第三幕 四 幽かな羽音。そちらに目をやると、相変わらず薄着の少年が縁側に腰掛け、その掌から 一羽の鴉を飛び立たさせたところだった。 「どこに飛ばした?」 莞の声に振り向くでもなく、ぽつり、と落ちる呟き。 「…ここじゃない所」 「風流な答えだな」 並んで縁側に腰掛けて空を見上げる。また、雪になりそうな灰色。 試しでいくつかの仕事をさせてみたが、この少年はそのどれもを器用にこなした。まるで、 熟練した者の手つきで。 「どこで生まれて育った?」 「…知らない」 「誰に仕えている?」 「…言えない」 質問によって返る答えに微妙な違いが出てくるようになったのも最近の事だ。それまでは 何を聞かれてもだんまりを通していたのだから。 「何をしている?」 「…分からない」 深紅の眼差しにはただ、虚無だけが映るように見える。その虚ろは、少年自身を見ているのと 同じ事だった。 「…名前は?」 これまでに何度も重ねてきた問いだった。それに対して彼は静かに、哀しいほど静かに こう応えた。 「…無い」 と。 冷えた空から、今日最初の雪の一片が舞い降りてくるところだった。 但馬からの沙汰を受けた後、誠司と貴乃は走り出していた。正確に言えば、疾走する誠司の 後を貴乃が必死に追いかけているという形だ。 「せ、誠司様っ!無茶ですって!何しろ上のお達しなんですから!」 「うるせえ!間違ってることが分かってる話に乗れるかってんだよ!」 二人が向かっているのは、今日の昼に訪れたばかりの賭場である。夕焼けに照らされて、 誠司の横顔が柿色に染まった。 「デマ流すにも程ってもんがあらあ…邪魔するぜ!」 乱暴に戸を引き開けた誠司は、その場の男達の射るような視線に素早く刀を突き付けた。 「御用改めじゃねえ。別にお楽しみの邪魔するつもりも無い。ちっと面を借りたい奴が いるだけだ。…おい、そこの!藍縞袴のお前だよ!来い!」 言った口で自分からずんずんと歩みより、一人の男の襟首を掴み上げる。白尾屋と阿片の 噂を流していた男だ。 ぎゃっ、と小さな悲鳴が上がるのを無視してそのまま引きずり出す。呆気にとられて呆然と 見守るばかりの男と、頭を抱える貴乃を尻目に 「お前等何も見てねえ。いいな?!」 と叫んで、誠司はその男を路傍へと引っ張っていく。 「…続きを楽しんでも良い」 ぼそりと落とした貴乃の声は、自分でも嫌になるほど暗かった。 だん、と築地塀に背を叩きつけられた男は低く呻いたが、誠司は構わず無造作に男の懐中を 探った。手に触れた物を次々と地面に落としていく。財布らしき小袋、鼻紙、煙草入れ。 そして匕首と白い薬包が三つ。そのうち薬包だけを手にとり、それを男の眼前に突き付ける。 「どこから仕入れた?」 「し、白尾屋が…」 「出鱈目抜かすな!」 握った拳を塀に叩きつける。拍子に包みが敗れて、茶色い粉末がはらはらと舞った。 「こっちは白尾屋を知ってんだ。てめえ、朧組のもんだろ。白尾屋と朧組に付き合いが 無いのは分かってる」 「そ、そりゃ旦那、裏の付き合いってもんが…」 「うるせえ!」 媚びた笑いを一蹴し、誠司は地に落ちた匕首を拾い上げ、鞘を払った。きら、と夕闇にも 関わらず銀色が禍禍しく映える。二歩と半分後ろに下がり、「動くな」と口に出した彼は、 二、三度それを弄ぶや、おもむろに腕を一振りした。ようやく追いついてきた貴乃にも、 いや、男自身にすら風が通り抜けた感触しかなかったであろう。 だが数秒後、その首に真一文字の朱線が入り、じわりと血が滲み出した。 「答えないなら、皮一枚ずつ傷を深くしていく。どこから仕入れた薬だ?」 先程までの激情が嘘のように淡々と発された問い。男の顔色は蒼白に返事、口からは 意味の無い呻きが漏れるばかりだ。誠司はもう一度、冷たく腕を振った。 一本目の朱線の下に、もう少し濃い色の線が浮かび上がる。 「どこから仕入れた?」 「お、お頭から渡されたんでさ!白尾屋からの品だって言えって!う、嘘じゃねえです! 本当に、これ以上は知らんです!」 一息にそこまで叫んだ男は、ぜいぜいと肩で息をついた。見ればその膝はがくがくと震え、 今にも失禁しそうな有様である。演技とは思われなかった。 「朧組の頭目か」 「そうです!お頭が白尾屋の品だって触れ回れって…。俺以外の奴もそうでうですよ! 詳しい事は分かりません!本当です!」 「成る程な」 呟くや否や、誠司は男の鳩尾に固めた拳を叩き込んだ。ぐう、と呻いて崩れ落ちる男に 背を向け、憎々しげに下駄の足で薬包を踏み潰す。そして、迷い無く歩み始めた。 「ど、どこに行くんです?」 「白尾屋に直に聞きに行く。そっちのが早い」 貴乃の問いに素っ気無く答え、どんどん歩を進める。置き去りにされないように早足で 追いながら、先程からの疑問を口にした。 「本当に、朧組と白尾屋が陰で結んでるって事は無いんですか?どっちもやくざ者には 変わりがない…」 「違うんだよ」 ぴしゃりと、それ以上の追求を許さぬ声音で誠司はそう言い切った。 「誰が何と言おうと、俺は知ってる。白尾屋は阿片には手を出さない」 三歩目にもう一度、強く。 「絶対に、だ」 大和屋の暖簾を下ろすや、花雪は挨拶もそこそこに店を走り出た。道順は仕事の合間に お空から聞き出してある。だがすぐに、背中から声が投げられた。 「待て待てお嬢様。いきなり行ってどうしようってんだ?」 「そ、そうだよ花雪ちゃん!無茶だって!」 源五郎とお空だ。追いかけてきた二人に向き直り、花雪は爪が立つほどその掌を握り締めた。 「…無茶なのは分かってるわ。でも、嫌なのよ!確かめたいの!」 泣き出しそうだと自分でも思う。 「何が知りたいんだ?」 「…しばらく前に、家内の者が死んだの…。いいえ、阿片に殺されたのよ」 胸に刺さったままの氷。 「あたしは何で、その人が死ななきゃいけなかったのかちゃんと知りたい。阿片のせいなら、 それを彼に渡した人間がいる。それを突き止めたいのよ」 「…知ってどうするの?」 「分からない…。でも、きちんと知らないと、どうしてあのやさしい人が死んでしまったのか 分からないと、あたしはもう一歩も前に進めない。それだけは確かだわ」 まともな考えも無いままに出した言葉では、言いたい事の半分も伝わっていない気がした。 それでも笑うことなく顔を見合わせて、溜息とともに小さく頷いた。 「…白尾屋の前までだからな」 「無茶はしないでね?」 「…あ、有難う!」 紺の空に、半月。 疾うに閉まった扉を乱暴に叩き、誠司は声を張り上げる。 「青城だ!開けてくれ!」 その背を眺めながら呼吸を整え、貴乃は何処か不思議な思いを抱いていた。 青城誠司と言えば磊落で放胆、滅多な事では動じず、貴乃の如き事情を抱えた人間にも、 切捨て御免の町人にさえ隔たり無く接する情を持った人物だ。今日までそう思っていた。 だが、今目の前にいる青年はどうだろう?どこか…。 「青城殿?何用です、こんな時間に」 八房の太い声が閉ざされた戸を引き開ける。薄暗い店内へ飛び込むようにして、誠司は また叫んだ。 「旦那!教えてくれ!旦那!!」 声は悲鳴のようだ。程なくして、白尾屋主人、莞が店に姿を見せた。後ろに剣介が付き 従っている。 「どうしたんです?青城様らしくも無い…」 莞が土間に降りるのももどかしく、誠司はその襟元に掴みかかるように問いを発した。 「白尾屋は、朧組と付き合いがあるか?」 「朧組?…いいえ、うちは古参の者ばかりをまとめてますから」 「じゃあ重ねて聞く。白尾屋は、ご禁制の薬を、阿片を、売ってるのか?」 すっ、と周囲の空気が冷えた。 「…青城様、何故そのような事を聞かれます?」 「上のご沙汰だよ!薬種問屋白尾屋は密輸によって阿片を得、市中に流して私腹を肥やし 風紀を乱している。厳しく取り締まるようにってな!でも!やってないだろあんたは!」 莞よりも背の高い誠司が寄り掛かるようにしてその体を折り曲げている。走ってきたにも 関わらず顔色は冴えて白く、まるで…元服前の怯える子供のように見えた。 「俺は…俺は知ってる!あんたは絶対阿片には手を出さない!あんたがどれだけあれを 憎んでるか、俺はこの目で見てるんだからっ…」 詰まった声を無理に押し出す、悲鳴。 「許せないんだよ俺は!他ならぬあんたが、阿片を売ってるなんて言われるのは…っ!」 誠司が叫んでいる。その内容を知る者はここには殆どいなかったが、それでもその必死さは 伝わってきた。 彼は怒っている。激しく。自分ではどうしようもないものに対して。 過去に、今に、逆らえない何かに対して。 「おや、まだ店が開いてましたか」 突然に、そんな暢気な声がそこに割り込んだ。半分だけ開いた戸から男が一人、店内に 侵入ってくる。 どこにでもいそうな、目立たない町人姿。にやにやと笑いを貼り付けたような顔だけが この場で妙に浮いていた。 「しかもお侍まで揃ってますか。筋書きが簡単になりました」 そういって、男はいきなり懐から匕首を取り出した。あまりの唐突さに、誠司ほどの剣士すら 何の反応も出来なかった。 「取調べに来た与力同心と諍いになって弾みで相手を殺してしまい、窮地を悟って自ら 店に火を放った。こんなところでどうです?」 にやにやした笑顔のまま、男は匕首を腰だめにして莞へと走り寄る。 誰も動けなかった。 −…店奥から走り出てきた小柄な影を除いては。 白い夜着に漆黒の髪。人形のような顔立ちと、深紅の瞳。 少年はどうやったものか、町人の右袖口に腕を絡めて、その動きを封じていた。 「何をするんです?十番目」 「…六の字、まだ早い…」 「御方様からのご命令ですよ、これは。逆らうつもりですかね?」 「違…でも!でも、この人達は…っ!」 「報告書にはありませんでしたが、随分と手懐けられたようですねえ」 笑みを消さぬまま、男は自由になるもう一方の手で少年の喉を締め上げた。端正な顔が 息苦しさに歪む。 「片輪の捨て猫が飼い主を裏切っちゃあいけません。死になさい、十番目」 「…っ、この人達は…っ!殺させ、ない…っ」 誰もが動けない中、少年の左腕は宙を走り、自分で絡めた男の右手から匕首を奪い取り …そしてそれを、相手の喉に突き立てた。 ひうっという空気の抜けるような音が漏れる。男は硬直し、次の瞬間また笑みを浮かべて。 少年の喉から手を離しざま、懐から小さな皮袋を取り出すや、それを彼の顔に叩き付けた。 びしゃんと水音。皮袋に詰められていた液体はまともに彼の顔を遅い、唐突に開放された 呼吸に咳き込む少年はそれを少なからず飲み込む事になった。 異様な臭いが、その時、ようやく全員に感じられた。 「−一足先に行っていますよ、十番目」 言うや男は喉に突き立った匕首を引き抜いた。ぶわりと血が吹き上がり、ゆっくりとその体が 倒れていく。 丁度その場面を、これも走ってきた花雪、お空、源五郎の三人が目撃する羽目になった。 「きゃっ…?!」 悲鳴をあげかけた花雪の口を、咄嗟に源五郎が塞ぐ。 異臭を放つ液体を飲んだ少年は喉を押さえ、がくりと膝をついた。一番近くにいた莞が 駆けより、その肌に触れるや 「…砂糖水を用意しろ!それから、永庵先生を呼んで来い!」 と叫ぶ。 誠司と貴乃は、殆ど反射的に立ち竦む目撃者三人を店内に引きずり込み、剣介が永庵の元へと 走り出した。 長い夜が、始まろうとしていた。 |