第二幕 四 「お栄さん迷惑は承知で頼んます!こんなこと頼めんのあんたしかいないんだよ本当!」 「よしとくれよ青城の若様!与力の旦那に頭下げられちゃあ、ただの茶店はどうしていいか 分かりませんて」 お栄が恐縮するのも当然で、切り捨て御免が罷り通る世の中に、上様への御目見えが許される 身分の武士が、茶店の女主人を拝み倒さんばかりに頭を下げている光景は、はっきりと異様である。 御付きの貴乃は呆れているし、渦中の人物…花雪は呆気にとられて成り行きを見守るしかなかった。 あの後、誠司は二人を引き連れてこの茶屋、大和屋を訪れ、店主のお栄になんと花雪を雇ってくれる ように懇願したのである。丁度同席していたお空も源五郎も、目を白黒させるばかりであった。 「見ての通り、訳有りっぽいお嬢様だ。番屋に置いとくには無理があるし、かといって普通の店で 働かせるには目立ちすぎる。その点大和屋なら、多少妙な女給が入っても大丈夫だろ? かえって皆面白がってくれるって」 「褒められてんのかなんなのかねえ…」 お栄は苦笑し、そして改めて花雪に視線を向けた。粗末な着物が全くと言っていいほど似合っていない、 見るからに世間知らずの家出娘だ。水仕事など、一度もしたことが無いのだろう、白い手指にはささくれひとつ 見受けられない。器量良しだから確かに客引きにはなるかも知れないが、そもそも大和屋はそういうものを 売りにしているわけではないし、お栄とお空で十分に人手は足りているのである。 困惑顔の彼女に、誠司は更にこそりと耳打ちした。 「大和屋なら何かあっても源五郎が用心棒代わりになってくれるし安心なんだよ。大丈夫、あのお嬢殿が 割った皿やらはちゃんと弁償させてもらうから」 最初から失敗するのを前提としている辺り、花雪本人が聞いたらまたぞろきゃんきゃん言いそうだが、 まあこれは事実である。上げ膳据え膳で育ってきましたな空気をぷんぷんさせている彼女に、まともに手伝いなど 出来る筈が無い。それでも、お栄はにっこりと笑って胸を叩いた。 「分かりましたよ若様。お嬢さんの事はこのお栄が引き受けました!お空ちゃん、源さん、そういう事だから よろしくね!」 「へ?−あ、ああ」 「えーと、うん、分かった」 主人が決めてしまえば後はもう逆らいようが無い。花雪本人にも何だかよく分からないままに、彼女は大和屋で 働くことに決まってしまったのであった。 「それにしてもお嬢ちゃん、花雪ちゃん?また随分風流な名前だねえ。それじゃあやんごとない御身分ですって 言いふらしてるようなもんだね」 「え?でも…」 「そういうもんなんだよ。町人は学が無いからねえ、そんな雅なお名前には縁が無いのさ。でもあんた、 これ以上目立ちたくないんだろう?」 畳み掛けられてどうにか頷く彼女に、お栄はそれじゃあと手を打った。 「店に出てる間はお花ちゃんとでも呼ばせてもらおうかね。さて、そうと決まればちゃんと働いてもらうよ! お空ちゃん、まずはお皿の下げ方くらいから教えてやっておくれ」 「はーい。えーと、お花ちゃん?お客さんが来たらねえ…」 戸惑いつつも和気藹々と話し始めた女性人を背に、誠司、貴乃、源五郎は少々浮かない顔を付き合わせた。 「悪いが源さん、暫くで良いから、あの娘にちょっかい出す奴がいるか見張りも兼ねてくれないか? 内職分の手当てくらいは出させてもらう」 「それは構わんが…青城殿よ、これはお勤めじゃないんだろ?」 「そうですよ。全くこの方の好奇心です」 「やっぱりな…」 深く溜息を吐く二人に、誠司は何故か胸を張った。 「勘だ。けどなんか、でかいことが隠れてそうな気がすんだよ」 城門をくぐった芳巳は溜まった疲れと寒さの両方で身を竦めた。 下城の鐘は鳴れども仕事は終わらず、もう提灯が要りそうな暮れ具合である。自宅までの道すがら、 どこかで明かりを借りようか、と思ったところに声がかかった。 「お、桐原!久しぶりだな」 振り向く前に分かる長身。 「この時期はお互い忙しいですからね、青城殿」 「種類は違うが仕事が倍になるのはどっちもか。俺もまだ用がある。丁度いい、方向同じだし途中まで 足元照らしてやるよ」 ぷらぷらと揺らす提灯に、開けっぴろげな笑みが重なる。 「有難うございます」 と頭を下げつつも、芳巳は頭の中で、やはり自分とこの人との付き合いは不思議なものだと思っていた。 方や勘定方、方や与力。役職も違うし、誠司は芳巳より年上である。彼らが親しくなったのは、偶々同じ学問所に 通っていたからだ。最も、真面目一方な芳巳と、いつでも飄々としている誠司では、そのままならただの 先輩後輩で終わるはずであったのだが。 近寄ってきたのは誠司からだった。 「では次は『輪の書』を読む」 講師が告げて、皆が散っていく中、不意に先輩である青城誠司に呼び止められた芳巳は内心かなり驚いていた。 何しろ相手は大身の旗本嫡子だし、徒党を組んで悪さをするわけではないが色々と妙な噂のある人物である。 警戒するなと言う方が無理だった。しかし誠司はあっけらかんと「予習に付き合え」とのたまい、ばらりと論語を 広げたのである。 それからが大変だった。これを予習と言っていいのかと疑うほどの熱心さで徹底的に読み込みを始めて 解釈を押し進め、果ては隣町の別の学問所にまで足を運んで教えを請い、二人して完璧に頭の中に内容を 叩き込まれたのである。訳が分からなかったが生来の学問好き、芳巳もついつい一生懸命取り組んでしまった。 そして、誠司の仕掛けが発覚したのは次回の講義の時である。 白髭の講師が「では前回言ったように今日は輪の書をー」と始めたところで 「師匠(せんせい)、そこはこの前やったところです」 いきなり別の声が割り込んだ。芳巳よりもさらに年下の少年だった。 「なに?おい、前の講釈の時は…」 「どうしたんですか師匠?」 「輪の書は終わったばかりですよ?」 教室のあちこちから声があがり、講師は目を白黒させて立ち竦んでしまった。 そこで初めて、芳巳は誠司の顔を見たのだ。実に楽しそうな、悪戯を成功させた子供の笑顔を。 「そ、そんな筈はー…なら、桐原!ここの文の解釈を述べてみろ!」 「え?は、はい。この時講師先生はこう仰いました…」 唐突に名指しされ、反射的に「予習」の内容を思い出してすらすらと返答してしまった−のがまずかった。 それをきっかけにあちらでもこちらでも 「この文はこう−」 「大河の流れに時を見て…」 だのと塾生達が一斉に言い始めたのである。 なんと青城誠司、塾生の殆どに「予習」を教え込んでしまっていたのだ。 ただ、講師を驚かせるためだけに、である。結局その日の講義は滅茶苦茶になり、首を傾げつつ退散していった 師匠を思わず同情の目で見つめてしまった芳巳の背を「ご苦労さん!」と叩いた誠司は実に嬉しそうだった−。 この一件は後で誠司がきちんと講師に頭を下げに行き収まったが、その際に「独学であそこまでやるとは 大したもの」とお褒めの言葉を頂いたというおまけが付いている。 とかく、誠司と芳巳はそれ以来、顔を合わせれば口を聞き合う仲になったわけである。 それは、互いがお役目を貰った今でもまだ続いていた。 「しかし、実際に勘定方に就いてみるまで、お城の台所がこうも火の車だとは思ってもみませんでしたよ…」 「あー、言えてる言えてる。俺も与力になって初めてこうも懐が寂しいもんかって思ったもんなー」 けらけら笑う彼の言葉通りに、与力や同心の手当ては、その仕事内容に比較しても非常に少ない。 元が大身の青城家だから平気で回っているのだが、これが普通の同心であれば三十俵二人扶持の薄給の中から 岡引や下っ引き面倒を見て、探索事の兼ね合いに使う金までを捻り出さねばならず、女房に仕事、 子供に内職をさせてそれでも間に合わない、というほどのものであった。 つまりそれは、上に立つ幕府が、部下に対する十分な報酬を出すだけの余力を持っていない事を表している。 「年の瀬にはますます思い知りますね…。全く、頭が痛いですよ」 ふー、と嘆きを込めて呟いてみると、提灯の火がまたふらりと揺れた。 「でも何か、今年から新田造りが始まったって聞いたぞ。あれが実になりゃ大分違うって話だが。 えーと、誰が指揮してるんだっけか?」 「ああ、御家老殿ですよ。三条俊成様です」 つい昨日声を掛けてもらったばかりだ。流石に印象に残っている。 「三条卿、ね。確か、元は公家から婿に来たとか来ないとか」 「ええ、それで見事に三条家を建て直し、そこから今回の新田開拓費も全面的に後押しして下さっているんです」 全く、神業とでも呼ぶのが相応しい手腕であると本心から感服する。勘定方の上役達に爪の垢でも 煎じて飲ませたいものだ。 「一体、どうやってそれだけの金を作ったんだかなあ…」 誠司の声は、やはり木枯らしが何処かへ攫っていった。 |