第一幕 伍 熱を測って脈を取り、喉の音を聞いて骨の具合を確かめて、ついでとばかりに背中を一張り。 「まあ良いだろう。今回は軽くて済んだらしいな」 「…そうそう頻繁に死にかけているような物言いは止して欲しいんだが…」 「事実だろうが。まあ、月に一度はあんたを診ないとこっちの腕が鈍るからな」 仮にも大店の店主相手の態度とは思えないこの町医者、名を永庵(えいあん)と言う。彼がこの界隈に居を構えて数年、確かに何度世話になったか当の莞にも定かでないので言い返せない。 歳は若いが蘭学修めた長崎帰り、腕は確かで診療代も良心的だが如何せん人を食った性格で、たまに本気で泣かされる患者もいるとかいないとか。 だが、打ち身骨折刀傷、明らかに荒事で負ったと分かる怪我であろうと深く詮索する事無くてきぱきと治療してくれる永庵の存在は、やはり白尾屋にとって大事なものではあった。 「そう言えば永庵先生、熱冷ましと化膿止め、それから切傷用の膏薬を頼みたいんだが」 昨晩抱え込んだ「厄介事」は予想通りに熱を出し、今日の午(ひる)までまだ目を覚ましていない。 「また追加か。もうこの際、自分の分は別勘定で卸してくれた方が分かりやすくていいんだが。なあ白尾の旦那?」 わざとらしく「旦那」を強調して皮肉に笑い、それでも傍らの薬箱から手際よく数種の包みを選り分けていく。 永庵の診療所で使われている薬種原料の大半は白尾屋からの卸であるが、実は使用頻度が一番高いのも白尾屋であるという笑えない事実が存在していたりした。 「あんたはどうも自分の腕の長さを誤解してる節があるからな。何でもかんでも抱え込んで、挙句自分を忘れる癖はどうかと思うが」 こっちが熱冷まし、これは膏薬、と積み上げながら、永庵は独り言のように呟いた。 「…永庵先生?」 「どっかの時点であんたは、それから先を「余生」にしちまったんだろう。あんたにとっては、今もこれからも全部がおまけみたいなもんなんだな」 こちらを見ないままに続いていく言葉は、莞にとっては痛いような寒いような。 語っていない部分まで、見透かされているのは確かなようだった。 「前を見ろとは言わんがな」 去り際の一言は、正に捨て台詞、と呼ぶのが正しいのかも知れなかった。 水を張った盥と布、替えの寝間着と薬箱。それだけの物を抱えていれば、流石に手で襖を開ける芸当は出来ない。些か行儀悪く右足で戸袋へ押し込んだ、そこに。 深紅が在った。 布団の上に身を起こし、包帯を巻いた左腕は落としているが、それ以外は全く隙の無い…妖が一匹。 ゆるり差し込む午後の光で改めても、やはりその双眸は、血の色をしていた。 「…起きたのか」 何とか、震えずに声を出せたと思う。 「何があったか覚えてるか?おまえ、そこの河原で怪我して倒れてたんだよ。放っときや今頃は閻魔様と御対面だ。感謝の一つも欲しいとこだな」 自分が怯えてしまった気がする事を隠す為なのか、無意識で殊更軽い口調で話し掛けてはみるが、相手は全く無反応である。ただじっと、深紅い瞳が剣介を見ているだけだ。 生きているのかと、疑いたくなるほどに。 「おまえ…「何」だ?」 抱えた荷物を下ろしつつ、どう聞いて良いのか分からずに、発した言葉はそれでも。一番、相応しい質問であるような気がした。 「その眼、あの格好でその傷で。挙句にいきなり得物突き付けてきやがって。「何」なんだよ?」 動かない。答えは無い。 在るのは深紅い瞳だけ。 「だんまりか…そんな事だろうとは思ったけどなあ」 脳裏に奴房の渋面が浮かぶ。あからさまに怪しい上に氏素性を全く喋る気が無いとすればそれも当然だろう。しかし勢い任せとは言え「責任持って面倒見る」と宣言してしまったのも事実なわけで。 「…まあ良い。傷見せろ。薬塗り直すから」 その言葉に、少年はきょとん、と二、三度瞬いた。 「…何で」 聞こえるか聞こえないかの小さな声は、容姿に似合ってどこか中性的だった。 「何でって…治らないだろうが?」 こっちこそ意味が分からん、と腹を括り、最早問答無用で膝付き寄って袷を引き下ろした。びくり、とその一瞬は身を竦めたものの、やはり少年は何を言うでもない。 古い包帯を解くために腕に手をかけたところで、剣介のほうが固まった。 「おまえ…まだ全然熱下がってねえじゃねーか!何で起きてんだ寝とけ馬鹿!」 瞳の色と態度ばかりに気を取られていたが、見れば少年の顔は血の気が足りてない筈なのに赤くなり、額には汗が小さな玉を作っている。 唐突に気が抜けた。 こいつは「人」だ。 「ああもう病人怪我人は大人しく寝転がって養生するのが仕事なんだよその辺分かってない奴多すぎるんだよウチの旦那含めて!しんどいのに黙っとくのは却って迷惑だって理解しろよったくもう!」 気が抜けついでに八つ当たり気味に雇い主の悪口まで言いながら、手は休めずに包帯を巻き直しざっと汗を拭ってやる。されるがままの少年は、先程までとは違い、何故かひどく戸惑っているように見えた。 「ほれ終わり!俺は出てくからちゃんと寝間着は着替えろよ」 びし!と畳んだ着物を指差し荷物をまとめて立ち上がる。なんとなく、これ以上ここにいると必要無い事まで口走りそうな気がしていた。 入ってきた時と同じく、足で襖を開けてから、肝心な事を言い忘れていたのに気が付いた。 「ここは白尾屋だ。名前くらいは知ってるだろ?薬種問屋」 ぱちぱち、と瞬きが返る。どうやら肯定の意味らしい。 「居たくなけりゃそう言え。ただ、熱が下がって動けるようになってからだからな!」 勢いで言い捨てた台詞に、深紅い瞳は今度こそ確かに。 明らかな困惑を浮かべて、もう一度瞬いた |