沈黙のそのあとで

小話。


 目の前で。

ああ

足跡が

消えてく

 ぼそぼそと、白い空から雪が落ちてくる。
 雨のときより明るい空から降ってくるのが不思議だ。
 こんなにやわらかそうなのに、冷たい。

前が見えない

 触れた途端に消える。雫に変わる。
 頬を流れる水。
 こんなにあたしはあついのに。
 こんなに。
 頭の中が、目の前が真っ白で。
 叫ぶ。
「―――んなに、馬鹿にしないでよぉッ!」

 実際、あたしは馬鹿だ。
 今でも。


 大陸最北端の都市ゼフィランサス。皇立学園の幼〜中等部のあるここは、まだ窓の外に雪が見える。
 雪。
 うんざりと、思い出す。

 ―――私は君が思っているより、何も知ってはいないのだよ。だから―――
 翡翠色の髪。琥珀の瞳。
 その、後ろ姿。

「・・・しつこいのよ。アタシもだけど」
 呟いて、車の外を流れていく景色を睨んだ。
 肩口から流れてきた自分のピンク色の髪を後ろにはねる。紫色の険悪な目が窓ガラスに映る。魔法の存在するこの世界に黒目黒髪は
居ない。
「何をうわごとを言っている?」
 そのアタシより、素でもっと目つきがキツいのがルームミラー越しに運転席で言う。淡い赤紫の前髪で、同じ色の目が半ば隠れた三
十前の女。如月唯。こいつの運転ってのも怖いけど、今はあまり気にならない。
「うるっさいわよ」
「ふん。珍しく機嫌が悪いようだな。そんなに恩師に会うのが嫌か」
「・・・・・・」
 アタシが黙っていると、
「真緒ちゃん、そーんなにむっつりしてると唯みたいになっちまうよ?」
 助手席でデイジーさんが肩越しに笑った。このひとは藍色の髪と目で、唯と同い年だ。肩より少し上で切りそろえた髪がさらりと揺
れる。
「・・・デイジー」
「あら失礼」
 くすくすと謝って前を向く。
 一緒に目を向けると、ビル越しに目的地の皇立学園初等部の校舎が見えた。

 ルーシェ・フェレイス・ハーミット教授。
 大陸一と言われる知識と3つの博士号を持ち、魔法学の権威である・・・小学校の先生。奥さんは同じ学校の保健室の先生ガブリエラ
・ロビン=ハーミット医師。
「お久しぶりですハーミット教授」
 その本棚と書類が大半を占める教師用個室へ、最初に入った唯が挨拶をした。窓際のデスクに座る人の、小さな眼鏡を鼻にのせた顔
が柔らかな笑みを浮かべる。
「相変わらず硬いな唯君。昔のように気軽にルーシェ先生と読んで欲しいんだがね」
 教師用の、紋章の刺繍がついた紺色のローブ。その肩に流れる翡翠色の長い髪。眼鏡の向こうで苦笑する琥珀色の瞳。十年経って
も変わらない若い容姿と温和さの先生。
「唯にゃ無理だって知ってて言ってるんでしょ先生?」
「しかしデイジー君。それでも言ってみたい事というものはあるだろう」
「先生にいつまで教え子をみんな君付けで呼ぶんだいって言うようなもんですかい?」
 唯がむっつりした顔をし、二人の間で笑いがこぼれる。見た目はそう歳が離れているようには見えないけど、先生はもう倍以上生
きているはず。
「そういえば君達はもう博士課程修了か」
「いーえぇ。あたしは助教授で、ついでにこの如月教授の助手をやってますよ。卒業は・・・」
 デイジーさんが言っている途中で、先生が扉の陰のアタシに気付いた。
「おや、真緒君」
 思わず動きを止めて、目線を合わせないままゆっくりと頭を下げる。
「・・・お久しぶり・・・です」
 居心地の悪い沈黙。
 顔を上げると、先生がふっと笑った。
「真緒君。君は今だにあの事を気にしているようだね。しかし・・・いつか言っただろう?相手の感情など受け取る側次第だと」
「先生?」
 デイジーさんが首をかしげる。
「・・・ああ。来て早々すまないが、二人きりにしてくれないかな」
「懐かしの個人面談ですか」
「そんなところだよ」
 先生が曖昧に笑って、唯とデイジーさんが部屋から出て行く。
 軽い音を立てて扉は閉まった。
 部屋の真ん中にある応接椅子を勧められ、おとなしく座る。簡単に防音結界を張ってから、向かいに先生が座った。
「大きくなったね真緒君」
「・・・先生はお変わりないようで」
 親戚のおじさんのような表情で言われても、無理な無表情で返す。先生はそれに含まれた皮肉めいたものに気付いて、少し声色を変
えた。
「魔に触れすぎるとそのものの時間軸がねじ曲げられるんだ」
「それは方便でしょ?」
「・・・どういうことかな?」
「アタシも一応魔法体系学の徒です」
 まっすぐに目をみて言う。
 魔法体系学。世界に無数に存在する神魔の系統を探り、そこから新たな魔法を編み出す魔法応用学と半ば一緒になった学問。
 でもこんなことを言いに来たわけじゃないのに。
 肘をつき、組んだ指で口元を隠して、無言で先を促す先生。
「・・・今現在最強の破壊力を持つと言われる、闇の王子の力を借りた呪文。それを発表したのは先生でしたよね」
「もうかなり昔になるがね」
「そこで気付くべきだった。召喚法も無く実在さえ掴めていない王子の呪。それに接触するだけじゃなくて、王子が双子だということ
まで解明した。それは・・・」
 唾を飲む。息を吐く。
「それはつまり、本人ってことですよね」
 宵の星の、暁の星の名を持つ闇の子。魔術の宰。二つ名はいくらでもある。大天使と通じ、闇の世界から追放され、その三人の娘たち
が、今の天界・地界・魔界から成るこの世界を作ったと云われている。
その名を―――
「名は口にしないほうが賢明だよ真緒君」
 アタシが言おうとした一瞬前に、氷片のような落ち着いた先生の声が制止した。
「力あるものの名は呼ぶだけで何かしらの影響を及ぼす。応用学の基本だろう」
「・・・だから先生は名前を変えているんですか?」
「いや、そういう訳ではないよ。・・・この名は貰ったものでね」
「貰った?誰に?」
 訊くと、懐かしそうに先生は笑った。
「恩人・・・と言うべきかな、彼女は。一緒に貰ったあのピアスは・・・そうか、もうあの子に渡したか」
 後半は独り言みたいに少しうつむいて呟いたけど、目を上げて続けた。
「それに私はもう、昔ほどの力は持っていないんだよ」
 言いながら眼鏡を外して髪をかきあげた。すると、
「こんな手品をすることが、本人である証拠くらいか」
 先生の様子が変わった。
 こめかみで幾度か巻き、そして後ろに伸びる細い角。長く尖った耳。床にまで広がる翡翠の髪。それ自体が炯っているような、縦長
の瞳孔がある琥珀の瞳。それから。
 その威圧感に総毛立つ。絶対的な力。闇の王の嬰児。ルシファー。双子のサタンと対になる。
 アタシが動けないでいると、
「まあこんなところだよ」
 言って、眼鏡をかけた途端に元の先生に戻った。威圧感も消える。
「・・・・・・こんなって・・・先生。それだけの力を持ってて謙遜しないで・・・」
 大きく息をつく。
「それはすまないことをした」
「でも」
 遮って、息を吸う。
 凍りついていた血が一気にめぐり始める。
 今まで抱えていた言葉。今日言いに来た言葉。
「本人ならあの時何であんな事言ったのよ!」

 ―――私は君が思っているより、何も知ってはいないのだよ

 ばかにしないで。
「アタシは今だって馬鹿よ」

 ―――だから君の期待には応えられない。そしてもう、私は妻帯しているしね。

 そんなのはもうどうでもいい。
「世界の創生期から居たんなら何もかも知ってるハズでしょ!」

 ああ、またないてる。

 あのときだって、おこさまなのにこくはくなんかして、ふられて。
 そんなことはおもってもみなくて。
 ぶざまにないたんだ。

「―――君は・・・よくあることだが過去から抜け出せてないようだね」
 煮え立つ頭への差し水。静かな先生の言葉。
「しかし過去は、断ち切るものでも、封じ込めるものでも、捨て去るものでもないんだ」
 意味がわからず呆然とその顔を見る。自嘲じみた笑顔。
「今の君が君である要因のひとつ。それが君の二十年足らずの過去と闇だ」
 あれだけ無様なことをしたのに。
「昔、君が自分で言っていた気もするがね」
「自分、で?」
 アタシがそんな大層なこと言ったって?
「そう。だから君はこの過去を過去として受け止めるんだ」
「昔のことって・・・そんなふうに」
「ひとは変わるものだからね。いつまでも同じ考えを持っているものではないんだよ」
「・・・・・・」
「・・・まあここまでが、世の中に一目置かれる教授としての言葉だ」
 ため息まじりに言って、先生は苦笑して声の調子を変えた。
「世界の真理を知ろうとする者に、背を向けるような真似はしないよ。今はもう」
 苦笑。
 何を言ってるのよ?
「・・・あの後、ガブリエラに全部聞いてね」
 ふと思い出す。ガブリエラせんせい。

 あの日
 泣きながら行ったのは保健室で
 頭を撫でてくれて、話を聞いてくれたのは
 ガブリエラせんせいで

 そうだ。
 このひとには勝てないって思って本人にそう言ったんだ。
 ―――いくらアタシがルーシェ先生が好きでも、せんせいに勝とうなんて思ってないに決まってるじゃない。
 ・・・・・・それ聞いたんだ。
 勘違いだったとしても、十年前の雪の日のわだかまりはもう消えてる。
 思い至って頬を弛める。息を吐く。
 先生口ベタだわ。
「・・・わかんないわよ先生」
「すまないね」
 アタシも昔のこと、何だかねじまげてたみたいだけど。
「でもセンセ。ありがと」
「どういたしまして」
 何かふっきれた顔で先生と笑う。
 やがて、先生が手をたたいて結界を解除した。
「何だい何だい?やけに機嫌が良さそうじゃないかい真緒ちゃん。個人面談ってのは意気消沈するもんだろう?」
 解除されるなり入ってきたデイジーさんが、アタシを見てすぐ言った。
「成績見せらんなかったからよ」
「おや、そうなのかい」
 その横で唯がちらりと先生を見て、アタシに目を向けてふんと何か納得したようだった。無愛想な無表情は変わんないけど。
「それで先生。あたしらをこっちまで呼んだのは何の用だったんです?」
「君達の顔が見たくなったから、じゃ駄目かね」
 おどけた調子で先生がごまかす。
「・・・先生ならやりそーだけど」
 こっそりアタシが言うと、
「まぁそれもありだろうけどさ、何かあるんじゃない?」
「連絡の口調からもそう考えられます」
 唯にまで言われて、先生はたまらず笑みをこぼした。
「出来るだけ隠したつもりだったが、流石女性は凄いものだね。しかし君達にとっては些細な出来事かもしれない」
 嬉しくてたまらないといったふうににこにこしながら、先生は立ち上がった。
「勿体ぶらないで下さいよう」
 デイジーさんがじれる。
 先生はさらりと言った。
「娘のところに子供が出来たんだ」

 間。
 よく晴れた窓の外で鳥が鳴いている。

「は?」
 間抜けな声は同時だった。
「だって先生娘さん居るって知ってたけどーけどー!」
 わたわた指した手を振り回しながらアタシが喚いて、
「・・・どの方です」
「日の経つのは早いねぇ」
 二人は同じように眉間にシワをよせて額を押さえてる。
「末の娘だよ。やあこの歳でお爺ちゃんになってしまったよ。ははは」
「はははじゃないよ先生ー!一体いくつなんだいもう」
「気持ちは君達と同い年だ」
「気持ちはってそんな」
「一見そう見えるところが問題だな」
「唯もっと言ってやっておくれよ」
「しかしだなデイジー。顔を見に行きたいとは思わんか」
「話がわかるね唯君」
 言って、教師用ローブを脱ぎ捨てる。
「先生授業は?」
「どうして今日来てもらったと思うかね?授業は午前中で終わりだよ」
 うきうきと鞄を手にすると、先生はドアの前の所在通知を『帰宅』に変えた。
「さて行こうか」
「うわ早ッ!」
「知り合いは多いがまだ秘密にしているんだ。耳の早い子達は知っているかもしれないがね」
 大きな窓から光の入る明るい廊下を、さっさとルーシェ先生は歩いていく。
「待っておくれよちょいと〜」
「遅いぞ」
「唯アンタ何でそうフツーに付いて行ってんのよ」
 通りすがりの先生達が、驚いたりにこやかに見送ったりしながらすれ違っていく。
「歩いていくのも何だ。転移の魔法陣を使うから少し退いてくれないかな」
「ンな大掛かりなものひょいひょい使おうとしないで先生ー!」
 魔法陣の描かれた布を広げて杖を振ろうとする先生をデイジーさんが慌てて止めようとし、それを唯が意地の悪い笑顔で眺めている。
 外は上天気であかるい。
 芽吹き始めたの木の下で、白い雪がきらきら光っていた。

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