〜第9話〜 嘉条皇族の住まう敷地・内宮(ないぐう)の中心にある建物は、皇宮(こうぐう)と呼ばれている。その皇宮の一階は言わばくつろぐための部屋で、長椅子と小卓がゆったりと配置されている。机上には、碁盤目状に区切られた正方形の板があり、その区画のあちこちに玉(ぎょく)製の印章にも似た駒が並べられている。『卓棋(たくぎ)』と呼ばれる遊戯の道具である。規則に従って交互に駒を進め、相手の王にあたる駒を取り合う。
今そこには皇女である鈴琳が腰かけており、向き合う位置には将軍職にある龍真が座り、その手が盤上の駒のひとつを動かした。本来この皇宮は、皇族の従者や近親者でなければ許可無く立ち入る事は許されない空間である。しかしこの場合、龍真を呼んだのは鈴琳であり、その理由は他ならぬ卓棋の相手をさせる為だった。
「・・・・・・沙那・・・?」
「・・・・・・・・・」
鈴琳は、卓棋の駒を動かす手を止めて傍らの侍女に呼びかけた。しかし、その返答は無かった。
「・・・こぼれてますわよ?」
仕方なく会話を続けてみる。彼女の手に携えられた茶器から注がれる香りの良いお茶は、茶杯をはるかに溢れ出し、今やその下に敷かれた盆さえも満たしかけていた。
「・・・え?きゃあっ!!もっ、申し訳ございません!!」
やっと我に返りその事実に気付いた沙那は、慌てて急須を傾ける手を止めた。
「やっぱり気になりますのね」
「え・・・?」
空(から)になりかけた茶器を置いて、片付けを始めた沙那に、鈴琳はぽつりと言った。そうして、ひとつ頷いてぽんと両手を打った。
「解りました、私(わたくし)一肌脱ぎますわ。」
「は、はい・・・・・・?」
「さ、片付けていらっしゃいな」
一体何を思いついたというのか。主はただにこにこと笑うばかりである。しかし、無作法をその目の前から退ける方が先だと考え、沙那は零さないように盆を手にして部屋を出た。
「・・・姫さんもそーゆー話題好きですね」
再開された卓棋の駒を動かしながら龍真は言った。沙那の心がここにあらずだった理由は他でもない。煌莱の護衛として、烽焔もまた史鳳に足を運ぶ事になったからであろう。普段目立つ事はないが、この二人の仲は近親者にも暗黙のうちに公認となっていた。
言葉を受けて、鈴琳はにっこりと微笑む。
「あら、大事な侍女の為ですもの。ていうか、龍真も協力してくださいましね?」
「・・・は?」
「はい、王手ですわ」
「・・・げ。」
何気無い遣り取りの間に、鈴琳の駒は相手の大将を射程距離に捉えていた。卓棋に関してはほぼ同等の力量を持つ両者だったが、今回の軍配は比較的早く上がったらしい。
広く取られた窓の先には、皇宮を囲む形に掘られた池の一角が見える。その水面に魚が一匹小さく跳ねた。
* * *
「・・・ねー、いつまでついてくるのアンタ達。オイラそんな団体様につけ回される覚えあんまり無いんスけどねー」
嘉条の北部国境線の中心にそびえる連影(れんえい)山脈の一角で、遊布は誰にとも無く呟いた。山道はまだ終わりを告げる気配は無く、彼の周囲にはただ木々が立ち並ぶだけのように思われた。しかし彼は立ち止まり、続ける。
「それとももしかしてホントにオイラのファン?・・・ンなワケ無いっスよねー」
すると、音も無く木々の間から数名の男たちが姿をあらわした。全員が、黒を基調にした身軽な服装に身を包んでいる。その中の一人が皮肉るように言った。
「ふん、我等はネズミを退治しに来たまでよ。南方からこそこそと嗅ぎまわりに来た酔狂な毛皮のネズミをな」
「そりゃご苦労様で。んじゃ、どーぞオイラなんかに構わずにそのネズミとやらを・・・・・・ぅわお!」
さらりと受け流そうとした遊布だったが、最後まで言い終わらないうちに背後から柄の短い刃物が振り下ろされた。反射的に体を反転させて刃を交わす。切りつけてきた男が続けた。
「そのネズミは舌も良く回ると聞いていてな」
「・・・あらやだー・・・ソレひょっとしてオイラの事っスか?心外っスねー酔狂だなんてー」
それが合図であるかのように、今まで気配のひとつも感じさせなかった男達から殺気が発せられ、その場を満たした。遊布もまた軽口を利きながら身構える。
「コレは立派な商売道具!本業のね。ソレを馬鹿にするのはちょーっと高くつくっスよ!?」
言うが早いか、跳躍した彼の脚が、男の一人の頭を勢い良く蹴り上げた。
* * *
誰かが名前を呼んでいる。
届く事は無いと心の何処かで解っているのに。
『誰か』ではない。呼んでいるのは・・・・・・。
目覚めれば、視線の先には見慣れてきた装飾の天井。
夢の風景は、すぐに脳裏の果てに消えて。
「・・・・・・?」
華燐はゆっくりと体を起こした。窓の外には鳥がさえずり始めている。
部屋の戸が軽く叩かれ、ひょこりと湖成が顔を出した。
「おはよーございます華燐さーん、着替えのお手伝いなんぞに来ちゃいましたー♪」
彼女の言葉に改めて実感が湧く。
今日は、史鳳への出立の日だ。
目の前に立つ赤い髪の少女を見て、槍瑛は腕組みをしたまま呟いた。彼はまだ普段と変わらない形の服装である。
「湖成・・・」
「なんでしょう?」
同じくその傍らに立って見聞していた小柄な娘は言葉だけで返す。
「よくやったッ!!」
「お褒めに預かり光栄ですッ!!」
力強く組むように差し出された彼の右手に、湖成はちゃっかりと両手で返す。
「・・・・・・」
その妙に気合の入った意気投合を、当の華燐は呆れ顔で見るしかなかった。
嘉条における服装と史鳳のそれとの違いは、襟の合わせと、袖口や袴・裳裾の形である。街で服を見聞した折に湖成が説明した話によれば、史鳳の衣(きぬ)は釦(ボタン)や止め紐のあるものは殆ど無く、襟の片方をもう片方に深く重ね合わせる形なのだという。そして、袖口や袴の裾を絞って留める事も少ない。嘉条において、女物の裳裾はそれに近いが、男物の袴の裾は大抵まとめられている。史鳳の袴はその形がどちらかと言えば裳に近い。そう聞いた時、華燐は違和感を覚えたが、あちらの衣の形にはさほど違和感無く合うという。
それに倣って華燐に揃えられたのは嘉条の女物であるが、裳の形は袴と同じで片方ずつ脚を入れる形のものだった。衣も、男物に多い詰め襟ではなく軽く合わせて紐で留めるもので、上衣(うわぎぬ)は中心で開いたものではなく、胸の左右で留める丈長のものである。淡い橙色の布地に赤の留め紐と白の刺繍が合わせてあり、華燐の髪や瞳の色によく映えていた。そして同じく白い帯に赤銅色の帯留め。そこに落とさないように『花玉』を差していた。
史鳳に至るまで日数はあるのだが、華燐は慣れる為に初日から着てみることにした。しかし、これまで殆ど義兄のお下がりである男物で通してきた華燐には、『着替えた』と言うよりも何か『扮装をした』といった感覚で、何処かくすぐったいような気分だった。
不意に、違う方向から声がかけられた。
「ホントだー、華燐ちゃんよく似合うねー」
「ど、どうも・・・って、へ、陛下その格好は・・・」
「へヘー、似合う?」
傍らから顔を出したのは煌莱で、彼のいでたちもまた普段の服装とは異なっていた。きらびやかな装飾品の類は一切身に付けておらず、丈長の上衣ではあったがその形や素材は普段のような絹ではない事が判る。裾を留めない袴を身につけ、額に上衣に合わせた濃い緑の帯を締めた姿は、さながら宮に見かける官吏見習いの少年のように思われた。
「ひょ、ひょっとして陛下も一緒に・・・じゃない、ご、ご同行、されるんですか!?」
「うん。よろしくねー華燐ちゃん」
その笑顔が変わる筈もなく、にっこり笑った煌莱は、あるいは華燐よりも馴染んでいるようにも見えた。
「・・・しかしよくもまぁ、あの桐巳を口説き落とせたモン・・・」
「軍師。」
「ひッ」
軽口を叩いていると、不意に背後から低くたれ込めた声が聞こえ、槍瑛は思わず押し殺した悲鳴を上げた。ゆっくり振り返った先には、文官である桐巳が立っていた。普段と変わらないように見えたが、その身にまとう気配は明らかに普段よりも重い。
「な、何か用か?桐巳・・・」
「くれぐれも、くれッぐれも陛下をよろしくお願いしますよ」
「ああ、それは心得てるけど、俺より烽焔の奴に・・・」
「将軍には再三忠告しました。・・・こんな事は申し上げにくいのですが、もし万が一陛下にもしもの事があった時には・・・」
「わ、分かった、皆まで言うな」
俺だって命は惜しい。槍瑛は、心なしか背中に寒いものを感じ、桐巳の言葉を無理矢理中断させた。
* * *
「・・・・・・何?」
城門に近い兵舎の角で、烽焔は言葉を選ぶように言った。龍真に脅迫的に『行ってこい、ていうか行け』と言われて来てみた先には、侍女の姿のままの沙那が立っていた。
沙那もまた、あれよあれよという間に鈴琳にお膳立てをされてしまった口だった。いっそ周囲に人がいるどさくさ紛れに交わしてしまえば良かったかもしれない他愛も無い用件である。しかし、冷やかしの類を受けたくない気持ちも無いとは言えなかった。
「・・・・・・ど、どうぞお気をつけて行ってきてください。・・・お役目、大変かもしれませんけど・・・」
「・・・ああ・・・」
「それから・・・これ・・・」
沙那は、提げていた包みを差し出した。烽焔が受け取ると、まだ残る温度と共に香ばしい匂いの漂う包みだった。
「調理場、お借りして作りました。・・・簡単な点心(おかし)ですけど・・・途中、お腹すくといけないと思って・・・一応、マトモに出来ましたから・・・」
「あ・・・えーと・・・ありがと・・・」
確かにこれは人目に触れさせたくない遣り取りだと、烽焔は思った。
「沙那を焚き付けた甲斐がありましたわv」
「普段の口の悪さは何処に仕舞い込みやがったのやら」
「いいですねえ、青い春ってやつですねー」
確実に死角になった場所で、押し殺した声の会話がなされた。満足そうに袖に隠れた両手を合わせる鈴琳、壁にもたれて腕を組み、皮肉るように頷く龍真、そしていつの間にやらちゃっかりそれに参加している湖成の三名であった。
* * *
「軍師、そろそろお時間です」
「そっか、んじゃ乗り込め出発するぞー」
白錘が時を告げに来た。それを受けて、槍瑛は周囲に声をかける。行程には数台の馬車が用意され、その内のひとつの扉を開けた。
「行こ、華燐ちゃん!」
「は、はいっ」
煌莱は、文官見習いという立場を取って同行する事になったらしい。意気揚々と手を取って駆け出す彼に、華燐も慌てて伴った。
馬車の内装は、都に来る時に乗せてもらった荷馬車とは殆ど異なると言って良かった。華美な装飾こそ施されていなかったが、美しい紋様が刻まれ磨き上げられたそれは、同じ木という材質とは思えない上品さがあった。華燐はおそるおそる広い座席の端に腰を下ろす。
「華燐さんお気をつけて行って来て下さいね。あ、史鳳に美人さんがいましたら、是非とも土産話なんぞ」
「湖成さん・・・」
窓から顔を出すと、湖成がにこやかに手を振り、相変わらずの事を言っていた。
「陛下ー、馬車動き出したら頭しまってくださいね」
「お兄様、お気をつけて」
「うん、留守を頼むね鈴琳」
頭どころか、早くも窓から上半身を乗り出した煌莱に、鈴琳がおまかせくださいませ、と微笑んだ。傍らでは、桐巳がひたすらに煌莱の身を案じる視線を送っている。
「桐巳に殺されたくなきゃ死ぬ気で護衛務めてこいよー」
「・・・おう」
龍真がからかうように烽焔に声をかけた。冗談じみた口ぶりだったが、烽焔には左程には軽く聞こえなかったようである。
「・・・ああそうだ、嬢ちゃん」
「はい?」
不意に、龍真は華燐に声をかけ、自身の剣を留めていた金具を外し、それだけを投げて寄越した。黒い革紐の端に金具がしつらえてある。武官が帯刀する為に使う帯刀束(たいとうそく)と呼ばれるものである。
「いくら軽くても帯に差してちゃ動きにくいだろ。ソレやるわ、餞別」
「・・・いいんですか?」
華燐は帯に差したままの『花玉』と龍真とを見比べながら聞き返した。彼は一向に構わない様子で頷く。
「俺なら別のがあるし、使い古しで悪いがな。ま、大変だろうがやれるだけやってきな」
「あ、ありがとうございます!」
史鳳への道は、まず陽興の都から南東へ三日ほどかけた舶連(はくれん)という港町に向かう。そこから東へ更に三日船を進め、史鳳の港町・那神(ながみ)を経て、都・彩和(さいわ)に至るという経路である。正規の使者は陸路を遣り取りされるが、実際はこちらの方が陸路よりも早道なのだという。その第一歩たる馬車は、車輪の音を響かせて陽興の城門をくぐった。
空は、綺麗に澄み渡り。
* * *
「・・・・・・これで最後・・・っと!!」
遊布の体が軽やかに地面に着地した。と同時に、その場に立っているのは彼一人となった。後は全員大なり小なりの当て身を喰らい、その場に倒れ臥している。
「はー、久々によく動いたー。もー、こちとら長旅予定なんだから無駄な体力使わせないで欲しいッスねー」
肩が凝った時のように、わざとらしく首を回す仕草をしながら周囲を見渡す。手応えの無い相手ではなかった。吐かせる前に打ちのめしてしまったが、何処の国の手の者かは聞くまでも無い。彼の向かう『北』からの者だ。
息の根を止めたわけではない。また意識を取り戻して向かってこられては厄介だ。そう考え至り、遊布が再び足を進めようとした刹那だった。
「ぅわッ!?」
何か、光るものだった。
あまりにも咄嗟の事に、それだけしか考えられなかった。すんでのところで身をかわした先を、銀色に光るものが横切ったのだ。『たんっ』と小気味良い音がした先を振り返れば、木々のうちの一本に、手のひらに納まるほどの小型の飛刀が突き立っていた。木の葉のような流線型のそれは、大きさだけなら大したものではない。しかし、避けきれなければと思うと、遊布の背筋に冷たいものが走った。
飛刀の飛んできた先を見遣っても、殺気どころか人の気配も何も無い。ただ、物言わぬ木々が果てしなく続いているだけに思われた。
「・・・なんだァ?」
奇妙な疑問を胸に抱きつつも、やがて遊布は改めて道を急いだ。
「・・・あれ、避けられちゃったか。・・・ま、いっか。『僕の仕事』じゃないし」
走り去る金の髪の後ろ姿を見送った視線は、やがてそれとは逆の方向へと去って行った。
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