空の音     〜『平家物語』(「敦盛最期」)より〜

 平氏が合戦に敗れた。若武者、平敦盛にとって、それは辛い現実だった。戦に負ければ逃げる他無い。
その為であろうか、明け方であるのに、平家陣中に響く敦盛の笛の音は、
澄んだ中にどこか空虚を感じさせた。
空の色は、霞と共にその笛の音を絡め、どこか寂しい赤色をしていた。

 源氏方が攻めてくる。
練貫の直垂に萌黄匂の鎧、太刀・弓を身に付けた敦盛は、最後に自分の笛を錦の袋に入れ、腰に挿した。
劣勢の中にありながら、日の光を浴びたその鎧姿は何よりも凛々しく感じられた。

 馬に乗って海に入り、味方の待つ沖の船に向かって馬を泳がせていく。
するとその背後から、雄々しい声が敦盛を引き止めた。
「そちらにおられるのは大将軍とお見受けする。卑怯にも、敵に背を向けられるか。お戻りなされ!」

 朗々たる声だった。振り返れば浜辺に一騎、源氏方の武者が扇を上げて招いている。
勝負を挑んでいる事は見て取れた。敦盛とて、若輩なれど一人の武将。
その言葉に引き返さない理由は無かった。
馬の向きを変え、浜辺へと戻る。足元を濡らす塩水が冷たい。
波打際まで辿り着くと、源氏の武者は、敦盛に馬を並べて直接組み合ってきた。力強い腕。
一瞬の事に体勢が崩れる。次の瞬間、双方はもろともに浅い水面に飛沫をあげた。
そのまま二人の武者は取っ組み合った。互いの乗馬が離れていく。
聞こえるのは、ぶつかり合う鎧の音と、それらが触れる度に跳ね上がる飛沫の音。互角の勝負であった。
しかし、やがて決着はついた。

 敦盛の背中が浜辺に押さえ込まれた。それを押さえつけたのは勝者たる源氏の武者であった。
敦盛の耳元に揺れる波音が虚しく響く。

 首を取られる。敦盛は敗者の常である事実を確信した。
しかし、その首を取ろうとしていた武者が、荒い息の間から問い掛けてきた。
「そもそもどういう人であられるのか。名乗られよ。お助け申そう」

 意外な言葉だった。敦盛の若さへの同情であろうか。
しかし、沖の船からも見られているであろうこの一勝負、今更相手に情けをかけられたくは無い。
敦盛は問い返した。
「お前は何者だ」
壮年の武者の荒い息遣いが治まってきていた。 
「武蔵国の住人、熊谷次郎直実と申す」

 凛としたその姿は、敦盛にとって理想であった。
しかし彼にはもう、その理想を追う事は出来ない。それでも。

「私はお前には名乗らない。お前の為には良い敵であろう。この首取って、人に尋ねてみよ」

儚い現実の中で、言葉を返した若武者は、誇り高き勇将そのものだった。
熊谷の目に涙が滲んだ。敦盛の父は、息子の最期をどう思うだろうか。
天晴な最期と褒め称えるであろうか。
それとも、この壮年の武者のように涙するであろうか。

 嘘のように静かに、波の音が響く。遠くから聞こえる、砂を蹴る馬の蹄の音。
熊谷は、敦盛に向き直り片手で涙を抑えた。
「お助け申そうとは思うが、源氏の味方が押し寄せている。お逃げにはなれますまい。
他の者の手にかけるよりは、この直実が手にかけ、死後のご供養をいたしましょう」

その言葉だけで充分だと敦盛は感じた。息を吐けば、水の感触が蘇る。その表情は安らかだった。

「早う、首を取るが良い」

若武者の目に、高く青い空が映る。白い雲が霞のようだった。
熊谷もまた、この青い空を見上げるのだろう。

 空の色を映した青い水面に、雲のように紅がたなびいていった。
それはやがて、揺らめいて、溶けて、消えていく。どこまでも青い海と、空に。

 平大夫敦盛、享年十七。

残された者の嘆きの声は、暁の空に響いたあの笛の音に似ていた。

 

 


大学時代の某講義における課題『古典作品のオリジナル現代語訳』。
まず浮かんだのが大河ドラマなのでそういうイメージで書きました。
割とお気に入りにはなったんですが、よもや
受講生全員の前で
朗読させられる
羽目になるとは思いませんでしたほろ苦い実話・・・。

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