第三幕 参 花雪−大和屋での呼び名はお花−の街中での生活は意外にもなかなか上手くいっていた。 元来が器用な性質だから、一度教えられた仕事はすぐに飲み込むことが出来たし、 店主のお栄の人柄か大和屋の客筋は良く、お栄の遠縁の預かりという触れ込みの彼女に 妙なちょっかいを掛けてくる者もいない。 年下ではあるが仕事では大先輩のお空も、護衛と称して見回ってくれている源五郎も 気性はさっぱりと付き合いやすく、他人行儀な上下名関係の中で育ってきた花雪にはひどく新鮮で、 そして楽しかった。 冬の冷たい水は彼女の柔い手を荒らし、幾つものささくれを作らせたが、それすら自分が 働いている−生きている、証のようで。夜、青城邸の離れで軟膏を刷り込む時には何となく 誇らしい気持ちになりさえした。 青城邸と言えば、これは最初の約束通り毎日貴乃が用心棒として寝起きを共にしている わけだが…何故だかこの人物だけは付き合い方が分からない。 大概いつも仏頂面で敬語を崩さず、かと言って畏まるでなく直接的にものを言うので、 どうしても喧嘩腰のやり取りになる−のだがその割にすぐに謝ってきたりして、どうにも距離感が 掴み難かった。 ここに滞在することになった最初の日の夜明け前「本宅では寝ていられない」と誠司が 言っていた通り、これだけ離れていても響いてくる気合の声と竹刀の音に驚いて跳ね起きた花雪に 「取って食われるような事にはなりませんよ。…その為に俺がいるんですから」と告げた横顔。 それを思い出すたびに何だか居たたまれないような気分に襲われる。 それが、ここ数日の彼女の暮らしだった。 その日も始まりは平和だった。 「ええっと、甘酒に三色団子が一皿で、十五文ですね」 「あいよっ、ご馳走さん。お花ちゃんも勘定早くなったじゃねえか」 「有難うございますー」 掌に乗せられた五文銭三枚。花雪にとって、「仕事」を始めてみて一番勉強になったと 感じるのはこの銭の重みだ。屋敷で暮らしていた頃は、金というものに触った事すら無かった 彼女には、お栄や自分の手を言ったり来たりするそれの意味を、これまで考えてみた事が無かった。 だが、街の人々にとってはまさにこれこそが生活の基盤となっているものだった。 金子があって初めて食べたり飲んだりする事ができ、そしてそれは自然に沸いて出るものではない。 何がしかの労働の上に支払われるものだ。 勿論、大和屋程度の店構えでは一日に動く金は一両にも満たない事が多かったが、その額の 小ささを理解する事で、むしろ花雪は『彼』が犯した罪の重さを一層深く理解する事ができた。 『彼』が篠宮の家で横領しようとした金は約百両だと聞いている。つまり、大和屋では百日がかりで 動かす金額だ。しかも、材料の仕入れや食器の係りもあるから、実際にお栄の手元には その半分も残らない。大和屋で丸々三年精を出しても溜まるかどうか分からない、そんな大金を… 『命』を、『彼』は自分のために使おうとしていたのだ。 阿片という毒に負けて。 自分の弱さに負けて。 兄の沙汰を無慈悲だと思っていたが、こうして自分の手で小銭を転がしていると、腹を切るという 武士としての最期を迎えさせてやった兄は正しかったのではないか、と、そんな風にも思えてくるのだ。 そんな事を考えてぼんやりしていると、お栄から 「お花ちゃん、お皿下げとくれ!」 と声が掛かる。 「はあーい。ごめんなさいお栄さん」 返して、空になった皿と湯呑を両手に持ち上げた丁度その時、威勢のいい声と足音が大和屋の 暖簾を跳ね上げた。 「邪魔すんぜ。、お空に源五郎、揃ってるじゃねえか。手間が省けた」 花雪には初めて見る顔だ。がっしりとした体格に、鋭い目をした壮年の男。 「どうした?甚衛親分」 冷めた番茶を啜っていた源五郎が立ち上がる。お空もひょいと顔を出し、花雪に 「雷甚衛って岡引の親分だよ」 と告げてからその横に並んだ。甚衛は比較的客の少ない店内を見回し、花雪に 「新入りの嬢ちゃんか。たいした別嬪さんだ」 と笑いかけてから、お空と源五郎に向かって声を潜め、何事かぼそぼそと囁いた。途端、 お空が大きな声をあげる。 「ええ?白尾屋さんが?!」 「こら、声が大きいぞ。…確かな筋からの話らしいぜ。聞いたところによると」 「白尾屋か…本当だとしたら相当大きな話だな」 「分かってるじゃねえか源五郎。青城の若達も今頃裏を取りに走り回ってるはずだぜ。 お前さん達も一応関係した事だし、伝えるだけは伝えとこうと思ってな」 しかし陣衛は腕組みをとかず、視線を左右に動かした。 「なんか親分は納得してないみたいだな?」 「ああ、白尾屋とアレはどうも結びつかん感じがしてる。ま、俺あ下っ端だから、疑っても 意味は無えんだが」 ぐるり、と首を回すと間接がぽきんと良い音を立てた。 「用はそんだけだ。邪魔したな、お栄さん」 「今度は何か食べていってくださいよ親分」 「俺もそうしたいぜ」 ひらっと後ろ手を振って出て行く背中を見送り、花雪はそっとお空の脇をつついた。 「ね、何の話だったの?」 「うーんと、言ってもいいのかなあ…」 珍しく考え込むお空に、余計好奇心が刺激される。 「誰にも言わないから、ね?」 「仕方ないなあ。秘密だよ?あのね、あたしと源、ちょっと前に物盗りに襲われそうになったんだ。 何とか大丈夫だったんだけどね」 恐怖の体験であったろうに、事も無げに語るお空に花雪の方が驚いた。 「そ、それで?」 「でね。その相手がさ、どうも阿片やってたらしいんだ。で、その出所が分かりかけたらしいから 知らせに来てくれ…ってどしたのお花ちゃん!真っ青だよ?!」 手にした盆が滑り落ちそうになり、慌ててお空がそれを受け止める。それにも構わず、花雪は 必死に声を絞り出していた。 「お願い。その話、詳しく教えて!」 「お花…花雪ちゃん?」 「あたしは、それを、探しにきたの」 気崩した着物に懐手。「丁!半!」の掛け声と煙草と汗の臭いの中、誠司はさりげない目付きで 一人の男を探っていた。まだ昼過ぎだというのに澱んだ空気が立ち込める賭場の中である。 粗雑な身なりに扮した彼は、見事にその中に溶け込んでいた。これは、生真面目な貴乃には まだ出来ない芸当で、その代わりに彼には噂を流している男達の出入り先を調べる役を 割り振っていた。貴乃も同心職に就いてから、尾行の腕はずいぶん上達している。 そうやって、突き止めた場所には誠司自身が乗り込み裏を取っていた。適当にに遊ぶふりを しながら横目で男の姿を追う。 (この前のとは違う奴だが…まず間違いないな) 懐に匕首と茶色い粉の両方を収めている顔付きだ。そして誠司は再びさりげなく、混雑した 室内を見渡した。 (ここも、昨日のも、胴元は確か…朧(おぼろ)組か) 朧組は最近になって急激に勢力を拡大してきたやくざの組織である。頭目が一切表に出ず、 手下は腕の立つ若者の集団で、血の気が多い事で知られ始めていた。 (だが朧組と白尾屋につながりは無かったはずだ。旦那の傘下に入るにゃ若すぎるし、 荒っぽいのは好まないからな、あの旦那は) 賽が振られ、壷の中から現れた数に周囲がどよめく。 「六−四の丁!さ、次だ張った張った!」 元より賭け事に興味も無い誠司は、一応丁に張っておいて、引き続いて男を観察する。 引き締まった体躯に浅黒い肌。前歯が少し出張っている様子は大柄な鼠を思わせた。 (朧組…調べ直すべきだな) 壷振りの掛け声に反するように、彼の思考は静かに冷めていった。 一晩の酒代くらいは儲けた財布と共に番所に戻ってきた誠司は、火鉢の周りに覚え書きらしき 紙を何枚も広げている貴乃に軽く手を上げた。 「お戻りですか。どうでした?」 「やっぱりあの男、一銭も賭けなかったな。間違いなく、胴元側の人間だ。…そっちの調べはどうだ?」 「結構進みましたよ」 そう言って、半紙の束を差し出してくる。それを受け取り腰を下ろしながら、彼は写し書きであろう その紙の終わり部分に火盗改めの紋が入っているのに気がついた。 (無理させちまったかな) 火付け盗賊改め方と、誠司達のような定町廻り同心は伝統的に仲が良くない。その縄張り違いの 場所にまだ不慣れな貴乃を一人で送り込んでしまった事に少々の罪悪感を覚えたが、 これも仕事と受け流す。 「まず朧組ですが、俺の印象だと任侠と言うより愚連隊ですね。火薬樽みたいな若い乱暴者の 集団です」 「へえ、それでよく纏まってるもんだ」 「全く表には出てこないんですが、頭目ががっちり押さえてるみたいですね。二年程前に 代替わりしたんですが、そのあと古株の穏健派がどんどん抜けていって今の形になったようです」 「それまで名前も聞かなかったもんなあ」 その陰に隠れた頭目、余程のやり手なのだろう。 「興味深いのはその代替わりですね。どうも、今の頭目が前の頭の首を獲ったとか…」 「げ」 誠司は渋面を作った。盃を交わした親分子分のつながりは血よりも濃いとされている。 それを断ち切り、尚その仁義に悖る行為の上で頭目に収まり組をまとめているのだから、朧組の 今の頭目の力量が知れようというものだ。 「羽振りが良くなったのは今の頭目に変わってからですね。ここ二年くらいの事です」 「…二年か。丁度…」 「ええ、阿片が出回り始めた時期と一致しますね」 手にした紙束が急に重く感じられ、誠司はそっとそれを置いた。貴乃と目を合わせ、肩を竦める。 さて、どこから突付くべきか…そう、口に出しかけたところで二人は名を呼ばれた。 「青城殿、葉瀬殿、頭がお呼びです」 小物が頭を下げる。この奉行所の現在の筆頭与力は但馬という、自分では何も決められない 上意下達の権化のような人物で、二人はあまり好いてはいなかった。 「何だろうな。ったく…」 但馬の意見を無視する形で勝手に飛び回るのはいつもの事だ。結果は上げているにしても、 向こうには面白くないに違いない。 「仕方ありませんね。行きましょう」 ぱんぱんと袴を払って貴乃が立ち上がる。誠司は何となく嫌な予感に襲われて、どうにも 立ち上がれないでいた。 番所の戸板が木枯らしでがらりと鳴っていた。 |