雪月夜夢暦 第二幕 壱

 早いもので、白尾屋があの正体不明の子供を拾ってから、既に五日が経とうとしていた。
最初の二日程は熱が下がらず寝たきりではあったが、今では何とか歩けるくらいにまで回復している。
が、依然として一向に正体が知れなかった。
 何しろ、本人が全く喋ろうとしないのである。氏素性や赤い瞳については言うに及ばず、
せめて名前だけでも聞き出そうとこちらも色々と努力はしてみたのだが、見事なまでのだんまりぶり。
なだめてすかして脅しても、頑として口を割らない。並みのやくざならあっさり土下座の「鬼の重」の
吊るし上げにも動じないとくれば、こちらにはもう打つ手が無かった。
上に訴える、という方法も考えはしたが、他ならぬ主人自身が「話したくないものを無理に話させる
必要も無かろう」ということで、何時の間にか曖昧になってしまったわけである。
 とは言え、彼は手の掛かる相手ではなかった。時折手水に立つくらいの事はするが、後は日がな一日
与えられた屋敷で静かにしている。体格を見ても分かるように食は細いが、出された粥はきちんと
口にしているし、怪我の手当ても普通にさせる。極端に無口で無表情、そしてその顔立ちと体中の傷跡という
(いささか大きすぎる)問題に目をつぶれば、普通の子供と変わりなかった。
 そうなると何かと忙しいこの時節に一日中見張りを立てておく必要も無く、自然と放っておくことになる。
そんな風に表向き平穏な日々の中、白尾屋の店先にふらりと二つの影が立ち寄った。

「相も変わらず死神が三歩手前で躓いたような顔色だなあ」
 応対に出てきた莞に一言苦笑して告げたのは、背の高い方の侍である。腰の二本は鞘の上からでも
分かる見事な造りだが、身に付けた衣服は質素で身軽。どこか悪戯めいた目元が涼しげな、精悍な印象の
若侍であった。
 その物言いに呆れたように肩を竦めるのは、やや年下の侍である。こちらも身なりはきちんとしており、
佇まいは隣の青年よりもよほど礼儀正しげであった。
「青城(あおき)殿もお元気そうで。ここは寒いでしょう。奥へどうぞ」
「お構いなくって言いたいとこだが、どっちかってっと軒先はあんたの体に悪いだろ」
 からかいと気遣いを織り交ぜて、二人の侍は白尾屋の暖簾をくぐった。幾多の薬種が発する独特の
匂いの中、連れ立って店奥に進む。
「寒風の中、お勤めご苦労なことで」
 侍とは言え、一回りも歳の離れた相手に莞の物言いは丁重である。
「どこもそうだろうが、師走に忙しいのは定町廻りの宿命だからな。俺はともかく、貴乃(たかの)はきついだろ」
 青城と呼ばれた青年は、後ろへ続く年下の侍を振り返った。こちらはまだお役目早々、といった雰囲気で、
彼の部下にあたるらしい。
「…どちらかと言えば誠司(せいじ)様の酔狂に付き合う方が疲れます。市中見廻りとか言いながらあちこちとまあ」
 貴乃という侍の言葉どおり、この二人は江戸の治安を守るが勤め。同心身分の貴乃はともかく、与力である誠司は
詰所の火鉢の前で太平楽に構えていても良い筈なのだが、熱心なのか物好きなのか、自ら市中を廻り歩くのが
この青年の日課であった。
 偉ぶったところの無い本人の気質と相まって、自然市中に親しい者も増えてくる。
白尾屋もそうした馴染みのひとつである。
「ま、病だけなら良かったって事だ」
「お陰様で」
 何気ないやり取りに潜むのは、莞が寝込むのが病気のせいだけではないことを良く知っている事。
それでいて咎める事もしないこの青年を、白尾屋の面々は気に入っていた。
与力や同心、岡引といった所謂「お上の御用」を勤める役職というものは、巧く立ち回ればずいぶんと懐の
暖かくなる仕事なのである。ちょっとした不正に目こぼししたり、商家や岡場所に手を回すことで、袖の下がぼろぼろ
転がり込むという寸法だ。
 しかしその例に倣って、誠司が白尾屋の「裏」を知りつつ金蔓としているわけではない。
名家に生まれてわざわざ小遣い稼ぎに明け暮れる必要が無い事もある。私腹を肥やすことを良しとしない正義感もある。
が、何よりも誠司は「裏」との付き合い方を知っていた。
 香具師の束ねや賭場岡場所のまとめ役。白尾屋の裏家業ははっきりとお定めに背いた物ばかり。
だが、そうした場所は確かに存在し、今更全てを無くす事などできはしない。ならば、彼等の頭となる者が絶対に
必要になる。白尾屋は無体な乱暴を働くわけではないし、やくざ者に睨みも利く。場当たりの無法者よりも、
そうした「わきまえた」頭が立てば治安は却って保証される。そして、双方の了解として現在の関係があった。
 貴乃などは若さ故の潔癖さでいまだ納得しかねる様子を見せる事もあるが、与力を拝命してお役目に就くまで
かなりの放蕩ぶりを示していたという噂の誠司は、歳の割にやけにそうした世間の仕組みを分かっていて、
白尾屋としては有難い限りであった。
誠司にしてもそれは同じで、白尾屋のような「真っ当な裏の束ね」を立ててくれている。
誠司が与力を拝命して以来、双方の良好な関係は続いていた。
 座敷に上げられ、運ばれてきた茶を一啜り。いつにも増して険のある雰囲気を纏った貴乃が探る目を莞に向けた。
「時に、白尾屋の商いは順調ですか?」
「は?」
 突然の切り出しに思わず間の抜けた返事を返してしまうと、隣で誠司が苦笑を漏らす。
「おまえな、そんな直接的だか間接的だか分からん聞き方してどうするよ」
「しかし…」
「何かありましたか?」
 先を取って切り返してみる。二人は顔を見合わせ、やがて誠司がつまらなそうに口を開いた。
「今、市中に出回ってる物があってな。出所を探ってるところだ」
「それが白尾屋に関係があると?」
「ものがモノなんでね」
 親指で喉の辺りを切る仕種。命取り、そう言っているのだ。
「…薬関係、ということですか?」
 彼らが白尾屋の「裏」に口を出すことはまず無い。だとすれば表商売について。また目配せを交し合い、
今度は貴乃の方が囁く。
「…阿片ですよ」
 かろうじて聞き取った単語に、流石の莞も一瞬息を止めた。無表情の仮面を被り直す。
「なるほど、薬種問屋を疑うは道理、というわけですか」
「ま、な。舶来の薬を仕入れることが出来るところなんて、自ずと限られてくるもんだからな…」
 大手の薬種問屋ならば、長崎の出島から様々な品物が流れてくる。その中にご禁制の薬を紛れ込ませることも、
白尾屋ならば確かに可能であった。
「俺は信じてないからな。言っとくけど」
 ぱしりと言い切り、そこでこの話は打ち切りとばかりに、誠司は冷め掛けた茶を喉に流し込む。
ほれ、と小突かれた貴乃も座り直し、仕切り直しに新しく茶を呼んだ莞は、今度は自ら近所の噂話などを始め、
その場はそのまま過ぎて行った。

 半刻ほど段を取った後、暇を告げた誠司は、軒先で不意にその足をよろめかせた。思わず伸ばした莞の腕を
そのまま引き寄せ、早口で囁く。
「悪い噂が流れてる。気を付けろ」
 その声音に表情を変える間も無く。
「悪いな。寒さで足がもつれたみたいだ」
と笑った彼は、貴乃と二人、何事も無かったかのように再び市中へと繰り出した。立ち並ぶ店に声を掛けながら。
 木枯らしが、白尾屋の暖簾をざらりと揺らした。

「…良かったのですか?」
 硬い問いかけ。
「耳いいな。聞こえてたのか」
と返して、そのまま歩き続けるように促す。
「確かな話なんでしょう?上から直々に流れてきたのですから」
 白尾屋に阿片密売の疑い有り。厳重に調べを行うべし−この一体を管轄する与力である青城誠司に、
命令が下されたのは昨晩のことだ。貴乃は誠司付きの同心として、拝命する彼の姿をその目に留めている。
「あそこまで話してしまって…。あれでは、証拠を消す時間を与えてやったようなものではないですか」
「白尾屋はやってない」
 まるで躊躇いも見せることは無い断言。
「あそこは仁義に悖る事は絶対やらない。阿片なんてのは、あの旦那が一番嫌ってるもんのひとつだ」
 声と同じく、横顔もあくまでさらりとしたものだ。歩みを速めることも、遅めるることもしない。
その態度は、誠司が白尾屋を全く疑ってないことを如実に物語っていた。
「それでも、長官からのそう間違いがあるとも思えません。少なくとも、周辺を洗う位はするべきではないですか?」
 正義感か使命感か、今にも腰に手を伸ばしそうな貴乃に、振り向いた彼はふ、と笑みを溢した。
「熱くなるなよ。『葉瀬(はせ)』」
 滅多に呼ばない姓。
それを聞き、貴乃の頭が一瞬で冷やされる。
「…失礼しました」
「熱心なのは良い事だけどなー。今とんがるわけにいかんだろ、おまえさんは」
 軽く肩を叩き、ついでのように付け加える。
「根も葉もない話にいちいち付き合ってられるか。少なくとも、この件に関しちゃ、その名の通りの真っ白けだぞ白尾屋は」
「随分と信用してらっしゃるんですね」
 貴乃が誠司の下に就いてまだ一年も経っていないが、彼は気さくな性格に関わらず仕事と私情はきっちりと分ける人間だ。
まして、この一帯の裏をまとめている言わばやくざの大親分を簡単に見逃すはずが無い。
「信用ね。…信用されてるのはこっち側で、俺はむしろ信頼の方」
「はい?」
「考えても見ろ。白尾屋がここいらを仕切ってくれてるお陰で、俺はあの旦那一人に話を通せばいい。もしまとめ役がいなかったら、
一組ずつ回るんだぜ?」
考えただけでも気が滅入る、と下駄の先が小石を蹴る。
「だがな、白尾屋にしてみりゃ与力が多少頭の固い奴に変わったところで、ちょっと隠れ方を変えるだけの話だ。
俺は頼ってるが、あの旦那には使われてる。それだけって事だ」
 自嘲ではなくそう言える。誠司の頭の中で、「身分」という言葉は必要に応じて出し入れ可能な代物だった。
「それにしても…」
「んで、これが第一。万が一白尾屋がそういう商いに手を染めてるんなら、絶対に俺達には嗅ぎ付けられない」
それは、共犯者の笑み。
「上が簡単に情報持ってくるとこがまずおかしい。あそこの連中は相当なもんだぜ。隠すとなったら徹底的にやる。
ばれるようなへまをしでかすわけが無い。だから、この噂は根も葉もなしの浮き草なんだよ。以上」
 反論の余地すら無いほどきっぱり言い切られてしまえば、貴乃にはもう言い返せなかった。
それを見越したのか、誠司がぽつりと漏らした呟きは木枯らしに流れて消えた。
「もし白尾屋が密売なんかするんなら…長崎通さずに直接異国とやり取りするくらいの事はやってのけるだろうな…」


 夜が更け、天水桶の表面が薄く凍り始めた頃。
八房が、静かに主人の部屋の襖を開いた。
「『桜』が待っています。例の荷の確認を」
「ああ、もうそんな時間か」
 廊下には燭台を手にした剣介が控え、三人足音を立てることなく進んでいく。
先にあるのは薬種を収める土蔵。長櫃や樽が並び、複雑な匂いを発している。八房がその櫃のひとつを無造作に押した。
よくよく見れば、石造りの床に小さなへこみがある。
 それに手を掛け、引く。がこん、と腹に響く音がして、床が開いた。下へ下りる階段。
地下の隠し蔵。
 外よりも尚冷気を感じるそこを下りながら、剣介は疲れたようなため息を漏らした。
「俺にゃ分かりませんね。何であんなもんに大金払うんだか。薄っ気味悪い」
「それだけ夢が見たいんだろうさ」
「悪夢だとしか思えんが」
 莞と八房の答えも微妙に苦いものが混じっている。例えそれによって自分達が金を得ているとしても。いや、だからこそ
後味の悪い商売には違いなかった。
 後は黙ったまま、足音だけが響く。深い地下蔵の底、ぼんやりと行灯の光が揺れていた。
その隣で細身の影が身動いた。
「待たせたな。『桜』」
 莞の声に、ぱたりと本を閉じる音がする。その革の表紙に刻まれているのは。
明らかに、異国の文字だった。


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