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第7回 松山市「坊ちゃん文学賞」応募作品  

第3回「うおのめ文学賞」応募作

  安芸銀山城秘伝

             作 つかさまこと

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「起立!」

「礼!」

 終業のベルが鳴り渡って、生徒たちは三々五々地理教室を引き揚げ始めた。休憩時間は十分間で、次の授業は数学だ。地理の授業ではビデオ映像を見たり、スライドを使っての説明などがあるため、地理教室は一種の「視聴覚室」的な特殊な造りになっている。新館四階の西側端に位置していたから、自分たちの元の教室まで戻るには結構忙しいのだ。

 薬師堂(やくしどう)(まこと)は、同じクラスの小出正弘と並んで話しながら二階東端にある一年七組の教室へと歩いていた。

「高校ともなると、夏休みの宿題いうても一筋縄ではいかんのお」

「ほんまに。これならドリルかなんかをあてがわれたぐらいの方がよっぽど楽じゃわ」

 舟入(ふないり)高校(こうこう)では、社会科は一年生は地理、二年生が日本史及び世界史、三年になると政治経済、という順で必須科目としてカリキュラムが組まれていた。その地理の、つい今しがたの授業で和田教諭より、「自分の住んでいる町についてレポート用紙二十枚程度にまとめよ」との夏休みの課題が課せられたのだ。

(高校というのは中学とは大分違うものだな)と薬師堂や他の一年生達も流石に身に染みて感じていた。というのもあと一週間で待ちに待った夏休みに入るのだが、英数国の主要三教科などでは今週に入ってからの授業で、各教科とも夏休みの課題がたっぷりと言い渡されていた。数学は問題集を一冊買わされて「一学期に進んだところまでの問題を全部解いてくること」で二十ページにわたり約五十問あった。英語に至ってはサブテキストとして買わされている参考書「英語の構文百五十」の「百五十構文を全部覚えてくること、休み明けの二学期冒頭にテストをする」ときた。

 全く暑い暑い夏休み、しっかり休みしっかり遊んで青春を謳歌して身も心もリフレッシュしたい所なのにこれでは一体、休めるものかどうか判ったものではない。地元の国立大学へ毎年一〇〇人以上を送り込んでいた時期もあったというほど広島県内でも名うての進学校と聞いてはいたが、聞きしに勝る実態ではあつた。

 そんな中でしかし、考えさせられることもあった。高校になると国語は「現代国語」と「古文」「漢文」と三つの教科に分かれるが、その現代国語の夏休みの課題は「井伏鱒二の小説『黒い雨』を読んで四〇〇字詰め原稿用紙五枚以上の感想文を提出せよ」であった。

「黒い雨」は広島県の生んだ著名な作家井伏鱒二の代表作である。この小説は広島に落された原爆を描いた作品として広く世に知られている。主人公閑間重松は被爆者であり、被爆直後の広島の惨状を克明に日記に書き留めていた。井伏鱒二自身は被爆者ではないのだが、主人公が当時の日記を整理するという形で井伏鱒二の類い稀なる筆力を持って広島原爆の惨状をリアルに描いた秀逸な作品である。

 薬師堂達の通う広島市立舟入高校は、後一キロも南へ下ればもう海に足が届く広島市南部にある。市内中心部から電車で約三十分、爆心地近くの原爆ドームから直線距離にして約二キロのところに位置している。何よりもこの「黒い雨」で主人公重松が被爆し郊外へ逃げるまでの行程に出てくる地名・町名が非常に身近で、そのため生徒たちは一層リアルにこの小説を受け留めることが出来る訳であった。

 先輩たちに薬師堂が聞いた話では高二の夏休みの読書課題は、自身が被爆者でもある太田洋子の代表作「屍の街」、三年になると岩波新書で出ている大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」でここ最近は変わっていないらしい。ここまで毎年原爆文学というものをじっくり読まされると、広島の原爆について考えてみるという学校の意図は誰にでもわかる。今年一九七三年は終戦後二十八年、ベトナム戦争も昨年和平がなり、昭和三十二年生まれの薬師堂達は全く戦争というものを知らない世代だ。夏休みには友達と海にでも繰り出して、最近流行りの小説でも読んでテレビの青春ドラマみたいにパアーっと楽しくいきたい所なのだが・・・・・

 この高校は進学校だから授業を割いて原爆の事を詳しくやるといったように平和教育に特に力を入れていると言うほどではないようだ。それにしては現代国語の夏休みの課題のテーマは三年続けて原爆なのである。またこの学校には原爆のことばかりを題材に取り上げ続けている演劇部があるという話も聞いていた。

 実は、ここ舟入高校には、原爆についてこれ以上の悲劇は無いというくらい悲しい悲しい過去があるのであった。 

 舟入高校は今でこそ男女共学だが、戦前は市立高等女学校といい女学校であった。あの運命の日、一九四五年八月六日、市立高女の一、二年生と引率の教職員合せて六七九人は建物疎開作業に広島市中心部に出ていた。米軍による本土の空襲が激しくなり爆弾での類焼を避けるために建物を壊し空き地を作る作業に駆り出されていた。

現在の平和公園の南側東よりに架かる平和大橋の袂の辺りで、八月六日午前八時十五分、全員が被爆、大火傷を負った女生徒達は熱さを逃れるためすぐ近くを流れる元安川に入ったが、力尽き海へ流されていった。教師を中心に輪を作って校歌を歌いながら励ましあったが及ばず死んでいったという。一人だけ何日か生き残った女生徒が皆の様子を語った後息絶え六七九人が全滅となった。

 その後二年たった夏、原爆資料館南側の工事現場から名札や櫛、財布等と一緒に女生徒二人の遺体が発見された。市立高女の女生徒たちの携行品置き場で、体調の悪かった二人が留守番をしていて爆風で塀が倒れ下敷きとなり焼死したと見られ、新たな涙を誘うと同時に、一人の生存者も無くわからなかった生徒たちの、作業をしていた大体の位置が判明した。現在の平和大通り、別名一〇〇メートル道路の「広島市立高女の慰霊碑」が建っている辺りだ。爆心から五百メートルも離れていないこの近辺での惨劇の凄まじさは想像を絶する。 

 薬師堂はいつだったか「舟入・市女合同同窓会名簿」というのを見せてもらったことがあったが、市女の昭和二〇年前後の二回生分のところが「原爆犠牲者」となって数ページ、この時に亡くなった人々全員の氏名が掲載されているのを見てあらためて事の重大さを感じた事があった。勿論戦後の新教育制度に伴って学校名も舟入高校となり市女の歴史は終わった。教師も広島の人ばかりでは無くなっただろうし、生徒も戦後生まれで市女の悲劇も年と共に忘れ去られがちになっていっただろう。しかし、やはり根底には、この悲劇を忘れまい、原爆というもの全体を今一度真剣に考えて見て欲しい・・・・・というのがこの学校の教育方針なのであろう・・・等々と典型的な戦後世代である薬師堂などが、ここまでいろいろと考え巡らしてみているということをもってしても、学校の教育意図は半ば成功したと言えなくは無い。

 それにしても入学早々初めての夏休み、大いに遊ぶことを第一として、これだけの宿題をどうやって片付けるかだ。とりわけ難問はこの変てこな地理の課題だ。自分の部屋でしこしこやっていても何も

始まらない。手掛かりになるものを探しに外へ出かけなければ何も進みようが無い。

(こいつぁやっかいだぞぉ)

薬師堂は汗を拭き拭き教室へ向かった。蝉が校庭のそこいら中の樹にとまって、今を盛りにミンミンミンミンとやかましく鳴き囀っていた。

 

 

 数日後、いよいよ待ちに待った夏休みがやってきた。幼馴染やご近所さんが大勢一緒だった中学校時代と違い、高校になると広島市内やその近郊からいろいろな人間が集まってくる。中学校の同級生

もいるにはいたが、クラスのほとんどは全く見ず知らずの人間ばかりである。緊張感の抜けなかった四月を過ぎ五月中旬ともなると、流石に皆大分馴染んできた。毎日教室で同じ顔をつき合わせているのだから当然といえば当然ではあった。七月に入る頃にはもう大体クラスのメンバーの性格や雰囲気もわかり、気の合う同士お互いに匂いをかぎつけ仲良しグループが決まってくるようになる。

 薬師堂は、卓球部の江頭と金本、サッカー部の宮原などと何故か気が合い、一緒に居る事が多かった。四月に一年七組のクラスがスタートしたときに薬師堂が最初に口をきいたのが宮原だった。

「おい、薬師堂だろう?」

「あれ?宮原さんじゃない、何でここに?」

 宮原は薬師堂と同じ中学校の一年先輩になるのだが、去年の途中心臓に疾患があることが判り随分悩んだ末に手術をしたのだ。メスを入れた場所が場所だけに入院も長期に渡ったが、何とか無事復帰することが出来た。出席日数の不足で留年を余儀なくされ、新一年生として再スタートを切ったという訳だった。

「おいおい、『さん』はやめようや、さんは」

 そう言われても、この年代での一年の違いは大きく、宮原は中学ではサッカー部でずっと頑張っていたから、運動部の一年先輩という意味でも自然『さん』づけになるのだ。宮原とは家が同じ町内だったから帰る方向が一緒で急速に親しくなった。留年したとはいえ、一応高校生活を一年経験している訳だから色んな事を教えてくれるので非常に有難かった。 

 何となくその辺の匂いを目聡くかぎつけた江頭と金本の卓球部二人組みが近づいてきて、夏休み前には仲良し四人組が出来上がっていた。薬師堂はバレー部に入っていて練習後の帰宅時間が大体この卓球部の二人組みと同じで、同じクラス同士自然声を掛け合うようになった。また宮原も、まだ過激な運動は無理だがサッカーへの情熱捨てがたく今はマネージャーとしてサッカー部に留まっていたから、そういう運動部同士の連帯感もあって急速に親しくなっていった。 

 卓球部二人組みの江頭と金本などはちゃっかりしたもので、ゴールデンウィークを過ぎた頃になると早くもクラスの女の子の中から自分のお気に入りの子を見つけ、近々思い切って声をかけてみるんだとかと言い合っていた。

(流石に街の奴等はませている)と薬師堂は思った。

二人は高校近くの中学の出身で、薬師堂や宮原など広島市郊外の出身と比べると断然都会育ちであった。うぶで奥手の薬師堂などに言わせると知り合って一ヶ月かそこいらで女の子に惚れたはれたなどという心境は到底理解し難かった。

 何はともあれ、この四人が夏休み前にはもう相当盛り上がり、八月になったら四人でどこか瀬戸内海の島へでも泊りがけでキャンプに行こうじゃないかという事になったのだ。江頭も金本も恋愛の方も活発だが、二人とも勉強のほうも要領がよく頭も悪くなかった。

特に江頭は大の数学好きで、金本共々理数系が得意だった。薬師堂の方はと言えば「算数」といった頃から数学は苦手で、中学ではかろうじて体面を保ったが高校になってからはグーンと難しくなった感じで全くついて行けてなかった。一学期の中間、期末試験の点数も散々でひどい劣等感を抱いてしまっていた。

(どうせあいつらは勉強も遊びも要領よくこなすのだろう。だが俺はそういう風には出来無いぞ。八月のキャンプまでにせめて地理の宿題だけでも目途をつけておかなくては・・・・)

 そう考えて、薬師堂は家の近所にある祇園町公民館を覗いてみることにした。ここの図書室には色々古い資料があるはずだ。

 

 

 薬師堂は次の日の午後、早速公民館の図書室に顔を出した。学校の教室の半分くらいの広さで奥には開架式の本棚にぎっしり本が並べてある。手前に四人掛けのテーブルが四つ置いてあって本を読んだり自習したり出来るようになっている。小学生の女の子が二人と中年の主婦が一人座って本を読んでいた。

 薬師堂は一通りぐるりと本棚を見回してみた。公民館の図書室だからそんなに沢山本が揃っているという訳ではない。手垢のついた単行本がありきたりにある程度で、それも分野別とかに区分されてなどいなかった。ただ、それらに混じって町の公民館なのだから、何かしらこの祇園町のことについてまとめた資料のようなものがあるだろうと思っていた。「自分の住んでいる街についてのレポート」というのだから、その辺の資料を取っ掛かりにすればいい知恵も湧くのではないかと思っていたのだ。

 見進めていくうちに、三つ目の本棚の中段一番奥の方に「郷土史コーナー」と銘打っている所があることに気がついた。

(あった!)

「広島県の歴史」「郷土の民話」などといった本に混ざって「祇園町(ぎおんちょう)史」という分厚い本を見つけたのだ。茶色い箱のブックケースに入った立派な装丁の本で「非売品」となっている。薬師堂はパラパラと幾ページかめくって読んでみたが、これは相当な内容をもった本であった。祇園町の地形や気象に始まり、歴史や史跡、文化、芸能、風俗といった身近なことから、産業、経済、交通、戦前、戦後にまで渡って体系的に著述された五百ページを超える堂々たる書物であった。その編集に十五年かかり、昭和四五年に祇園町そのものが発行していた。

 薬師堂は「地形」の辺りから少しずつ読み進めてみた。

「・・・・・祇園町の平坦地は、往古は海であり、ここに太田川、安川の流れによって土砂が運ばれて出来た土地である。土砂の堆積によって出来た州の高い所に幾軒かの家が建てられ、そこに人が住むようになった。そして生活の基礎として農耕が始まり、次第に田畑の開墾が行われさらに人が増加し家も増え、今日の基礎が出来たものと思われる。・・・・・・祇園町南下安、坪井の導正寺付近に《といし田》という地名が残っている。これは大昔、砥石を積んだ船がこの辺りで沈み、この田から後年沢山の砥石が掘り出されたと伝えられている。また、祇園町《帆立(ほったて)》は、山本郷から吹きおろす風を利用してこの辺から船に帆を立てて沖へ出たものと伝えられている・・・・・・」

(へえー、この辺は大昔は海だったのか・・・)

次第に本の中身に惹きこまれていく。

 「町名のおこり」では、

「・・・・・祇園の地は往古には伊福郷(いふくごう)と称した。この地を祇園と称するのは、祇園の庄と称されたことによるものであるが、それは町の中央付近にある(やす)神社を古来「祇園社」といい、地の人はこれを「お祇園(ぎおん)さん」と呼んで親しんだ。この祇園社の前の町を祇園町と言い、芸藩通志でも「祇園町一市聚をなせり」として、今の祇園町の起源となったと言われる・・・・・」

となっている。

 なかなか面白い。更に読み進めてゆく。今度は歴史である。

「・・・・・祇園町は南は瀬戸内海に臨み、北は出雲の国に通じ、往古から山陰山陽の要衝を成していたこの地は中世、武田氏が銀山城に居を構えてから安芸国最大の都府として繁栄を極めた。」

「安芸の守護であった武田氏の本拠銀山城(かなやまじょう)の築かれていた山を武田氏にちなんで(たけ)田山(たやま)という。この山は、祇園町及び安古市町にまたがり標高四一一メートル、広島市のどこからでも見える。広島市中心部、平和公園のたもとの相生橋(あいおいばし)から北の方を眺めると、頂上が平らで丁度おわんを伏せたような形に見えるのがそれである。一二二一年承久の変の時、甲斐の国にいた源氏の一族武田信光は、その戦功によって安芸の守護となった。その後一二七四年(文永十一年)の蒙古襲来に際し、武田信時が防戦を命ぜられ安芸の国に下り、その孫の武田信宗が鎌倉時代末期この山に城を築いたのが銀山城で以来十数代およそ二五〇年に渡りここを拠点にこの地を支配した。

 戦国時代諸々の攻防があり、永正十四年(一五一七年)武田元繁、山県郡有田城を攻め、毛利元就と戦い敗死、その後一五二五年(大永四年)武田勢は大内義興によって銀山城を囲まれ、一五四一年、遂に大内、毛利連合軍のため落城、武田氏も滅びた云々・・・・」とあった。

 祇園町史では「史跡と文化財」として武田山に残された数々の遺跡やその由来について、相当スペースを割いて詳しく紹介していた。それらを読みながら、薬師堂は次第次第に「武田山」の歴史の話に惹きこまれてゆくのであった。

 

 

 翌日昼前頃に薬師堂は再び公民館の図書室をのぞいてみた。すると、地元の中学校から同じ高校に進学した三人の同級生がいそいそと本棚の間を見て回っている。他の利用者もいるので、三人に軽く目配せして隅の方の席についた。同じ男子バレー部の北村と野本がすぐに近づいて来て、耳元へ小声で話しかけた。

「ヤクシ、お前も地理の宿題か?」

「おお、弱っとるんじゃ。ここへ来りゃあ、何かいい知恵が浮ぶんじゃないかと思うて」

 三人がこそこそ囁き合っていると、書棚の陰から何冊かの本を小脇に抱えて中原美樹が現れた。

 中原は中学の途中から、しかも東京から転居してきた転校生で、才色兼備、男子生徒たちの憧れの的であった。話し言葉も流暢な東京弁なので、薬師堂たちには彼女の一挙手一頭足が新鮮に写った。

「中原さんも例の宿題?」

 思い切って薬師堂が声をかけた。

「ええ、そうなのよ。ここに来ればなにか手掛かりが見つかるんじゃないかと思って。私この街のこと余り知らないし・・・」

 真っ白のTシャツに赤いミニスカートの中原美樹が今日は一段と可愛く見えた。

「薬師堂君たちは何にするか決めたの?」

「うん、実は武田山にまつわる話が面白そうなんで、これをやってみようかと思うんだ。色々調べてみると、言伝えの中に『武田氏が毛利元就によって攻め滅ぼされた時に、お家再興のために宝物を祇園町側の山の中腹に埋めた』というものがあるんだ。『民話』の中にも『黄金の茶釜』というのが有って、武田家の残党が山の中腹に先祖から伝わる黄金の茶釜を埋め、目印としてその上に白南天の木を植えた。虚無僧となってこれを守っていたが、或る時宝探しに来た者に切り殺され、それ以来場所が判らなくなってしまった。宝探しに来た欲張りには白南天の木は見えないが、何も知らない者がこの山に登ると、よく繁った美しい白南天の木を目にする・・・と言うものなんだ。どう、ちょっと面白いだろう?」

 薬師堂が得意げに一気にそこまで話すと、中原だけでなく聞き入っていた北村や野本も目を輝かせた。

「おお、そりゃあ面白そうじゃな」

 祇園町と武田山とは切っても切り離せない関係にあるのは確かだ。

薬師堂たちの通った小学校の校歌は、

「武田の峰のぉ〜朝あけよぉ〜・・・・」と始まったし、中学校の校歌も、

「緑かがよう武田山、久遠の姿ゆるぎなく・・・」

と、どちらも武田山のことを朗々と歌い上げていた。小学校六年間と中学校の三年間、合わせて九年事あるごとにこれを歌わされ続けてきたのだから、嫌でも体に染みついていた。

「どう、中原さん?俺たちこのテーマで共同研究しようかと言ってるんだけど、良かったら君も加わらない?」

 薬師堂から見せられた本を眺めていた中原美樹の目もみるみる輝いてきた。

「うーん、これ・・・・・なかなか面白そうねえ。ちょっと、私もこれやってみようかしら」

 半ば強引に引っ張り込んだ形となったが、同級生では一番人気の中原美樹が加わることに他の二人も異論があろうはずは無かった。

 そんな訳で、この祇園町、とりわけ「武田山の歴史」について、薬師堂、北村、野本、それに中原の四人でこの夏共同研究をすることに相成った。

 図書室を出て、公民館のロビーのソファーに陣取り、打ち合わせ始めると、すぐに野本が、

「四人一緒じゃあ多過ぎるから、二人ずつの組にしようや」

と言い出した。武田山に登るにしても道は幾つもコースがあるし、資料を調べるにも二手に分れれば倍のことが出来るのは確かだ。

何事にもクールな合理主義者の野本の発想であった。

「それもそうね」と中原。そこでさり気無く、

「ヤクシと北村は家が近かったよなあ・・・」と野本が言ったのでピンときた。

 実は薬師堂は前々から野本が密かに中原美樹に想いを寄せていることに気がついていたのだ。その裏心を察した薬師堂はすかさず、

「じゃあくじ引きっていうのはどう?」と提案。

「そうね面白そう。くじ引きがいいわ」

 中原もそう言うのでこれには野本も従わざるを得なくなり、アミダくじをすることに決した。

 結果、「北村・野本組」と「薬師堂・中原組」に決まる。

(天の助けか!)と、憧れの中原美樹と組めたことに心臓が飛び出さんばかりの胸の高鳴りを覚えている薬師堂であった。一方、(畜生め!)と心の中で地団駄踏んで悔しがっているのは野本である。

「じゃあ早速それぞれの組に分れて打ち合わせしような」

 苦虫を噛み潰したような顔をした野本を横目に薬師堂は中原と打ち合わせに入った。

「やはり実際に武田山に登って歩いてみたいわ。近い内に行って遺跡を調べてみましょうよ」

 と中原も積極的だ。

緑深く謎の多い、神秘的な武田山へ、中原美樹と、それも二人だけで行くことになり、薬師堂は何かを期待してもう天にも昇るような浮かれ気分なのであった。

 

 

 武田山探索登山の当日は、青原の「武田山登山道入り口」の道標前で午前九時に中原と合流した。

「おはよう!」

 にっこり笑って近づいてくる中原美樹は、流石に山道を歩くのでスカートではなかった。ぴったりと似合ったブルーのジーンズに真っ白な長袖のシャツを着て、開いた胸元から赤いネックレスが見え隠れしていた。白い帽子にリュックサック、緑色のスニーカーを履いてちょこんと薬師堂の前に立った彼女は胸がキュンと本当に音を立てたかと思うほど可愛らしかった。

「じゃあ行こうか」

 薬師堂たちは幾つかある武田山登山道の内、正面から登るコースを選んだ。

二人の母校である祇園寺中学校を右手に見ながら、溜め池の脇を通って真っ直ぐ登ってゆく所まではなだらかだが、ここを過ぎるといよいよ本格的な登山道に入る。この正面からのコースは頂上に行くには確かに最短距離ではあるが、その険しさは並ではない。軽いピクニック気分で来ていた二人だが、次第に息も上がってきて言葉も交せない程になってくる。

 そこから先へは馬も行けない位の急傾斜となっているため、ここで馬を返し、ここから先、荷は人の背で運んだと伝えられる「馬返(うまがえ)し」という郭に出くわす。馬を繋いだのであろうちょっとした広さの平地に出た。一息入れたいところだが、ここはまだほんの序の口に過ぎない。二人は先を急いだ。

 少しだけなだらかな山道を進むと再び急な坂道となり、深い緑の中に入った。そこを這い上がると急に辺りが開かれて来て明るくなる。この辺りに、明らかに人工的な巨岩が意図的に配してある。ここは「御門跡」と呼ばれ銀山城の南麓の出入り口であり、場内への門があったと伝えられる。かつては通路を直角に取る鈎の手の形に石積みがあったと言われるが、現在では崩されて巨石が無造作に転がっている。

「こっちに来てごらんよ」

 一番端にせり出している大岩の上から薬師堂は中原美樹を手招きした。ここまで来ると眼下にはゆったりと流れる太田川、そしてそれに沿って広がる祇園の町が真下にはっきりと見てとれた。

「随分登ったのね」

 流れる汗をハンケチで拭いながら中原美樹も目を見張った。

「ここからが大変なんだ」

 祇園の町に生まれ育った薬師堂は、小さい頃から何度となく武田山には登っている訳だが、何度登ってもここから先の険しさには閉口した。「御門跡」は頂上直下に位置し、ここまで来ると頂上はすぐそこに見え隠れするのだが、たどり着くのは容易ではない。ごつごつした大岩がそこいら中に道を塞ぎ、七〇〜八〇度の急傾斜となる。

「大丈夫か?」

 自然と登り慣れている薬師堂が、中原美樹をかばい手を差し出していた。さっきから余りの道の険しさに声も無い美樹は、すがるようにその手を握り返した。薬師堂が美樹を引き上げる。ごくごく自然な成り行きでそうなったのだが、薬師堂は、汗でしっとりと湿った上、マシュマロのように柔らかな美樹の手に触れて胸がときめいた。そして、一度触れてしまうと段々と手を触れることに慣れてきて大胆になってきた。薬師堂はなだらかな道でももう中原の手を離さなかった。心細さもあってか、中原美樹もそのまま特に抵抗も無く二人手を取り合って登る形となった。

 登り始めてから約一時間半、遂に頂上に着いた。

「やったーっ!」

標高四〇〇メートル余りの小さな山ではあったが、道が険しかっただけあって、やっとたどりついたという達成感に溢れた。二人は手を取り合って登頂を喜び合った。薬師堂にとっては憧れの中原美樹と単なるデート気分というだけでなく、下界では都会育ちのおすまし娘に見えた美樹が、山の中では田舎に育った自然児のような自分を頼り、体を預けて手を取り合って一緒に登ることが出来、何か二人だけの連帯感といったようなものを感じとても心地よかった。

 息が整うまでのちょっとの間、二人その場にしゃがみこんでいた。

「うわぁーもの凄く大きな岩」

 美樹がやっと腰を上げてその巨岩を見上げた。その岩は「御守岩(ごしゅいわ)」と呼ばれ、おむすび形をした巨岩で、高さはおおかた五メートルはあった。よく晴れた日には下界からでも頂上に光ったようにこの岩が見えた。この岩を中心に頂上には巨岩がゴロゴロしていて、それらの岩の至る所に建物をすえつけたか、柱を建てるために開けたと見られる穴や切り込み痕がそこら中に見られた。この辺り一帯は「館跡」と呼ばれ相当に広い平地となっている。

「ここにお城が建っていたのかしら」

「ちょっとこっちへ来てごらんよ」

 頂上館跡の北側の低い岩の上に「鶯の手水鉢」と呼ばれる人工的なくぼみがあっていつも雨水が溜まっている。形が鳥に似ているのでそう名づけられたとか、春先に鶯がこの水で喉を潤して鳴くというので名づけたとか色々な言い伝えがある。

「本当。鳥の形に似てるわ」

 そう言って美樹はその岩に溜まっている水を手で少しすくっていたずらっぽく笑って見せた。

「ちょっと早いけど、腹ごしらえにしようよ」

「そうね」

 時計を見るとまだ十一時過ぎだったが、汗をびっしょりかいて一目散に登ったので二人ともお腹がペコペコだった。御守岩の隣の広い平板な岩の上に腰を下ろしておにぎりとお茶で軽い腹ごしらえをした。

「あー、生き返った!」

 水分をたっぷり取ると、先程までの疲れが嘘のように吹き飛んだ。

 頂上からは南側が大きく開け、眼下には広島市の三角州が見事に広がって見える。そのデルタの先に瀬戸内海があり、その向こうの島々までが見渡せた。見事なパノラマである。

 晴れ渡っていた空に少し陰りが見え、それと共に生暖かいが緩やかな風が辺りにそよいだ。

 

 

 頂上で水分と食糧を補給して休息し、小一時間ほど近辺の史跡をゆっくりと見て回った。

「そろそろ降りようか」

 下山は今度は西南方向、東山本へ向かうなだらかなコースを降りることにした。こちらにも幾つかの史跡があるので、それらを確認しながら下山するためだ。隣の山の火山に繋がる登山道に入りかけた所を南に少し下った辺りに木がうっそうと生い茂った静寂とした空間が開けた。「観音堂跡」と言われ、ここに観音を祭った御堂があって、休息の場として使われたり戦略の密議が行われたりした所と伝えられている。

 観音堂跡を過ぎると、「上高間」「下高間」といった多少の広さをもった郭跡を通る。ここで二人はひと息入れる。登りと違って下りはやはり楽で早い。あっという間に中腹近くまで駆け下りた。

 薬師堂が今来た方角を振り向くと、木立の間からひと際大きく聳え立つ巨岩群が見えた。祇園町のどこからでも見え、天気のよい日の朝などは、陽の光に照らされて雄々しく輝いて見えるあの岩だ。近くで見るとまるでせり出した崖のようになってこちらを見下している。薬師堂はどうしてもあの岩に登ってみたくなった。

(あの岩を間近に見てみたい、あの岩の上に立ちたい。岩に触れ、岩を直に感じたい)と強くそう思い、その気持ちを抑えられなくなった。

「中原、ちょっとここで休んでいてくれないか、俺どうしてもあの岩の所まで行ってみたくて」

「嫌よ。だったら私も行く」

 結局二人で少しの間寄り道をすることにして行って見ることになった。上高間まで戻って、そこからは道の無い草木の中をかき分けて進むと、遂に目の前に目指す巨岩の崖が現れた。足場を固めながら草づたいにゆっくりと前進すると、岩の真上にまで迫ることが出来た。

(す、凄い迫力だ!)

 丁度巨岩が三個、山から転げ落ちる途中に斜面からせり出して三つが重なった形になって、そこで時間が止まってしまったかのようだ。薬師堂は上から恐る恐る下を覗いて見た。断崖絶壁になっているその下は、えぐられたように深い谷が続いていた。

「私にも見せて」

 美樹も何とかやって来て、薬師堂の脇をつかみながら四つん這いになり恐る恐る下を覗いた。

「あっ、あれは!?」

 見ると岩と岩との合間から木が生えており、目を凝らしてよく見ると、それは南天の木のように見えた。

 フッと手を伸ばしかけた瞬間、中原美樹はバランスを崩し前のめりになった。

「危ない!」と咄嗟に手を差し伸べた薬師堂の手を握り締めたまま、そのまま二人、もつれ合うように崖から谷底へと滑り落ちていった。

 

 

 大永四年(一五二五年)五月二十日、周防の大内義興・義隆父子は、防、長、筑、豊の二万五千の軍勢を率いて中国統一の軍を興し安芸の国へ攻め入った。義興は一万の兵で廿日市・桜尾城を囲み、義隆は二万の兵で佐東・銀山城を十重二十重に取り囲んだ。

 銀山城主・武田光和は援軍を出雲の尼子氏に頼んだが、尼子経久は伯耆の国に出陣した山名氏と戦っていたため、援軍を寄越すことは出来なかった。

 銀山城としては味方は小勢であり、この大軍に対し打って出て戦うのもためらわれ、城を落されまいと懸命に守りを固めていた。寄せ手の大内方としても圧倒的な大軍とは言え、要害堅固で鳴るこの銀山城をそう簡単には攻め上ることなぞ出来ず、遠巻きにして手をこまねいて見ている日々が続いていた。

 武田(たけだ)太郎(たろう)判官(ほうがん)光和(みつかず)は、伴五郎、品川左京亮、小河内左京亮、小河内大膳父子、内藤修理亮、弥四郎父子、その他の家子郎党を集め銀山城の頂上館で戦評定をしていた。

「大内に城を囲まれ、もはや二ヶ月が経とうとしている。だが我らはいまだ一戦もせず、このまま城の守りを固めるばかりでは敵に嘲られるばかりじゃ。毛利元就など『武田光和は、この大内の大軍を見て恐れをなしたのに違いない。もともと父の元繁殿をこの元就に討たれながらも、何年経っても弔い合戦の一つも出来ないような男で

勇も孝も無いつまらぬものよ』と嘯いていると言うではないか。無念じゃ、無念でならぬ。このように言われたのでは末代までの名折れじゃ。いざ一戦仕ろうぞ」

 光和の父、武田元繁は光和が十五のとき有田の合戦で、毛利元就と戦い命を落していた。

 しかしながら、城中わずか三千足らずの兵、この数で二万の敵に懸って行ってどうして勝つことができよう。戦を挑めば勝敗は自ずと明らかだが、さりとて戦わなければ臆病者とのそしりを免れぬ。戦評定はなかなか決せず、一同声も無く静まり返っていた。

 つと、内藤弥四郎(やしろう)が進み出て、

「どちらにも一理ありまする。こうなったらまず足軽どもで急襲をかけ敵をおびき出し、敵の出方を見て決するしか仕様がありますまい。敵の備えが思うより堅固なれば一戦取りやめ引き下がり、逆にお味方勝利と見れば総掛かりでこれに突き当たるしか手はござりませぬ」

 評定も煮詰まり、もはやこれに異を唱える者もいない。

 

 かくして、七月三日、武田光和の指揮の下出陣の号令が下された。

武田軍は貴重な三千ではある。用意周到に陣分けがなされ策を練る。総軍三千余騎は五隊に分けられた。

 まず内藤修理(しゅり)(のすけ)(ともの)入道(にゅうどう)、毛木民部大輔らは各三百騎で三ヶ所に合わせて配置された。麓の合戦で不利となれば敵は勝ちに乗じて攻め上って来ると思われる。この際要所々々に潜んで挟み撃ちにして返り討とうというのである。

 光和の軍の先陣は、伴五郎、品川左京亮(さきょうのすけ)、山県彦九郎、内藤弥四郎己下八百余騎、第二陣は一条弥三郎、板垣小三郎、粟屋兵庫助、佐藤源八己下一千五百騎を城から南へ下った辺りに伏し控えさせた。

 先陣は既に武田山を降り下って麓の平地に楯を一列に突き並べて

敵を挑発していた。

 これを見た大内方は「遂に痺れを切らし城中から打って出たと見える。それ、あの者ら討ち取ってくりょうぞ」

 大内方から杉伯守、右田左馬助、問田掃部助、仁保右衛門太夫ら三千騎でこれに打ちかかった。

 陶安房守、豊田美濃守は二千余騎で先陣の後詰に出て事あらば入れ替ろうと備えていた。

 その他にも大内方の兵一万が佐東銀山城を取り囲み、郷中に充満ちて押し寄せているのを見ると、さしもの勇将の武田光和もこれではひとたまりも無いと見受けられた。

 大内方の先陣の杉、右田、問田らが足並みをそろえ進軍して来るのを近づくまで近づけておいて、武田勢は楯の陰から散々に弓を射掛けた。

 大内方の問田掃部助隊の五百ばかりが真先に立って槍を持って「やーっ」と一気に武田方に突き進み、杉、仁保の軍三千がこれに押し続いた。

 武田軍も懸命に防戦するが、多勢に無勢で次第に押し返されてゆく。乱戦の最中、内藤弥四郎が日輪の旗指物を腰刺しにして唯一人居留まって奮戦していた。

 「返せや、返せ!」武田光和軍の青木十郎太郎の隊が取って返し、内藤を助けて散々に防戦する。

 内藤弥四郎の奮戦は凄まじく、敵数十人を突き伏せたがさすがに疲労は隠せず、自らも手傷を数箇所負い、あわや討たれようかと見えたその時、武田光和が自ら五百騎を率いて駆けつけた。

 大内方の杉、右田らは忽ち突き崩されて引き退いた後、二陣に控えていた陶隊、豊田隊とが入れ替った。

 武田光和、身の丈七尺余りもある大男で鉄の弓を用い、これを易々と放つほどの強者であった。

 この時も普通の者ならば6〜7人がかりでも難しいような大きな弓に大矢をつがえて軽く放つと、その矢はうなりを上げて陶安房守の若党の馬の肩先を射通し、その後に立っていた素膚者の体の真中にずんと命中した。

 この有様に、辺りに居合わせた大内方の兵らは度肝を抜かれ恐怖におののいた。下がる間をも与えず、続け様に放った光和の二の矢は今度は陶道麒の若党の胸板を射抜き、その後に続いた武者の馬の首を射切り、鞍の前輪を草摺かけて射通した。

「音に聞く保元の昔の(白河殿へ敵の寄せた折に猛威を振った)鎮西八郎源為朝や、屋島の戦いの折の能登守平教経でもよもやこれほどではあるまい」と皆々肝を冷やし、我先に後ずさり大内の陣はとたんに総崩れとなった。

 これを見て陶安房守が「何を下がるか、戻せや戻せ」と懸命に下知し、下がる兵士らを前へ前へと押し立ててゆく。

両軍入り乱れ、もはや弓は投げ捨てられ、槍を取って攻め戦う大混戦となった。

 鬨の声、雄叫び、まるで辺り一面の大地が揺れ動くかのような大音響で、須弥山も崩れ落ちようかというほどの凄まじさである。

馬の跳ね上げる土り、武者ぼこりなどが空中に飛散し、陽の光も見失うほどの有様で、もはや何れを敵とも味方とも区別も出来ないほどの大乱戦となっている。

 

 武田光和は己が武勇を常日頃より誇っていたから、常に小勢で大勢に立ち向かってゆき、大将でありながら自らも先頭に立って奮戦した。

薄傷を三ヶ所ほど負うてはいたがものともせず、自ら陶の若党、浦野小太郎、杉大八、宮野らをはじめ九人まで突き伏せ鬼人の如き働きであった。

内藤弥四郎も目覚しい働きであった。

また、小河内一族は二百の兵が一段となって身命を捨てる奮戦で、遂に陶軍も総崩れとなり引き退り始めた。

これを見るや、大内勢の、今度は新手が繰り出してきて戦いに加わった。武田方は小勢であるのをこれ幸いに、大内方に押しまくられれば背後の山の中へ素早く引きこもり、勢いに上じて大内方が攻め上がって来れば尾根の陰から散々に矢を射掛けて、相手がひるんだと見ると、今度は槍隊がダーッと突きかかってきて、上がった所を逆落としして後陣と入れ替る。まさに一進一退の戦いが続いたが、もはやこれ以上はと、大内方が日没をもって兵を引き上げたため武田勢も銀山城の中へ引き下がった。

 

大内方、豊田中務小輔、湯田孫次郎ら約三百が、武田方は板垣兵部丞、粟屋小平太、戸谷孫八郎ら百七十人が討ち死にした。

 

「皆々よう戦こうた、よう戦こうたぞ」

 武田光和は自らも手傷を負いながらも、真っ先に兵らにねぎらいの声をかけて回った。

 銀山は、全山要塞と化した規模の大きな山城である。頂上の本丸を少し南に下った辺りに「千畳敷」と皆が呼んでいる大広間をもつ館があった。平面の少ない山城のこと、千畳もある訳では無いのだが、狭い山城の中では一番広々としているので皆こう呼んでいる。今日の戦で傷ついた者はここへ運ばれ、傷の手当てを受けていた。

 

 銀山は四〇〇メートル余りの、浅いお椀を伏せたようななだらかな山だが、南側は頂上に近づくにつれて切り立っており、一度に多人数で、しかも具足を付けてなど到底登っては来れない険しさである。南側正面中腹を少し上がった辺りに大手御門を設け、ここから先は一人ずつでないととても登れない。頂上本丸や観音堂、上下の高間など城の施設はみなこれより上にあった。

 登り道の要所要所に大岩が配されており、戦となって万一攻め上られてもこれら大岩の陰に隠れて矢を射掛けられでもすれば、どうすることも出来ない。むしろ登り道の要所要所に自然岩が来るように、登山道の方をわざとそのようにつけたと考える方が自然であろう。

 見張り櫓では警戒を解かず、見張りを続けさせてはいるものの、いったん引き退いた大内軍が大挙して戻って来て攻め懸けて来る心配は今夜のところは無いと見える。

 

「敵の数二万に対し我等は三千ぞ。良くぞ蹴散らした、大勝負じゃった」

 武田光和は十五の時に、父元繁を有田の合戦で毛利元就に討たれて以来、この八年間、合戦に継ぐ合戦に明け暮れていたが、今一つ心が晴れなかった。しかし、今日のこの戦は違った。どこを攻め取った訳でもなかったが、中国を尼子と二分する巨大な大内の大軍と堂々と互角に渡り合い、防ぎ切ったのだ。それは勝利と言ってよかった。一軍の大将とは言え、まだ二十三の若さ、体中に力が漲り溢れ返っていた。

 今日の戦においても先頭に立って死にもの狂いで戦った。そしてそれは自分だけではない。家中総出の奮戦の結果であった。

「殿も中々のご奮戦で」

 足の踏み場も無いほどの負傷兵でごった返す広間の光和の背後から聞き慣れたかすれ声がした。

「おお弥四郎、無事じゃったか。お主の今日の働き見事であった」

 見ると体中に切り傷を負うて座り込んで手当てを受けているのは内藤弥四郎であった。

「城を出て一戦すべし」と具進したのは自分であったから、この一戦に命を捨てる覚悟で奮戦したのではあったが、あわやという所で光和自らが旗本を連れての加勢によりかろうじて命を長らえた。

「殿、かたじけのうござった」と居住いを正そうとする弥四郎を

「よいのじゃ。それより早うに治療せよ、まだまだ油断は禁物じゃ」と光和は制し他所へ回った。

 銀山城東麓、龍原の仏護寺周辺や南麓、青原の谷入口にある松尾山近辺には、家臣たちの居館や寺院が立ち並んではいたが、大内の大軍に攻め寄せられてそれら山麓の建物は打ち捨てて、山上に引き篭るしかなかった。

 頂上本丸から南西に向うなだらかな尾根づたいに、上の高間・下の高間と呼ばれる比較的広い敷地が山間に有り、兵たちがぎっしり詰めて休息している。今夜だけはもはや攻め懸けてくることも無いと見て各隊とも炊飯に取りかかっていた。

 上の高間から本丸への帰り道の途中、光和は観音堂に立ち寄って思わず手を合せた。

(新羅三郎義光公、我らを、武田を守りたまえ…)

神仏など恐れたこともあがめたことも無い無骨な自分ではあったが、この時だけは心底より祈らずにはおられなかった。

 

 

 大内方の再三の執拗な攻撃に対し、武田光和率いる武田軍は要塞堅固で鳴る銀山城の地の利を生かし奮戦し、何とか踏みこたえていた。

 毛利元就は大内勢が数万の大軍をもって安芸国になだれ込み、銀山、桜尾の両城を取り囲む、の一報を受けた時直ちに出雲月山富田城の尼子経久の下へ援軍要請の早馬を送った。

 これを受け尼子経久も、亀井・牛尾・馬田ら大将を先陣として五千騎を安芸へ送り、自らもいよいよ雲・伯・作・備後・備中の勢力を集め、遂に銀山城の後詰に打って出てきた。

 また毛利元就も吉川・宍戸・平賀・小早川・熊谷・香川ら四千の兵を率いて尼子軍と一緒になり、七月八日銀山付近に進軍し、大内軍に対峙して陣を構えた。まさに中国の両雄、尼子軍と大内軍の全面衝突は避けられぬ情勢となってきた。

 両軍しばらくの間、互いの出方を探りながら牽制し合い幾日かが過ぎた。

 このような中で迎えた八月五日は、日暮れより折りしもの大雨となり、全くの闇夜となった。

 毛利元就はこの時とばかりに山内・宮下・宍戸・吉川・小早川・熊谷・香川らの諸隊を五つに分け、大内方の陶安房守、杉伯耆守といった名だたる武将の陣へ、敵味方の区別がしやすいように白鉢巻に白装束という出で立ちで夜襲をかけた。闇夜に加えて折からの風雨の中、突然切り立てられて大内の軍は大崩れとなり、討ち取られた者多数。夜討ちは大勝利を収めた。

 散々に切り立てられた大内軍では、八月十六日陶晴高は銀山南麓青原の南御所に置いていた陣を一旦払い、廿日市まで後退し大内義興の陣と合流することとなった。銀山攻めにてこずる様子を聞いた大内義興は、

「尼子経久、武田光和、毛利元就、この三人は皆吉川家と婚姻し縁戚となり、このように一味してそれがしに敵対するとは誠にけしからぬ」

 と大いに憤り残念がったため、陶らは発奮し凄まじい勢いで桜尾城を攻め立てた。

 ところがこの時、折りしも九州勢侵攻の注進がしきりに届き、また時を同じくして石見勢が尼子方に呼応して長門との境界へ侵攻してきたとの知らせも届いていたため、「まず自国の敵を退治した跡他国を切り従えるべし」との義興の命に従い、八月二十五日廿日市の陣も引き払われ、大内軍は山口へ撤退するに至ったのであった。

 

光陰矢のごとし、十年の月日は瞬く間に過ぎ去った。

武田光和は先年、三入(みいり)の高松城主、熊谷信直を攻めた際敵の矢を左足太股に受けた。

 その時は浅い傷と見えたのだが大した処置もしなかったのが災いし、傷口からバイ菌が入ったのか化膿し大きく腫れ上がり、今や寝込むまでになった。左足は太股だけでなく全体が腫れ上がり、腐りかけているような状態であった。現代ならば切断して一命をとり止める所なのであろうが、当時のことではそれもままならず毒が全身に回って、衰弱の一途をたどっていた。このところ数日前からは高熱を発し体に痙攣がきて、意識も失せがちになりかなりの重篤な状態であった。今で言う破傷風の症状であろう。

 高熱にうなされ、息も絶え絶えになりながら、光和は初めて己の一生を思った。

(・・・・自分の一生とは何であったのであろうか。十五の時、父を討たれてよりは、合戦に次ぐ合戦、まさに戦に明け暮れた毎日であった。そのような毎日を省みることも無かったが、今こうして意半ばで思いもかけず死の淵に立つこととなってみると、自分の人生とは何とも無惨な月日を刻んだだけのものか・・・・・)

 頭を巡るものといえば、佐東の大地を忙しく駆け回り奮戦した戦のことばかりであった。

 鬼人とも恐れられた父、元繁を討たれた有田合戦から以後は、武田家は急速に衰退をはじめた。配下の熊谷などにまで見切りをつけられて離反され、また山口の大内からは中国支配の拠点を作るため再三再四銀山城への侵略を受け、気の休まる間も無かった。

 亡き父の弔い合戦を憎き毛利元就に一度も挑むこと無く、今まさに自分の命の火は燃え尽きようとしているのか…悔んでも悔み切れない。この悲憤の心というものは、例え死んでもこの世から、この佐東銀山の地上から消え去るとは到底思えなかった。

(・・・・父上、太郎は口惜しゅうございますぞ。まだまだ父上に会いとうはございません。父の仇元就と一戦も交えずば何の合わす顔がありましょう・・・・・・父上・・・・・光和は・・・・・本当は淋しゅうござりました・・・・・・安芸武田の家を・・・・今一度・・・)

 その時、

『太郎よ、お前は立派によう戦うた!』

一瞬、父元繁の声がはっきりと鮮やかに、耳の中に響いた。

それが光和の最期の時であった。高熱にうなされて、つり上がった両の目から涙がひと雫こぼれ落ちた。目を開き、歯を剥き出しにしたまま胸を掻きむしり、恐ろしい形相で最後は自分の運命を呪いながら、武田光和は息絶えた。齢三十八歳。

 天文九年(一五四〇年)六月九日のことであった。

 

 このような悲運の最期であったから、光和の死後、銀山では奇怪な出来事が度々起こる。これも光和が成仏出来ずに亡霊となってこの付近をさ迷っているからだという噂が絶えなかった。

 銀山へ木こりに行くと必ず怪我をするとか、山から石を持って帰りわら打ち台にしていたら家族から病人が続出したとか、中腹の大谷には大きな蛇がいてこれを見たものは必ず病気になる、この蛇こそ武田光和の生まれ変わりであろう・・・・・とか枚挙に暇が無いほどだ。

 中でも誠しやかに地元で伝えられている大掛かりな話としては次のようなものがあった。

 ある禅宗の修行僧が道に迷って銀山を通りかかり、岩を枕に眠ったり、滝の水に打たれて座禅をしたりしていると、一転俄かに掻き曇り暴風雨となった。やがて山が崩れるほどの大音響がしたと思うと、年の頃三十余りの大男が鎧を着て鉄の大弓に鉄の矢を持ち、葦毛の馬にまたがり飛んできた。ものを言うのを見ていると口から火を吐いている。この男が「小河内」と呼ぶと「はい」と言って齢六十ばかりの老人が大地から湧き出してきた。男が「これにお客のお坊さんが居られる。おもてなしを」と言うと、この老人は湯玉の沸きかえる熱鉄を銚子に入れ鉄の杯を添えて持ってきた。大男は「貴僧に一杯おすすめしたいがまずは自分が飲んで見せよう」と軽々とその熱鉄を三杯傾け、「我は生きていた時は武田判官光和と言った。最後の一念によって修羅道に入り魔軍八万四千を率いて天下の騒乱を起こし、仏法を仇となし、猛火をもってすべての寺を焼き尽くそうとしている。達磨大使九年の修行ですらどうすることも出来ない。ましてこの頃の一僧において何が出来るか。形は僧に似ていても心は鬼の如く、身に法衣をつけていても心は俗塵に染んでいるではないか。仏は太平の世の奸賊であり釈迦は乱世の英雄である」などと暴言をもって仏を罵り一口に食おうと僧に飛びかかろうとした。

 この僧は全く動ぜず、暫らく端座した後忽ち大声で、

「通心無影像!」と一喝した。その瞬間に光和は合掌して何か唱えながら跡形も無く消え去った。

 この僧は、これは誠に不思議なことであると、暫らくここに逗留し武田光和の霊を弔うことにし、千部の経を書写しこの地に埋め、また千本卒塔婆を作って冥福を祈ったので光和の怨霊もようやく静まった、というものであった。

 

1〇

 

 武田光和亡き後、光和に後継ぎが無かった為その遺志によって叔父伴五郎繁清の子、刑部(ぎょうぶ)小輔(しょうゆう)信実(のぶざね)が武田家に迎えられたが、この信実が年若く、また到底この戦乱の世を渡ってゆく器にも見えなかったから、武田家重臣の間でも不平不満の声が渦巻いていた。

 重臣筆頭格の品川左京亮は、主だった家臣たちを一堂に集めて協議をすることにした。香川、己斐、福島、山県、筒瀬、毛木、粟屋、内藤、板垣ら武田の一党が集まった。

「光和公のご逝去は返す返すも残念なことでござった。しかし、後継ぎのことについては光和公在世の時より、伴五郎殿のご子息刑部小輔殿を御養子とされる約束のあったこと各々方ご存知のはずでござる。この上は諸氏力を合わせ刑部小輔殿を盛り立て、毛利元就、熊谷信直らに対し光和公の御弔合戦をすることをしかと心に留め置かれるように」

 満座の者は釘を刺すような品川の言葉に顔を見合わせるばかりであったが、香川左衛門尉光景がまず口を開いた。

「左京亮殿の仰せはもっともなこと。しかしそれがし思うのにはここは一旦毛利元就に和睦を申し入れ、その後時節を見て光和公の弔合戦をするのが一番ではないかと存じまする」

「何?元就と和睦をせよと申されるのか!」

 品川左京亮が口を挟んだ。

「さよう。あの猛将と言われた百戦錬磨の元繁公でさえも、五倍の軍勢で戦いながら元就にたちどころに討ち取られ申した。毛利元就の威勢は年々強大になるのに引き換え、当家は月を経る毎に衰えを加えており、ここで一戦するのでは勝てぬと大剛将であった光和公でさえ、恨みを忍んで過ごされたのでござる。それなのにまだ若輩の刑部殿が元就に挑んで勝てるはずがございません。ここは一旦和睦を結ぶべきで、勝てる見込みの無い戦を起すのは末長く武田の家を守ることにはなり申さぬ」

 そう言うと、己斐(こい)入道も、

「香川殿の申されるのは道理至極。わしも毛利との和睦に賛成じゃ。それ以外のことには御免蒙る」

 これを聞いた品川左京亮は大いに怒り、

「方々何を申されるか。武田は代々当国の守護ではないか。幕下の毛利と和睦せよとは何事。武田家末代までの名折れじゃ。お二方とも武士道をご存じ無いか!」

 荒々しい言葉にも臆せず、香川光景は、

「例え幕下であっても、将来のために一旦和睦して後で挙兵して敵を討つのに何の恥辱があると仰せられるのか」

 品川左京亮が更に、

「和睦が駄目だと言うのじゃ。香川殿もこれほど言うてもまだ判らぬか」と吐き出すように言ったので香川光景は遂に絶えかねて口を滑らせた。

「忠言耳に逆らうとはこのことじゃ。あの刑部のような不肖者が元就と合戦するなぞとんでもない。あのような者を取り立てて毛利と一戦することを自滅と言うのだ」

 そう言い捨てて席を立って帰り始めた。

「逃げるか!者共、あれ討ち止めよ!」

 品川左京亮が命じると若党ら五〜六〇人が立ち上がり、すぐさま後を追った。

 香川光景は小高い所に駆け上がり、従者に持たせておいた槍を取り、十文字に打ち振りながら、

「やあやあ者共、近寄ってこの槍にかかって命を捨てるか、それとも生き長らえて毛利のために武田家が滅びる時に命を捨てるかあ!」と大音声を上げた。

 かねてから香川の武勇は良く知られているので近寄る者も無く、遠矢を射ている内に香川も己斐もそれぞれの城へ引き上げてしまった。

「うぬう…あ奴ら武田を見限り、既に毛利と通じておるのじゃ。許せぬ、何としても討ち取ってくりょう」

 左京亮は武田の家臣等約一千を引き連れて香川討伐に八木城へ押し寄せた。

 ここに至り、武田家は家臣が真二つに分れ、家臣同士が争うという内紛状態となった。

 武田方は小山のような八木城に火矢を射掛けて焼き払い、一気に攻め落してしまおうと三日三晩息もつかせず攻め続けたが、香川方も城を枕に討死の覚悟で城に篭って必死に防戦し、容易には落ちなかった。

 この時、香川の親戚筋の平賀隆宗と三入の熊谷信直らが香川の援軍に来るとの報が入り、武田方は前後に敵を受けては一大事と兵を引き、遂に銀山城に引き上げた。

 城へ帰ってみると、平賀や熊谷まで出て来たとなるといずれにしても毛利元就が後ろについていると見て間違いは無い、そうなると、この次に攻める時にはあの強敵毛利と戦わざるを得なくなる。勢いの落ちた武田が、日の出の勢いの毛利に負かされる位なら、ここはやはり恥を忍んで和睦をすべきである・・・などの意見が出て軍議が全くまとまりがつかない。銀山城内は大混乱に陥った。

 武田信実は、齢まだ弱冠十五歳であったから、目まぐるしく揺れる武田の重臣たちの意見をまとめることなど到底出来ようはずも無かった。

 衰退してゆく武田家と共に滅ぶ「義」を選ぶか、それとも恥を忍んで毛利の下風に一旦立っても再起を期すか、各々各家の面子も欲得もあったから容易には決まらない。意見を求められることも無く、満座の中で飛び交う意見をただ聞いているだけの信実を見かねた品川左京亮は、評定の席から信実を連れ出した。

(これも世の流れよのう・・・安芸武田を支え切れるお人は、光和様以外には有り得なんだ。あのお方が亡くなった時点で終わっていたのだ。この若者に期待する方が酷というものじゃ・・・・・・)

そう思うと、香川を攻めてまで信実の下に団結しようと肩いからせていた力がひょう・・と抜けるような気持ちになった。

 と同時に、武田家の最期にたまたま担ぎ上げられたこの青年が、無性に哀れにも思えてきた。何もこんな所であたら若い命を散らすことは無い、そう思うと、何とかこの若者を城から逃げ落ちのびさせてやりたくなった。

 

11

 

 武田家中の内紛をよそに、天文九年(一五四〇年)六月いよいよ出雲の尼子晴久は安芸へと乗り出してきた。目指すは毛利元就の郡山城。大内方に寝返った元就を討伐するためである。

 八月には、牛尾遠江守幸清が尼子晴久の命を受け、二千の兵と共に佐東銀山城の武田信実の下に入った。郡山城の毛利元就を南側から脅かすためである。

 八月十日、尼子晴久は自ら三万の大軍を率いて月山富田城を後にし、九月四日には吉田郡山城西北に到着。遂に合戦となった。

 大軍を前にひとたまりも無いと思われていた毛利軍であったが、自軍の十倍もする敵を前にして元就は郡山城に篭り、お得意の奇襲や計略で尼子軍を散々いたぶって苦しめ、とうとう冬まで持ち堪えた。兵糧も残り少なくなった尼子勢は、雪に閉ざされることを恐れ、翌天文十年(一五四一年)正月十三日、遂に出雲に向って撤退を開始する破目となった。

「なに!?それはまことか?!」

 尼子軍撤退の報を聞いた品川左京亮は、わが耳を疑った。

 (あの天下の尼子が・・・・・)

 郡山では元就が、あの手この手と奇策を次々と繰り出し、想像以上に善戦し持ち堪えていると聞いてはいたが、所詮落城は時間の問題と誰しもが思っていた。

 (恐るべし・・・・・・・毛利元就・・・・・・ )

こうなると、尼子方の武田の銀山城は、尼子の大軍が居なくなった瞬間から、毛利や大内からは格好の攻撃目標となる。

折りしもこの日は、夜半から大雪となっていた。

(城を出るとしたら今夜しかない)

品川左京亮は、頂上館に詰めている信実に使いをやって観音堂まで呼び寄せた。

「殿、もはやこれまでにござりましょう。尼子軍と出雲で合流して再起を期すのです」

「ど、どうすると言うのじゃ?」

 大雪の中、しかも夜中に呼び出されて信実はまだ事態が飲み込めない様子である。

「もはや一刻の猶予もなりません。今宵、これから城を出るのです」

 旅支度は既に左京亮が供の者に用意させてあった。

不安な面持ちながら信実は左京亮に従わざるを得ない状況であることを直感した。

 その場で着替えを済ませた武田信実に供の者一人をつけ、これを先導する品川左京亮ら一行三人は、降りしきる雪の中闇夜に紛れて銀山城からの脱出を図った。

 銀山の頂上を隣の火山(ひやま)側の西に折れ、伴方面への登り道を逆に駆け降りた。北東方向は、香川、熊谷と武田に反旗を翻した勢力の縄張りだから危険である。また、海沿いを西へ西へと進むのも大内方に捕らえられる危険があった。

(遠回りになるが、伴から久地(くち)()河内(ごうち)方面に草を分け入って進み、そのまま山越えをして出雲へ抜けるしか道は無い・・・・・・)

 一歩、また一歩、落ち行く三人の足取りは重たかった。

舞いすさぶ吹雪が益々勢いを増していた。

 

12

 

 主を失った佐東銀山城では、

「こうなったら城に篭って最期の最期まで戦いあるのみ。城を枕に討死じゃ」と血気にはやる者も居たが、年若いとは言え、主君である武田信実自身さえ見限って行った武田家の落日は隠せようも無く、一人、又一人と毎夜のように銀山の城から兵が逃げ落ちて行った。

 尼子方から毛利討伐の援軍として派遣された牛尾率いる二千の兵も、孤立を恐れ、尼子軍の後を追うようにして引き上げてしまっていた。

 結局の所、残るは武田恩顧の家臣たち、粟屋、山中、青木、内藤らの配下約一千余騎が決死の覚悟で銀山城に立て篭もった。

 武田方から寝返り、今では毛利方の先鋒となっている香川左衛門尉や己斐豊後守らは、逃げ場を無くした武田の残党に死に物狂いになられては容易には攻め落せないと、何とか和睦をさせるため銀山城に使者を遣わせた。

 これになびきかける者も居たが、内藤弥四郎が毅然として、

「ここに至って今更何を言う。出て行きたい者は行ったら良いであろう。他の者がどうであろうと、この内藤弥四郎、銀山城を枕とし、ここで討死ぬ覚悟じゃ」

と大いに憤り使者をも切り捨てかねない有様であったので、他の者ももはやこれまでと、いよいよ最期の一戦の覚悟を決めたのであった。

 猛将武田光和も病死し、今また尼子の大軍を撃退し意気揚揚たる毛利元就は、後顧の憂いも無く、いよいよ銀山城攻略に取り掛かった。

「あの剛勇で鳴らした光和が年若うにして亡くなるとはの、人の命など判らぬものよ。おまけに精鋭揃いの武田の家中が内紛で揺れていると言う・・・今の内に討ち取ってしまえゃ」

と大内義隆も陶隆房(すえたかふさ)の一軍を派遣し、毛利軍と合流させた。

 毛利軍は大町(おおまち)金蔵寺の辺りに、また陶隆房率いる大内軍は銀山南麓青原(あおばら)城山(しろやま)南御所(みなみのごしょ)付近に陣を張った。

 かくして、毛利・大内合同軍の銀山城攻撃が始まった。

中でも大内軍は何度攻めても武田光和率いる武田の精鋭に守られ煮え湯を飲まされてきたから、今度こそはとの意気込みには凄まじいものがあった。

 それにしてもこの銀山城、三百年この方手を尽くして作り上げられた全山要塞で、ここにひとたび篭ってしまえば守るに固く、容易には攻め落せない。三月四日、毛利軍の一隊が銀山の東麓尾根にあたる三岩(さんいわ)の方面から攻め掛けてみたが、六人の武田の兵を討ち取ったのみでそれ以上は進めない。銀山城の中枢は中腹より上にあり、裾野はなだらかでも一定より以上になると、断崖絶壁そそり立つが如き険しさで、大軍では到底攻め上れないのである。狭く急傾斜の登り道を楯などを押し立てて少人数で登るところを山陰より散々に矢を射掛けられでもするとお手上げなのであった。

 

 

 ここに至り毛利元就は一計を案じた。

(・・・・この城は容易には落せぬ・・・・・・)

そう見た元就は得意の計略を講じた。

 この山城を正面から攻め落すのは到底無理と見て、裏側から攻めるしかないと考えた。銀山の武田方でも万一背後から敵が攻めて来る時のことも考え、(やす)の正伝寺に配下の者を住まわせておいて、いざ背後から銀山を攻める動きがあれば正伝寺の鐘を打ち鳴らす手筈にしてあった。

 このことを察知した元就は、一隊を正伝寺に差し向けこれを制圧し、合図の鐘を鳴らさない手筈を整えた。

 五月七日夜半、毛利軍は銀山の北側山麓に密かに集結した。しかし何とか城方の注意を山の正面南側に向けさせておかねばならない。

そこで元就は一計を策した。八木の辺りで農家という農家からありったけの草鞋(わらじ)を急ぎ集めて油に浸し、これに火をつけて八木の辺りから夜の太田川へ片っ端から流したのである。大量の草鞋は、轟々と燃えながら銀山城南側正面を流れる太田川を流れ下って、戸坂の渡船場付近で水の流れの加減で渦を巻いた。これを銀山の城の上から見ると、夜目でもあり丁度毛利の大軍が八木の辺りから松明を持って行軍し、戸坂付近に集結した後今にも正面から銀山へ攻め掛けて来るかのように見える訳であった。

正伝寺の合図の鐘の鳴らない理由を知らない武田方は、正面からの大軍の襲撃に備え、全軍を城の南側正面中腹の各所に配置につけた。

次から次に松明を持った毛利方の兵たちが、戸坂に大挙して渦を巻くほど集結し膨れ上がっている。夜にもかかわらず、銀山に向けての進軍は時間の問題と思われた。武田方はこれを警戒し、主力を南側中腹まで降ろし正面からの毛利軍の突入に備える体制をとった。

銀山の武田軍に緊張が走った。

ところが時間は経てども、一向に銀山へ攻めて来る様子が無い。一時は燃え盛って見えた松明の火も火勢が弱まり、チラ、ホラと消えかかり始めている。

「ややっ!?これはおかしい。さては謀られたか!」

 その時である。

頂上館の方角で大喚声が上がり、メラメラっと館から火の手が上がった。武田軍の隙に乗じて北側闇に紛れて攻め上ってきた毛利の本隊が、突然背後から攻めかかってきた。

「謀られたぞ、敵は背後じゃ。皆取って返せ」

しかしいつもは攻め上ってくる敵を上から散々に攻め降ろす強さを誇った武田軍も、既に頂上を奪られ逆に下から上へ向って攻め上って行く形では、攻守逆転、不意を突かれたこともあって武田軍はバタバタと討ち取られてゆく。完全に形勢不利であった。

 

13

 

 一体どれだけの数の毛利軍が攻めて来ているのか、北側からも西側からも次から次へと毛利軍が繰り出してきて攻め寄せて来る。

武田軍が南側に気を取られている隙に、城の北側は完全に制圧されてしまったらしい。

 城に立て篭もって死力を尽して守ってこそ大軍を防ぎ切るすべもあるが、これではどうすることも出来ない。既に頂上館やその下の千畳敷の辺りまで、毛利兵が満ち満ちて制圧されかけてしまっている。

 (うぬ、これはもはやいかぬ!)

 内藤弥四郎はこの一戦に華々しく死に花を咲かせようとかねてより覚悟の上であったので、攻め寄せて来る毛利軍の新手らを決死の形相もの凄く、死に物狂いに切りまくっていた。

しかし多勢に無勢はもはや如何ともし難く、また武田方の兵士たちも戦意を喪失してしまったのか次第次第に残る兵の数も少なくなっていった。

「青木殿、青木殿!いよいよじゃ。後のこと、手筈どおりに頼んだぞ!」

 必死で奮戦していた内藤弥四郎であったが、

(もはやこれまで)

と、乱戦の中を一人抜け出し、観音堂の裏手辺りまでやって来た。

この勢いでは、ここまで毛利兵が攻めて来るのも時間の問題と思われた。

 お堂の裏手の石垣に兜を置き、その横の草むらにどうっと腰掛けた。

 若き日、今日のような乱戦の中、危うく死にかけた所を武田光和の加勢により助けられたこともあった。その光和も、これからというまさにその時、病に倒れ若くしてこの世を去った。

(随分と無念であったであろう・・・)

様々なことが、走馬灯のように、弥四郎の頭の中を駆け巡る。

武田の家臣の子に生まれついて、戦国の世の波乱に翻弄され続けた半生であった。そして、安芸銀山に三百年の繁栄を誇った武田家は風前の灯火となり、今まさに滅び去ろうとしている。

しかし不思議に、弥四郎には悔いは無かった。

己の与えられた生を、力一杯生きた。そう思うと心の奥底に清涼感さえ漂った。

(殿、弥四郎めもお傍に参ります。いざっ!)

瞬間、亡き武田光和に語りかけるようにして脇差で腹を十文字に掻っ捌き、更に喉を掻き切って、切腹して果てた。

文字通り、この銀山の城と運命を共にした内藤弥四郎の壮絶な最期であった。

 

 

 青木太郎左衛門は、内藤弥四郎より、

「いざという時になったら、武田家に伝わる家法の品々を持ち出し、厳重にこれを守って武田家再興の際の助けとすること」

銀山城での討死覚悟の篭城が決まってから、よくよくそう言い渡されていた。

「嫌でございます。拙者どこまでも殿の後をついて参ります」

「ならぬ!どんなことをしてでもお主は死んではならぬ。武田家の宝を守り抜き、縁の者を立て何としてでもお家再興を期するのじゃ」

 生き残れと言われた太郎左衛門には、悔しさと不安が残った。

(今となっては内藤の殿のご遺志を守らぬ訳にはいかぬ・・・)

しかし、毛利軍は怒涛のように湧き出し攻めて来る。もはや一刻の猶予も出来かねた。

 安芸武田家家宝の第一は何と言っても武田家始祖の新羅三郎義光公の鎧であるが、これは相当な重量があり、この混戦の中ではもはや運び出すことは難しい。

その第二は武田家代々に伝わる黄金の茶釜・・・これは手に持つことの出来る大きさと重量で、木箱に入れて用意してあった。だがこの乱戦の中、宝を持ったまま抜け落ちるのはよもや不可能と思われた。

(この山の、どこか誰にも判らぬ所に埋め隠しておいて、後日隙を見て運び出すしかない)

 そう意を決すると、青木太郎左衛門は木箱を小脇に抱えて、刀を振って草木を掻き分けて進んだ。

 観音堂から上高間へ降りる道を横にそれ、更に道無き所を草を分け入って進むと断崖絶壁に突き当たる。ここなら道も無く、容易に人が近づける場所ではない。太郎左衛門は慎重にこの崖岩に張りつくようにして降り下り、三つ目の大岩の下の辺りに少しばかり土の窪みがあることに気がついた。

(ここなら誰も判りはすまい)

 手に持つ刀で懸命にこの部分の土を掘り、その底に木箱に入った黄金の茶釜を入れ、土を埋め戻した。そして、それだけでは埋めた位置が判らなくなるので、目印とするため準備しておいた白南天の小木を懐より取り出し、宝を埋めた位置にしっかりと植え込んで標しとした。

 南天の木の実の大半は、秋から冬にかけ鮮やかな紅色の実を結ぶ。

赤い実のなる南天はそこいら中にある。

 だが白南天は珍しい。白い実のなる南天の木は辺りでここだけである。宝を取りに戻るのが万一何らかの支障で遅れることがあっても、これなら見失う心配は無い。

(この場所を知るものは拙者しかおらぬ。何としてでも生き延びねば・・・・・)

 青木太郎左衛門は、そのまま深い谷へ向って一目散に降りて行った。毛利勢は背後まで迫っている。行く手には大内軍も網を張って待ち構えているだろう。

(生きるのだ!)

内藤弥四郎の声がしたような気がした。

今頃はもう、この世の人では無いように思えた。

草を分け入って、山本へ続く道にやっと抜け出し、夜の闇の中へ消え去って行った。

 

この日、要害堅固で鳴った銀山城も遂に希代の軍略家、毛利元就によって攻め落され、ここに三百年間続いた安芸武田家は滅亡したのであった。

 

14

 

 「ウーン・・・・・」

 気がつくと薬師堂は草むらの中に倒れていた。起きようとすると左手と左足に痛みが走った。だが骨に異常がある程ではないようだ。 ゆっくりと半身を起してみた。幸いにして打ち身か捻挫程度だろうと思われた。

 よく見ると、すぐ近くに中原美樹がうつ伏せのまま横たわっている。

(そうだ、確か、あの崖の上から落ちたのだ!)

薬師堂はやっと自分たちの身に起こったことを思い出した。

随分長い時間が経ってしまったようにも思えた。

 時計を見ると午後の四時半で、空を見上げると山の一日はもう暮れかかっていた。どれだけの時間気を失っていたものであろうか。

長い長い夢を見たような気がした。

 美樹はまだピクリとも動かない。

先にバランスを崩したのが美樹で、それに引きずられるようにして自分も転がり落ちたのであったのを思い出した。

「おい、中原さん・・・美樹ちゃん!大丈夫かい?」

声をかけ、背中を何度か揺すると美樹もやっと気がついた。

こちらの方は足は何とも無かったが、左手は相当強く打ったらしくブランブランで全く自由が効かない。骨が折れているのかも知れなかった。

 体中についた土や草をお互いにはらいながら、見上げるとそこは大きな岩の崖下で、谷底に二人が立っているのが判った。

どうやら二人とも転落の時頭を強打せずに済んだみたいで、最悪の事態だけは免れたようだった。

「歩けるかい?」

「ええ何とか。でも左手が・・・ダメみたい」

 美樹はもう片方の手で左腕を押さえると痛そうな顔をした。

「よし、俺の肩を貸そう。しっかりつかまって」

 そう言う薬師堂の方も、びっこを引きながら歩いている。

とにかく何とか歩き出さなければ・・・少し行けば、東山本への下山道に出くわす筈であった。

 日がそろそろ暮れかかっている。麓に抜ける道にぶつかり、なだらかな山道を二人支え合いながら無事下山することが出来た。

美樹を家まで送り届け、転落事故のあらましを彼女の両親に話し安心させた後、薬師堂も帰宅した。

 何だか随分と疲れた一日だった。

自分が、あの大岩を見に戻ろうなどと言いさえしなければ、こんな事故にはならなかったのに・・・と思うと、あの時欲を出したことが悔まれた。

  

 二人の墜落は命に関わる高さからのものであったが、崖下が雄々しく繁茂した柔らかな草むらであったことが幸いし、奇跡的に軽傷で済んだ。

薬師堂は打撲だけで済み、全治十日間。中原美樹は、左手をやはり骨折していて全治二ヶ月、肩から腕を吊ったギプス姿が痛々しかった。

 後日、研究レポートの総仕上げに美樹と二人で久々に会うこととなった。

「気を失っている間、私長い長い戦国時代の夢を見たような気がするの」

美樹がポツリとそう言った。

それは壮絶な銀山城をめぐる戦いの絵巻であったという。

不思議なことに、薬師堂がボンヤリと覚えているのも同じような内容なのであった。

 毛利元就や、武田光和が躍動していたような気がする。しかしそれらは、事前に色々な文献で読み知っていたことでもあり、夢を見たと思い込んでいるのかも知れなかった。

転落して二時間ほど気を失っていたこともあって、そこの所の記憶が混沌としてよく判らないのであった。だが一方で銀山城の攻防をすぐ間近に、鮮烈に垣間見たような気がするのも確かであった。

 しかし・・・・・・二人は知らないのだ。

二人が滑落し、気を失って横たわっていたあの崖下の草むらのすぐ脇に、ひっそりと静かに、しかし年月を経て大きく成長した南天の木があったのを。

 夏、まだ実をつけていないが、それこそ武田家再興の願いを託したあの白南天の木なのであった。

 

+  +  +  +  +  +  +  +      

 

 あなたも一度武田山に登ってみるがいい。

武田山の中腹のどこかに、立派な南天の木が根を張っていることだろう。

 五百年の時を経てもなお、白い実を一杯につけた南天の木がもしあったとしたら、その木には、こんな長い長い物語が秘められているかも知れないのだ。

 ( 了 )