出しています。

 鞆のお土産にはこの保命酒が一番でしょうね。
江戸期の港湾大改修
 江戸時代の港湾に関する総てが現存する唯一の港、鞆港 すなわち、焚場、雁木、波止場、常夜灯、船番所等です。

 この港の大改修は寛永12年(1635)河村瑞軒によって整備されたのが始まりとされています。
江戸期に入ると物流の拠点としての鞆港の重要性が増してくる、そこで福山藩は鞆奉行所へ港の大改修を命ずる。

 雁木
 港の西側に土地造成した後、船着を作り寛成2年(1790)頃にそこへ大雁木を作っています(荷役浜大雁木)。 文化年間(1804〜1810)に大阪屋が東浜を開き亀の甲(石積み雁木)とズベリ(石積み石送)を作っています。
 江戸期初期南側を埋め立て「つきだし」としています。 現在は、波止場の雁木と、付け根の雁 木以外は姿を消していますが、今でも残っている大雁木は文化8年(1811)に湧出を埋め立てた時の湧出港大雁木(保銘酒浜大雁木)くらいです。
   


 焚場
 昔は木造船だったため船体に「フジツボ」「カキ」や海藻などが付着したり、船底に穴をあける船虫等の被害がありました。 その為港の砂浜に焚場を作る必要が有りました、今のドッグですね。

 波止場
 天然の良港の鞆もこれまでの埋め立てにより砂の回流と大波で、随時浚渫をやっていたようです。 寛政3年(1791)には備前児島の英五郎に発注し、長さ126Mの波止場を作らせています。その後も度々改修を行い、弘化4年(1848)の玉津島の波止が完成し今の鞆の姿になったそうです。

 常夜灯
 出船入船に常夜灯は大切でした。 鞆の津であh、西町の保銘酒浜にある巨大な「燈籠搭」がその一つ、明治17年(1884)の台風により海に没した唐金(銅)大灯篭籠、東浜にあった石燈篭と燈亭、平にあった常夜灯、石井浜に石燈篭の5点だったそうです。



 船番所
 水野勝利の時代の遠見所が昭和30年頃解体修理し今に伝えられています。
小松寺
 「足利氏は鞆に興り、鞆に滅ぶ」という言葉が地元では伝えられている。
南北朝時代光明天皇を擁し、南朝と戦い鞆合戦の時などで陣を構えたのがここ小松寺である。
 
 明や東南アジアの交易で発展していた琉球を薩摩藩が慶長14年(1609)侵攻し、島津氏の支配下に屈すると・・
 琉球は徳川将軍の江戸へ使節を派遣する事になる、「江戸上り」である。

寛政2年(1790)10月正史・副使他芸能・楽司ら100名が鞆の浦に寄港する、その中には急病で亡くなった楽司向生の遺体があった。
 それを悼んだ福山藩と寺は「琉球司楽向生碑」を建立して祀った。



 寛政8年の使節団の中には向生の祖父朝紀、父朝郁の姿があった、彼等は親切にしてくれた藩と寺に対し大変感謝し同寺に「容顔如見」の扁額を寄進したそうです。
 現在でも本堂にそれが掲げられています、境内にはその碑がありますよ。
筝曲 春の海
 お正月といえば、朝からテレビなどで流れてくるこの曲宮城道雄の筝曲春の海から新年が始まります。
 


 神戸で生まれた彼が、春の穏やかな鞆の浦を曲に選んだのが解るような気がします。
瀬戸内、鞆の浦の印象とは・・波の音、船の櫓の音、カモメの鳴き声、盲目ゆえの鋭い感性で捉えた春の海の情景を・・・名曲「春の海」はこの様にして出来あがったのですねぇ。



 春の海の他「水の変態」「秋の調べ」「日蓮」「越天楽変奏曲」等多くの私達の記憶に残る名曲が残されています。

 尚、福山は琴の生産が日本一というのもご存知でした?。

 広島あちこちに掲載している「葛原しげる」先生は宮城道雄が初めて発表会を開いた時の有力後援者であったと言われていますよ。
弁天島
 朱塗りと銅板の緑に輝く屋根が海岸から一際目立つこの祠は、弁財天を祀る桃山時代の建物であったが現存の祠は昭和始めに改築とされている。



 この祠の隣に見えるのが広島で一番古いと言われている石塔婆に、一人の海人の気概を感じる物語がある。

 その昔近江の藤原正道という武士が安芸の宮島参拝のみぎり鞆の町に立ち寄った時弁天島の近くで伝家の太刀を海中に落したそうな。
 このあたりの海は深く、瀬は早い、なによりも以前から人の足を食いちぎる大魚が住んでいたから誰一人名乗りあげる者がいなかった・・・

 正道「鞆の地は昔から聞こえた海士の里なのに一人の勇士も居らぬのか」と苛立つ・・
すると一人の若者が「かく言われては鞆の恥、一命捨てて御身の太刀を拾いましょう」と・・

 ざんぶと海に飛び込んだ若者・・太刀は海底の岩の上に見つけた、すぐに太刀を咥え海面に向かう若者の背後に黒い大きな悪魚が近づいているのに気がつかなかった。
 正道しばらく待っていた所へ彼が太刀を咥えて上がって来たがその時にはすでに悪魚に足を食われて大量の血を流していたそうだ・・彼は太刀を渡すとそのまま海深く沈んで行ったと言う。

 正道はこれを目撃し感涙し、賞金百貫で高さ壱丈参尺十一重の石搭を建て葬ったそうな。そこでこの島を別名百貫島とも呼ばれるんじゃと。
対仙酔楼
 鞆の豪商大阪屋上杉家は、酒、酢の醸造と同時に当時鞆は交易の中心的な港として栄えていたため大阪屋も回船業も手掛け瀬戸内の有数な豪商として時の文人、墨客を育てていた様子があります。

 当時の大阪屋は蔵だけで14棟も有ったといわれています。この豪商三島ユウ斎に廉塾の菅良平が遊蕩していた頼山陽を紹介する。

 頼山陽(1780〜1832)は特に裏門楼が気に入りここに度々逗留しています。ここから見える仙酔島や弁天島などの島々に感激し、この門楼を「対仙酔楼」と名付けたという。
  


 山陽は保命酒が殊のほか好きで、ある本舗には今でも山陽直筆の板看板が見受けられます。そして三田青磁の保命酒徳利に彼の漢詩も入っているのがあります。その漢詩の現代訳をすると「おいしくてあまったるいところがなく、清流のように清くきついところがない心のごたごたが洗い流されるようだ」と。彼の保命酒好きは晩年まで続いたそうです。

石三題
 足利最後の将軍義昭が権力の座をおわれ暫くの間隠居生活を送ったとされる居館跡のある蔀山を見上げるここ淀姫神社は、神功皇后の御妹「虚空津姫」(淀姫とも言う)が祀っています。
 神社に上がる石段の所へ隕石が有ります、年代は不詳ですが沼隈郡誌によれば「往古流星三個此浦に隕つ因って浦の名とす」とあり爾来町民に珍重されて「星の浦」の地名も之に起因しているとやら。





 鞆の浦歴史民俗資料館に上がる小高い山裾に鞆城の石垣が残っています。築城当時の職人が彫ったものと思われる、大、△、卍、回、等の印がありますね。
 この近くの笠岡沖の石の名産地、白石島、北木島辺りから運ばれてきたものでしょう。



 古来より鞆港は全国でも重要な拠点港であった、江戸期に入ると多くの北前船の出船入船があった為大勢の仲仕がいたであろう。
 沼名前神社のお祭にもなると力自慢の沖仕達がエンヤコリャショット力石を持ち上げて見物人たちから拍手喝さいを浴びたものでしょうね。
 力石には強力やら太助やらと刻まれていておそらく優勝者などが神社に奉納していたんでしょう。
 沼名前神社には20個ここに3個あります。


安国寺釈迦堂

  宗教界は鎌倉時代に比叡山天台宗の流れを受けた浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗などの新宗教が出現し、それは何れも渡来仏教ではなく日本仏教徒による専修宗教であり、貴族だけを対象にした宗教から民衆の宗教へと布教をするようになった画期的な時代であったと言われています。
 ここ安国寺はその鎌倉末期文永11年臨済宗の僧覚心後の法燈国師による建物で金宝寺と呼ばれていたものらしいですよ。



 鞆の寺の中でも最古の建物ですが大正時代に山門の崩壊や搭宇の焼失でこの釈迦堂ぐらいしか残っていないです。
 紅梁・波連子窓・等鎌倉期唐様式で禅宗建築の単層式最大の建築とされています。

 裏へ廻ってみました、室町時代作庭の枯泉水は見事ですね。


仙酔島
 鞆観光の目玉、仙酔島は渡船場から船でせいぜい5〜10分、周囲5kmの島。

                  

 平清盛、厳島神社予定地だったというこの風光明媚な島は大彌仙、小彌仙、御膳山、御立山に湾は七浦七胡があり、大正14年史跡名勝天然記念物として「名勝鞆公園」の指定を受けます。

 そして鞆の浦は昭和9年瀬戸内海国立公園に指定され名実ともに観光地として全国に名を知らしめることになります。当時はそれはもうえらい騒ぎ・・ 鉄道唱歌の節に乗せて鞆の名所旧跡を織り込み最後の歌詞は♪〜「坐望の勝景一流の 瀟洒な旅館も備われり 伝え残さん永久に 記念に謳はん公園歌」♪〜  ・・だったそうですぅ。
 
 観光旅館や、今では国民宿舎内には塩温泉もあり、夏は海水浴場にキャンプに、島巡りにと楽しめます又この島は仙酔層と言う学術上貴重な断層もあります。

 今鞆は埋め立て架橋問題も終結したかにみえますが、共生出来なかったものかと部外者として残念に思います。これからは重伝建の指定を受けるべく官民一体になって頑張って欲しいものです。

 写真の砂浜は田ノ浦、目の前に見える小さな島は皇后島、神功皇后の船をつながれた島で、鞆奉行荻野重富の妻の基があります。
七卿落ち
 来年のNHK大河ドラマは新撰組・このタイミングにあわせて県史跡「鞆七卿落ち遺跡」をどうぞ・・・

 井伊直弼亡き後安藤信正は孝明天皇の妹和宮親子内親王を将軍家茂に降嫁させることに成功、これに憤激した尊皇攘夷派の志士たち、文久二年江戸城坂下門外で彼を襲撃し失脚させる・・激しい公武合体派と尊皇攘夷派の戦いは・・なお続く〜〜

 長州藩は公卿三条実美らとむすんで朝廷を動かし、将軍を上洛させ攘夷を5月10日と決定、さらに討幕運動をおこす計画までしていたが・・

 さて公武合体派はどうでしょう・・このまま引き下がってはいませんわなぁ〜
会津藩・薩摩藩の兵力を中心に文久三年八月十八日突然政変をおこし、朝廷から尊皇攘夷派を追放しましたよ所謂8月18日の政変と言うやつですね。

 京都に潜入して勢力を回復しようと画策する尊攘派の志士を、守護職指揮下新撰組が池田屋を襲った池田屋事件などワクワクする数々の活躍は来年から始まるNHKで楽しみましょ〜う。

 三条実美ら七人の公卿は長州藩兵約四百名と伏見・山崎から長州へ逃げ延びる、いわゆる七卿落ちというところで・・鞆の登場〜〜〜
 
 江戸期保命酒屋として栄えた中村家(既掲載の保命酒をご覧下さい)現太田家住宅、大雨の8月23日午後8時鞆港に入った七卿は保命酒屋で軍儀を開く、しばし一息ついた後その夜半風のなか出航したという。

 元治元年六月五卿になっていた彼等は再度鞆を訪れている、七月多度津で蛤御門の変、長州兵再度敗れるを聞き鞆に引き返した後長州へ向ったが・・では福山藩はどうだったのでしょう〜
 朝廷は幕府に対し長州征伐を命ずる、福山藩は先鋒を命ぜられ向った軍勢は6000人ともいわれています。

 戦力を喪失した長州藩は和解案をのみ幕府に謝罪する事に・・その後五卿は九州大宰府に謹慎することになり・・・復位が認められたのは慶応三年の事という。
 その後の高杉晋作・桂小五郎・井上聞多・伊藤博文・西郷隆盛・大久保利通・坂本龍馬などの活躍は・・・と言うところで次回はその龍馬に関するいろは事件をUPしましょう。

       与耳奈ら春鞆能湊乃竹能葉遠
      閑く天奈むるも免徒らしの世也
                    実美
いろは丸事件
 慶応3年4月24日その事件は起きた・・

坂本はん、それそれ坂本龍馬でんがな
 4月初旬海援隊を立ち上げた龍馬、伊予大州藩所有のいろは丸を一航海15日五百両で借り受け武器・弾薬・米・砂糖などを諸藩に売りさばこうと海運業にのりだしましたよ。

 4月19日長崎港からいろは丸は大坂経由で彼等の京都詰め所・近江屋へ向け海援隊旗を掲げ意気揚揚と出航しましたでぇ。
 瀬戸内に入ったいろは丸、23日pm11頃讃岐の六島あたりへさしかかった時・・・ドッカン・・長崎へ向けていた巨船が右舷めがけて突っ込んで来た・・・慌てた船は一旦後退したが又前進して来るじゃありませんかコリャ駄目だ・・

 この船、実は紀州藩の軍船明光丸887t、一方いろは丸160tこれでは相手にならない、明光丸乗り移った龍馬らは「早く鞆港まで曳航しろ!」と叫んだとよ。
 24日早朝風雨が高まる、約2k程進んだ鞆の走島近くの宇治島沖約4kあたりで遂に荷物もろとも海中深く沈没ぅ〜でんがな。

 24日am6ごろ明光丸は鞆の浦へ入航、負傷者が四人いたけれど死者はなく先ずは一安心。



 海援隊は桝屋清右衛門宅、紀州藩は円福寺へ宿泊・・ここからがお互い自分の有利な解決へと壮絶な駆け引きが始まりますよ・・相手は天下の御三家、五十五萬石相手にとって不足は無し、やりまんで〜・・海千山千の龍馬だす〜ぅ。

  24日、舞台は魚屋萬蔵宅、役者は龍馬(いろは丸)と高柳(明光丸)
私は長崎に急用で行かねばならぬ、一先ずあちらへ行って来る、それからこちらへ帰ってから話がしたい・・何を言ってるあんさん、天下の紀州藩まさか逃げ隠れはしないとは思うが今ここに乗組員全員がいるやないか、議論をつくして決着をさせてから長崎に行くのが筋やないか・・(ええでぇ〜坂本はん、コリャ私のつぶやき)

  25日、あんさんの方は立派な家柄、あんさんが藩の仕事を大事と言うのはよ〜お分かる、わても同じや。でもなわての船は沈みあんさんの船は何ともなっとらん、察してくれまへんかなぁ、わかるやろ〜・・・あのな何とか沈んだ荷物と同じ物を整えて持っていきたいんや、そこでお願いや一万両貸してくれまへんか・・これがいやならもう交渉はこれまでやでわかってんかぁ、えぇ〜あんさんどや!・・  (とか何とかうまいね〜交渉が・・コリャ私のつぶやき)

  27日、福禅寺対潮楼などで損害賠償の交渉が行われたが埒があきまへん、そこで長崎へと舞台は替わる〜ベンベン!

 舞台は長崎へ・・とうとう土佐藩・紀州藩トップを巻き込んでの事件に発展、わが国始めての海難審判「万国公報」によるで解決し、賠償金八万三千両で手を打ったという。
 船を沈めたその償いに、金を取らずに国をとる、当時長崎で流行った歌と言います。
その後の研究でいろは丸にも重大なミスがあるという研究家もいるといいます。(関西弁でなく土佐弁で言うとどない言うでしゃろなぁ)


 


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