第二幕 弐

 ゆったりとした動作で立ち上がった人影の動きに、寒さしのぎのつもりか頭から被っていた
厚手の布がはらりと落ちる。その下から現れたのは、仕立ての良い盲縞の衣に身を包んだ華奢な体躯。
上背はなく、影だけ見れば女性のようですらある、目立たない体つきだ。
 しかし、彼はこの空間の中、あまりにも異質だった。
揺れる灯りの照り返しを受ける、首元で束ねられた髪−それは、紛れもない、黄金の色を放っていた。
「久しいな『桜』」
 莞の呼びかけに、浮かべる笑み。指先で押し上げた黒い丸眼鏡の向こうにある双眸はまるで透明な翡翠。
肌の白さは磁器の如くに。
 そこにいるのは、美しい、異国の青年だった。
「旦那も何とか生きとるな。結構な事や」
 その唇から流れるのはしかし、流暢なこの国の言葉。おまけに妙な堺訛りがある。
 最初は外見との余りの差異に面食らったものだが、すっかり慣れてしまうほどに、この四人の邂逅は
回数を重ねていた。
 何でも、幼い頃から貿易商の父親に付いて様々な国を渡り、そこで言葉を覚えたのだという。
日本で彼に言葉を教えたのが、蘭学を学ぶため長崎に来ていた堺の学者だったらしい。
本名は「あんたらには発音しにくいやろ」と答えず、この国ではじめて見た光景だと『桜』という名を偽名として
使っていた。異国の言葉であるはずのそれが不思議と似合う、彼はそんな青年だった。
「これが今回の荷や。どうにか言われた分だけ揃えられたわ」
 先程まで背を預けていた長櫃を掌で軽く叩く『桜』に、莞が頷きを返す。
「いつも苦労を掛けるな。しかし、何もわざわざ荷受に立ち会うこともないだろうに」
「バレたらやばいだろってか?心配は有り難いけど、これが俺のやり方なんや」
 翡翠の瞳が煌く。
「俺は、商売に大事なんは信頼やと思うとる。危ない橋は一緒に渡ってなんぼやろ。
Keep my promise…えーと、こっちじゃジンギを通す、って奴やな」
 『桜』は軽やかに笑う。しかし、彼が冒している危険は実の所、白尾屋の比ではなかった。
そもそも『桜』は英国の貿易商である。鎖国政策の元、阿蘭陀と清国だけを相手に、それも長崎の出島だけでしか
海外貿易が行われていない時代のことだ。いくつもの港を経由して船籍を誤魔化しているとは言え、密貿自体が
大罪である。おまけに『桜』自身がわざわざ江戸市中まで荷を管理し、確かに白尾屋の手に渡ったことを
認めてからでなければ代金を受け取ろうとしない。
 どう見ても異国人容貌の『桜』は、見咎められればそこで終わりである。英国も庇ってはくれまい。
最悪斬首の可能性もある。しかし、『桜』は例えそんな事態になったとしても、決して白尾屋の名を漏らすことは
ないだろう。それだけの対価を支払っているから、というわけではなく、それは確信だった。
 思えば自分の周囲にはそうした人物が多い。飄々として軽口を叩きながら、しかし無条件で信じられる。
自分は恵まれているのだろう。そう考えた莞の頭に、何故か深紅の瞳が浮かんだ。
その横で、剣介が長櫃の蓋を持ち上げ、顔をしかめながら中身を確かめている。本来なら舐めてでも
確認すべきなのだが、流石にそこまで強要する気は無い。
「ま、質はいつも通りってことですか」
 これ以上見ているのが嫌だと言わんばかりに蓋を閉じた彼にひとつ頷いて、莞は懐からずしりと重みのある
小袋を取り出した。
「では代金を」
「ほいほい」
 両手で受け取った『桜』の方は紐を解く気配も無い。無論、莞も今更騙すような真似はしない。
袋の中身はぎしりと詰まった砂金である。これならば世界中どこに行っても換金できるし、必要以上にかさばることも無い。
そうした支払方法も、双方で決めたことだった。知り合って長いが、互いが勝手に動いた事は一度も無い。
それこそが『桜』の言う「信頼」なのかも知れなかった。
「しかし、こんなもんが金に化けるんやからなあ。稼がせてもろとるとは言え、大枚はたく奴の気が知れんわ」
 図らずも似たような台詞を吐いた『桜』に、剣介が同意する。
「全くだ。なあ『桜』、これって本当に効果あるのか?」
「夢は見られるんと違うか?業の深いこっちゃ」
 そして肩を竦め、一言呟く。
「最後に見んのは悪夢やろうけどな」

 ふと思い至って、仕事の合間にあの赤目の少年が寝ている部屋を訪れてみた。
一応、毎晩のように剣介と八房が問答を行ってはいるのだが、相変わらず身の上話は一切しないらしい。
剣介など最早諦めの境地に達してしまったらしく、傷の具合を診て体調を確かめ、後は殆ど言葉を返さぬ相手に向かって
世間話に終始しているらしい。
「ガキん時よく怪我した野良猫拾ってきたもんですよ。こっちは手当てしてやろうってのに警戒して怯えまくって。
ありゃ、それに近いっすね。猫っす猫」
 引っかかれないだけマシですよーと笑っていた。言われてみれば確かに、あの少年の人慣れなさはどこか猫に似ている
気がする。猫じゃらしでも試してみれば案外、と埒もない考えと共に襖を開けると、とたんに身が冷えた。
 何事かと、上げた視界に舞う、白。
庭への格子戸が開け放たれ、縁側に細い夜着姿が腰掛けていた。
「…何をやっているんだ」
 流石に呆れて歩み寄る。ちらちらと降る粉雪は、積もるほどではないだろうが見るからに寒々しい。
白尾屋自慢の庭園とはいえ、この寒気に松の枝振りを興じるうつけはいるものではない。
 頼りない背中にもう一声掛けようとすると、その下からばさばさ、と羽音を鳴らして一羽の鴉が飛び立った。
驚いて見る頭上で黒い影は二度円を描き、薄白を切り裂いていく。
「おまえが呼んだか?」
 冗談半ばの問いに言葉では答えず、彼は細い指を口元へ持っていく。そこからピィピィ、と高い音が響いた。
見る間に松葉の間から寒さを凌いでいたらしい雀が数羽、ぱたぱたと庭先に舞い降りる。少年が手を差し伸べると、
その上に乗って指先をつつくことまでして見せた。
「鳥寄せか。器用だな」
 そういう業があると話には聞いたことがあるが、実際に目にするのは始めてである。この様子なら何種類もの
鳥たちを操ることが出来るのだろう。しかし、そんな技術を持つのは猟師や芸人で、この少年はどちらにも見えはしない。
ますますもって謎だった。
 しばし掌の上で遊ばせ、再び空へ放つ。自由に羽ばたく鳥とは対極にいるかのような。
「おまえは何か、人よりも動物の方が楽そうだな」
 ある種嫌味な台詞にも眉一つ動かさず、硝子じみた紅の瞳は何も映していないようにも、舞う雪片のひとつひとつを
数えているようにも見えた。その果てしない距離感が莞の脳裏に一瞬の面影をよぎらせた時、けたたましい声が割り込んできた。
「だああ、病人と半病人がこんな寒い所で何やってんすかー!!」
 今にも掴み掛からんばかりの勢いで部屋に走り込むと、ばしばしと音を立てて格子を閉じ布団を引っぺがして細身を
ぐるぐる巻きにし、ついでに余った上掛けを莞の背中に引っかぶせて火鉢の炭を掻き起こす。見事なまでの早業だ。
「雪見がしたいならそれ相応の準備って物があるでしょうがこの病人組!コロっといっても知りませんよ俺あ!」
「…流石に早々命は落とさんだろう…」
「信用できませんっての!大体、普通ならここは怪我人諌めるべき場面でしょうが!なのに何で二人して寒々しく
縁側並んでんですかあんたら!」
 世話焼きの血が騒ぐのか少年を火鉢の横へ引きずっていく。さすがに主人の肩までは押さなかったが、じろりと睨みつけた
目付きはそのまま不注意への怒りを表している。
苦笑して己も火鉢へと歩み寄るが、その時、目に入った少年の表情に思わず動きを止める事になった。
 これまで、それこそ凍ったような無表情だったその中に、確かに、戸惑いと呼べるものが浮かんでいたからだ。
異形の氷人形。
 だが、今剣介に半分抱きすくめられているのは、構われる事に慣れていない野良猫にも似た…ただの、子供だった。
 異質ではある。化生と呼べば納得も出来よう。
だが、それ故に却って、その硬質な透明さに痛みを覚えた。
 閉じられた戸の向こうでまた、白い欠片が舞い降りていた。


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