「黄瀬戸・原憲司」紹介

原憲司茶碗
   ポケットの中に詰め込んだ土が
 山の斜面を行ったり来たり

   冷たさが 消え
 手の掌に乗る 時
 僕の手はいつも絵の具箱になる

  そんなモグサ土を黄瀬戸に
 置き換える事ができたら
  嬉しい と思った。                            憲司

 

 原憲司の黄瀬戸を始めて見たのは昭和61年3月でした。当時、黄瀬戸についての知識は、六角のぐい呑み、「あぶらげ手」また「ぐいのみ手」とかの言葉を知っているぐらいのものでしたし、加藤唐九郎の黄瀬戸のこともよく知りませんでした。 当時、黄瀬戸は造る人もほとんどなく、造られたものを見ても本来の黄瀬戸とはかけ離れたもので魅力のあるものはなく、黄瀬戸への関心は全くない状況でした。当然のことながら、原さんの作品を見ても、悪くはないが、形が固いとの印象しか持ちませんでした。全く無名で、価格だけは一流の作家並に高く、すぐに飛びつくと云う訳にはいきませんでした。



 とりあえず買って、そのぐい呑みを観察しながら黄瀬戸を勉強することにしました。 桃山の「あぶらげ手」の黄瀬戸は、加藤唐九郎が復元するまで誰も焼いておらず、しかも、それも一時期だけでそれ以降は焼くことができなくなっており、真偽は不明ですが、加藤唐九郎自身、自分が黄瀬戸を造れなくなったのは、黄瀬戸に使う良い灰が手に入らなくなったためといっています。桃山時代しか「あぶらげ手」は造られておらず、その後は「ぐいのみ手」などの光沢のあるものしか造られなくなったこと。また茶碗として造られたものは皆無に近く、茶碗として図録などに掲載されているものは全て向付けからの見立て品であるなどのことが分りました。ただ、「あさひな」の銘のある茶碗だけは、瀬戸黒として造られた茶碗に誤って黄瀬戸の釉薬を掛けたものともいわれています。

 調べているうちに黄瀬戸というやきもの、原憲司の黄瀬戸への思い入れの深さと一窯焼いて5つも取れないという造ることの難しさを知るにつれ、原憲司の作品の素晴らしさを理解することができ、西岡小十、川瀬忍に加えて原憲司も要注意人物となりました。その年の6月には、原さんの窯を大平に訪ねました。話をすればするほど黄瀬戸への思い入れはものすごいもので話が止むことがありませんでした。原さんの宝物は窯址で拾った小さな陶片で、この色合いが原さんの目指す黄瀬戸の色だそうですが、それは黄瀬戸として見なれている色ではなく、白っぽい色合いのものでした。その後、色合い、肌合いは白っぽいものへの方向も見られましたが、色合いは微妙に変化していっています。一目みて気に入った茶碗の一つはオリーブ色を感じさせる静かなたたずまいを見せるもので、落ち着いた気持ちにさせてくれます。

 原さんの作品は黄瀬戸以外には、織部、瀬戸黒などがあります。また、数年前には志野を焼いています。また、この志野にも驚かされました。現代の美濃の作家のものと違い実にしっかりと焼き締められています。原さんに云わせると醤油を入れても染みはつかないとのことですが、まだやったことはありませんが・・・。手で触ると「シャリンシャリン」と音をたてるし、指で弾くと金属的な高い音がします。全体に緋いろ(原さんの表現はみかん色)がでています。志野茶碗について、電話すると「通天」の銘のある茶碗が好きでこの形の影響があると話していました。

 これからも原さんの作品を集めたいと思っていますが、あまりにも高価になりすぎ、手が出なくなりました。六角のぐい呑みだけは、なんども買う機会がありながら他のものを買って縁がなかったのでどうにかこれを手に入れたいと思っています。

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