第一幕 弐

「おーい、こっち甘酒と黄粉の団子三本頼むよ!」
 今日も賑わう茶屋「大和屋」の名物は、女将の栄子(えいこ)ご自慢の、団子各種と生姜を利かせた甘酒と。
それからこれも外せない。
「はいはーい!」
 元気の良い少女の声が答え、わ、と客たちが手を叩き、暖簾で隠れた奥の調理場を覗き込んだ。
小さめの卓を幾つも並べる普通の茶屋の拵えとは異なり、大和屋のそれは縦に長い机が二列だけ並び、その両側に客が座るというものだ。その机の真中には、これも二本の溝が刻まれている。
 先程注文を入れた客は、長机の店奥から数えて右五番目に座っている。
 きり、きり、きり、きり、きり。
静まった店内に、短い音が五回。
「行くよー!」
 少女の掛け声と同時、暖簾の向こうから木箱が現れた。
木箱の横には四つの小さな車輪。表面には滑稽な猿面が掘り込まれている。
その珍妙な木箱はかたたん、かたたんと僅かに揺れながら車輪を回し、溝に従ってゆっくりと進んでくる。
五番目の椅子の前、箱はぴたりと動きを止め。ぱかんと右の横蓋を開いて見せた。
中には湯気を立てる甘酒の茶碗と、黄粉の掛かった串団子が三本、盆に綺麗に並んでいる。
笑いながらその盆を取り上げた客が蓋を閉めると、木箱は再びかたたん、かたたんと今度は逆向きに暖簾の向こうに戻っていった。
 完全に箱が見えなくなったところで、わあっと客達の拍手が弾ける。それに迎えられるように、調理場から少女がぴょこんと顔を出した。
「いつもながら見事だねえお空(そら)ちゃん!」
「流石はからくり猿坊さんだ!」
 空と呼ばれた小柄な少女は、楽しげに指を立ててみせる。
「おとっつあんだけじゃないよ、これ作ったの。私だって手伝ったもんね!」
 くるくると変わる表情。数えで十四になる彼女無くしては、この大和屋は語れない。
「だから勘定忘れないでね!ハイ甘酒と黄粉団子で十二文!」
「いやあ褒めたんだからもう一声!」
「まかりませーん。お栄さんとおとっつあんと私の努力の分も入ってるんだからね」
 大の男を相手に回し、しっかり者の空である。
一度など勘定を誤魔化そうとした不届き者の頭を、手にした盆でぶっ叩いたというのは今でも語り草だ。
その性格と愛嬌と、年恰好に似合わぬ趣味のおかげで、空はこの辺りで随分と有名であった。

 空の父親は飾り職人。簪笄(かんざしこうがい)、根付や置物で生計を立てている。猿の飾り彫りが見事というので、いつの間にやら本名よりも「猿坊さん」と呼ばれる事が多くなった。
 その猿坊さん、滅法からくり作りを好んでいる。
仕事以外はほとんどの時間をその趣味に費やしており、既にどちらが本業か分からない。娘は娘で諌めるでもなく一緒になってからくりを作っているのだから、似た者親子という事だろう。しかし却ってそれが受け、こうして茶屋の繁盛の種になったりするのだから、世の中良く出来たものである。
 ちなみに今度は宙を飛ぶからくりを作るのだとか。

「はい毎度ー!今度は誰ー?」
「おっ!じゃあ俺も団子貰おうか。みたらしと粒餡一本ずつね!」
 左三番目の客が手を上げて、また発条(ぜんまい)を回す音が三度鳴った。


 机を拭きながら外を見た空は、思わず声をあげた。
「うわあ真っ暗ー」
 師走の陽は落ちるのが早い。夏場であればまだまだ明るい時刻でも、早や提灯に灯を入れる頃合である。
「あらー遅くなっちゃったわねえ空ちゃん、ごめんねえ」
「大丈夫だよお栄さん。もうお月さんも出る頃だし…」
「邪魔するぜー」
 空が話す途中で、まだ下ろしていなかった入り口の暖簾から、のっそりと人影が入ってきた。
「お迎えが来たから大丈夫ねー。源さん余り物だけど団子持ってく?」
「実は当てにして来た」
 栄子の言葉に答える腰には二本差。冴えぬ風情で妙に歳を食って見えるが、まだ若い侍だ。
武士とは言えども、彼は仕える主を持たぬ、所謂浪人という奴である。長屋暮らしが板に付き、すっかり町人の暮らしに溶け込んでいる。
「源ー、私と団子とどっちが大事ー?」
「同列。ああでも、お前に何かあったら猿の旦那に申し訳が立たんか」
 空の軽口にこれも軽口で返す。武士の威厳も何も無い。
最もこんな性格でなければ、炊事洗濯己で済ませねばならぬ長屋の生活など送れないだろうが。
 大沢源五郎(おおさわ げんごろう)。侍らしいのは名前だけ、実は腰の二本も竹光ではないかと密かに噂されているその一因は空一家にも大いにある。何しろ源五郎、やはり何故だかからくり作りを趣味にしているからである。
今の長屋に居付いたのが一年程前になるが、早々に猿坊さんと意気投合し、生計(たっき)の足しにする傘張りや子供を集めての手習い指南の傍ら、工房に入り浸って三人仲良く図面を引いたり歯車を組み合わせたり。
これで今更武士でございと威張ったところで物笑いにしかなるまい。
 さてその縁で、今日のように空の帰りが遅くなった時には源五郎が送っていくのが通例になっていた。勿論、栄子の団子に釣られているのも事実ではあるのだが。
「はい、じゃあ包んでおいたからね。今日は蓬と安倍川が少し。源さんの好きな漉餡は売れちゃったよ」
「俺は桜餅が好みなんだが」
「もう三月ほど待ってもらわないと無理ねえ。アタシも好きなんだけどねー。道明寺もいいけど、やっぱり長明寺の方が好みって人も多くて。来年は二種類作ることにするわー」
 空、源五郎、猿坊の趣味がからくりであるとするなら、栄子は料理だろうか。いや寧ろ、彼女の場合は仕立てに生け花三味線唄い、暇を見つけては様々な習い事に手を出しているから、人生自体が趣味のようなものかも知れない。大和屋も趣味が高じて始めたもので、空を雇って店にからくり仕掛けを入れる前も、色々な甘味を考案しては客を楽しませていた。
楽しげな人生であるが、次は弓道道場に通おうかと考えているらしい。それを料理と同列に考えて良いかどうか従業員としては悩むところであると空は思っている。
「空ちゃんもう上がって良いわよー。ご苦労様。源さんしっかり送ってやってね」
 栄子の朗らかな声に見送られ、背丈の違う二人はのんびりと夜道を歩き始めた。

「でもまだそんな遅い時間じゃないよ?内職の方は大丈夫なの?確か提灯の納期がどうたら言ってなかったっけ」
「阿呆。お前最近の物騒な噂を聞かんのか」
「…聞いてはいるけどね…どうなのよって話だし」
 曰く、物取り事件が連続して起こっているという。
しかし事件の発生場所は一体に集中しているわけではなく、それこそ深川から隅田まで幅広く、逆に言うなら散発的に起きており、おまけに手口も一致していない。
 ある者は紐のような物で絞め殺され、またある者は長刀子で脅されて懐の中身を奪われた。後ろから殴られ、目を覚ました時には財布だけが失せていたという話もある。
 これだけ聞けば犯人が同一人物であるとは思い難いし、現に既にお縄を頂戴した者もいるらしい。
ただ、共通しているのは全ての事件において、金銭が盗まれていること。
だが、被害にあったのも、いかにも金持ちといったお店者から、どう見ても飲み代ぐらいしか持ってなさげな日雇い大工まで、全く共通点が見出せない。
「要するにお金が欲しい人が沢山いるって事じゃないの?ほら師走だし」
「確かにな、そろそろ掛取りが走り回る頃だが。にしても物騒な事には変わりないだろうが」
 一年分の貸付金を回収して正月を迎えるのが、付け払いや金貸しの年の瀬仕事である。その金の都合が付かなかった者達が、揃って物取りを始めたというのはおかしくない話かもしれない。
それにしては、昨年もその前も、こんな事件が続くような事は無かったはずだ。今年に限って暮らしに困窮している者が多いのか?特に不作や不漁の話は聞かなかったが。
「何にせよ、子供の一人歩きが危ない事には間違いな…」
「源!」

 空の鋭い叫びが夜気を裂いた。
視線を走らせた先、ぎらり、と光る物が見えた。
ようやく姿を見せ始めた十六夜月を照らし返す、それは菜切り包丁のようだった。
 ぼんやりとした月明かりで、その切っ先がぶるぶると震えているのが分かる。完全に素人だ。身なりからしても単なる町人にしか見えない。
「か、金を出せ!」
 だがそれにしては、妙に上ずった声と、血走った目付き。
物狂いか、その戸惑いが、唐突過ぎる男の動きに対する反応を一瞬遅らせた。
「空!」
 咄嗟に傍らの体を左腕で抱えて転がる。二本の鞘に押し付けられて、空が痛みの息を呑むのが伝わってきた。
失敗した。
この体勢では、剣を抜けない。
 突っ込んでくる相手に対処するには空を突き飛ばすしかないが、それは危険が大きすぎる。
いくら闊達で鳴らした彼女でも、所詮は単なる町娘。源五郎から離れたところを狙われたら、身を守る術は無い。
結局二度、三度と空を抱き込んだまま地面を転がってかわすしか出来ない。
男の行動には全く迷いが感じられなかった。ただもう必死だ。
「金、金」と呟き続けているのが聞こえる。気味が悪い。
何度目かに転がった背中が、どん、と築地壁にぶつかった。
 追い詰められた。
妙に現実感の失せた頭でそれだけを思う。
「金出せ、薬…!」
 男の掲げた包丁が、またぎらりと光った。
美しいはずの月光が、酷く禍々しいものに映った。

 振り下ろされる、最後通告。

 だが、そうはならなかった。

 突然に、割り込んだのは細く黒い影。
 ぱっ、と。
 赤い霧が舞った。
男が振った刃物を、乱入して来た人物がその腕で受けたのだという事は分かった。
源五郎からは後姿しか見えない人物は、だらりと左腕を垂らしながらもそのまま男と交錯する。
「ぐ…」
 くぐもった声。
耳障りな高い金属音を立てて血塗れた包丁が落ちる。
男はそのまま、ずるずるとだらしなく崩れ落ちた。どうやら鳩尾辺りに当身でも食らったらしい。
「お、おい…」
困惑したまま、それでも何か言わねば、と口を開いた源五郎に、帰る答えは無かった。

 逆光で服装すら明らかでない、ただ黒く細い影は、振り返る事もせずいきなり、跳んだ。
源五郎の背丈より高い壁の向こうに、一飛びで消える。

「源…」
 ようやく硬直が解けたらしい空が、強張った舌から無理矢理に押し出したような声音で自分を呼んだ。
「何、今の…」
 こちらが聞きたい、と思う。
 一瞬の白昼夢でも見た気分だ。しかし、倒れた男と傍らに落ちる赤く汚れた包丁と、転々と残る血の跡が今しがたの出来事が紛れも無い現実だと如実に証明している。
二回ほど頭を振って、出てきた結論は、妙に真っ当なものだった。

「とりあえず、番屋に行くしかねえな…」

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