児玉さんのことを知りたいと思っても、ご本人はもとより、直接会った人は今生きていない。どうしても、書いた物によるか、聞き伝えをもとにすることになる。
書いた物は、書いた人の識見、書いた時代の情勢、そして書いた人の都合というものに、左右されるのは致し方ない。
一つの書物をはさんで、Aという人は感心し、Bという人は怪しからんことを書いていると貶す。乃木さんの場合「坂の上の雲」をめぐって現実に起こっていることだ。
これから、拾っていく逸話は総てこれまでに刊行された本から取ってきた。児玉さんという人をどう捉えるか。拾い方は人によって異なるわけで、内容の責任は私にあることを前もってお断りしておきたい。
参考にした書籍は次の通りである。
@ 宿利重一著 児玉源太郎 マツノ書店
A 加登川幸太郎著 名将 児玉源太郎 日本工業新聞社
B 中村晃著 児玉源太郎 PHP文庫
C 司馬遼太郎著 坂の上の雲 文春文庫
又、膨大な情報源としてインターネットがある。表紙に紹介しているように3000件以上のものがある。私も時間が許す限り開いて勉強するつもりでいるが、関心のある人はご自分で是非触れてほしい。
郷土資料 | 日露戦役と大山・児玉 痴遊遺稿 | 田中巌 | 昭17年 | ||
児玉藤園将軍逸事 | 横沢次郎 | 大 3年 | |||
児玉大将伝 | 森山守次 | 明41年 | |||
天覧故児玉参謀総長伝 | 関口隆正 | 明39年 | 漢文 | ||
児玉源太郎 | 宿利重一 | 昭13年 | |||
児玉源太郎 | 宿利重一 | 昭17年 | 写真が多い | ||
児玉久子刀自 | 児玉秀雄 | 昭 3年 | |||
名将児玉源太郎 | 加登川幸太郎 | 日本工業新聞社 | 昭57年 | ||
児玉藤園将軍逸事 | 吉武源五郎 | 拓殖新報社 | 大 7年 | ||
児玉源太郎大将 | 木村毅 | 昭19年 | |||
コンピューター索引 | 児玉源太郎に見る大胆な人の使い方・仕え方 | 加登川幸太郎 | 日新報道 | ||
名将児玉源太郎 | 生出寿 | 光人社 | 昭61年 | ||
天辺の椅子 | 古川薫 | 毎日新聞社 | |||
謀将児玉源太郎 | 生出寿 | 徳間書店 | 平 4年 | ||
児玉源太郎 | 宿利重一 | マツノ書店 | 平 5年 | 復刻版 |
児玉源太郎で検索した結果 ページ:3035 |
児玉さんという人は大変な方でした。
「児玉翁」と呼ぶ人が多いです。今の感覚で見たとき果たして「翁」だつたのでしょうか。元勲と言われることがなかったのは、現役の54歳でなくなったこと、日本の国を守るために生涯、縁の下の力持ちに徹し切られたことによります。
常に、己を無にして、覆い被さるように押し寄せる明治日本国の難局に立ち向かわれ、その総てを見事に采配されて行ったことは、決して過去のことではなく、日本の置かれている今日の情勢すべてにわたって、「われわれは、今どうあるべきか。何をどうすべきか」ということを選択決定していく上で、まことに身近な鑑みとなるものであります。
幸いにも、徳山の者は児玉さんとは同郷の所縁に恵まれました。
「若し、今、児玉さんがここにあったら、どうされるであろうか」と、日本の国、周南の街を舞台に活躍する若い人たちが考えてくれたら、知恵も湧くし、行動も目が覚めるような自由闊達そのもので繰り広げられて行くと思います。
それにしても、児玉さんのことを知る若者が余りにも少ないわが郷土の徳山です。歿後100年を間近にして、児玉さんを学び直すことは、取って置きの具体的な課題ではないかと思うものであります。
竹裏堂主人の思い
私は、「児玉さんとはいかなる人であったか」という質問に対して、次のように答えている。
「児玉さんという方は、稀なる『無私の人』であった」
上に立つ者は、分を弁え、分を愛し、力を養い、全力を傾注して、住みよきみ国を作る志と行為がなければならないが、その根底には『無私』なることが不可欠である。
児玉さんは、これらが揃ってあった方であり、その足跡を辿ることによって、今日、先が憂えられ、閉塞状態から飛び出せる道を探しているときに、生き様を教えられるものがあると、お答えしている。
結論を先に言うことになるが、来年は日露戦争終結100周年に当たる。耳にしているものだけでも、全国各地で記念行事が一杯あるし、NHKは「坂の上の雲」の企画があるとも聞く。日露戦争―陸軍・海軍―東郷・秋山、大山・乃木・児玉という連想があるのも致し方ない。単純化されて昔のことになり、若い世代からはかけ離れ、話題にもならなくなってしまっているというであろう。
歴史には「若し」ということはない。
だからと言って、『若し日露戦争が起きなかったら』『若し日露戦争に負けていたら』という設問を若い人に投げかけることは無意味とも言えない。
軍人として、日露戦争に満州軍総参謀長として、偉大な功績があったという結果だけが持て囃されるのは勿論当然のことではあるが、下手をするとそれだけに終わってしまう。そう思っていたところ、加登川氏が分かりやすく書いていた。詳しくは同書によられたい。
いくら能力があるといっても、それが発揮できなくては仕事にならない。発揮できるようになるのには、人を得なければ覚束ない。
近代化の芽を出してか弱い成長を始めたばかりの日本の前に、中国へ侵出し朝鮮へも踏み出してきた露西亜という大国をどう受け止めるか。児玉さんがどのように財界、政界の目を覚まさせたか。
加登川氏は、次のように見ている。
「児玉源太郎は、「軍服を着た政治家・経世家」であった」と。
そして、その人となりを、つぎのように止揚している。
1 藩閥、派閥の臭みのない人で、まことに人使いのうまい人であった。また、人に使われて絶好の部下であった。――台湾総督7年間の後藤新平長官。満州軍総参謀長として仕えた大山巌総司令官。
2 智謀の人、勇気に優れ、決断力、実行力に富んだ人。しかし、他人の言うこと、他人のアイデアを用うべきか否かを鑑別する非常な聡明さをもっていた。児玉の伝記に山縣有朋は「奇才」と題字し、桂太郎は「大観」と書いた。
3 現場でたたき上げた人。18歳で陸軍に身を投じてから明治18年に参謀本部の局長になった34歳まで実務の畑で過ごした。桂太郎、寺内正毅のように外国語の勉強、外国への留学・勤務をしていない。智謀、優れた特性は、任務を一生懸命に勤めている間に自然に体得、磨き上げたもの。
4. 天衣無縫に生きた人。癇癖が強く、気に入らぬと上にも噛み付くし、部下に雷を落とす。酒が好きでタバコが大好き。部下を集めてドンチャン騒ぎ、家計は火の車。荒削りな人間ぶりであった。
5. 金の欲のない人。参謀総長の地位で亡くなったとき、財産を遺しておらぬと聞かれた明治天皇は特別にお金を遣わされた。