第二幕 伍 番所への報告を終え、大和屋の建つ通りに入る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。 既に提灯に火を入れ、赤暖簾を下げている気の早い店もある。大和屋はもちろん飲み屋の類ではないから、 最早店の戸は閉じられていた。 「遅くなって悪うござんしたー」 武士が町人に掛けるには大層不似合いな言葉と共に引き戸をくぐった誠司を迎えたのは。 「もー花雪ちゃんそうじゃないって−!からくりのひみつっていうのはもっとこう」 「だってこんな面白い彫り物してあるんだもん!」 「ま、確かに高級には見えないねえ。猿坊さんだけあってさ」 「お栄さんまでそう言うー!」 やたら和気藹々とした女性陣。そのかしましさに少々閉口した顔付きで、咥えた団子の串を揺らしている 源五郎。それから、苦虫を擂り潰して煎じた汁を口いっぱいに含んだような、なんとも不機嫌な表情の貴乃だった。 「おー、青城の旦那。待ったぞ」 「謝る。ところで源さん、貴乃のこの面は何事だ?」 半ば答えを予想しつつ問うた彼に、源五郎もにやりと口の端を持ち上げる。 「あんたとこの若様とあのお嬢さん、とこっとん相性悪いのな。いつ若様が客の前で怒鳴りだすかとこっちは 冷や冷やもんだったぜ」 「俺はああいう甘えた人間は好かないんですよっ!」 親指でしゃくられた「若様」こと貴乃は、それこそ噛み付きそうな勢いで上司に食って掛かった。 どうも相当苛立っている様子である。 「そりゃ初めてなんだから失敗するのは当然ですよ。でも何なんですか皿だの湯呑だの人の前にぶちまけといて 謝りもしないでおろおろしてるだけってのは!しかもお栄さんもお空ちゃんも他の客も笑って許してるし!」 見れば確かに、彼の袴の裾が妙な色合いに変わっている。恐らく、餡と黄粉と甘酒の混じった臭いがするに 違いない。 「はあ。謝らん、ね」 「どこのお嬢様か知りませんがちょっと見目が良いとー!」 「そこまでそこまで。袴は洗えば済むだろうが」 「そこですか問題は」 珍妙な水の指し方に毒気を抜かれたのか肩を落とす部下を尻目に、誠司はきゃっきゃと笑い合う花雪の方に 視線を移した。邪気の無い、明るい笑顔。そこからは、貴乃の言うような「ちやほやと甘やかされて育った 高慢ちきなお嬢様」の姿は感じ取れない。 となると、失敗しても詫びのひとつも言えない理由は一つだ。 つまり、彼女は気軽に人に謝罪するような習慣を持っていない階級の生まれだという事。 「お栄さーん、盛り上がってるとこ悪いけどさ、俺等もう帰らにゃ。お空ちゃんもあんまり遅くなっちゃまずいだろ」 「あらそうだねえ。お構いもしないでごめんよ青城の若様!」 ぱたぱたと前掛けを払いながらこっちに来るお栄に、彼はこそっと耳打ちした。 「ちなみにいくつ壊した?」 「そうだねえ。皿が七枚、湯呑が五つ、落とした団子は二十本、ってとこかね」 なかなか結構な成績である。 「うわー…」 流石に呆れながら懐を探り、一分銀を三粒摘み出した。無論支払いとしては多すぎるので、お栄に見えないよう 素早く懐紙にくるみ込む。 「厄介事押し付けちまって、本当すいません」 「あらやだ若様、いいんですよこんなのは!」 「いや本当すんません!どっちみちこれからも迷惑掛けまくるはずだし!黙って取っといて。頼むから」 手刀でお辞儀の真似までされては引っ込みがつかない。お栄は渋々、といった感じでおひねりを袂に入れた。 開けたら驚くだろうが、まあ銭はあって困る物ではあるまい。 「でもね若様、あたしの見た限りじゃ、あの子もう失敗しないよ。覚えが早いわ」 「そりゃ良かった」 「ま、そこに辿り着くまでが大変だったけどねー。初めて見たよ、水の冷たいのに驚いて皿を割る子なんてのはさ」 「ほー」 「でも一回教えたことはきっちりやってくれるし、何せ可愛いじゃないか。お空ちゃんと並べて二人でくるくる 動いてくれて、お客さんも大喜びだったよ」 どうやらお栄もお空も花雪のことを気に入ってくれたらしい。客受けも良かったとなると今日でお払い箱ということは なさそうだ。まず一安心、と思ったところで誠司は再びお栄の言葉を反駁する。 『水の冷たさに驚いて皿を割る』…確かに、この時節の水は半分氷のようなものだ。 洗い物となると尚更だろう。だが、そこまで驚くとなると余程のこと。普段の生活では、いちいち温められた水を 使っていたのだ。手水にまで湯を用いるとなると、そんじょそこらの箱入り娘ではない。 ますます、花雪の正体が知れなくなってくる。が、今は一応その疑問は棚上げしておいた。 「んじゃ、明日もよろしくって事で。おーい貴乃とお嬢殿ー。お暇しようぜー」 「え?きゃーもう真っ暗!お空ちゃん大丈夫?」 「源と一緒だから平気だよー。んじゃ源、あたしらも帰ろうか」 「そうだな。お栄さん、お邪魔っした」 がたがた音を立てて出口へ向かう一行に、お栄はいつもの通り 「気い付けてねー。また明日!」 と元気な声を投げて寄越した。 それぞれが笑って頷き返す中、一人貴乃の仏頂面だけが際立っていた。 「ところでお嬢殿」 妙にぎすぎすした空気を漂わせている二人の間に割って入るよう、くるりと振り向く。 「あんた、ぷらぷらついて来てるけど自分がどこに行くのか分かってるのか?」 「えっ?」 不意を突かれて思わず立ち止まる花雪。彼女にしてみれば、行きがかり上なし崩しに誠司と貴乃に くっついて来たわけで、今更当人から目的地を問われても困惑するばかりである。 「や、宿屋…とか?」 屋敷を出て来た時は、何処か適当な宿屋を見つけてそこを足掛かりにしようと考えていたので、 一応そう答えてみる。 「…まともな宿は貴女みたいな人を泊めたりしませんよ」 「何よその言い方っ!お金ならちゃんとー」 「貴女の持ってるのは金じゃなくて品物でしょう。しかも目の飛び出そうな高級品ばかり。 誰が見たって訳有りの家出娘。そんな揉め事の種を進んで呼び込む馬鹿はいません」 「あったとしても、自分も後ろ暗い場末の安宿だな。で、朝にゃ身ぐるみ剥がれて自分が客取る羽目になる。 意味分かるよな?」 そうした職業の女がいることは、知識としては知っていた。しかし、まさか自分の身になぞらえた事など 無かったのだ。それをいきなり突きつけられ、花雪は黙り込んだ。横で貴乃がこれ見よがしな溜息を吐くが、 今度は文句を言う気力は無い。 −甘かった。徹頭徹尾、自分は甘かったのだ。 街に出さえすれば何とかなると思っていた。この胸の氷を溶かす方法が見つかると思っていた。 だが、今の自分はどうだ?もしこの二人に助けられていなかったら、今頃は。 それを考えると改めて寒さが足元から競り上がってきて、彼女は殆ど震え出しそうになっていた。 が、それを打ち破ったのはこれもまた能天気な誠司の声だった。 「そんなわけでお嬢殿、あんたの身柄はこれからしばらく青城家(うち)が預かることにするけど構わないな?」 「え?!」 「まさか番所に泊めるわけにゃいかねえし。お栄さんにそこまで甘えるわけにもいかねえ。 こっちとしても近くにいてもらった方が安心だしな。昼は大和屋で働いて、夜はうちに来る。 そうしてる間に、街の事も多少は分かってくるだろうさ。それでいいか?」 悪戯めいた瞳が見下ろしている。花雪は一も二も無く大きく頷きを返した。 「お願いっ!」 拝まんばかりの勢いに、反射的に「おうっ!」と答えてしまって、それから誠司は吹き出した。 花雪も笑って、それから、別の方向からも声が聞こえ、隣で、釣られたように貴乃も笑いを浮かべていた。 花雪と目が合うや否やむすっとした顔付きに戻ってしまったが、出会ってから初めて目にした この若者の素直な笑顔は、何故かひどく鮮やかに彼女の脳裏に焼きついた。 のだが。それを破ったのもまたまた暢気な誠司の声だった。 「となると離れに女一人じゃちっと無用心だな。よし貴乃、おまえ暫くうちの離れでお嬢殿の用心棒やれ」 『はあっ?!』 これも初めて二人の息がぴったり合った瞬間である。 「な…何でそういう話になるんですか誠司様っ!」 「あたしだって嫌よこんな意地悪なのと一緒なんてっ!」 まとめて食って掛かられ、半分耳を塞ぎながら誠司も言い返す。 「貴乃は知ってるけど、うちの客用の離れってのは本宅から結構離れた位置にあるんだよ。 若い娘を一人っきりにしとくには上手くねえの!」 「だっ…だったら台所でいいから本宅に泊めてよー!そっちのがいいわよ絶対ーっ!!」 金切り声に近くなり始めた花雪をどうどうと制して、彼は一言、厳かとも呼べる態度でのたもうた。 「やめとけ。寝れんから」 「…は?」 ぽかんとする花雪と、これは反対に腑に落ちた様子で息を吐く貴乃。 「どういう意味なの?」 「来りゃ分かる。もうすぐだぜ」 さてはて、青城家の屋敷はもう二、三間のところにまで近づいていた。 |