第一幕 六 勘定組の仕事というのは、本来それほど忙しいものではない。城の改築や新田開墾など、特別な事柄が有れば別だが、日中真面目に算盤を弾いてさえいれば、普段は下城の太鼓が鳴ればすぐに書類を片付け、詰所を出る事のできる役職である。 が、師走の時期だけは話が異なる。 正月までに、一年間の金勘定を合わせなければならないからだ。 天領からの年貢米、商人からの税といった「入り」の部分と、各人に支払う禄高、購入した物の代金の「出」の部分。これらをまとめて決済し、書類にして保存していかねばならない上、普段の仕事もある。 つまるところ、現在勘定方役人は非常に忙しかった。 そして忙しい時ほど重宝されるのが仕事の早い人間である。 「桐原殿、申し訳ないのですがこちらの書簡の確認をお願い致します」 「昨日の仕立て屋への支払いの事だがな、桐原」 「そちらが終われば探してもらいたい証書があるのだが、桐原殿」 …己を無能だと卑下するつもりは無い。確かにある程度有能であるという自負はある。 あるにはあるが。 「頼むぞ桐原殿」「桐原、こちらも」「桐原殿ー!」 …あまりに連呼されると「腹切り」連想してしまいそうになるのは被害妄想だろうか。 いや、頼りにされているのだ。有り難い事だと思わなければ。 自分にそう言い聞かせながら、桐原芳巳(きりはら よしみ)は次々に舞い込んでくる仕事の山をどう崩そうかと思案を巡らせた。 勘定組に入って二年余り、まだまだ暮れの忙しさには慣れることができそうに無い。これが経験を積んだ古株になってくると、上手い具合に手を抜いたり人に押し付けたりといった技が使えるようになってくるのだが、如何せん若さと真面目な性格と片端から仕事を片付けてしまう能力の高さが災いし、人の数倍大変な思いをしている、損な役回りの彼であった。 「はい、では書庫で探し物をしてきます。昨年の近江屋からの貸付証書でしたね」 ようやく立ち上がるだけの時間を作り上げ、墨色のまだ鮮やかな書類を文机の片端に押し遣る。少しは休憩になるか、と思ったところで、無情にも「急いで戻って来い!」という声が掛けられた。 その声が今しがたまで縁側で煙管をくゆらせていた上司である事に思い至り、ほんの少しだけ殺意を覚えた芳巳を誰が責められようか。 埃っぽい書庫の長持から、それでも手早く目当ての綴紙を見つけ出し、冷えた廊下を小走り気味に詰所に向かう。頭の中では既に、戻ってからの段取りが組まれている辺りが芳巳の芳巳たる所以だが、それが彼の忙しさに一層拍車を掛けている事に本人が気付いていないのが哀れと言えば哀れであった。 (そもそも皆が期限通りに書類を出してくれれば終わっている件もあるというのに…) 思わず溜息が漏れてしまう。そう、この時期の殺人的忙しさは、各々が一年の怠けの総まとめであると言わんばかりに本来なら疾うに済ませていなければならなかった筈の仕事を持ち出して来る事にも原因があるのだ。そして、普段から真面目に迅速に働いている芳巳のような人間にそのつけが回ってくる事になる。怠け者が己の不始末に追いまわされている間も通常業務は存在しており、必然的にそれらを片付けるのは芳巳達の役割になるからだ。 次に夏時の書類を持ってきた者のにやけ面には筆先を突っ込んでやる、等と埒も無い想像で怒りを紛らわせていた ものだから、少々反応が遅れた。 「…おっと」 「うわ!す、すみません!」 角を曲がったところにいきなり存在していた袴の裾を踏み付けそうになり、慌てて二、三歩飛び退く。相手は普通に歩いており、こちらは走りながらくだらない考えに耽っていたのだから、全面的に自分が悪い。 反射的に頭を下げ、拍子に手にした綴りを落としそうになり必死で拾い上げる。その頭上から、よく通る声が聞こえた。 「いや、私もぼんやりしていた。悪かったな、顔を上げよ」 「申し訳ございませんでした!」 笑いを含んだ声音に、怒ってはいないようだとゆるゆると顔を持ち上げた芳巳は、更に仰天する事になった。 「ご、御家老様!これは、重ね重ね本当に…!」 「私も悪かったと言っているだろう?君は…確か、勘定組の…」 「私如きをご存知なのですか?」 「勘定方には色々と世話になっているからな。見込みのありそうな若者は覚えておく事にしているよ」 ゆったりと笑うのは、まだ若い、その割に貫禄のある長身の男である。 歳に似合わぬ身振りも当然。三条俊成(さんじょう としなり)は、末席とは言え家老に名を連ねる身であった。 「この時期は忙しかろう。その最中に書庫まで行く余裕を作り出せるのは並みの事ではない。名は?」 「恐縮です。桐原、と申します」 「桐原か。若いのに大した者だ」 鷹揚に言うが、三条家老こそ正に「大した者」なのである。 公家の家から近年没落気味の三条家に婿入りし、僅かな年月で傾いた財政を立ち直し、その手腕を見込まれて家老職に異例の大抜擢を受けた出世頭。 武家の出身でない事から揶揄を込めて「三条卿」などと呼ばれはするが、政治手腕と温厚な人柄は尊敬に値すると常々芳巳は思っている。 「そうだ桐原、丁度良かった。私はそちらに城の借入金の纏めを持って行くところだったのだが、良ければ君が戻りついでに預かってくれないか?これから、また別の書類を見ないといけないものでね」 私も楽ではないのだよ、と紙束を振って見せる三条の笑みには嫌味が無い。勘定頭に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい、と本気で思う。 「承りました。御家老様も、あまり根を詰められませぬようにして下さい」 「ふふ、君のような若者に心配されるほど、歳を食ってはいないつもりなのだがね?」 「け、けしてそのような意味では…!」 焦る芳巳にでは頼んだよ、と気軽に書類を渡し、三条は廊下を反対側に歩き出した。 深々と頭を下げて見送って、もう一度溜息を漏らす。思わぬ目上の人物に遭遇した驚きも、三条の器量に対する感嘆も様々な物を含んだ吐息であった。手の中の紙が重さを増した気がする。 圧倒された、と言うのが正しいのだろうか。 とにかく、この仕事は自分が責任を持って片付けよう、と芳巳は固く心に誓った。 そして、しばしの留守の間に蓄積されているだろう山と格闘する為、再び戦場へと乗り込む道を走り始めた。 双方にとって、大きな意味を持つことになる、小さな出来事だった。 |