第一幕 壱 もう終わった頃だろうか。 それとも未だ、彼の命は此の方に在るのだろうか。 どちらにしても、後数刻もすれば知らせは届く。 せめてせめて、彼の苦しみが一瞬でも短くあって欲しいと願う。 一月流し続け、それでも枯れない涙がまた、頬を伝った。 今日、もう一人の兄とも慕った乳兄弟が腹を切る。 褒められた行動ではないのは分かっていたけれど、それでも、閉じられた襖の向こうから聞こえる声に耳を澄ますのを止められなかった。 半年前に家督を継いだばかりの兄の、既に威厳を備えた声が耳に痛かった。 「本来なら斬首を申し付けるところだが、今日までの働きに報いて、最後の情けを掛けてやる」 兄にとっても乳兄弟でもあるというのに。 「身辺整理の上、切腹せよ」 「…承りました…」 何故、二人ともこんなにも。 「一族には咎は及ばん。お前一人の腹で済むなら安いものだと思え」 「…有難う、存じます」 冷徹に、なれるものか。 ひとの命に対しても。己の命に対してすらも。 「嫌よ!」 ああ、少なくとも自分は、そこまで物分かり良くできてはいないのだ。 思い切り襖を開け放った姿に、室内の二人の視線が集中する。受け止めて、もう一度叫んだ。 「嫌です兄様!ねえ、彼の気質は知っているでしょう?誘われて、断り切れなかったのよ!それだけよ!」 気弱なほどに、優しい青年だった。 幼い頃から勝気で奔放で、困らせていたばかりの自分に、辛抱強く付き合ってくれて。 『仕方ないですねえ』 『それでも私は、姫様らしくて良いと思いますよ』 どこか薄い印象のある微笑みが、大好きだった。 「きちんとした療養を受ければすぐに良くなるわ!そうしたらまた、元通りに…」 「花雪(かゆき)」 全てを打ち切るように。自分の名前が響く。 「分かっているだろう。こいつは、篠宮(しのみや)の家名に泥を塗った」 そう、自分だって理解している。 正しいのは兄だ。いつだってそうだった。 「これが公になれば、篠宮の名に傷が付く。当主として、それは許されん。温情の余地は無い」 「だって…でも…!」 どうして言葉というのは、必要な時に限って出て来てくれないのだろうか。全てを白紙に戻す呪文があれば良いのに。 けれども自分が好きだったのは、この乳兄弟の、世渡りの下手な優しさだった。 強引に誘われれば、どうしても逆らえない、そんな優しさが。 「良いのですよ、姫様」 こんな時にまで持ち出される、いつもの静かな優しさが。 「私が愚かだったのです…。一度で止めておく、いいえ、そもそも最初から撥ね付けるだけの強さすら、持てなかったのですから」 呟くように微笑む、彼の頬はごっそりとこけていた。目の下に浮かぶ隈、どろりと濁るのは空気か。 彼の体を蝕んでいる物の名前を、花雪は知っていた。 阿片。 遠く海の果てより、唐を経て入って来る麻薬。 水煙草のように吸煙することで、酩酊感と幸福感に浸れるという。 しかし徐々にそれ無しではいられないようになり、また体が慣れてしまいどんどんと量が増えていき、最後には廃人に至る、禁じられた薬。 付き合いで連れて行かれたいかがわしい酒場での、強引な一服が始まりだったという。 大人しい彼は上手く断る事も出来ず。引きずられるままずるずると染められていった。 やがて己の財布では賄い切れず、主家の金に手を付けようとした所で、兄が気付いた。 譜代の御家人である篠宮家で、当主の腹心が阿片に手を染めていた…表沙汰になれば、それこそ家名に付く傷は計り知れないものとなるだろう。その前に、全てを隠す為に、当人に腹を切らせる。 至極もっともな結論だ。 分かっている。 分かっている。兄がその怜悧な仮面の下で、同じ痛みを抱えているであろう事も。 ああ、だけど。 「お二方にお仕え出来て、私は幸せでした。喬哉(たかや)様、花雪様」 それから会う事は許されなかったけれど。 だからこそ、あの微笑が離れない。花雪の心に突き刺さったまま、春が来ても、きっと溶けない氷。 「…うん」 ぐい、と強引に涙を拭って立ち上がる。贅を凝らした蒔絵や螺鈿で飾られた部屋の中、桐の衣装箪笥の一番下。 この一月の間に、こっそりと洗い場に忍び込んで手に入れた着物。 絽や友禅染のいつもの自分の衣装ではなく、下働きの娘の物であろう、淡い藍染めの絣。町娘の格好としてはそれほどおかしくない筈だ。 手早く着替えて、これは仕方無く持ち物の中から比較的地味な柄の帯を結んだ。 珊瑚細工の簪を外し、他に幾つか見栄えのする飾りを巾着袋に収める。 さあ、準備は整った。 皆何が起こっているか知っているから、今日なら屋敷は閑散としている。 抜け出すなら、今日しかない。 本当はあの微笑の思い出に、浸って居たかったのだけれど。 そうして勝手口から、花雪は冬の江戸に踏み出した。 これから益々、水に張る氷は厚くなっていく。 それでも。 自分の心に刺さった冷たい刺を、溶かす為に。 |
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