第一幕 四 「犬の字、俺の記憶が確かなら確かお前の今日の仕事は島津の頭目に今年の締めを聞いてくる事だった筈だが」 引き締まった長身、頬に走るは二本の刀傷。 赤味の強い髪と鋭い目付きがやたら威圧感のある同僚は、表面上静かに切り出した。 普段ならここで「俺には犬坂剣介という立派な名前が」などと切り返すところなのだが、今、彼の立場は非常に非常に弱かった。 「それがどうして、あからさまに厄介な事情抱えてる奴を拾って帰ってくる事まで発展するんだ」 「目の前で子供な怪我人が寒空に放置されてたら放っとけないでしょ人道的に!」 「この稼業で今更人道持ち出すか。自分で虚しくならないか?」 ざくざくと容赦無く言葉の刃を突き刺してくるのは重八房(かさね やつふさ)。「表」でも「裏」でも同僚だが、多少の苦手意識は否めない。 何しろこの一帯で「敵に回したくない男」堂々一番手を張っている。「鬼の重」の名を聞けば、大抵のやくざ者は黙って(中には平身低頭して)道を開けるともっぱらの噂である。 内心冷や汗を流しながら、「実は最初に殺されかけました」と口に出すのは止めた方が良さそうだと剣介は 改めて心に誓った。 「お説教は後で聞きます!ついでに俺が責任持って面倒見ますからとりあえず手当てくらいは一応!」 血の跡を辿られないように、異装の少年の傷口は晒(さらし)でぐるぐる巻きにしてきたが、やはりまだじくじくと赤色が滲み出している。泥と埃と血にまみれた体は冷え切っていたし、それを抱き抱えている身としてはやはり即効処置に掛かりたいわけで。 はああ、とあからさまな溜息を吐き、八房はくい、と親指を後ろへしゃくって見せた。 「奥の座敷に持って行け。湯と薬はすぐに運ばせる。その格好で布団に転がすわけにもいかんだろう」 とりあえずお許し、と言うよりも諦め、が出たようだ。奥座敷、というのも何かあった時の用心だろう。 それでも注がれる冷たい視線に、予想通りとは言え寒々しいものを感じながら、軽い体をもう一度抱え直した。 「……」 盥で運ばれてきた湯で大雑把に体の汚れを拭い、妙な着物を脱がせてやたらと傷跡の多い痩せた体に顔を顰め、最後に顔を洗った布を取り去って、剣介と八房は思わず動きを止めてしまった。 明らかになったその面貌。 「…人間、か…?」 八房の声も珍しく強張っている。商売柄、夜の女達も多く知っているし、綺麗どころと言われる者達も何人も見てきた。 だが。 美しいものを花に例えることは多い。牡丹、芍薬、百合から雛菊まで様々に。 しかしそれは「生きている」美に対してだ。 白い、白過ぎる肌に、閉じられた瞼の、長い睫。整い過ぎた容姿は寧ろ、氷の人形(ヒトガタ)を思わせた。体を見なければ女でも通りそうな面差しは、だが「花」では有り得ない。 鉱物、否、やはり「氷」だ。 それでも、止まらない血が確かに生き物である事を知らせてくる。それが無ければ、妖と言われれば信じただろう。剣介はぶんぶんと頭を振って、意識を無理矢理そこから引き剥がした。今は傷の手当てが最優先、と自分に言い聞かせる。 「刀傷…でも無いみたいっすね」 「もう少し荒い刃物だな。包丁か何かだろう。そう深くは無いが、しばらくは動かさん方が良いな」 骨に達していたり腱が切れていたりする場合は流石に手に余るが、この程度の傷なら剣介達でもどうにかなる。何しろここは薬種問屋だ。薬にだけは事欠かない。 「裏」の方でそう見られたくない傷を負うのもある意味日常茶飯事であるし。 血止めの膏薬を塗り、晒を巻き直していると、廊下からくぐもった咳が聞こえてきた。からり、と襖が開かれる。 「騒がしいと思ったら、何事だ?」 「旦那、起きて来て大丈夫なんすか?」 そこに立っていたのは、ここの主人である白尾莞(しらお かん)だった。端正な容姿をしているが、どこか何かを諦めたような、褪めた雰囲気の男だった。 この子供に少し似ているかも知れない、と思う。 「熱は下がった。五日も寝ていれば風邪の神も去るさ」 「アンタの場合次から次へと呼び込んできそうですが」 剣介の軽口には取り合わず、莞は布団に横たわる怪我人の姿に形の良い眉を寄せた。 「何者だ?」 「知りません。犬の字の拾い物です。また面倒そうな」 八房の台詞に「またか」とでも言いたげな眼差しを送り、しげしげと氷人形を眺めやる。 「男に使うのも妙だが、随分と…綺麗な顔だな。しかし傷跡の数が半端じゃない。いずれ真っ当な人種ではないな」 「おまけに何処で負ったか、刃傷沙汰で切り傷です。深川辺りに捨ててきますか」 さらりと言うが八房が本気である事は剣介も良く知っている。彼はその気になればいくらでも冷徹になれるのだ。見習うべきとは思わないが、時としてそれが必要である事は分かっていた。その割り切りが、自分が敵わない一面であるという事も。 だから、言うべき事はさっさと言ってしまうに限る。言葉通り、この子供が「厄介事」である事は間違いないのだから。 「…ちらっと見えただけですけどね。こいつ、眼の色が深紅かった。それこそ、化物かも知れませんよ」 異形の妖。人を惑わす鬼。 夜の狭間で月明かりでゆらりと踊る魔のものであろうかと。現実感が薄れるほどに整った顔立ちは、そう思わせるだけの凄愴さを孕んでいた。 しかし、莞の答えは剣介の予想を裏切った。 「切り傷なら今夜は熱が出るだろう。解熱剤が少しは余っている。どうせ明日は永庵先生が来ることだ。他にも幾らか薬を持ってこさせよう」 もう一度けほ、と喉を鳴らした莞に、八房が小さく問い掛けた。 「良いのですか?旦那」 「一度拾ってしまったものを、もう一度捨てるのも妙な話だろう」 甘いのではないか、と自分を棚上げして剣介が思ってしまうほど、無造作な言葉だった。 「どうせ薬の減り具合で嫌味を言われるんだ。多少多く使ったところで問題無い」 アンタそれは自虐ネタですか、と口に出さなかっただけ、剣介は賢明だったと言えよう。 |