雪月夜夢暦 序 白い、十六夜月の夜だった。 「寒ィなあ…」 犬坂剣介(いぬざか けんすけ)は無意識に袂を掻き合せた。拍子に腰の刀がかちゃんと音を立てる。 冴えた空気と月明かりのおかげで提灯無しでも歩けるのは有難いが、この寒さだけは如何ともしがたい。 さっさと帰って熱燗でも引っ掛けて寝るに限る、と下駄履きの足を急がせる。幸いにして住み込み先は 宵っ張りが多い。この時間ならまだ、飲み相手には事欠かないだろう。 剣介の下宿兼勤め先は薬種問屋である。 江戸随一、とまでは行かないがかなりの大店だ。特に、十年程前に主人が代替わりしてから仕入先の整理をしたり町民相手の小売を始めたりと商いが広がった。剣介が雇われたのは今の主人になってからなので過去の詳しい話はあまり知らないし深く詮索する気も無いが、当主が入り婿である事、妻が若死にした事、祝言の前に騒動があった事、そして…その騒動の為に『白尾屋』に裏の顔が生まれた事、は聞きかじっていた。 その「裏」が無ければ剣介はここにはいなかっただろう。 お天道様の下を堂々と歩いたその夜に、こうして月に見送られ、夜道を急ぐようなことは。 からん、からんと下駄が鳴る。 江戸は川の街だ。 縦横に走る川はあちらこちらで交差し、橋によって繋がれる。春から秋にかけては活気に溢れ、それこそ月見散歩も乙なものだが、今の時期には枯れ薄が積み重なっているだけで風情も何もあったものではない。 背骨まで冷やすような風が真正面から吹き付け、剣介は首を竦ませた。 (あー、旦那の熱が上がらなきゃいいが) 主人が一番商品の世話になっている、とは白尾屋の勤め人達が苦笑と共に語る言葉である。 三十路半ばの働き盛りの癖をして、月に一度は床に伏す。 調子が良いかと思っていれば、「裏」の方で怪我を負う。 そうしない為に剣介達がいるのだが、何故か知らないが何時の間にか傷を作っているのが白尾屋の主人なのである。 役者にでもなれば受けそうな白い顔を思い浮かべたところで、もう一度風が吹いた。 臭いが、した。 慣れた臭いだ。 鉄の臭気だ。 血の…臭いだ。 鍛えられた感覚は、すぐにその方向を嗅ぎつけた。左手。揺れる川面。凍りそうにちらちらと踊る月。 積み重なった枯草の中に、黒い、影がある。 鯉口を切りながら緩い坂を降りた。近づくにつれて益々はっきりと届く、独特の臭い。 うつ伏せで倒れているのは、筒袖のような黒い着物。袴の広がりも無く、動き易さのみを求めた風な見た事も無い形の着物である。強いて上げるなら、子供向け絵草子の児雷也だの猿飛佐助だの、所謂「忍び」と呼ばれる者の衣装に近いだろうか。無論、どんな酔狂者でもこんな格好はしない。 「何だこいつ…?」 ぴくりとも動かない体は、細い。血の臭いは、体の下敷きになっている左腕辺りから漂ってくるものらしかった。 死んでるのか、と思う。 しかし夜目に見たところ、地面に染みた血の量は心臓を止めるほどではない。皮肉なことに、そこいらの知識は豊富過ぎるほど豊富に持っていた。 「おい…?」 念の為、鞘のままの刀を腰から外して無事らしき右肩を突付いてみようと、した。 刹那。 油断していたつもりは無かった。 むしろ、怪しすぎるほど怪しい行き倒れに対して、最大限の警戒心を発揮していた筈だ。 それなのに−動けなかった。 喉元に突き付けられた刃物の気配。脇差ほどの長さも無いが、鋭利な感触は存分に伝わってくる。 塗り潰されたような思考の中、ひとつの色が煌く。 それは、今も流れている色。 人相も分からぬ汚れた、小さな顔の中で、ぎらつく色。 深紅、だった。 瞳の色が、深紅(あか)かった。 妖、という言葉が一瞬浮かんで、そして消えた。 何故なら、その深紅が視界から失われたからだ。 跳ね起きた時と同じ唐突さで、痩身が崩れ落ちる。 かさ、と茶色の草が奇妙に軽い音を響かせた。 「…えーと…?」 停止していた思考回路が戻ってくる。に、従って、余計に混乱し始めた。 目の前には数秒前と同じく倒れた体。 どう見てもまともな素性とは思えない風体。 そしておまけに殺されかけた。 が。 観察するだに、こいつは若い。まだ子供と言っても良いほどだ。 ついでに怪我人である。死ぬほどの怪我でもないようだが、この時節である。 金貸し掛取りが張り切り始める、剣介達が忙しくなる、つまりは師走の入りである。 現に今既に霜が降り始めている。 放って置けば間違いなく明日の朝には岡っ引きの出番と相成るだろう。 こちとらお上にはあまり顔向けしたくない立場、彼らの仕事が増えるのはむしろ歓迎すべき事態であるのかも知れない。 だが。 子供で怪我人なのである。 そして犬坂剣介…彼は自他とも認める世話焼き気質の持ち主であった。 「あーっもう!知ったことかっての!」 同僚から惜しみなく注がれるであろう冷たい視線を、せめてこの寒風で慣らしておこうかと馬鹿なことを 考えながら、剣介は薄汚れた痩身を肩に担ぎ上げた。 やはり大層軽かった。 白い、十六夜月の夜だった。 |