第二幕 参 昨日の雪は積もらなかった。その為、師走の人出は更に多くなっている。この賑わいに乗じて 懐中物を狙う掏りの類も増える為、おっつけ市中見廻りも忙しくなる頃合だった。 時には浪人姿に変装して町並みに紛れる事もあるが、こうした時期はむしろ「お上の目付け」を 前面に押し出して睨みを効かせるほうが良い。ただ、寒いからと首を竦めることさえ出来ないのが 辛いところではあるが。 そうやって、せいぜい武張った姿を晒して歩いていた誠司と貴乃の耳に騒ぎが飛び込んできたのは その時だった。素早く目線を交し合い、器用に人の隙間を擦り抜けて行く。 程なく、人だかりが見えてきた。 「ちょっとごめんよ。通してくれ」 いささか雑な、それでいて手荒さを感じさせない動きで誠司が人込を掻き分ける。後に続いた貴乃にも、 言い争う声が聞こえてきた。 「やめて!放しなさいってば!」 「だから、ゆっくり話せるとこに行こうって言ってるだけだろ」 「早々、俺達も大事にはしたくないんだって」 いかにも無頼、といった風体の男達数人に囲まれているのは、どうやら少女らしい。 腕でも掴まれているものか、こちらからは結わえた艶やかな黒髪しか見えない。 だが、まあ当然この場合、男達の方を悪役と考えるべきだった。 「何の騒ぎだ!」 凛と張った誠司の声に、周囲が一瞬静まり返る。人垣が割れて、ようやく騒ぎの中心…五、六人の男と、 その一人に腕を取られている少女の姿が見えた。露になった娘の面差しに誠司はふうんと納得の息を吐いた。 成る程、目鼻立ちのはっきりした、なかなかに気の強そうな美形である。着ている物こそ質素だが、 雰囲気からして相当良いところのお嬢様であると知れた。お忍び道中に絡まれたか、と見当を付け、 男達の方に声を投げる。 「大の男共が娘さん一人取り囲んで何をやっている?とりあえず手を離せ」 役人の登場に焦ったのか、慌てて男達がばらけた。いきなり開放されてよろめいた娘を、貴乃が咄嗟に抱き止めた。 この奥手の朴念仁、普段なら赤くなるような体勢だが、流石に今は表情を変えない。 「で、何があったんだ?」 視線と腰の二本の両方に気圧され、男の一人がしどろもどろになりながら答える。 「そ、その娘がそこの小間物屋で、やたら高価(たか)そうな簪売ろうとしてたんだよ。主人は断ったらしいが、 どう見たってこの娘の格好には不似合いだ。どっかで盗んだに違いねえ!」 「だから俺達が−」 「盗んでなんかいないわ!」 味方を得て安心したのか娘が叫ぶ。 「嘘吐け!そんなボロくせえ着物で珊瑚の簪なんか持てるもんかよ。大方、どこぞの奉公先でお嬢様の引出しから 拝借したんだろうが!」 「な…!」 怒りで頬を紅潮させた娘と男達の双方を見比べ、誠司はあくまでさりげなく腰の刀に手をやった。 「成る程。おまえ達の言い分は分かった。しかし、かなる事態であれば尚更、我等に調べを任せるのが道理だろう。 それにこじつけて婦女子に乱暴を働くのは如何か?」 怯みを逃さず畳み掛ける。 「この娘の身柄は我等が預かる。おまえ達に手出しは無用。去れ!」 役人が登場した上に刀に手を掛け怒鳴られてしまえば、流石にそれ以上反抗する気も失せたようで、 男達は舌打ちを漏らしながらばらばらと逃げ散っていく。娘がまた何かを叫ぼうとしたが、気配を察した貴乃が その口を塞いで止めた。 誠司の睨みで見物人が去ってようやく貴乃は腕を放し、深い溜息をついた。どうも、歳若い娘を長時間 抱きかかえていたことで精神的にかなり疲労したらしい。そんな彼に、助けた娘は甲斐もなく食って掛かった。 「何よ、なんで行かせちゃうの?!あの人達、私のこと泥棒呼ばわりしたのよ!」 耳元で叫ばれて思わず顔をしかめる貴乃に、助け舟を出すように誠司が笑う。 「どうせあんたも厄介事抱えたクチだろ?騒ぎが大きくなると困るんじゃないのか?」 図星を刺されてう、と詰まる娘と閉口した表情の貴乃に、彼は親指で通りの先を示して見せた。 「若い娘と木枯らしの中ってのも何だな。茶でも飲みながら話そうぜ」 娘を伴い、適当な茶店の奥に腰を落ち着けた誠司は、物珍しげに辺りをきょろきょろ見回したり、椅子の硬さに 顔をしかめている彼女に、思わず苦笑を漏らした。周囲には若い娘も多いが、この少女は明らかに浮いている。 「おのぼりさん」丸出しといった格好で、これでは先程の男達でなくとも良いカモにされそうだ。 「慣れないのは分かるが、目立ってるぞ。ところで甘いのは平気か?」 「へ?あ、ええ」 こくりと頷くので給仕の小娘を呼び、 「汁粉ひとつと磯辺を二皿、茶を三つ」 と品書きも見ずに注文する。彼女に見せてもどうせちんぷんかんぷんだろう。小娘が下がるのを待ってから 「さて、まだ名乗ってなかったな」 と自分の胸を指差した。 「俺はここいらを任されてる与力で、青城誠司。こっちの仏頂面が今のところ一応部下の」 「葉瀬貴乃、です」 「今のところ?一応?」 耳聡く利き返す単語に二人はまた目配せで 「まあそれは置いといて」 と言葉を濁した。 「で、あんたは?」 「…花雪。花の雪、でかゆきと読むわ」 いくらかの逡巡の後ぽつりと落ちた声。それ以上は無い。 「雅な名だな。お家は…言わないんだろうな」 「誠司様!」 「つんけんすんなよ。このお嬢殿のご面相、拷問されても言うもんかって気構えだぞ」 可憐と呼んで良い顔には似合わぬ気迫を感じ取ったらしく、貴乃も追求を諦めた。 少女の名は偽名にしては風流に過ぎるし、大店のお嬢様かはたまた武家か。いずれ名のある生まれなのだろう。 ならば無理に聞き出すと後に面倒なことになるかも知れない。と言うよりも、誠司も貴乃も女を無用に攻め立てる ような真似は苦手なのである。 「じゃあまあ、花雪嬢殿。こっちも仕事だ勘弁してくれ。あの男達の言ってた事は本当か?」 「嘘よ!」 「どこまでが、ですか?」 間髪入れずに叫んだところに、貴乃が鋭く切り込んだ。不意を突かれて花雪が息を呑む。 その瞬間こそが、あの男達の言葉に幾許かの真実が含まれている事を明確に表していた。 更に重ねて貴乃が問う。 「あの男達は、あなたが小間物屋に簪を売ろうとしていた、そしてそれは非常に高価そうだった。 盗品に違いないと言いました。この内、どこまでが嘘でどこまでが本当ですか?」 「…簪を売ろうとしたところまでよ」 「盗んではいない、と?」 「怒るわよ!誰が盗みなんかするもんですかっ!」 「もう怒ってんじゃねえか。大声出すなって。で、お嬢殿、売ろうとしてたのはどんな品だ?」 花雪はまだ不服そうに、それでも手にした巾着の口を少し開け 「…これよ」 と、机の上に一本の簪を置いた。 「…貴女…」 「…うーわー…」 二人が同時に妙な息を漏らす。珊瑚を花の形に彫り上げ、翡翠の葉、そこに一粒、露に見立てた真珠をあしらった、それ。 放蕩を経て今のお役目に就いた誠司は、上は吉原太夫から下は猪牙舟に菰掛けでちょいと一仕事、という夜鷹まで、 様々な白粉の匂いを嗅いできたため、こうした飾り物にもそれなりに詳しい。貴乃は貴乃で実家の身代があるから、 自ずと良品の目利きになる。その二人をして唸らせるほどの一品だった。 互いに何かを言う前に、誠司が卓上をぽんと指で叩き、貴乃が何気ない仕種で簪をその袂に滑り込ませた。 「ちょっと…!」 「お待たせいたしましたあ」 思わず立ち上がりかけた花雪に、丁度盆を持った娘の声が被さる。 「はい。磯辺二つにお嬢さんがお汁粉ね?」 ほかほかと湯気を立てる皿と椀、湯呑が卓に並べられ、「ごゆっくり〜」と小娘が離れるのを見届けてから、 貴乃は隠していた簪を取り出した。 「早く仕舞ってください」 有無を言わせぬ口調に渋々巾着袋を開くと 「しっかり抱えとけよ」 と思いの外に険しい声。誠司は水と指を動かし、先程の娘の後姿を指した。 「お嬢殿、あの娘(こ)の櫛が見えるか?」 問われて見れば、結い髪を留めているのは何の飾りもない柘植の櫛。 「見えるわよ。何?」 「あれと、さっきのあんたの簪、どれぐらい値が違うか分かるか?」 「え…」 戸惑う。花雪の知る櫛は、漆に蒔絵、螺鈿細工のきららかなもので、あのような質素なものは見たことが無かったのだ。 「小間物屋の親父が善い奴で幸いだったな。騙されても文句は言えねえ。あのな、ざっと見だが、さっきの簪一本で、 一家五人が一年は暮らしていける」 「その巾着に何本入っているのか知りませんが、貴女は千両箱を抱えて歩いているのと同じです」 「大方、お屋敷抜け出した後、一本だけ金にしようと思ったんだろうが…運が良いなあお嬢殿。よく巾着切りに 遭わなかったもんだ」 「盗んだ奴がいたとしたら、その掏りも肝を潰したことでしょうね」 「心の臓が止まってたかもな。人死にが防げて何よりだ」 あえて軽口を装っているのが伝わるやり取りに、花雪は今更ながら寒気を覚えていた。 街に出ればどうにかなると思っていた。だが、一歩屋敷から出た途端、自分の培ってきた「当然」は通用しなくなっていたのだ。 何も知らず異界へ踏み込んでいたわけで、あそこで二人に助けられなければどうなっていたか分からない。 「悪いことは言いません。事情があるんでしょうが、帰って大人しくしていた方が貴女の為だ」 そう歳の違わない、だが遥かに世間を知っているだろう貴乃に諭されて、それでも花雪はぎゅっと両の手を膝上で握り締めた。 だってまだ、こんなにも胸が痛い。 この氷の刺を抱えたまま暮らしていく。そんなことは。 「−嫌よ」 許せない。誰より自分が。何も出来ない、それを思い知るのが。 「知りたいことがあるの。それが分からないと、一生後悔する。絶対、絶対に帰らないから!」 半ばは意地だった。 けれど本心だった。 誠司は呆れたように彼女を見ていたが、すぐにふうっと息を吐いて自分の分の磯辺焼に手を伸ばし、一口齧って呟いた。 「無理やり連れ戻してもまた脱け出すんだろうなあ…。ま、冷めないうちに食えよ。美味いぞ汁粉」 粗末な赤い椀を指差されて、花雪はようやく屋敷を出てから何も口にしていない事に気が付く。 そうすると現金なもので、急に空腹感を覚えた。 匙で掬って口に入れた小豆の甘さが、強張っていた表情に緩みを生み出していく。 「さて、どうすっかなあ。なかなか手強そうだぞこのお嬢殿」 「誠司様!まさか…」 「だって放っとくわけにいかんだろ?目え離してみろ、明日にも身ぐるみ剥がされて女郎宿だぞ。 殴ってお家を聞き出すわけにもいかんし。お嬢殿本人が納得しないと、次は絶対とんでもないことになる」 はふはふと狐色の焦げ目がついた焼き餅を頬張っていた花雪は、内心その通りと手を打っていた。 もし今、篠宮の家に連れ戻されたところで、自分は絶対にまた同じ事をするだろうし、 そして彼等市中警護の役人にとって甚だ厄介な事態を引き起こすに違いない。それを止めようと思えば、多少心苦しくとも 彼らの甘さに付け込んでしまうのが、実は双方にとって最善の策なのだ。 「しかし、何を知りたいのか分かりませんが番屋に置いておくわけにも…」 「馬鹿か?あんな血の気の多いとこにこーんな別嬪さん連れ込んでみろ。連中の鼻の下が三尺は伸びちまう」 あくまで軽口に紛れさせるのが、誠司の話法らしい。しかしその実、頭の中では様々な考えが飛び交っているのだろうと 彼女にも推測できた。しばらく無言で各々の皿を片付け、椀の底が見えたところで花雪は満足して思わず笑みを漏らした。 「有難う。本当、美味しかったわ」 もしかしたら初めて見せたかも知れない、屈託の無い笑顔。それに、誠司は軽く指を鳴らした。 「なあお嬢殿。美味い団子を売ってみる気は無いか?」 |