第二幕 六 「こっから俺の家」 と示された塀は、提灯の薄灯りですら物凄く長く見えた。なにしろそう言われてから門まで辿り着くのに、 四半刻足らずは掛かるほどだったのだ。 「すごい、立派なのね」 「住める所は狭いんだ、これが」 感心している花雪には意味の分からない答えを返し、これも立派な拵えの表門をくぐる。 と、そこには何も無かった。ただただ、だだっ広い空間がどーんと開けている。 「…なに、ここ?」 「馬の稽古場」 返答はまたしても端的である。 「明るくなったら向こうに的があるのが見えますよ。流鏑馬もやれるようになってるんです」 「はあ…」 花雪は武家屋敷の造りを多く知っているわけではないが、しかし門番もなしに入っていきなり 馬術場というのはかなり異風なのではないだろうか。普通はもっとこう、贅を凝らした庭園とかが あるものだと思う。 「で、あれが家」 指差された先にあるのも、これまた珍妙な建物だった。 まず、長屋を四、五軒並べてくっつけた程度の小さな構えの屋敷があり、その後ろに、丁度首を出した 亀の甲羅のように、一段高く、また一回りほどは大きい堂々とした建物が聳え立っているのである。 「ちなみに、手前が居間やら寝室やら台所やら使用人の部屋やらのつまりは『家』で、後ろの でかいのは道場」 「道場?」 「剣術はもちろん、柔術に槍に薙刀、弓まで教えてますよね。昼は門下生で賑やかですよ」 貴乃が補って説明してくれるのだが、ますます混乱してきた。 「ええと…つまり、あなたの家って、何?」 非常に直接的な質問に誠司は一度足を止め、うーんと唸ってから振り向いた。 「所謂『武門の名家』ってやつ」 そしてまた、歩みを進めながら話を続ける。 「まず青城家ってのは、代々お城の武術指南役を勤めてる家なわけだ」 「ええ?!」 これには花雪も仰天した。お城…つまりは将軍家の武術指南。それがどれほど重い役職かは いくら知識に乏しい彼女でもすぐに分かる。 「で、嫡子はそれを継ぐまで与力をやる。まずは市中で修行して、家督を継いだら城に上がる、と。 ここまではいいか?」 「え、えーと一応…」 彼女の、いや世間一般の常識には無いことだが、ともかくそういう家柄らしい。 「で、そうなると隠居はどうするかって答えがこの家だな。道場主に収まって、若いのをびしばし しごくって寸法だ」 流石にもう声はあげなかったが、それは既にあげる音声が尽きていたからである。 普通、隠居老人と言うものは縁側で茶を啜ったり、書簡をめくるなどして日がな一日のんびりと 過ごすものではないだろうか。なのに、この青城家では、ご老体は若人相手に竹刀を振り回す ものらしい。 「年寄りは朝が早い。から、うちじゃ卯の刻以前から起き出して、道場の雑巾掛けから始まって 騎射に至るまで一通りの朝稽古をやってから朝飯になる。使用人より早起きな主人ってのも 珍しいと思うぜ多分。客人が付き合う必要は無いが、俺も含めて一家総出で朝っぱらから やっとうやるわけだ。だから本宅じゃ絶対寝てられやしない。これが客間が遠くにある理由。 分かったか?」 「うー…」 いや分かった。青城家と言うのがやたらとんでもない家風なのだということは良く分かった。 だがしかし、余りにも人並みという言葉からかけ離れすぎてはいないだろうか。 花雪はひとつの結論に辿り着いた。要するに、ここは変だと言うことだ。 その間にも誠司と貴乃はすたすたと歩を進め、本宅だという小作りな屋敷とでんと控える道場の 横を抜けていく。遅れないよう小走りに走った広い敷地の端っこに、客間だというその離れが ぽつんと建っていた。それでも、小さな料亭くらいの大きさはあり、質素だががっしりした造りである。 「ま、入ってくれ。すぐ火ぃ入れるから」 がらっと引き戸を開けて誠司が促す。戸惑いながら土間に入ると、彼はばたばたと動き回り、 行灯に火を燈し、ぼんやりと浮かび上がった室内の火鉢に種火を落としてふうふうと息を吹きかけた。 それから再び土間に飛び降り、水瓶から鉄瓶に水を汲んで鼎の上に引っ掛ける。 それから押入れを開け、柔らかそうな座布団を二枚取り出すと、火鉢の横にそれを並べて ようやく二人に 「上がれよ、寒いだろ?」 と声を掛けた。貴乃は苦笑いしながら「お邪魔します」と座敷に上がったが、花雪の方は完全に 呆気に取られて立ち尽くしていた。 何なんだこの人。下働きの男でもこれほどまめまめしく動くものだろうか?と言うか、仮にも武士として その態度はどうなのだ一体。 「あ、あの、お家の人に挨拶とかは…」 「あ、俺がここに客泊めるのはしょっちゅうだから、誰もいちいち構わねえんだ。いつ来ても 良いように毎日掃除はしてるしさ」 ひょいひょいと手招き。それでようやく、自分が土間に立ちんぼうでは座敷の戸を閉めることも 出来ないのだと思い至った。 「そ、それじゃあ…失礼します…」 「どぞどぞ。狭いとこだけどな」 草履を脱いで畳に上がる。すぐに誠司が襖を閉めた。実は寒かったらしい。その座敷は確かに 小さいが、物が少なく清潔で、床の間には鳥の絵が掛けられたりしていて居心地の良い空間だった。 先ほど燈された行灯も、透かしの入った古いが風雅な品物だ。客用だという言葉通り、招かれた者を 落ち着かせる雰囲気を持った場所だった。 「温まるまで暫く掛かるけど、それくらいは我慢してくれな。ここの裏にあと二部屋寝間があるから 好きなように使ってくれ。布団だのは貴乃、分かるよな?」 「はい、何度もお世話になってますから」 それだけ訊くと、彼はまた機敏に立ち上がり、襖に手を掛けて振り返った。 「飯とかすぐ運ばせるから、あとは貴乃に聞いてくれ。あ、あとお嬢殿」 「何?」 一瞬の真剣な目。 「あんたの巾着袋、どうする?一応ここにも鍵の掛かる櫃はあるけど」 たずねられて、その袋の重さをやっと思い出した。これさえあれば何とかなると思っていた、それ。 確かに実際には、役に立てることのできる場面もあるのだろう、自分の命綱とも呼べる、それ。 もし彼らが悪党なら、手放した瞬間に用済みとなって消されてしまうかもしれない。けれども。 「預かっててもらえるかしら?私じゃ危なくて仕方ないもの」 最早花雪の中に、この青年達に対する疑いは欠片も残っていなかった。 手渡されたそれを確かめるように一度振って、誠司はまた笑い 「じゃ、明日な」 と襖を開けた。隣で貴乃が自分を見ていたが、その視線が敵意を含んだものでないことは明白だった。 襖が閉められ、下駄が鳴り、扉が開く音。そして、閉じる音が聞こえる前に投げられた声が… 和んだはずの場をぶち壊しにした。 「貴乃ー。ちゃんと別の布団で寝るんだぞー」 がらぴっしゃん。 …しばし沈黙。 「誰っがこんな人と好き好んでひとつ布団にくるまりますかーっ!」 「何よその言い方!こっちだって土下座されたってお断りだわっ!」 「大体、俺はあなたみたいな乳臭いのは好みじゃないんですよ!」 「乳臭いってどういう意味よ失礼ね!あなただって年なんかそう変わりないじゃない!」 「こっちはきちんと働いてる身です!お花畑の甘々お嬢様と一緒にしないでもらえますかね!」 「だーっれが甘いのよ!青臭い坊主はそっちでしょ!唐変木!!」 きゃんきゃんきゃんきゃん。 …一体どのくらい怒鳴りあっていたものか、「もしもし」と戸を叩く音が聞こえた時には部屋はすっかり 温まり、火鉢に掛けられた鉄瓶はちんちんと音を立てていた。 「は、はいっ?!」 「お食事をお持ちしましたけれど」 「あ、どうもですっ!」 勢いよく立ち上がった貴乃が土間に飛び降りる。開いた扉の向こうに控えていたのは、彼にも 顔なじみの中年の女中だった。両手に大きな籠をぶら下げている。 「痛み入ります」 二つともを受け取り頭を下げた貴乃に、彼女はころころと笑い声を上げた。 「葉瀬様と若いお嬢様がお泊りと若が仰っておりましたけど、随分仲のよろしい事ですね」 「どこをどう見て仲が良いんです…口喧嘩の真っ最中でしょうに」 この女中、家人の気風を移してざっかけない、気軽な正確なのだが、少々浮ついているのが 玉に瑕なのである。 「嫌ですねえ。葉瀬様と来たらうちの若とは違って固いばっかりでしたのに、言い合いの声が 外まで響いていましたよ」 「だから何でそれが」 「ま、喧嘩するほど仲が良いってことばを知りませんの?」 「あ、あのですねー…」 「あらま、それじゃ後は若いお二人にお任せしようかしら」 ホホホとこれ見よがしに手を振って女中はその場を後にする。全く、これだから、貴乃は青城の 家の者には敵わないのだ。それこそ、女中にまで思わず敬語を使ってしまうほどに。 「あ、明るい人ね…」 「この家の人達は皆そうですよ。よっ…と」 女中が提げてきた籠を、揺らさないようそっと運んで畳に置く。結構な重さがあった。 蓋を開けるとふわりと湯気が立ち上る。食欲をそそる匂い。一方の籠には飯櫃と茶碗や皿の類、 もう一方には綺麗にしつらえられた膳が二つ並べて重ねてあった。 「有り難い。冷めないうちに頂きましょうか」 「あ、ええ」 またしばしの間。ようやく貴乃もその沈黙の意味を悟った。誠司ならばすぐに分かったのだろうが、 こうした場合女が給仕をする、などという常識はこのお嬢様には通用しないのだ。 仕方なく膳を取り出して並べ、茶碗に飯をよそってやることにする。…何の嫌味か、手鞠の模様も 可愛らしい夫婦茶碗だった。 「俺が言うのもなんですが、どうぞ」 「頂きます」 丁寧に掌を合わせて箸を取る。最初の茶屋でも思ったのだが、花雪は綺麗な所作でものを食べる。 やはり、相当厳しくしつけられてきたらしい。 膳の中身は豆腐の味噌汁に焼き魚、青菜の煮浸しに南瓜と小豆の含め煮と香の物。大身の旗本の 食としては質素だが、無論彼には何の文句もない。黙々と箸を動かしていると、ふと、花雪の動きが 止まったのが目に付いた。小鉢に盛られた青菜を睨み、難しい顔をしている。 この青菜は少々苦味があってそれが美味なのだが、成る程苦手な者もいるだろう。 貴乃は無言で、まだ手を付けていなかった南瓜の皿を取り上げ、花雪の小鉢と交換した。 「え?」 「…俺、あんまり甘いもの好きじゃないんで」 「あ、えと…」 何か言わねばと思ったのか忙しなく視線を巡らせ、花雪はぽつりと呟いた。 「あの…有難う」 風が戸を揺らしたが、座敷の中はふんわりと暖かかった。 |