渡し守
1.少年
走る。ただ走る。
短いアッシュブロンドが額にはりつく。木々の間から月が見える。
もっと速く。逃げるために。ぼくはいらない子だから。
下生えが少年の足に爪を立てる。夜露がしみる。考える事などもうとっくに出来なくなっている。熱にうかされたような頭で、森
の中を月に向かって走る。
唐突に森が途切れた。
ほんの少し地面の先は何も無く、その崖の先には森に囲まれた湖が見えた。
ここから飛び降りれば―――
湖に映る、満月にすこし足りない月はなぜか自分に似合いに思えた。
背後から小さくがさがさと音が近づいてくるのに気付いて、軽く地を蹴る。
風を切る爽快感。一瞬の空を飛ぶ気分。
―――これで・・・
意識を失って水面に落ちる直前に水が巻き上がり、そこから伸びた腕が少年を抱きとめた。
「・・・・・・何だ?この迷惑な可愛いのは」
2.小屋
目を覚ますと、木の天井が見えた。
ここはもう地獄だろうか。それともまだ、冥府の川の渡し守の小屋か。そんなことを思いながら少年は頭を動かした。そして、乱
雑なようで片付いている部屋の中に、人が居る事に気付いた。
長い黒髪を背中に流し、少しきつめの燐火のように蒼い瞳で、椅子の上で片膝を組んで本に目を落としている。
黙ってそうしている横顔を見て、少年は小さく息をもらした。
やっぱりここはあの世だ。こんな綺麗な人が居るわけない。
と、その人物がこちらに気付いて顔を上げた。
「お。起きたか」
テーブルに本を放ると、立ち上がって少年の顔をのぞきこむ。
「んー、元気っぽいな。何でまたこんなトコに居んだよおまえ。自殺志望なら他でやってくれねーか?ちょうどオレが居たせいで助
けちまったし」
しゃべりだした途端、さっきの神性は何処かへ行ってしまい、どこまでも中性的で、男か女かさえわからない。
「・・・・・・どうしてぼくを助けたの?」
「あ?おまえがオレの上に降ってきたから思わず受け止めちまったんだよ」
「・・・湖の上に落ちたのに」
「知るか。夜中に水浴びしてちゃ悪いか?」
頭をかきながら少し目を逸らすが、少年は気付かず続ける。
「ぼくは死んだほうがいいのに」
「?何でまた」
椅子に戻って小首を傾げ、少年を眺める。
「・・・世界を壊すために、ぼくはつくられたの」
「ほう」
「そんなのだめでしょ。みんな死んじゃう。・・・だからあそこから逃げて死ぬつもりだったのに」
枕に半分顔を埋めて目を閉じる。
「・・・そーゆー力の使い方、おまえ知ってんの?」
「うん。知ってるよ」
「―――それでまだ世の中ブチ壊れてないってコトは、おまえはまだその力を使ってなくて使う気もねーってコトか」
そして一人で満足したらしく頷くと、
「じゃ死ぬ必要無ェじゃん」
あっけらかんと言われたその言葉に、少年はベッドの上に身を起こした。
「そんなのだめだよ!ぼくが生きてるなんてわかったら、あの研究所の人がまた追いかけてくる!あなたに迷惑がかかるよ」
「ふゥん。追手はどーにでもなるぞ」
また片膝だけ組んで、その上に頬杖をつく。
「・・・・・・どうして死なせてくれないの?」
すると頭を起こして髪をかきあげ、
「どーしてそう死にたがるかな。周りのコトはともかく、おまえ自身はどうなんだ?本気でそう思ってんのか?」
その涼やかな、全てを見通すような瞳。
「・・・・・・しにたく、ないよ」
うつむいて、囁くように少年が言うと、
「ならいいんじゃねーの?」
にっと笑って椅子から立った。そして探し物を始めたらしく、そう広くない部屋の中を歩き回りながら続ける。
「今ちょっと人間やめてるからわかるんだがな、この世の中かなり破壊神系の奴らが、平和に晩メシの献立に悩んでたりするんだわ」
幾つか棚をのぞいてまわってやっと見付かったらしく、物の隙間から鳥の羽根で飾られた小さな輪のようなものを取り出した。
そして芝居がかった声で楽しそうに、
「さァて、冥府の渡し守として言おうか。おまえ生まれ変わる気無ェ?」
少しの間少年はぽかんとしていたが、やがて嬉しそうに頷いた。
やっぱりここはあの世だったらしい。
3.夜明け
東の空が明るくなってきていて、明けの明星がひとつ輝いている。
多分初めて見るその光景に、少年は見とれていた。
こういう瞬間に、世界は綺麗だと言えるんだろう。
暁色の宝石と十一枚の黒い鳥の風切り羽を、幾種類かの枝や蔓で作った輪に編み込んだものが、湖のほとりに仰向けになった
少年の胸の上に置かれている。
「そろそろ・・・かな」
陽の昇り加減を見ていた『渡し守』が呟いて少年に向き直った。
「さて少年。これから一旦おまえを時間軸から切り離す。次に目が覚めたら、おまえ以上に凄ェ力持ったひとン所だから、そこで
イチからやり直して来い」
そしてどこからか黒い羽根を一枚取り出し、輪に加える。宝石がきらめいたかと思うと、輪全体が光り始め宙に浮いた。
ゆっくりと、光に包まれながら少年は初めて微笑んだ。
「・・・ありがとう」
その言葉を最後に、光はまばゆく輝いて消えた。
蛇足。
しばらくそこに立ったままで、照れくさそうなそれを無理矢理隠そうとしているような顔をしていた『渡し守』は、やがてため息を
つき、森の木にもたれてあぐらをかいた。
色を変えていく空を眺めながら、またどこからか煙草を取り出して火をつける。一息吸ってため息と一緒に紫煙を吐き出した。
「・・・・・・いつまでこーゆーコトしてりゃいいワケ?そこの女神さんよ」
煙草をくわえたまま言うと、森の中から輝くような金髪の女性が現れた。
「いつまでって、私が決める訳じゃありませんからねぇ」
のほほんと笑みながら返され、肩を落とす。
気を取り直して、話題を変える。
「・・・あのさ、あいつってば送って良かったのか?」
「ええ。あの子くらいの力でしたら暴走しても私、創り直せますから」
「・・・カルく言うなオイ」
「あはは。流石に送り先の方に暴れられちゃ手のつけようがありませんけどね」
「むー。そりゃあのセンセが暴れちゃなぁ・・・普段ほえほえなだけに想像もつかんが」
「まぁ父さんに限ってそんな事しないでしょうけど」
にこにこ笑って、女神が隣に座る。
「しっかし酷ェ事するアホってのは居るモンだな」
目の下にしわを刻んで呟くと、
「あ。その研究所とやら、潰してきましたけど」
「・・・・・・・・・。おー、そうか」
やっぱ神さんてやる事が怖ェ・・・。
こっそりそう思い、煙草をふかして誤魔化す。
「どうせまた誰か来るまで暇なんです。考え事なんて放っておいてのんびりしてたらどうですか?」
「おう。・・・時間なら売るほどあるしな」
呟いて、空を見上げる。
山の稜線からは朝日が差し始めていた。
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