雪月夜夢暦 第三幕 壱 少年の怪我の治りは遅かった。普通なら既に薄皮の上に肉が盛り上がってくる頃なのに、 未だにじくじくと血がにじむことがある。熱の方も相変わらず出たり引いたりで、どうにも 安心できなかった。かと言って日がな一日寝ているだけでは退屈だろうと、剣介が気を 利かせて読み本や黄表紙を渡してやっても、読むことは読むのだが「面白かったか?」と 尋ねると首を傾げるだけなのである。 「しかし食客でもあるまいし、いくら怪我人でもいつまでもただ飯食らいでは本人も嫌だろう」 「っても、仕事させるわけにもねえ…」 という八房と剣介の協議に莞が加わり 「力の要らない手仕事でもさせてみるか」 ということで、今日は少年の寝間に大量の枝葉付き南天が運び込まれていた。 「分かるか?この赤い実だけをこう、枝から外してこっちの籠に入れる。後はごみだから そっちに避けとく。ゆっくりでいいから、暇潰しにやってみろ」 小枝から実だけを摘み取る作業を実践して見せると、少年は「分かる」と答えて剣介の 手からするりとその枝を受け取った。ぷつんぷつんと小さな音が鳴る。 「上手い上手い。その調子でぼちぼちやってろよ」 そう声を掛けて自分の仕事へ戻ろうと立ち上がった剣介は、もう一度少年の手つきに目をやった。 迷いなく、止まりなく、流麗とも言える仕種で自分の瞳に似た色を選り分けていく、その動き。 …滑らか過ぎるのだ、それが。簡単に見える仕事だが、実際は小枝や葉が邪魔をして、 慣れない内はなかなかに手間取るこの作業。それを、この少年はまるで何年も繰り返してきた 事のように全く失敗することなく進めていく。単純に手先が器用というだけでは納得できない ものがそこにあった。 (…何なんだろな、あいつ) どうせ問うても答えはないのだろう。釈然としない思いを抱えつつ、剣介はそっと襖を閉める ことにした。 その白尾屋に、今日は馴染みの男が客として訪れていた。番台に半身を預けて莞と話し込んで いるのは医師の永庵である。 「あと、葛を二十把程追加しておいてくれるか」 「確かに承りました」 永庵の持参した半紙に書かれているのは、様々な薬種の名前である。こうして注文しておけば、 引いて粉にしたり重さ毎に束ねたりして、後から届けてくるという寸法だ。 「ああ、お千が礼を言っていた。この前の甘草は助かったと」 「助けてもらうのはこちらでしょう」 「いつも悪いな」 「その分頼りにさせてもらってます」 お千は永庵の下で働いている娘である。女だてらに薬学を学ぶ為弟子入りしてきた変わり者だが 優秀で、今では永庵の扱う薬の半ばは彼女の調合によるものである。そして白尾屋は、この師弟に かなりの利便を図っていた。 具体的には、甘草を三十束と注文されれば、届ける時には四十束になっている。銀杏を 二貫頼めば、 三貫分が手に入る。これは特に賄賂というわけではない。ただ客としてではなく、医者としても 世話になっている永庵への謝礼であり、そして彼の行いに対するささやかな手助けといったところだ。 街医者などという、稼ごうと思えばいくらでも稼げる職にありながら、「無い所から取れるか」が 信条の彼は、貧しい患者を無料で診てやったり、 支払いをいつまでも延ばしてやるような 商売っ気抜きの稼業をしている。 薬は高価(たか)い。当然足が出る。潰れて困るのはお互い様というわけで、俗っぽくも見える この付き合い方が続いていた。 店は空いている時間で、棚の間に永庵以外の客の姿はない。それを確認し、 「時に白尾屋」 と彼は声を潜めた。 「一昨昨日か。金創(刀傷)こさえた男が飛び込みで来た」 「はあ」 それだけならよくある話だ。 「まあ見るからにろくでもなさげな奴だったが、私があんたのとこから薬種を仕入れていると聞いたら、 顔色が変わってな」 思い出しているのだろう、苦々しげな表情になる。 「奴さんは、にやにや笑ってこう言った。『白尾屋さんと付き合いがあるなら先生、ちょこっとあれを 回してくんねえかな』とな。何の事だか分からないから聞き返したら、 今度は揉み手で『あれですよ、 あれ。例の奴』だと」 流石に莞も眉を寄せた。どうにもきな臭い話の流れである。 「それで?」 「感じが悪いから金だけ頂いて叩き出した」 この辺りが永庵の永庵たる所以である。だが、言葉とは裏腹に彼の表情は真面目だった。 「私はな、旦那。あんたは阿漕な商売はしないと思っている。だがな、ここ最近、妙な噂も流れてるんだ」 「噂?」 聞き返そうとしたところで、「ごめんくださいよ」と店先から声が掛かった。来客だ。 潮時と見たのか、永庵は立ち上がり、続いて莞も彼を送るのと客を向かえる両方の為に 下駄を履く。 「…ともかく、私の気に入らないものを売ってくれるな、という話だ」 見送り不要とすたすた立ち去っていく後姿に、苦い味を覚えながらも莞はその場で居住まいを正す。 入れ違いにやって来たのが、よく見知った客だったからだ。 「いらっしゃいませ」 「ああいやいや、寒いですなあ」 小柄で、痩せている割に妙に油っぽい肌の若年寄である。ただの客なら店主自ら相手する必要は ないのだが、ただの客とは違うのだから仕方がない。男は中町に軒を構える大きな呉服屋の主人で、 白尾屋にとっての『特別な』客の一人だった。 「いや例のものが入ったと聞きましてな。急いでやって来たところですわ」 にたにたとあまり品の良くない笑みを浮かべる。これで自分の店に帰れば偉ぶった姿を 見せるのだからお笑い草だ。 「ええ、用意できてますよ、生駒屋さん。いつもの分量でよろしかったですか?」 「や、実は今月は懐の方も暖かくてですな。できればこれだけお願いしたい」 ずいと掌を広げて見せる。つまりは五両。普段は二両分しか買わない彼からすると、かなりの 上増しだ。 「分かりました。お待ちください」 生駒屋を番台に腰掛けさせ、莞は帳場の奥へ入る。そこには主人と番頭しか鍵を持たない 特別の棚があり、莞はそこから白い包みを五つ、丁寧に取り出した。忙しく働く奉公人の間にも 微妙な空気が流れるのが分かる。金になるとは言え−気分の良い商品ではないのだ、実際。 「お待たせしました」 「いやいや全く。さあ、これで」 朱の袱紗に包まれた小判と、白い包みが交換される。生駒屋は 「ああ有り難や」 とそれを胸に押し抱いた。 「使いを寄越してくだされば届けますものを」 「いやいや、あたしはこれを抱いて帰るのが楽しみでねえ。全く、たいしたお宝だと思っていますよ」 うふふ、と気味の悪い笑みを貼り付けていそいそと帰り支度を始める。気の早いことだが、 一刻も早く「お宝」を楽しみたいのだろう。 「それでは、次もよろしくお願いしますよ白尾屋さん」 「どうも有り難うございました」 形ばかりは頭を下げながら、莞は内心で溜息をつく。生駒屋と同じく、これを会に来る客達の顔が 一様にぬめりのある光沢を持っているように思われるのは、あれはきっと欲というものそのものの 色なのだと、そんなことを考えた。 |