→小話
SCENE 1 Wolken
今日も空は果てしなく広がり、薄曇のくせにてらてらと水銀色に光る雲はどういうわけか巨大な月の姿を透かしている。暑くも 寒くも暗くも、明るくさえない。 地面についた手は、半分ほど死んだ砂に埋まっている。 視線を前に移すと、これも果てなく続きそうな砂漠と、所々に群れている黒く結晶化して立ち枯れた木々。あとは投げ出した自 分の両足が見えるだけだ。 ここにいて何十日・・・いや何年になるだろう。 記憶は殆どない。名前すら。 私は何か大罪を犯したらしい。 無気力。思考停止。ぼんやりした絶望------それは死に至る病。
SCENE 2 exoptatio
言葉をこの頃発していない。以前は独り言も言っていたのだが。 ここには誰もいない。何もない。 何も。・・・・・・。 私はまだ言葉というものを、言語というものを扱えるのだろうか。 人に会いたい。 人外のものでも。人のかたちをしていれば。会話ができれば。 ------まだ私は小さな願望にすがる。
SCENE 3 Weiβ
最初に目に入ったのはその大きな白。白い翼。 淡く光をまとって、夢遊病者のように宙を歩く人影。 ・・・天使。 声にならない『音』がもれた。 長い長い藍色の髪の天使が振り向く。 「------これは珍しいものを見た」
SCENE 4 phosphorus
彼女はミサキと名乗った。 「通り名だがね。本名は忘れたよ」 口調に反して物腰は柔らかい。私が記憶を持っていないことを告げると、 「なんだ喋れるじゃないか。過去などは無くても良いよ。・・・しかし名前が無いのは不便だな」 彼女は私をまじまじと見てから、微笑んでいった。 「おまえと同じ綺麗な翡翠色の髪の奴を知っているよ。そいつに因んで『ルーシェ』なんてのはどうだ?」 断る理由も無く、私は頷いた。すると彼女は背中の翼から羽根を一枚引き抜き、 「やるよ。気に入った奴には渡すことにしているんだ」 幻影のようなそれは、私の手に触れると紅色の小さな宝珠へと変わった。無くしてしまいそうな小ささのそれを持て余している と、すぐに彼女の手が伸び、左耳に硬い感触があった。 「ピアスにしたが・・・・・・なかなか似合うぞ」 至近距離で笑む菫色の瞳に、何か見覚えがあるような気がした。
SCENE 5 quies
彼女はよく喋る。会話に飢えていた私の何倍も。 他愛ない話を暫くした後、彼女は言った。 「ここは死んだ世界だ。神々の黄昏の後に残った混沌だよ。ここを創った主神が見捨てたせいなのだがね。今じゃ怨霊一ついない」 つまらないよ、と隣で欠伸をかみ殺す。翼を消した彼女は、それでも大天使のような雰囲気をもっていた。 私が口を開く前に彼女はまた喋り始める。 「長い間ここにいるようだが、暇ではないのかルーシェ」 暇。そんな感覚すら無い。ただ通り過ぎていく時を繰り返しているだけだ。 「ふぅん・・・・・・猫のような奴だな」 言って、当人が猫のように笑う。 「何だ猫を知っているのか。それならこの世界に関係するものだったのだな」 ・・・・・・わからない。 「まあ そんなことはどうでもいい」 空を見上げた。風に、途切れることのない雲が流れていく。 「妹を探しているんだが、見なかったか?亜麻色の髪の可愛い子だ」 目の前の彼女以外、今までひとを見たことは無い。そもそもこんなところに女性が一人でいるというのも不思議な話だ。 彼女は小悪魔のように笑みながら、僅かに虚ろを含んだ目で私を見つめる。 「------ここは罪人の流刑地なのだよ」 何かのたがが外れる音が聞こえたような気がした。
SCENE 6 luera sempitervivus
風が強い。黒い森が鳴きはじめる。 月は動かない。今までと同じように。 ふと、空を覆うものは雲ではなく水の膜ではないだろうかと思った。------なかにいるものを閉じ込める、銀色に光る檻ではな いだろうかと。 彼女の肩ごしに見える天の水銀はただたゆたうのみだ。 「・・・・・・わたしのような存在に死というものは無い。消滅はあるがね」 その言葉が先ほどの続きだということに気付くのに少し時間がかかった。 合わせていた目をふいと空へ向けて続ける。 「だからここで永遠に近い時間を無為に過ごさせるんだ。我らが主神殿が一番嫌うことをして罰とさせるのだよ」 口の端に皮肉な笑みが浮かび、 「罪を犯した者にとっては何の苦痛でもないがな。むしろ喜んでいるよ」 言って、低く笑う。 贖罪の術は無いのだろうか。 「堕とされた者は存在を消されたも同然だ。ここにいるしかない」 その声には憂いも悲しみも無い。あたりまえのことを言っているだけらしい。 自分で訊いておきながら、どう反応するでもなく私がぼんやりしていると、辺りを見まわしていた彼女が思い出したように口を 開いた。 「もちろん妹も罪人だ。しかも最大級の罪を犯した」 シニカルな色を含んだ声で、淡々と彼女は語る。 「闇の王の元息子と相思相愛の仲となったことだよ。因みに子供は三人だ」 再び向けられた瞳に私はどう応えていいのかわからなかった。 「闇の者とはいえ、魔力の殆どを失った勘当息子に恋をして何が悪い。娘を断罪する主神の顔は見ものだったぞ」 その言葉のどこかに懐かしさを感じるが・・・辺りを震わせる自虐的な哄笑に打ち消される。 やがて笑いが止んだ。 「・・・・・・何を話しているんだわたしは・・・」 沈黙がおりる。 ・・・・・・語れる過去があるというのは、私には羨ましいことだ。 「言っただろう。過去など無くてもよいと」 前を向き、うつむきかげんに髪をかきあげる彼女。そのベールで表情は見えない。
SCENE 7 zephyrus
風は一向に止まない。苦い砂が舞う。 彼女は膝に顔を埋めたままだ。 ・・・・・・過去があればそれに縛られることもあるが、懐かしむことも出来る。私にある『過去』はここの風景と、今隣にいる女性 だけだ。 「・・・・・・いっぱしの口をきくな」 肩が震えている。やっと形を成した私の考えは彼女を怒らせただけのようだ。顔もこちらに向けてくれない。 しかし私が次の言葉を探していると、 「・・・くっくっくっ」 ・・・どうも笑っているようだ。そして遂に堪えきれなかったらしく、反りかえって笑いをばらまきはじめる。 しかし私の見解はまた外れた。彼女の目には光るものがある。 嗤いながら彼女は言う。 「図星と盲点を一度に突かれるとはな!・・・ははっ自分が情けなさすぎて涙が出る!」 砂の上に寝転び、掌で顔を隠してまだ口の端をひきつらせている。 ・・・よくわからない。しかし今何か言うとまた混乱しそうなのでやめておく。 何となく彼女から視線を外して膝に顔を埋める。視界が閉ざされると、風の音がやけに大きく聞こえ始めた。飽きるほどに聞き慣 れたその音は、ぼんやりするには丁度いい。どうせ時間ならたっぷりある。彼女の気がおさまるまでこのままでいよう。 「------ルーシェ、おい。寝ているのか」 彼女に小突かれて気が付いた。どうもうとうとしていたらしい。 「起きたな。淑女を置いて居眠りとはいい度胸だ」 意地の悪い笑みを浮かべる彼女の背後には、白い翼が出現していた。 「3000mの高みから放り投げてやっても良いが・・・まあやめておく。わたしはまた行くことにするよ」 ・・・行く?何処へ。 「どこと聞かれても答えることはできないな。強いて言うなら『妹の所』か」 ふわりと彼女が舞い上がると、吹き続いていた風が凪いだ。そして私を見ながら面白そうに笑んで一言、 「また会おう」 そう言ったきり、すべるように飛び去ってしまった。 言葉にならない声がもれた。
SCENE 8 requietorium
耳が痛くなるような静寂。 あれから風も吹かない。 空を見上げる時間が増えた。 そういえば、彼女は何故私を見て珍しいと言ったのだろう。
SCENE 9 scrupulus
私が砂の上に寝転がってまたまどろんでいると、声が降ってきた。 「おまえは寝るか呆けるかしかすることがないようだな」 月を背にして、腰に手をあてた彼女が笑みを向けている。それを目にした途端、安息感がおしよせた。 「まともに話の出来る奴はおまえくらいしかいないようだ」 緩やかに降りて来ながら彼女は言う。 「ここにいる連中は殆どが人格崩壊を起こしているか、偶然出会った者と喧嘩をしているかだよ。見ているだけなら面白いが、ひ との話を聞かないので全くもってつまらん」 さくりと砂を踏んで、起きあがった私の隣に立つ。 「何だ、わたしに会えてそんなに嬉しいか」 菫色の瞳にのぞき込まれ、赤面する。私はそんなに嬉しそうな顔をしていたのだろうか。 翼を消して座った彼女は、しばらく愚痴を言った後唐突に切り出した。 「ルーシェ。おまえは記憶を取り戻したいと思うか」 記憶・・・。自分が何者なのかは知りたいが、『大罪人』というおぼろげな認識がそれを邪魔する。 「大罪人?ここにいる者は皆罪人だ」 何を今更、と言う彼女に、私は弱気に首を振る。 それだけじゃなく・・・何か漠然とした禁止。 「・・・・・・・・・・・」 じっと私の瞳を見たまま彼女は何か考え事をしているようだったが、やがて軽いため息とともに目を閉じた。 「・・・封印が解けるか試してみたのだがな。記憶が何かによって封じられている上に、強烈な自己暗示がかかっている。無理だ」 自己暗示? 「何か・・・精神的に強い衝撃を受けたのだろう。自我崩壊を起こさないための防衛本能だな」 言って、疲れを一緒に吐き出すような大きなため息をついて目を開いた。しばらくそのままで、また思考の海に沈んでいるよう だったが、ぽつりと私に言った。 「ガブリエラという名に覚えはないか」
SCENE 10 secretus
私が記憶の糸を手繰っているうちに彼女は何も言わずに行ってしまった。そのひどく悲しそうな横顔が私の心を刺した。 それから彼女は来ない。 死の砂漠はまた『日常』を取り戻したようだった。 時間だけが通り過ぎていく。 何かに何かを祈り続けた。
SCENE 11 refuga
さくり、さくりと砂を踏む音だけが続く。足跡は絶えずさらさらと崩れていく砂にかき消されていく。 あてもなく、ただ月を背にして歩いている。 ・・・・・・逃げているだけかもしれない。 行く手に、ここまで何度も見た黒い森が、空と砂との境界線をひいている。しばらく歩を進め、そこへ入る。 薄暗い森の中は、砂漠と違って耳が痛くなるような無音ではなくやわらかな静けさが支配していた。 息をつき、一枚の葉もない木々の根本に座る。見上げるとその枝は光を透かしていた。 ・・・結晶化しているのだ。ここの強い魔素のせいで。 ぼんやりとそう思ってはっとする。 ------何故私はそんなことを知っているんだ? ぱきり、と手の下で小枝が砕けた。
SCENE 12 lucus clancularius
自分の息づかいだけが聞こえる。黒い枝々の間にあの白い翼が目に入ったときからずっと。 固まった砂の上を、空に爪を立てる木々の隙間を、でたらめに走る。 きっと彼女は私を見つけてしまう。これ以上彼女に関わると、自分で封じたという『恐ろしい過去』が蘇ってしまうのではない か------そういう不安の冷たい手が心臓をつかむ。 急きたてられるように、右へ左へと通りやすい道を選んで走っていく。すると。 目の前に真っ赤な海。 砂浜で立ちすくむ。そして聞こえ始めた波の音と、 「わたしが降りやすい所を選んでくれたのか?ルーシェ」 赤い海を私から隠すように、笑みを浮かべた彼女が舞い降りてきた。その笑顔を見た途端、強ばっていた不安が氷解していく。 彼女は翼を一つ空打ちさせて言った。 「面白いものを見つけた。これから行かないか」 返事も聞かず、私の手を取り上昇した。重力から解放されたらしく、手が触れているだけで同じ高さを飛んでいく。やがて。 「見えてきたぞ」 それは暗色の世界に浮かぶ色彩の塊だった。 えぐり取ってきたような巨大な大地が、透明な球体に包まれて赤い海の上に浮いている。そこには緑の森が茂り、青い海があり、 空は蒼く、太陽さえ見えた。 「どうだ綺麗だろう。あれはわたしの姪の創った『世界』だ」 嬉しそうに彼女は言う。 「更に良いことに、妹をここで見つけた」 その言葉が終わると同時に、一瞬の目眩にも似た感覚の後、風景が一転した。 森に囲まれた一面の花畑。青すぎて黒いような空に白い雲が浮かび、鳥が鳴いている。 青い花が咲き乱れている所へ、私達は音もなく降り立った。 「ここだよ」 いつのまにか、彼女は民族衣装のような刺繍の入った長袖とフレアスカートを纏っている彼女が、花を一つ手にして言った。 時計草。青い時計草だ。 「おまえもその黒ずくめを変えないか?」 その手が私の肩に触れたかと思うと、服が紺のさらりとしたローブに変わった。そして顎に手をあてて、私の格好を上から下ま でためつすがめつしていたが、ふっと振り返った。 「丁度良いところに妹が来たようだ」 身を翻すと同時に翼を消し、髪に花をさしてむこうへ歩いていく。その先に、緩くウエーブがかかった淡い亜麻色の髪の、白く 長いワンピース姿の女性が現れた。彼女の姿を見止めるとすぐに駆け出す。 「お姉様〜」 姉によく似た顔で、あまり似ていない笑い方をするその女性を見て------思わず目をそらしてしまった。 足下のからまった蔓の中に、裏返しの青いパッションフラワーがあった。
SCENE 13 lux
「あなたの名前は何というの?」 春の陽光のような笑顔を向けられ、私はどう対応したらいいのか戸惑う。どうにか彼女からもらった名を告げると、女性は更に 顔を輝かせた。 「ルーシェ?良い名前ですわね。わたしはガブリエラというのよ」 ガブリエラ。あのとき彼女が言っていた名だ。 にこにこと、赤面する私をしばらく見つめると、姉の方を振り返って、 「この方よ」 嬉しそうに言う妹を複雑な表情で見やった後、彼女は腕を組んで、 「ガブリエラ・・・前にも言ったようにこいつの記憶は封じられている。わたしとしても薦めたくはない。それに・・・」 言いかけたそれを遮るように、 「大丈夫」 あどけなさをわずかに残す顔で女性が花のように笑う。------花の------ように・・・・・・ ------花。淡い色をした。一輪の。あのときくれた--------------------霧封の花。 ・・・・・・氷が砕ける。 ------霧が、晴れる。砂の記憶に流れ込む----------・・・!! 今まで起こったことが理解できてくる。この世界のことも。あの赤い海のことも。魔力を失ったわけも。 しかし。 「だめ。今は、まだ」 紫色の大きな瞳が目の前に現れた、ガブリエラだ。細い手で私の口を塞いでいる。少し痩せたようなその手に触れると、重ねた 手は頬へとすべった。 「もう一度、貴方と恋がしたいの。」 風が吹きわたり、蒼穹に色とりどりの花びらが舞う。そのむこうでミサキが------ラフィールが苦笑していた。 「そばに、いてくださる?」 それは遙か昔と同じ言葉。 「------喜んで」 空は高く、森は深く、風は軽い。娘の創った世界はあの時と違ってどこまでも平穏だった。
------------------------------------requiem aeteram dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis.
字引き
wolken | 雲(独) |
exoptatio | 願望(羅) |
weiβ | 白(独) |
phosphorus | 暁の明星(以下羅)=Lucifer |
quies | 休息 休養 平静 安静 |
luera sempitervivus | 永遠の罰 |
zephyrus | 風 |
requietorium | 休息所 墓場 |
scrupulus | 尖った小石 心配 不安 懸念 疑惑 |
secretus | 分離 隔離 孤独 |
refuga | 逃走者 背教者 |
lucus | 森林 森 神苑 |
clancularius | 秘密の 隠れた 無名の |
lux | 輝き 明かり 生命 救い 解放 |
requiem aeteram dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis. |
主よ、彼らに永遠の平安を与え給え、しかして不断の光明が彼らを照らせよかし。 (死者ミサ入祭文・・・・・・・・まぁ出典は忘れましょう・・・^.^;) |