――それは、語られなかった物語――
序章
少年は、浜辺にまで降り立った。
小さな島の波打際に寄せては返す波を横目に、海岸沿いを歩いてゆく。
彼は、さっきまで被っていた自分のキャップを探していた。強い突風に煽られ、海の方へと飛ばされてしまったのだ。そこらで買った物ならばまだ諦めがついたが、それは、叔父が海外で買ってきてくれた、お気に入りの赤いキャップだった。
キャンプのある高台から飛ばされたそれは確かに彼の進む方向へと飛んでいった。しかし、その広い浜辺だけでも、そこに落ちたかもしれない小さなキャップを探すのは困難だった。叔父は、『また新しいものを買ってきてやるから』と慰めてくれたが、彼にはどうしても諦めきれなかった。強情に探しに行って来ると言った彼を、苦笑した親達は『気を付けて行っておいで』と見送った。きっと、途中で疲れて帰ってくるに違いないと思っていたから。
砂浜の果ては、岬の足元にそびえる岩場の入口に繋がっていた。岩場はそのひとつひとつがとても大きく、彼の小さな体では昇れそうに無かった。肝心のキャップも見つからない。波によって引き戻される事も無い沖にまで飛ばされてしまったのだろうか。
気付けば、海の色は蒼の中にオレンジが混ざり始めている。
もう、諦めて引き返そうか。
少年が肩を落とした時、不思議な声が聞こえてきた。
「・・・・・・?」
それは、『声』なのだろうか。音楽の時間に奏でるリコーダーの音にも似ていると彼は思った。その『音』のする方へ視線を遣ると、岩場の上に人の影が見えた。
不思議な女性だった。
海に向かって岩場に座る姿。長く、真っ直ぐに伸びた髪が、夕焼けのオレンジに染まって綺麗な金色にきらめいていた。瞳の色も、黒とは少し違う色だ。そして、真っ白な肌には何も着ていない。外国人だろうか。時折テレビで、水着を着ずに浜辺に寝そべる外国の女性を見た事がある。けれど、それとは違って、少年の見ている女性の柔らかな線には、不思議と何処にもいやらしさを感じさせるところが見られなかった。そして、彼女の傍らには、海の色にも岩の色にもそぐわない、見覚えのある赤い色があった。
「・・・オ、オレの帽子!!」
少年は思わず声を上げた。それに気付いた女性は歌うのをやめ、横顔に見える片方の視線だけをこちらに向けた。言葉が通じるかは解らなかったが、少年はたどたどしく身振り手振りを加えて女性に声をかけた。
「・・・そ、その帽子、オレの、なんですけど・・・」
「そなたの・・・?」
女性は視線だけを寄越したまま、綺麗な声で言った。ややあって、女性は傍らの帽子を手にすると、ふわりと少年の方へ投げて寄越した。
それは、少年にも聞き取れる言葉だった。ならば、お礼を言う事も可能だろう。少年は、ぱさりと音を立てて砂に落ちた帽子を拾い上げると、波音に消されないよう声を張り上げた。
「お、お姉さんが拾ってくれたの?ありがとう!大事なものだったんだ!!」
「この島に、まだ人がいたとは・・・」
女性は、静かに呟いた。
「オ、オレ達はキャンプに来ただけだよ。・・・お姉さん、この島の人なの?」
毎年キャンプに訪れる小さな島に、人など住んでいないと思っていたが、少年は岩場の下からそう尋ねた。
「・・・どう言ったものかな・・・」
女性は、再び海へと視線を遣った。つられて少年もそちらに目を遣ると、大きなオレンジ色の円が、水平線に吸い込まれてゆくのが見える。青かった海を一面のオレンジに染め上げてゆく。
「・・・すっげぇ・・・」
少年は、思わず声を洩らした。再び飛ばされないように目深に被ったキャップの色よりも、薄い筈なのに色濃く見える赤だった。そうして、それは少年のおぼろげな記憶を引き出した。
「・・・オレ・・・、もっと真っ赤な海、見たことある・・・」
女性が聞いているかも解らないのに、少年は幻のような思い出を話し始めた。
「・・・まだ、オレがちっちゃい時から、うちの家族、毎年ここにキャンプに来ててさ。その時は、夜だったと思う。岬の上で皆で花火やってたんだ。その時、ふっと見た海がやけに真っ赤だったらしくてさ。オレが急に泣き出してびっくりしたって、母さんが言ってた・・・。・・・ねぇ、お姉さんはこの島に詳しいの?夜の海に、そんなのが見えるのかな?」
海を見つめたままの女性に、少年は語りかけた。見たことの無い女性だったが、不思議と、怖いとは思わなかったから。女性は、また視線だけを寄越して、ぽつりと言った。
「・・・昔話をしようか・・・」
「昔話・・・?」
オウム返しに聞き返す少年に、女性はひとつだけ頷いて、赤く染まり続ける海を見た。
「ずっとずっと昔から、この海に伝わる昔話・・・」
潮騒は、絶え間無く鳴り続け。
第一幕
【永き夜の 光明(ひかり)無き路(じ)に 手繰る糸 果ての焔(ほむら)の 漁灯(いさり)なるかな】
彼が『それ』を見つけたのは、暗く、冷たい地下の奥。
「誰ぞ、おるか!!」
雄々しい声が、石造りの空間と『彼女』の耳に響いた。
覚えの無い声。低くよく通る男の声だ。この館の者ではないのだろうかと、彼女は思った。
誰であろうと、彼女に知る由は無いのであるが。
ざり、ざり、と、石畳を近付いてくる足音。
そして、金具の触れ合う鎧の音。
やがて、彼の手にしているのであろう灯りの映す影が、彼女の視界に入ってきた。
頑丈な格子の向こう、彼の足元がわずかに見える。手を伸ばせば届くかもしれない距離に。
けれど、彼女は手を伸ばす事が出来なかった。
彼女は、そこから動く事が出来なかった。
ややあって、彼の足が踵を返すのが解った。誰もいないと悟ったのだろう。
――行かないで。
けれど、彼女は声を出す事が出来なかった。
たとえ、ここにいると呼び止めたくても。
『彼』が誰なのか。どのような者であるのか、彼女には解らなかった。
けれど、気付いて欲しかった。
誰でもいい、『ここ』から出して欲しいと。
けれど、彼女にそうする術は無く。
じゃり
彼女の頭上で鎖が鳴った。ほんのわずか、『彼』の鎧の音にさえ紛れてしまいそうな音。
その目の前から去ろうとしていた彼の足がぴくりと動き、そこに踏み止まった。
ややあって、格子の向こうに金属の砕けるような音が響いた。
そして、ぎぃ、と格子の一部が開き、彼女の視線と同じに、彼の視線が降りてきた。
「・・・・・・女子(おなご)か?」
そう呟いた彼は、厳しい視線を持っていた。
手にしていた松明(たいまつ)が、格子の奥を照らす。
彼は、そこに照らし出された者を女と認識せざるを得なかった。
何故なら、松明の照らし出した囚われ人は、服らしいものを何ひとつ纏っていなかったのだ。
身に帯びているのは、両腕を頭上に繋ぎ留めた鎖と、口元を縛める轡(くつわ)の布だけ。
灯りの描き出したその肢体の線は、紛れも無く女の『それ』。
石畳に投げ出された脚も、わずかな胸の膨らみさえも隠されることなく。
彼は、それを男の感情で見る事は出来なかった。
性的な感情など抱けないほどに、『彼女』の四肢や胴、首筋に至るまで、骨の形がそれと解るほどに痩せ衰えていた。
もとは白かったであろう肌は、薄汚れて見る影も無い。
薄闇の中照らし出された髪は床に乱れるほど長いが、その色はどうやら黒くは無い。
右頬一帯に傷を負っているのか、髪の間から覗く左の眼(まなこ)だけが、怯えを湛えて彼を見つめていた。
「・・・酷(むご)い真似を・・・」
彼は、押し殺した声で吐き捨てた。目の前の彼女にではなく、彼女をそうした人間への侮蔑。
彼女には、ただ彼を見つめる事しか出来なかった。
静かに、腰に佩いた刀を抜く動作を。薄闇に鈍く光る刀身がその身に向けられるのを。
ただ、気付いて欲しかった。
もう、殺されても構わないから。
どのような術であろうと、『ここ』から自由になりたい。ただそれだけだったから。
けれど、彼女はまた金属の砕ける音を聞いた。その頭上で。
「・・・・・・」
一体、何が起きたのか。気付けば彼女の目の前には背の高い影が降りていた。
彼は、身に纏っていた陣羽織を脱ぐと、彼女の痩せた体を包んだ。
そうして、片腕で軽々とその身体を肩に担ぎ上げた。
彼女は、自分の体が宙に浮いてようやく、腕を壁に繋ぎ止めていた鎖の先端が切られたのだと認識できた。
「童女(わらわめ)でも、もう少しましな肉付きであろうに」
彼女の頬に、羽織の襟にあしらわれた獣の毛皮が触れた。
冷え切った全身に、着物に残った温度が染み入るようだった。
「今はゆっくりと縛めを解いてやる間は無い。しばし辛抱いたせ」
彼はそれだけ呟くと、彼女を抱え上げたまま格子の扉をくぐった。
「お屋形様!お急ぎくだされ!!」
石の道の果てで、誰かが彼を呼ぶ声が聞こえた。
●
石の道の終わり、階段を登り始めた頃、『眼を伏せていろ』と彼は言った。
彼女は、ただ言われるがままに長い睫毛を伏せた。
やがて、伏せた瞼と頭まで包み込んだ陣羽織の隙間から差し込む光が眼に痛かった。
大気は変わらず冷たいけれど、澱む事無く流れている。
あの暗く冷たい場所の外は、こんなにも明るかったのだ。
そして、耳には渦を巻くような喧噪が響き渡る。その中にぎらつくような刃と刃の喰い合う音。
『外』では一体何が起きているというのだろう。
殺されても構わない。確かにそう思っていた筈なのに、知れず、彼女は『外』が怖くてたまらなくなった。
「この賊めが・・・!『それ』はわしのものじゃ、ぬしの如き下賎にくれてやるわけにはいかぬ!!」
不意に、喧噪を裂くような甲高い男の罵声が耳を打った。
それは、彼女が耳を塞ぐ事さえ許されず、聞き続けるしかなかった声。
彼女は、『彼』の衣に隠されている事も忘れ、小刻みに震え始めた。
「わしのものと豪語するなら、もう少しましな扱いをしてはどうだ?」
彼は、不要になった松明を投げ捨て、代わりにその手で腰に佩いた刃を抜いた。
「黙れ黙れ!生きてここから出られると思うな!!」
その声が、場に動きの生まれる合図になった。
彼女には、その身体を支えた『彼』が動きを見せた事しか解らなかった。
あまりに近くで喰い合う刃の音。数度のそれが重なり響いた直後。
「っああっ・・・!!ぁあああぁぁあっっ!!」
断末魔とも言えないような、錯乱した『男』の声。
場の動きが止まる。『彼』の動きも。
「・・・片腕で無ければその首斬って捨てられたであろうに」
惜しいことよと吐き捨てる声が、彼女を支える腕の下から漏れた。
『彼』も、同じなのかもしれない。
ここは、同じ種の者達が喰らい合う地獄だ。
彼女の痩せ衰えた身体が震え続けていたのは、冷気の所為だけではない。
「お屋形様!お早く!!」
「・・・このままでは済まさぬ、出合え!賊を生かして帰すでないぞ!!」
「皆、深追いはするな、退け!!」
喧噪が重なり、遠ざかり、やがて、彼女は潮騒を聞いた。
死臭に紛れて鼻腔をくすぐる、潮の匂い。
●
「手荒に扱こうたな、・・・平気か」
彼が再び彼女に言葉をかけたのは、船の中の一室だった。
船の全容は把握出来なかったが、地下牢よりも僅かに広い程度の部屋だった。
布の敷かれた、長く幅広の腰掛けのような場所に身体を降ろされ、彼女はようやく眼を開けた。
日の光よりもいくらか暗い部屋だったが、あの石牢よりは余程明るい。
そこで、彼女は初めて彼の姿をはっきりと見て取れた。
目の前に立っていたのは、想像よりもはるかに若い男だった。
長い黒髪はひとつに束ねられており、その間に見える眼光は厳しい。
左頬から首筋にかけて見える刺青のような紋様は、花にも見え、昇る龍にも見える。
そして、その頬にも、鎧や着物、未だ彼女の肢体を覆う羽織にも、至る所に血の描く黒ずんだ紅(くれない)模様が見て取れた。
――この男も、『同じ』だ。
救われたように思えたが、平気で他者を虐げ、血を纏う者。
相手が摩り替わっただけで、同じ思いをさせられるに違いない。
ならば、いっそ。
男の大きな手が伸びてきて、彼女は身をすくめた。
彼の手は、ゆっくりと彼女の轡を外そうとした。
ならば、いっそ自ら命を絶ってしまおう。
それさえも許さなかった轡が緩む。ただ一度の好機。
彼女は、祈る思いで顎に力を入れた。
「っ・・・」
しかし、彼女が歯を立てたのは自分の舌では無かった。
外れかけた轡布の上から、男の手が彼女の口元を押さえつけていた。
「・・・声を出させぬ為だけではなかったということか」
彼は呟いて、再び彼女に轡を噛ませた。
「・・・お屋形様、お呼びで」
不意に、扉の外から声がかかった。男の声だ。
「・・・ハヤヒコか」
一礼して戸を開けたのは、背のひょろりと高い男だった。歳の頃は『彼』とさして変わらない若い男だ。
上背はあるが、『彼女』を助けた男よりも細い体躯をしている。
髪は長くは無かったが、視線が隠れるほどのざんばら髪だ。
ハヤヒコと呼ばれた男は『彼』の命(めい)に従い、慣れた手付きで『彼女』の手枷の鍵を外し、鎖のそれを布紐に変えた。
その時彼女は、髪に隠れた瞳に光の無い事を知った。細長く節くれた指だけで具合を伺う様子を見て。
けれど、彼にもまた隙は感じ取れなかった。
好機は失われてしまった。もう逃れる術は無い。
抗ったところで力で敵う筈も無い。
ハヤヒコは役目を終えると静かに部屋を出た。
「そなた・・・我らの言葉は解るのか?」
問いかけにひとつだけ頷くと、『彼』は、そうかとだけ言って、そこから何も話さなかった。
やがて船が、窓の外に見える景色をひとつに留めるまで。
第二幕
【伝(つたへ)なる 銀糸(しろがねいと)と 蒼玉(そうぎょく)の 現れ出づる 真なりしを】
船が辿り着いたのは、沖にある孤島であるらしかった。船着き場こそ設けられていたが、決して整えられたものではない。形ばかりと言ってよい代物だ。
乗船していた男たちは、あの屋敷から奪ったのであろう荷を手に、次々とそこに降りてゆく。『彼女』もまた、『彼』に抱えられて再び土の匂いを嗅いだ。
船の停まった場所から、自然の造形に沿って作られた階段状の道を昇って行くと、高台の上に木材を連ねた塀が迫っていた。その一角に設けられた門をくぐると、小さな集落のように点在した家屋が見える。その先には、更にひと回り小さな木塀が設けられていた。再び門をくぐると、一軒の屋敷が待ち構えていた。その背後にそびえるのは、冬の色をした山。
「お屋形様、お帰りなさいませ。お湯のご用意、整うてございます」
そう言って、彼を出迎えたのは数人の女達だった。中央に立つ、若いが恰幅の良い女に倣い、深く頭(こうべ)を垂れるとりどりの着物を纏った女達。『彼』は、中央の女にこう言った。
「わしは後で構わぬ。先にこの娘を見られるようにしてやってくれ」
「・・・この者は・・・?」
頭を上げた女は、幾分不思議そうな様子で『彼女』の姿を認めた。
「地下牢に捕らえられておったを連れて参った。見慣れぬ姿だが害を成す者ではないし、今はその力も無いようだ。されど、まだ己を傷付けようとかかるでな。縛めはこのままに。」
そう言って、彼は『彼女』をそっと女に引き渡す。女の腕はそれに見合った力があるらしく、同じように軽々と『彼女』を抱き取ると再び頭を垂れた。
「承知致しました」
そして、女達は窓から湯煙の立つ棟へと向かう。
「お屋形様、せめて汚れだけでもお落としくださりませ」
彼の前に、手ぬぐいと湯桶を手にした女が歩み寄った。彼に濡らした手ぬぐいを手渡すと、後ろに控えていた男――ハヤヒコにも同じように手ぬぐいを渡す。
「・・・あの娘御・・・唐辺(カラベ)の?」
「・・・おそらくは慰み者だ。見目の珍しい娘ゆえ、舶来よりの難民やもしれぬな。」
この海の遥か果てには、髪も瞳も黒い自分達とは異なる、言葉さえも違う人々の住まう地があるという。船内の灯りで見た、色の無い髪と蒼い隻眼。
「我らの言葉は解しておると答えたが・・・」
そう言って、彼が汚れを吸った手ぬぐいを再び女に渡そうとした時だった。
「も、申し上げますお屋形様!」
不意に、駆けてきたのは先ほど出迎えた女の一人だった。女は地に平伏し、男を見上げる。
「如何(いかが)した」
「それが、先ほどお預かり申し上げた娘が・・・」
●
「・・・真魚(まな)・・・?」
ゆっくりと開かれた湯殿の中に、彼は我が眼を疑うようなものを見た。
行水に使う大型の湯桶の中にいたのは、紛れも無く彼自身が連れてきた娘だった。その事は疑うべくも無い。しかし、湯の中に見え隠れするその脚は、明らかに人のそれではなかった。人ならぬ流線型と青銀の鱗。その先には透けるような銀の尾鰭(おひれ)。
――海に棲まう者。半人半魚の美しき妖(あや)しの異形――そこにいたのは、痩せ衰えた真魚(まな)だった。
「・・・成る程、唐辺があれほど執着したは、かような理由あっての事か」
縛められたまま、ただこちらを見上げる蒼い眼に、彼は呟いた。『彼女』の執拗に怯えた眼の理由は、今ここに明らかにされた。
「お屋形様・・・」
女達が彼の言葉を待つ。やがて洩れた言葉は短かった。
「・・・良い、同じに」
●
「直(じき)にお屋形様がおいでになる。大人しゅうしておいで」
『彼女』は、一室に座らされた。板間の中に陸の獣の毛皮が敷かれている、さほど広くは無い部屋だった。女達の頭目であろう恰幅の良い女が、慰めるように髪を撫でた。
湯殿では、なされるがままに身体の汚れを落とされた。髪の一房一房さえ丁寧に梳(くしけず)られ、皮膚のただれた右頬には、それを覆い隠すように白い包帯が巻かれた。そっと水気を拭き取られた脚は、今再びか細い二本のものに姿を変えていた。
「・・・・・・っ・・・」
しかし、『彼女』の言葉と腕は縛められたままだった。着物を着せられる間だけ解かれたが、清潔な布で再び縛めるそれは、やはり『彼女』の腕の力で解く事は叶わなかった。
同じ女である目の前の者ならあるいは慈悲をくれるやも知れない。『彼女』は懇願するように女を見上げた。
「悪いが、お屋形様の命(めい)が無ければ解いてやる事は出来ないんだよ。堪忍しておくれ。」
しかし、女は済まなそうに頭(かぶり)を振るだけだった。
「大丈夫、お屋形様は道をわきまえた御方ゆえ」
「・・・・・・」
そう女は言うが、『彼女』には未だ『彼』を信じる事は出来なかった。血と死臭を纏ったあの姿を。
ややあって、障子の向こうに影が降りた。女は静かに床に平伏す。障子が開かれ現れたのは、同じように身を清めたらしい『彼』だった。鎧を外し、落ち着いた色の着物と袴を身に付けている。
「・・・見違えたな」
彼の見下ろした先には、痩せてはいるものの、その美しさを取り戻した娘がいた。灰色に見えた長い髪は、雪の如き淡い光を帯びるような銀(しろがね)。隻眼となった瞳は、真昼の水面(みなも)の如き深い蒼を湛えていた。今はまだ蒼白さの目立つ白い肌に、紅(べに)色の着物が映えていた。
「ヤエ、御苦労だった。下がって良い」
男は短く女を促す。
「おそれながら、お屋形様・・・」
「解っておる。無下にはいたさぬ」
彼の言葉は、何処までが真実なのだろうか。
――真魚じゃ。まだ幼子じゃがなんと美しい。
「・・・・・・」
『彼女』は、彼の動作に逐一怯えを隠せなかった。ただ、目の前に足を組み腰を下ろしただけで、その瞳は涙に潤む。
「あのような扱いを受けておれば、同じ男(おのこ)であるわしを恐れるは致し方無き事か」
男は小さく失笑した。今はもう血の汚れを落としているが、いつ本性を見せるや知れない。見目良くされた事さえ、ただの気まぐれなのかもしれない。
――人の姿に転ずる事が出来るか。こうして見れば人と見紛う姿よの。
「だがな、わしはむざむざ死なせる為にそなたを連れ帰った訳ではない。・・・あそこで何があったか、そなたが話しとうないなら、聞き出すつもりも無い。されど・・・あのような下衆の為にそなたの命を絶つは、割に合わぬとは思わぬか?」
しかし、男の言葉は違っていた。彼女は思わず逸らしていた視線を彼に向ける。
「・・・・・・」
――真魚は不死をもたらすという。たとえ偽りであったとしても、毛色の違う伽(とぎ)も面白かろうて。
「・・・わしは、そなたを慰み者にしようとは思うておらぬ。敵陣より奪うほど女子に飢えてもおらぬでな。」
彼はそう言う。何処までが真実なのか。何が真実なのか。時を忘れそうになるほどの暗闇で過ごした時間。たとえ実際には短いものだったとしても。『あの世界』で『あの男』の言葉しか耳にしなかった、出来なかった彼女には『陸人』という存在の区別が付かなかった。
「されど・・・わしの道理のみを押し付ける訳にもゆくまい」
すると『彼』はそう言って、彼女の腕と言葉を縛めていた枷を解いた。
――わし以外を惑わす美しさなど、ぬしには要らぬ。
「そなたの命だ。如何にするかはそなた次第」
自由になれたら、命を捨ててしまおう。
確かにそう思っていたのに、彼女には、自由になった筈の今も何故か体を動かす事が出来なかった。
そうさせたのは何なのか。目の前に座りこちらを見つめる男の眼なのか。それとも。
――覚えておけ。ぬしを生かすも殺すもわし次第だという事を。
「・・・・・・っ・・・・・・」
動かない体が、とても熱いとだけ、感じた。
あの暗闇で刻まれ続けた声が、耳鳴りのように響く。
また、あそこへ戻るのだろうか。
●
暗い部屋。 冷たい鎖。 湿った掌(てのひら)。 熱を持ったのは、自身の体。
「―――――!!」
悲鳴の上げ方を忘れてしまったかのように。
目覚めた彼女は瞳を見開き、起き上がった体は脂汗に濡れていた。いつの間にか意識を手放してしまっていた事に気付く。その体を包んでいたのは、鎖ではなく暖かな幾重もの布。その傍らには仄かな匂いを漂わせる膳が据えてあった。白い粥に汁物、小皿の上には細かく刻まれた山菜を煮た物が乗せられている。けれど、彼女はそれに手をつけようとはしなかった。
「気付いたか」
不意にかけられた声に振り向く。黒い刺青を刻んだ男の頬が眼に入った。彼は、僅かに離れて置かれた灯りの下で書物を読んでいた。
「・・・・・・あ・・・・・・」
「気が抜けて、熱がぶり返したようだ。・・・夢見が悪かったか?」
男は言って、彼女の横たわっていた床(とこ)に近付き、腰を下ろした。
夢。一体何が夢なのか。
あの、暗い場所で、痛みだけを与えられる事か。
あるいは、今ここにいる事が、あの暗闇の中見ている夢なのか。
「まだ、食べ物は口に入らぬか?心配せずとも毒など入ってはおらぬ」
彼女はゆっくり首を横に振った。
「ならば何故、膳に手をつけぬ?真魚とて食わねば飢えるであろう。それとも、陸の物は口に出来ぬか?」
「・・・真魚の糧は、目に見ゆるものにはござりませぬゆえ」
彼女は初めてその声を聞かせた。か細く、しかしよく澄んだ声音だった。その答えに、男は怪訝そうな顔を見せる。
「どういう意味だ?なれば・・・真魚は何を糧にすると申すのか」
「・・・・・・真魚の糧は・・・陸人(おかびと)の男(おのこ)の生気にござります」
「生気・・・?」
耳慣れぬ言葉が、彼女の口から発せられた。
「・・・ほんの僅かに戴ければ、三月(みつき)は何も口にせずとも生きられるものにございます」
男は、今にも消え入りそうな声が続くのを黙って聞いていた。
「・・・あ・・・あなた様が・・・もし、真にわたくしめをお助けくださると申されるならば・・・・・・わたくしに・・・わたくしに、あなた様の生気、戴けましょうや・・・?」
彼女が持っているのは、その体と命だけだった。それさえも、おそらく目の前の男が本気になれば容易くかき消されてしまうだろう。彼女に失うものは何も無かった。この言葉に気分を害したならば、今度こそ本当に自害してしまおう。けれどもしも、もしも本当にこの身を助けてくれるならば。
それに、賭けてみたかった。
やがて、彼は返した。
「・・・それは、陸人の男であれば誰でも構わぬものなのか?たとえそなた以外を抱くような身であっても」
「・・・・・・」
「如何なのだ」
「・・・・・・構いませぬ。真魚はかりそめに生きる糧を戴くのみにございます・・・」
彼女の言葉に、男は静かに背を正した。
「・・・良かろう。そなたの命、助けたのはわしだ。わしの生気とやら、喰らうが良い」
「・・・・・・」
伏せられる、強い光を帯びた双眸。彼女が僅かに衣擦れの音を立てても微動だにしない大きな体躯。
白く細い指が、僅かに震えながら男の頬に触れる。そうして、同じ色の腕が着物から覗き、その首に回される。
香など身に付けていない筈の痩せ細った体から、仄かに香る媚薬のような心地良い香り。
銀(しろがね)色の髪の娘は、音も無く男の唇に、唇を重ねた。
「・・・っ・・・」
触れ合った部分だけが熱い。それは、発していない吐息を絡め取られてゆくような。
無音の中でただ唇を重ねるだけの、欲望に似た、生の営み。
遠くに響く潮騒だけが、ひどく大きな音に聞こえた。
やがて、彼女はそっと顔を引いた。次の瞬間、頬に零れ落ちたのは涙だった。焼け爛れた対のそれの役目まで果たそうとするかのように、蒼い隻眼からはとめどなく涙が溢れ続けた。するりと解(ほど)けた真白い腕は、そのまま男の体を伝ってゆく。そのあたたかな体に、彼女は知らず知らずのうちに顔を埋め、声も無く肩を上下させていた。
彼は、静かに眼を開けた。その胸元には小さな体の娘が、幼子のように寄り添い、泣いていた。それは、あまりに儚げで。
何もせずにいるつもりだった。けれど、彼の腕は自然にその肩を抱いていた。
「・・・・・・なにゆえ、わたくしにここまでしてくださるのですか・・・?」
男の体に身を預けたまま、彼女は訊いた。彼の答えは短いものだった。
「わしには、そなたを虐げる理由が無い」
これは、夢なのかもしれない。
夢であってもいい。夢ならば、ただ少しでも長く醒めないで欲しいと願うだけ。
「・・・名乗り遅れたな。・・・わしの名はイサリヒコ。今は無き水塚(ミナヅカ)の長。・・・今はこの水軍の長だ」
「・・・イサリ・・・ヒコ・・・」
「そなたの名は?」
「・・・真魚は名を持たぬものに」
「左様か・・・。ならば・・・・・・『マサゴ』、と」
「・・・マサゴ・・・?」
「左様。それほど痩せ衰えておっては、海へ帰したところで死なすに同じであろう。しばしここで・・・我らの館で養生いたすが良かろう。されど、真魚と呼ぶは、人を人と呼ぶようなもの。ここにおる間はそう名乗るが良い」
「・・・マサゴ・・・」
それが、名も無き真魚に与えられた名。
この夢の中にいる間の。
●
第三幕
【祭音(まつりね)を 奏(かな)づ息吹の 悠(ゆう)なるを 纏う童(わらべ)の 奏(かな)づ幸声(さきわい)】
季節は、肌を射る季節から、ぬくもりで包み込む季節へと巡り。
「イサリヒコ・・・、どちらに参られるのでしょう・・・?」
人と同じ姿を取ってはいても、真魚は長く陸を歩く事は出来ない。イサリヒコに抱き上げられたまま、マサゴは声をかけた。彼は、娘をつれて屋敷の門へと向かっていた。やがて、門の向こうからは人々のざわめきが聞こえ始める。
「直(じき)に分かる」
答えるイサリヒコの前で、ヤエが門を開いた。僅かだったざわめきが、堰を切ったように膨れ上がり、マサゴの耳に押し寄せた。
何が起きているのか解らないほどだった。
ややあって、ようやく『音』は人の声だけでない事が解る。楽(がく)の音だ。笛の音、太鼓の音、人の歌声。中央に道を開ける形に陣取った人々は、ある者は笛を奏で、ある者は拍子を刻み、ある者は歌い、ある者は踊る。
そこには、誰一人として憂いの顔を持つ者はいなかった。
「・・・たまにはこのような娯楽も無くば、我らとて気が滅入るでな」
そう言って、イサリヒコは僅かに微笑む。開かれた道を通り、正面に設けられた桟敷に至るまでの間、人々は幾度と無く『お屋形様』と声をかけた。
マサゴは、同じく桟敷に座らされた。長い髪の女がイサリヒコの杯に酒を満たす。
音色は、奏でる者が変われど途切れる事はない。年老いた翁が笛を奏でれば、若い娘がそれに合わせて歌をうたう。若者が太鼓を打てば、童(わらべ)が母の手を引き舞い踊る。それは、初めて見る光景なのに、何故か懐かしい。やがて、マサゴは気付かぬうちに音色を帯びた声を発していた。
その目にしなければ、誰もが幻だったと言うかもしれない。
詩(ことば)の無い歌。歌声である筈なのに、それは笛の音のように濁りも無く、耳に心地良い真魚の歌声。
桟敷に近い場から波紋のように音が消えてゆく。幾らも経たぬうち、その場に響くのは真魚の奏でる歌声だけになっていた。
歌声の余韻が止んだのちも、人々は音を立てられないでいた。この世のどんな音さえも、今響いてはならないような気にさせられた。それほどまでにその歌は耳の奥に心地良く残るものたった。
その夢のような音色を奏でた娘――マサゴは不意に我に返った。その場にいた者の視線は、すべて彼女に向けられていた。そこで初めて彼女は自らが歌を奏でたことを知った。それほどまでに歌は、呼吸するのと同じくらいに、真魚にとっては自然な行為だったのだ。それでも、あまりに多くの視線に耐え切れず、彼女は俯いた。
それを合図に、割れるような喝采が起きた。
「・・・見事にあった」
マサゴの傍らで、イサリヒコが言った。その視線もまた彼女の方を向いている。
「・・・・・・申し訳ございませぬ、で、出過ぎた真似を・・・!」
これは、この島の者の宴だ。どれほどその頭目に大事にされていようとも、自分は体のいい居候に過ぎない。ここに居られるだけで充分過ぎる扱いなのに、その宴に割って入るような真似をして。マサゴはそのか細い体を更に小さくさせた。
「何を謝る事がおありでしょう」
すると、イサリヒコに酌をしていた女が小さく笑った。長い黒髪の美しい女は、確か名をスオウと言った。スオウは、艶やかな紅い唇に形の良い笑みを作る。
「あの音(ね)が罪ならば、我らは二度と宴なぞ開けませぬな」
桟敷のすぐ近くで笛を奏でていた男が立ち上がり、そう言って桟敷の前で一礼した。覚えのある、視線の隠れた髪。『あの日』、鎖を解いた盲目の男だった。
「まったくだ」
イサリヒコが、男――ハヤヒコに相槌を打ち、僅かに杯を煽った。
「真魚の姫さま!!」
再び楽の音が場を満たす中、数名の子供がわらわらと桟敷の傍に駆けて来た。そのまま桟敷の上に乗り出さんばかりにマサゴの前を囲む。突然の事に、マサゴは声も出せなかった。
「姫・・・?」
「お屋形様がお連れになったのだもの、ならば姫様でしょう?」
童女の一人が言う。
「確かに、お屋形様のお可愛がりようは姫御前(ひめごぜ)に違いございませぬな」
それを聞いて、スオウがくすくすと笑いながらイサリヒコに視線を寄せた。気付いたヤエが、一緒になってくすくすと笑い出す。それとは対照的に、子供達の視線はマサゴにばかり集まっていた。
「本当に、お美しい髪と眼をされておられるのですね」
「ハヤヒコさま、分かる?きれいな銀(しろがね)の長い御髪(おぐし)に、海のような深い青い眼をされてるの!」
「それは、この眼で見られぬが悔やまれるな」
衣を引っぱりながら必死に訴える幼い子供に、ハヤヒコは笑った。
「姫さま、これを・・・」
十(とお)ほどの年の頃だろうか。子供の中でも年上らしい娘が、マサゴに赤い花の束を差し出した。
「おや、綺麗だねぇ」
ヤエが言い、戸惑うマサゴに受け取るよう促した。膝の上に赤い花を敷き詰めたマサゴに、娘の隣で小さな子供が舌足らずな口調で誇らしげに言う。
「西の岬に沢山咲いてるの!」
「姫さまは、まだお屋敷から出られた事がおありで無いとお聞きしました。だから、この花もご覧になられた事が無いと思って」
「ほう、よう映える。・・・ハヤヒコ、髪結いは得意にあったろう」
イサリヒコはマサゴの傍らに立つ男を見遣った。
「それは、御意にござりますが・・・姫御前の御髪、それがしなどの触れて宜しいもので?」
その返答は、半ばマサゴ本人にも投げかけられたものだった。マサゴは、膝の上に散らばる花の一輪を手に取り、目の前に立つ男を見上げた。彼女はやがて、そっと男の手を取って、その手のひらに花を乗せた。それで、彼には通じたようだ。
「・・・なれば、失礼を・・・」
鎖を解いた時と同じように、彼の細く長い指がマサゴの銀糸に似た髪を房にして絡め取ってゆく。そうして、幾らも経たぬうちに、銀の髪の中に一輪の赤い花が咲いた。
「うわあ!姫さまおきれいだぁ!!」
幼い子供達が歓声を上げる。囃したてる子供に、自分の姿の見えぬマサゴはただ戸惑うばかりだった。
「姫さま、姫さま」
別の子供がヤエに連れられ、桶に水を汲んできた。目の前に置かれた水鏡の中に、マサゴは自分の姿を見た。片目には変わらず包帯が巻かれたままだが、残された眼は、少なくとも悲しい色をしていない。自分はこんなに光のある眼を、まだ無くしていなかったのだ。
「ね?おきれいでしょう?」
「おい小僧ども、あまりこの眼の疼くような事言うてくれるな」
脇に下がり、騒ぐ子供の声を聞いていたハヤヒコは苦笑した。このような美しい細工が出来る彼には、その造形を自らの目で確かめる事は出来ないのだ。マサゴは、傍らにいた子供に、彼を連れてきて欲しいと促した。子供は誇らしげに頷くと、ハヤヒコのもとへ駆けて行き、彼の腕を衣ごと引っぱってきた。
「・・・姫御前・・・?」
マサゴは、子供に礼を言って、もう一度ハヤヒコの手を取った。そして、その両手を自身の顔と髪に触れさせる。少しでも、自身の姿と、感謝を伝えたかったから。
「・・・なるほど、紛れも無い三国一の姫にあらせられる」
花を飾った髪をそっと撫でて、ハヤヒコは呟いた。最大限の賞賛を込めて。
「なればその姫に、先ほどの歌の褒美を取らすか」
そう言ってイサリヒコは膝を立てた。そのままマサゴを抱き上げ立ち上がり、桟敷を降りる。
「同じ花の一面に咲くを見せてやろう」
再び騒々しく開かれた宴の中を連れて行かれる間、マサゴは再び、人々が口々に声をかけるのを聞いた。
「真魚の姫じゃ」
「これは美しい」
「お屋形様は果報者じゃ」
子供の一人が、それを追って駆け出そうとしたのをハヤヒコは引きとめ、言った。
「あの花は、お屋形様のものぞ」
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