第参幕 弐

 その宵。例によって例の如く、剣介は賭場の見回りに宿場町まで足を伸ばしていた。
ここの賭場は胴元が割合にしっかりしているので、それほど頻繁に通う必要も長居する必要も無く、
今日は早めに帰れると急ぎ足で歩いていた彼は、ふ、とその足を緩めた。重なって、ざり、
という音が乱れる。
 −尾行(つけ)られている。確信があった。それも四、五人だ。尾行というよりも囲い込みに
近い。そのまま歩を進め、丁度通りの交差、広くなった所で立ち止まる。
「何の用だ?」
 懐手のまま背後の闇に問う。ばらばら、と気配が散るのを待ってから、ゆっくりと振り向いた。
寒月に照らされた五人の男の姿。いずれも強(こわ)い髭を生やし、月代の伸びた浪人崩れの
体である。
「あそこで負けが込んだか?博打は自分の身上だけでやるもんだぜ」
冴えた空気は冷たく、月は明るい。斬り合いには似合いの晩。
「大の男が揃って口も聞けねえのか?何の用だと聞いている」
「白尾屋のもんだな?」
 首領格らしい、一際体格の良い男が濁声を発した。こちらの正体は分かっているだろうに、
無意味な質問だと思う。
「薬が入用なら財布と一緒に昼に来な。最もうちじゃ、性根を治す特効薬は商ってないが」
 剣介の軽口に、男達がいきり立つ。それを制し、先程の男がもう一度声をあげた。
「取って食おうってわけじゃねえよ。ただよ、あれをちいっとばかりこっちにも融通して
もらえんもんかと思ってね」
「あれ?」
「とぼけなさんな。最近聞こえが良いじゃねえか白尾屋さんよ」
「何のことだ?」
 あれ、と聞いて思い当たるものが無いではないが、こんなやくざ者にまで知れ渡っている
はずがない。何より高価すぎて、博郎風情には手が出ないはずの商品だ。
「出すつもりがねえんなら、痛い目見てもらうことになるぜ?」
 気が付けば男達は、手に手に匕首を握っている。成る程、今は物を持っていなくても、
脅し付けて後から好きなだけ出させようという腹積もりか。それならそれで、剣介には
遠慮は全く必要なかった。
「そのへっぴり腰で何やらかせるか見せてみろよ」
 刀の鯉口を切り、挑発的に唇を吊ってやる。案の定、頭目以外の男達が怒声を発して踊り
込んで来た。だが−遅い。
 月光が皓く舞う。三度、四度。
 ぎゃっという悲鳴とほぼ同時に、四人が地に這った。
「…弱っえー」
 思わず呟いてしまう。峰打ちにしてやったのだが、なんだかこちらが馬鹿にされたような
気にすらなりかねない呆気なさだった。
 剣介の刀は三尺に届こうかという大物で、幅も広い。当世流行りの華美繊細なものではなく、
あくまで実践向け。戦国武者の段平刀と見紛うような代物である。これだけは、家を出る時
祖父が持たせてくれたものだ。貧乏侍の三男坊、冷や飯食いのみは己で処せとの言葉通り
金の援助はしてくれなかった実家だが、これを授けてくれたことは素直に感謝している。
武骨だろうと何だろうと、自分はこれのお陰で世を渡っていけるのだから。
「あんたが頭だろ。まだやるか?」
 切っ先を喉元へ向けてやると、男はひるんだものか数歩後ずさった。実の所、この刀の本領は
鋭さではなく重さに有り、『叩き切る』という使い方をして最も威力を発揮するのだが、
それでも白刃の圧力は相当なものだ。
「ち、畜生がっ!」
 ここで引いては面目に関わると思ったか、男は匕首を腰溜めに突っかかって来た。
見た目よりは機敏な動きである。だが無論、剣介の相手ではない。峰で打つのも面倒臭く、
刀の平を胸元に叩き付けてやる。鈍い音。肺を打たれた衝撃で声さえ出せぬまま、
男は四間程も跳ね飛んだ。
 ががん、と土塀にぶつかってようやく止まる。あ、家の主に申し訳ない、と剣介はそんな
ことすら考えていた。
地面で呻いている最初の四人のうち、わざと背中を打った一人の横にしゃがんでその顎を
柄頭で持ち上げる。理由は簡単。こんな奴に触りたくないからだ。
「おい、伸びてんなよ。あれってなあ何だ?」
「ぐう…」
「そりゃこっちもこんな商売してりゃ、心当たりの一つや二つはあるさ。けど、どこで聞いた?」
 破落戸(ごろつき)共の口にまで登るようになっているとなると、これは問題だ。
何かがおかしい、と頭の中で瞬くものがある。あの商品は長年扱ってきたものだ。口伝えで少し
ばかり客数は増えたが、それでも知られた話ではない。
「何とか言えって」
 ぐい、と力を込めてやると、無理な姿勢を強いられた男は高く呻いて音を上げた。
「だっ、誰からなんて分かりゃしねえよ!最近広まった噂話だ!元が何処かなんざ知らねえ!
本当だ!」
「ふうん?」
 柄を引くと、男の頭はがくんと落ちて強かに地面に打ち付けられた。だが勿論、剣介に
構ってやる気持ちは無い。
「…噂…ね…」
 袴の埃を払って立ち上がる。心持ち、先程よりも早足になった。…やはり、何かが起こっている。
良くない、事が。
 月明かりに影だけを連れて急ぐ彼の中に、消しようの無い苦い予感が残っていた。

「犬の字、妙だぞ」
 ようやくで白尾屋に帰り着いた剣介を迎えたのは、これも表情の硬い八房だった。
「…俺も妙なことあったっすけど、重サンからどーぞ」
 茶くらい出してくれても良いのに、と詮無い事を考えつつ、自分で番茶を湯呑に注ぐ。
既に空になっていた八房の湯呑も満たしてしまうのは、剣介の悲しい性である。
「…きょう、破落戸に絡まれた」
「重サンも?!」
 用心棒のような稼業をしているのだから、目を付けられること事態は珍しくない。だが、
一見優男風で組し易そうに見られる自分と違って、八房に因縁をつける勇み者となると、
はっきり言ってこれは珍品だ。何しろ迫力がある。七尺にも届こうかという身の丈に、肩幅厚く
腰が据わり、赤味を帯びた総髪に鋭い眼光で睨まれると、まず大抵の者は身が竦む。
 その上名前も知られている。白尾屋お抱えの『鬼の重』の勇名に正面切って喧嘩を売る者は、
この近隣では皆無と言っても良いだろう。
「何だ、おまえも絡まれたのか」
 剣介の場合は割に日常茶飯事なので八房も驚かない。茶を一啜りして話を続ける。
「十人程はいたか、やたら血走った目をした奴等だ」
数を頼めば何とかなる相手とでも思ったのか、八房は傍らの愛刀にちらりと視線を投げた。
「だが話が妙だった。『あれを寄越せ』と繰り返していたな」
 そこまで聞いて、剣介は思わず自分の茶を吹き出しそうになった。慌てた所為で妙なところに
入り、げほげほとむせる。涙目になりながらも、彼は叫んでいた。
「俺もっすよ!俺も同じ台詞で絡まれた!」
「何?」
 きつい眉根が一層強く寄せられる。話せ、と目で促され、剣介はついでとばかりにまくし立てた。
「俺も同じなんだって!『あれを融通しろ』って帰り道に五人掛かり!どっから聞いた
話かって、これが」
「最近広まった噂話だと?」
「です!」
 膝を叩かん勢いで頷き、そこで二人は同時に黙り込んだ。−偶然、のわけがない。
「あれ…ってと、あれなんすかね…」
「あれ、か…にしては、噂の流れが急過ぎないか?」
 今夜喧嘩を吹っ掛けてきた男達は、異口同音に『最近噂を聞いた』と言ったのだ。その
『最近』がいつなのかはともかく、彼等の言う『あれ』が、こちらの思う『あれ』なのだとしたら。
 これまで静かに続いていたものが、なぜいきなり騒ぎになったのか。それが分からない。
「…旦那に話すか」
「そっすね…」

 二人から報告を受けた莞も、流石に険しい表情を隠せなかった。
「…俺も同じ事を言われた」
「誰からです?店で騒ぎがあったとは聞いてませんが」
「こっちは絡まれたわけじゃない、八房。俺が聞いたのは永庵先生だ」
「…永庵先生が?」
 意外と言えば意外な名前に剣介が思わず問い返す。たまにやくざ者と関わりができるとは言え、
永庵はあくまでただの街医者だ。裏の世に通じる道は持っていないはず。その彼が知って
いるとなると。
「それだけじゃないな。与力の青城殿も『悪い噂がある』と言っていた。あの時はあまり
気にしていなかったが…」
 街医者と与力、と言えば江戸の『上と下』だ。その二組が聞き、また剣介と八房が同じ日に
脅しを掛けられた。これらの事が示すもの。八房が、その場の空気に相応しい思い呟きを発した。
「…どこまで広がっている?」
 江戸の町では噂話は韋駄天の足を持って走る。こうなると、相当広く知れ渡っていると
見るべきだった。
「話の時期から見て、師走に入った辺りから流れ出した話だろうな。剣介、『桜』に連絡が付くか?」
「常宿は知りませんが、まだ仕入れで江戸にいるはずですよ」
「なるべく早く見つけてくれ。話し合う必要がありそうだ。八房は噂の出所を探ってくれ。
火元が知れないと、消し方も分からないからな」
「承知」
 ただでさえ忙しないこの時期に、どうやら火薬が撒かれていたようだ。導火線はあとどの程度
残っているのか…重いものを飲み込んだ表情で、三人はそれぞれに溜息をつく。
 まるで、外の寒さが白尾屋を少しずつ凍らせていくかのような夜だった。
 何処か遠くで、霜の降る音が幽かに響いていた。


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