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天正10年(1582)織田信長の命を受けた羽柴秀吉は三万の大群をもって、備中高松城(岡山市)を攻めていましたよ。
この辺りの田圃や沼沢に囲まれた平城は水面との差が4mぐらいしかない・・この地を見定めた秀吉の参謀黒田官兵衛・・ベンベン・・時あたかも梅雨の時期足守川の増水を見逃す訳がない・・この水を流し込みましたね。
城はたちまちにして湖水の中に孤立、水攻め、兵糧攻めですよ。6月2日京都本能寺で信長は光秀に討たれます、この事を知った秀吉何食わぬ顔で毛利方の安国寺恵瓊に合い「今日中に和睦すれば毛利の領土はとらない、宗治の首級だけさしだせ」と・・ベンベン・・
宗治「主君の安泰、部下の助命」を条件に自刃をきめる・・
浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して
さてここからが秀吉の独壇場 中国の大返しをやってのけたその後の活躍は・・・・お後がよろしいようで。 |
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日本有数の山城、備中松山城・・江戸時代板倉氏五万石の城下町として栄えた高梁の町(高梁市)は土塀と本瓦屋根が続く武家屋敷の石火屋町、商家に見る虫籠窓などのある本町から下町、南町など落ち着いた風情は備中の小京都と言われています。
日本道百選の柳と桜並木が美しい紺屋川の通りに異彩を放つのが高梁キリスト教会の洋風建物、名物ゆべしの老舗遠州屋もこの通りに有りますよ。
新築改造をしたらしい家に「高梁町並み建築デザイン賞」と言う木板が下がっている、伝統を守りつつ新しいものに挑戦する市民の心意気に拍手!!。 |
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奈良時代、甲弩郷7ヶ村の氏神様として創建されたこの神社(笠岡市)は艮明神と呼ばれ若竹吉備津彦を祭っています。
その後中世小田氏が安芸国へ転封された後、寛永14年(1637)岡山池田家の分家備中高梁の城主池田出雲守長常により拝殿が再興されたと言う。ところがこの拝殿落成後四年で改易になっています。
この神社一帯は郷土自然保護地域とされ参道には山水庭園もあり荘厳な雰囲気が漂っていますね、暑いこの時期は杉檜の木々の間から吹いてくる爽やかな涼風にホッと一息出来ますよ。
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有リましたよ、噂には聞いていましたがこれは本当に大きいですね。
水車と言えば推古天皇の時代からそれらしき物が有ったそうですがここ神郷町では和紙生産に水車を使っていたらしくその後官民の需要に応えるべくミツマタの栽培が盛んに行われたという。
いやいや覗いてビックリ・・孫水車が神代川辺りの小川からと思われる水を汲み上げそれを子水車が受け継ぎ親水車へと流していきます。何と連綿と引き継がれていく世代交代の素晴らしいこと、我が家もこの様にスムーズに孫子の代までと思わずにはいられません。
聞きますと親水車は現在の物は2代目だそうです。 |
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写真家緑川洋一が世界で二番目に美しい夕陽と感歎した瀬戸内海の落日・・
讃岐坂出の工場地帯を指呼の間に望み、瀬戸大橋に夕陽がが映える。
島影が薄墨色に変わるころポンポンとエンヂンの音を響かせながら漁船が港へ戻る、家に明かりがポツリと灯る。 |
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始めにおかやまあちこち内にある吉備真備公をご覧ください
矢掛の町から東へ車で約5分の所にある古刹真宗圀勝寺・その屋敷内に吉備真備公の祖母の霊骨を納めている「光助霊神社」があります。
その前にあって樹齢300年と言われる椿が昨年訪れた時はもう花は既に無く残念な気持ちになっていた。今年こそはと先月から2〜3回足を運んでいたのですが今日訪れるとこれは素晴らしい・・
樹高6m直径目通り1、7mの巨木に今が盛りと鮮紅色の花が満開に咲いていましたよ。赤いじゅうたんを敷いたような落花がそれはそれは美しい。 |
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