〜第10話〜 「はじめまして」
小雨の降り始めた昼下がりだった。慌てて庭先に干された洗濯物を取り込みに駆け出していった北天が、風変わりな客を応待した。
入口に立っていたのは一人の若者だった。朝から曇りがちの空だったにもかかわらず、傘のひとつも手にしていない。青味がかった髪がしっとりと濡れている。年の頃は、槍瑛達よりもやや若い程度だろうか。動きやすそうな衣服を身に着けていたが、嘉条のそれとは僅かに異なった形のもので、布地もまたやや厚手に思われた。
悪びれる様子も無く目の前に立つ若者に、永泉は尋ねた。
「・・・・・・何の用だ?」
「あなたが、『硝師(しょうし)』殿ですか?」
まるで名前を尋ねるように、若者は呼称のような名を口にした。傍らでその遣り取りを見上げていた北天は、何のことだろうと首を傾げている。
「・・・・・・悪いが、用件は外で聞こうか」
玄関先にあった傘を二本手に取り、北天の抱えていた洗濯物から手巾(てぬぐい)を一枚引き抜くと、永泉は雨の中に足を踏み出した。
静かに降り続ける雨が傘に当たり、規則的な音を立てている。街の背後にある竹林の緑の中に、ふたつの傘の花が開いていた。
「普通の客人なら室内でもてなせたんだがな」
「僕はどこでも構いませんよ。目的さえ果たせるなら」
ためらう様子も無く礼を言って傘を開いた若者は、差し出された手巾を素直に受け取り髪や肩の水気を拭き取っている。
「・・・まだその名が残っていたとは、朧阿の皇は物好きだな」
「僕は初めて聞きましたけど」
結構すごい人なんですね、と向き直る。こうして話していれば、街にたむろする若者と大差は無い。しかし、何気無い物腰の中にも隙などは見られない。伝令とは言え優秀な間者だと言えるだろう。
「まだ野心を捨てていなかったのか」
「僕は一介の間者に過ぎませんから。詳しい事情は正直答えかねます。ただ、用件は我々の側に力を預けろ、と」
周囲に佇む迷宮のような竹林は、何事も無かったかのように沈黙したまま。張り上げたわけでもない声さえ響き渡るかのようだった。はるか昔から変わる事は無いのだろう。めまぐるしく変わりゆく者たちを、ただそこで見守り続けるだけの。
「悪いが、その名はとうの昔に捨てたものでな。遠路はるばるご苦労な事だが、お引取り願おう」
「うわ、取り付くしまも無いなあ。」
若者は苦笑した。
「今まで何度か同じ用件の者が来たが、答えは同じだ」
「・・・やっぱり、嘉条(ここ)の方が居心地がいいんですか?」
「少なくとも小うるさい召集は無いな。・・・安心しろ。朧阿には付かんが、かと言って嘉条(こちら)に付くつもりもない。無論残りの二国にもだ。とうの昔に名は捨てたが、主義主張を捨てたつもりは無い。『硝師』は死んだものと思えと伝えろ」
降り続ける小雨は相手の表情に幕をかけているようにも感じられる。
「・・・それとも、断るようなら私を殺してこいとでも命ぜられたか?」
「・・・・・・いいえ、逆です。深追いはしなくていいって。」
「それは有り難い話だ」
不意に、若者の目がまっすぐにこちらを伺ってきた。まるで子供のそれのようだと永泉は感じた。間者という、影の世界に身を置く者とは思えないほどの、曇りを感じさせない瞳。
「だけど・・・嘉条(こっち)にいたってあんまりいい事にはならないかもしれませんよ?」
「ご忠告、有り難く聞いておく。・・・だが、その時は何処にいようと同じ事だ。」
あるいはそう感じられたのは、ただの錯覚に過ぎなかったのか。若者は再び害の無い瞳の色に戻り、踵を返そうとした。
「じゃあ、僕はこれで。あ、傘と手巾・・・・・・」
「道中長いだろう。ぼろ傘だが持って行け」
まだやまない雨の中、濡れる事を何とも思っていないような手付きで傘をたたもうとした若者に、永泉はそう促した。
「・・・ありがとうございます」
ほんの僅かに驚いたような表情を見せた彼は、ひとつだけ会釈をして傘を開くと、再びそれをさして竹林の外に消えた。柔らかくなった土を踏む音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。
「お師匠さま・・・」
自身も帰ろうとした時、わずかに離れた場所から少年と少女がよく似たふたつの顔を出した。
「お前たち・・・」
「『硝師』ってなんですか?」
音を立てまいとしたのか、二人とも濡れそぼっている。少年――北天が呟いた。
「・・・立ち聞きはあまり良い趣味とは言えないぞ」
「ごめんなさい、でも・・・」
少女――南天がうなだれる。双子とは言え、男女の体格差もあらわれてくる歳である。その所為もあり、今は彼女の方が小さく、頼りなさげに感じられた。
ややあって、永泉は溜息をつく。
「・・・昔の徒名だ」
「徒名・・・?」
「ああ。『硝薬』を扱える者、という意味でな」
「『硝薬』・・・?」
二人は聞き慣れぬ音に首を傾げた。
「私はこれまで、様々な知識と技術を身につけてきた。だがその中で唯一、研究をやめたものがある。それが、硝薬だ。あれは・・・生まれる時代が早すぎた」
あるいは、生まれるべくして生まれたものなのかもしれない。けれど今は、そうではないと信じたかった。そして、信じ続けてきた。
「・・・・・・昔の話だ。さあ、さっさと戻って髪を拭け。二人揃って風邪をひかれては私が困る」
並ぶ頭を撫で、傘に入れてやると、永泉は歩み始めた。
――我々の側に力を預けろ。
求められたのは、力。 そしてその力によって得られるもの。
(・・・まだ手に入れ足りないと言うのか・・・・・・遼禪(りょうぜん))
見上げた空はまだ薄墨色に曇り、冷たい滴を降らせ続けていた。
* * *
嘉条の都を見た事のある者ならば、それはまるで、陽興の都をより広大に、そして荘厳にしたようだと評するであろう。
北方に位置する、広大な面積を有する大国・朧阿(ろうあ)。国土の数箇所に城塞都市が点在し、その周辺に農村地帯が広がっている。それ以外は殆どが、地平線を臨むことの出来る荒野である。
その中でも最大の規模を誇る王都・瑞城(ずいぎ)。城下の街並みを従えるかのようにそびえ立つ宮廷の屋根には漆黒の瓦が敷き詰められている。柱や回廊の欄干もまた黒光りを放ち、それらの随所に、金を主軸に極彩色が上品な造形を施している。天井や欄干の間に等間隔に据えられた燈篭(とうろう)の灯に照らし出され、瑞城宮は今、満天の星空の下に佇んでいた。
時は少し遡る。
夜の闇に溶けてしまいそうな黒の包衣(ほうい)と上衣とを纏った男が、皇帝の私室とも言える帝閣(ていかく)へと回廊を歩いていた。宮に勤める者の中では、まだ若い部類に入るだろう。しかしその雰囲気には、沈着冷静という言葉がよく似合う。闇を切り取ったような髪と瞳の色に、灯りの色が静かに映っては消えてゆく。
夜の宮は静寂に包まれていたが、それらの灯りによって、寂しい雰囲気などは微塵も感じさせない。帝閣の周囲には池が掘られており、その一角を渡りかけた時、色とりどりの舞姫の衣装を身につけた娘たちが目礼をして通り過ぎていった。身に帯びている花のような香の香りが余韻のように漂い、消えてゆく。そうして、彼は帝閣の入口の前で歩みを止めた。
「失礼いたします」
入口に立つ従者によって静かに扉が開かれる。室内は明るいが、目に痛いほどではない。扉を開いてすぐの所に遮られている紗の天幕の所為もあった。しかし、その帳(とばり)が開かれても室内の灯りは幽玄の域を出ない。部屋の左右には、等間隔に数本の支柱が並び、正面には皇帝の座す長椅子が設けられている。そこには誰かが眠り込んでいるようだった。掛けられている、包衣の一種である套(とう)はこの部屋の主のものであるが、その下に沈む影は紛れも無く女のものである。套に潜り込んでいて判別は出来なかったが、おそらく先ほどまでこの場を盛り上げていた舞姫の一人だろう。この部屋の主ならば不思議ではない戯れだ。
「零刃(レイハ)か」
部屋の側面にある扉にも似た大窓は開放され、手前に移動が可能な朱塗りの柵が置かれていた。大窓を開いた際に、手すりとして揃えて設置されるものである。
その前に、一人の男が立っていた。実年齢は壮年をやや過ぎた頃だが、その穏やかな眼光の奥にまだ鋭さは消えていない。整えられた黒髪の中に、僅かに白いものが見られたが、静かに窓辺に立つその姿は、すらりとした長身も手伝って、公式の場でなくともその威厳を感じさせるものだった。
この部屋の主――すなわちこの朧阿の主その人であった。
零刃と呼ばれた若者は、静かに床に膝を着き、礼を取った。
「陛下、あの者は・・・」
「眠り込んでしまったようでな、心配は無い」
落ち着き払った響きの良い声音だった。それが荒らげられた様を、彼はまだ見たことが無かった。
「先日命ぜられました件、密命にて使者を向かわせました」
「そうか・・・ご苦労だった」
「・・・陛下、おそれながら」
「何だ?」
零刃は、僅かにその視線を上げた。
「何故、今になって領土拡大を推し進めるのでしょう?我が朧阿の領土は他の三国のいずれよりも広大。これ以上望まずとも、陛下の御心は満たせるものと存じますが」
彼に異論をとなえる意志はなかった。ただ、冷静に考えた上での疑問を投げかけているに過ぎない。この問いに、男は自嘲にも似た笑みを浮かべた。
「お前は欲が無いな」
そして、丈長の上衣の裾を揺らし小卓に足を運ぶ。
「・・・・・・こんな事を言えばお前は首を傾げるやも知れないが・・・、実を言うと、『私』自身はこの政策にさしたる思い入れは無いのだよ」
「・・・と、申されますと?」
机上に置かれた酒杯にいくらかの酒を満たし、静かにそれを口元へと運びながら、男は僅かに言葉を選ぶような間を作った。
「そうだな、強いて言うならば、私の中に流れる『もの』・・・・・・、この皇家に受け継がれてきた『血』が、より広大な領土・・・いや、この地の全土を欲しているような・・・そんな感覚があるのだよ」
「皇家の、血・・・」
「『硝師』の事も、とうの昔に深追いは止めた筈だった。だが・・・この渇きのような感覚を一刻でも早く満たせるものならば、と思ったまでのこと。・・・おそらくあの男は首を縦には振らないだろう。沙伽斗(サカト)と言ったか・・・彼には無駄足を運ばせてしまったやもしれないな」
窓の外、池と庭園の造形を経た先には、回廊に燈篭の灯りが列を成しているのが見える。その淡い輝きを見遣りながら、闇の果てに溶け入るような声音で、男はゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「やはり、我侭な年寄りの世迷言と考えるか?」
それはやはり何処か自嘲めいていて。零刃は再び瞳を伏せた。
「・・・いいえ、我ら臣下は陛下の示されるお言葉に従うまでです」
「有り難い事を言ってくれる」
男は微笑むと、公式の場ではないのだから、と立つように促す。零刃は一礼して立ち上がった。
「陛下、もう一件ご報告したい事が」
「何だ?」
「南方の・・・嘉条にも、御剣の主たる者があらわれたとの事です」
「ほう・・・」
男は酒杯を小卓に置くと、興味深そうに零刃を見遣った。
「どのような者かは明確ではありませんが」
「構わんさ。あの宝剣・・・『蒼月(そうげつ)』にどのような力があるか知れないが、少しは事が面白くなりそうではないか」
目の前の人物は、興を引くものを好む傾向にある。それは、些細なものから盛大なものまで変わらない。ただ大騒ぎが好きというわけでも無い。それはまるで、今も机上にある卓棋を楽しむような、かけ引きの面白さを好むのである。
彼が、そう言ってわずかに瞳の色を輝かせた時だった。
「・・・それ、本当?」
不意に、長椅子を陣取っていた者の体が動き、布団代わりにしていた套の中からその顔を覗かせたのである。
「天蓮(てんれん)?」
それは、舞姫ではなく一人の少女だった。小柄な体に、結わえられた長い黒髪を流して眠そうな眼を擦っている。その仕草は何処か幼さを感じさせるが、年の頃は十代の半ばである。
「おや、目が醒めていたのか」
「天蓮、ここで何をしている」
冷静な声音で零刃が問う。この冷たい雰囲気を持つ若者に、萎縮する者も少なくない。だが、少女は何事も無かったかのように返す。
「陛下に卓棋っていう遊びを教えてもらってたの」
「私が呼び入れたのだ。この子を責める必要は無い」
零刃を静かになだめ、男は長椅子の少女の隣に腰を下ろした。
「・・・しかし、まだ難しかったようだね。途中でうとうとしていたようだったから、そのまま寝かせておいてあげたのだが」
「ごめんなさーい。また教えてくださいますか?」
「勿論だとも。だが後は実際に勝負を見てみる方が解りやすいだろうね」
「ふぅん・・・・・・そうだ、それよりさっきの話、本当?」
机上の盤に並べられた駒の群れを見遣っていた少女――天蓮は、不意に零刃に向けて話題を戻した。
「・・・ああ」
「・・・私と同じ・・・御剣の主かぁ。どんな人なんだろう・・・・・・陛下、その人に会えますか?」
想像するように宙を見つめていた天蓮は、隣に腰掛けた男に問い掛ける。自身の娘にそうしてやるかのように、男の手は彼女の髪をそっと撫でた。
「・・・残念だが、嘉条の御剣の主と会える予定は無いね。だが・・・君が望むなら、少飛の者とは会えるやも知れないな」
その言葉に、先ほどまで眠そうにしていた天蓮の瞳は急に輝きだす。
「本当っ!?会いたい!会ってみたい!!」
「おやおや、我らの剣の姫は好奇心が旺盛だね」
少女の無邪気な反応に、男は愉快そうに言う。
「・・・だが天蓮、どの辺りで起きていたかは知らないが、私と零刃の話は決して他言してはいけないよ。私との約束だ、守ってくれるね?」
「はい、陛下」
屈託無く返事を返す少女に、男――遼禪は微笑んだ。
夜は、静かに更けてゆく。
〜 第一章 終 〜
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