たとえば
夜の雲や空を見て
しあわせと呟けるなら
風の少し強い今日は、雲の流れが速い。中途半端なかたちの月が晧々とそのふちを照らしている。 全く、大自然というやつは何とも言えないイイものを見せてくれる。 シゴト――殆ど怪盗に近い盗賊稼業だが――の帰りに、草っ原のいつもの場所にいつものように座ってただ夜空を見上げ る。こんな日は、風になびく自分の長い黒髪の感覚もいい。 ふと、月のある夜には殆ど出ている事に気付いて、年寄りくさいかと少し思った。 風の通り過ぎる音に紛れて、草を踏む音が近づいてくる。別段足音を忍ばせているわけでもないそいつの方を向く。口を開 いたのはあっちが先だった。 「よぉ。今日もここか不良娘。仕事着のまんまで」 「・・・ンだ勇か」 黒いコートを目で指され、うるせェよと返す。 こいつはオレのことを娘と呼ぶが、実際血のつながりは無い。何せ勇が十四のときに、落ちてたからというだけでオレを拾って 来たんだ。盗賊稼業の先代にあたるが、関係はそんなのや親子というよりは悪友に近い。そして一応言っとくが、オレは女だ。 ひょろ長い手足と短いぼさぼさ頭の奴は、いつものイマイチ覇気のない顔を空に向ける。 「冬の月ってのもなかなかいいもんだな」 「まァな」 「・・・にしてもちぃっとばかし寒くねえか?」 にやりと笑うと、片手で一升瓶を上げてみせる。 「つくづくおっさんだな。・・・・・・が、悪くねェ」 オレも笑みを返すと、親父は横に腰を下ろした。 仄暗い夜空に、すべらかな綿のような青白い雲がゆったりと流れていく。 中天に架かった月は明るく、輝く星は黒絹に撒かれた真珠の粉のようだ。 おそらくこんな光景を、古に芸術家達は作品に留めようとしたがったのだろう。写真などに収めてしまうと途端に味気なくなる それは、夜の空気のせいなのかもしれない。 歩みにあわせて動いていく木々の葉むらの間から、空を見上げつつそんなことを考えていると、 「月ばっか見てるとおかしくなるよ」 悪戯っぽい声が聞こえ、今しがた見ていた、月に照らされた夜空に似た色の髪の相棒に顔を向ける。 この約二十年来の幼馴染みはよく彼女の考えを見透かす。そして世話好きな性分も手伝って、今の非合法な稼業にも 付いて来た。――だからこそ、彼女も普段とは違う返答をする。 「月の魔力が影響するのは満月のときだろう」 言うと、笑みのかたちがにぃっと変化した。 「ルナティックフェメノン。魔力はその光にあるのさ」 「ならば、ここ最近月ばかり眺めているらしいあの馬鹿は、とうにおかしくなっているな」 一見無愛想なままの顔に、つきあいの長い者だけにわかる笑みが浮かぶ。『あの馬鹿』も彼女が違う反応を示す一人だ。 それはつまり気に入っているという事なのだろうかと思いながら、当の幼馴染みは笑って視線を上に移す。 「あぁ。こんないい空のときにゃ出てるだろうねぇ」 「だろうな」 「言ってみるかい」 「深夜の寄り道か。あまり喜ばしくないが・・・お前がどうしてもと言うなら仕方無い」 まったく、素直じゃないねぇとくすくす笑う相棒に不機嫌な顔を見せながら、彼女達の足は脇道に入って行く。 きんと冷えた空気が、夜の香気を含んで草の上を疾る。 雪の頃にはともすると、胸いっぱいに吸い込んだなら肺が切り裂かれそうに思うそれは、まだいくらかやわらかい。 酒気の混じった白い吐息が広がって消える。 「まぁ。何だな」 ぐい呑みから口を離して呟く。 「酒こそ人生の楽しみだと俺は思うわけだ」 「てめェだけだろクソ親父」 「酒を知らないのは人生の楽しみの大半を知らないことだとか何とかいう名言を知らねえのか?」 「酒は飲んでも呑まれるなっつーのぐらいだ」 言って、杯を空ける。そんなオレに、酔いどれ風味に指を突きつけて勇が言い返す。 「何。三日幸せになりたかったら結婚しろ、永遠に幸せになりたかったら酒を覚えろって言うだろうが」 「そりゃ酒じゃなくて釣りだ」 「酒飲んで幸せになるのは一時間じゃなかったかい?」 唐突に割り込んできた聞き覚えのある声に、オレは酔っぱらいの緩慢さで振り返った。 「デイジー。・・・と石頭女」 「誰が石頭だ」 「お前以外の誰が居るよ。だんちょー殿」 コート姿の盗賊団幹部二人は、言いながらそばまでやってきた。石頭団長こと唯が、淡い赤紫の髪をうるさそうに撥ね上げる。 「おーう。久々だな」 勇が杯を上げて歓迎する。 「おじさまこそ元気そうで何より」 「元気どころか殺しても死なねーって」 「相変わらず貴様は年長者を敬う事を知らんな」 「その年長者とやらにロクなきょーいく受けてねェモンで」 「そりゃ悪かったな不良娘」 「お気になさらずクソ親父殿」 お互い据わった目で、にこにこと微笑ましい会話を始める横で、デイジーがしみじみと呟く。 「歳が近いといいねぇ」 「先代も今年で三十一だ」 「こらテメ唯!俺はまだ若いぞ」 勇が勝手に口喧嘩から離脱したかと思うと、そこへデイジーがそそくさと酌にまわる。 「だねぇ。ささ、おじさま一献」 「おーありがとよ。お前も呑めや」 「あらお構いなく」 とか何とか、居酒屋の一角のようなやりとりを始める。 「お前も呑むか?」 ため息を吐いて、唯に酒杯を傾けて見せる。 「私は酒は飲まん。そもそも貴様はまだ未成年だろうが」 思った通りの返事に、オレは破顔する。 「気にすんなァ。盗賊団なんぞやってる時点でもう法にゃ触れてんだ。今更ひとつやふたつ」 「貴様の論理で話すな馬鹿者」
誰も時計なんて無粋な機械は持っていなかった。 しかしやがて月は傾き日は昇る。 そんなことは知っていたけれど、まだまだ先のこと。 今はただ杯片手に月を愛で、歓談に笑みをこぼすのみ。 何て楽しいひとときだ。 光あふれる午後とは対極の、静かで騒がしい幸せ。 白い息がひとつ、広がっていった。
こんなきれいな夜は
お月見でもしようじゃないか
酒瓶持ってさ
あんたと懐かしい話をしよう