〜第7話〜 「私、次第かぁ・・・」
あてがわれた部屋の窓枠にもたれ、華燐は外を眺めていた。天気は良く、空は青く、雲は霞のようにたなびいている。階下の庭園の木々に停まる鳥の声が聴こえる、長閑な日だった。
郊外に住む永泉という人物から、御剣にまつわる話を聞いて、肩の荷が多少下りたのも束の間の事だった。
(・・・それじゃあ、私は何が出来る・・・?)
そう考えを巡らせるも、田舎育ちの自分にはいきなり託された現状をどうしていいか知るすべは無かった。しかし、日々をこうして自堕落に過ごしていても、何が解決するわけでもない。
(・・・よく考えたら、私、この国のこと何も知らない・・・)
生まれ育った田舎町、そしてやってきた都。華燐が知っているのはこのふたつの場所だけで、後者に至っては、辿り着きひとまず暮らしているというだけで、未だに何処に何があるのかなど殆ど解らないのが現状であった。目にした事が無いだけで、この国、この世界はもっと広い筈である。
「何か・・・解ること、ないかな」
誰にともなく呟いて、華燐は部屋の外に足を向けた。
* * * * *
「うわあ・・・・・・」
見上げるほどの書架の列に、華燐は思わず押し殺した感嘆を洩らした。
書庫は、政務室と対を成して正殿を挟む建物で、宮のほぼ中心に位置している。外観も政務室と同じ造形が施され、一見して合わせ鏡に映したようにも見える。柱と欄干は見事なまでの朱に塗られており、壁面の白に映えている。また、至る所に施された細かな装飾や透かし彫りなどは、華燐にとって未だに目に痛いほどだ。自由に見ても良いという許可を受けていたものの、今まで足を踏み入れたことのない場所であった。行ってみたところで、最低限の読み書き程度しか学んだことの無い華燐にとっては無縁の場所に思われていたからだ。もっとも、『自由に』行動する前に迷子になる方が早いという理由もあったのだが。
いざやってきた書庫は、2階建ての建築だった。華燐の立つ1階入口の左右奥に2階へと昇る階段が設けられており、それ以外は天井に届きそうなほど高い書架が整然と列を成していた。永泉の家で見た書庫も蔵書数が多いと感じていたが、個人と一組織では比べ物にはならない。しばし圧倒されていた華燐だったが、思い切って書架の林に足を踏み入れた。しかしすぐに、
「・・・誰かについて来てもらえば良かったかも」
そう一人ごちずにはいられなかった。
難しいながらも、立ち並ぶ書物の背表紙と書架の札、そしてなけなしの勘を頼りに、1階部分の奥まで辿り着いた時、華燐は見知った後ろ姿を見つけた。
「・・・湖成さん?」
大きな音を立ててはいけないと注意を受けていたので、小声で声を掛けてみる。
「おや華燐さん。どうしましたこんなところで」
それはこっちが訊きたいと華燐は思った。書物に用があるならば、立って書架と睨めっこをすればいいものを、見つけた後ろ姿は書物を移動させる為の車輪付きの手押しの荷台に隠れるようにしゃがみ込んでおり、小柄な彼女の姿はしっかり隠れてしまっている。しかも、どうしましたと返した彼女は、振り返るのではなくそのままの姿勢でのけぞるようにしてこちらを見上げてきたからである。そして、声には出さず自分にもしゃがむよう手招きする。妙な気迫に押されて指示通りしゃがみ込む。
「湖成さんこそ何やってるんですか・・・」
目線が同じになったところで、彼女の視線を目で追う。
「いやァ、私はただ書物を求めて来てみたまでですよ。決して書庫の似合う知性派美形のお宝映像を愛でているワケでは」
「愛でてるんですね・・・」
小声ながらもその声は明らかに嬉しそうであった。何より視線の先には、書庫に設けられた机に向かう桐巳の姿があった。しかも、天気の所為もあるのか、窓側のその机には柔らかい日差しが注いでおり、本人は肘をついて僅かにうとうととしていた。
「・・・お邪魔しました・・・」
確かに貴重な絵かもしれないが、華燐には湖成のようにじっくり観察するだけの情熱は無かった。
誰かについて来てもらえば良かったと思ったのは事実だが、彼女は多分、彼が目を覚ますまで動かないだろう。仕方なく華燐は静かにその場を後にした。
解らないなりにも、しばらく探索を繰り返していれば、自分なりの規則性も見えてくるものである。
始めは本の林だと思っていた書庫とその内容も、よく見ていけばそれなりの規則性が分かり始める。と言っても、学問分野においての規則性ではなく、あくまで華燐が自分なりに見つけた規則性なのだが。
それは、綴じられた、いわゆる書物の形をした本よりも、巻物状に丸められた書物の方が図や絵が多く、文字の羅列よりは見易いという事だった。難しい文書が読めない自分にとっては、図や絵の方が幾らか直感力を刺激しやすい。そこで、巻物を中心に閲覧を始めた華燐だったが、現在、別の意味で苦戦を強いられていた。
「・・・んっ・・・と、届けぇ・・・っ!!」
それは、身長の問題だった。推測ながら、地理や歴史に関する書架は2階の窓側に有った。そこに辿り着き、並べられた巻物に狙いを定めたは良いが、その巻物は、女でしかも比較的小柄な部類に入る華燐には少々厳しい高さに配列されていたのである。踏み台も探してみたが、どうやら近場には見当たらない。仕方なく出来る限りの背伸びをして、指の先まで伸ばしてみたが、どうやら届く気配は無い。
「・・・駄目かぁ・・・」
「どれ?」
「へ?」
不意に背後から影が降りた。振り返ってみれば、背後に自分より頭ひとつ以上大きい若者が立っていた。
「烽焔・・・さん?」
そう呼ばれた若者は、よぅ、と軽く手を挙げた。華燐の髪も赤毛ではあるが、彼の髪はそれよりも色が淡い。近場の窓が取り込んだ日の光に当たったそれは茶に近い色合いを見せていた。
「上のだろ?どれ取ろうとしてたの?」
「えっと・・・あそこの、巻物を・・・」
「これ?」
華燐が悪戦苦闘して尚惨敗したそれも、長身の彼にはさしたる苦ではないらしい。烽焔の手はあっという間に目的物を華燐に手渡していた。
「あ、ありがとうございます。でも・・・烽焔さんどうしてここに?」
今度は見上げて尋ねなければならない。桐巳のような文官が御用達にするのは解るが、烽焔は将軍職である。想像する限りこんな本の山には縁遠い存在に思われた。問われた彼は、僅かに答えにくそうな表情を見せた。
「俺?俺は・・・ちょっと・・・仮眠にな」
「仮眠?」
「・・・ここが一番静かなんだわ」
そう言って彼は苦笑した。曰く自室では、昼間は逆に廊下をばたばたと歩き回られて騒々しいのだという。なので、非番の日の今頃は、大抵ここでひと寝入りするらしい。
「はあ・・・」
他の人間にばれるといいとこ取りが出来なくなるから秘密な、と念を押され、華燐は曖昧に頷く。
「つーか、嬢ちゃんは何かベンキョウ?」
「私は・・・」
問い返され、華燐はここに至った経緯を話して聞かせた。
「はー・・・、主ってのはそれはそれで大変だな」
「でも、私が勝手にやってるだけで・・・。私、学なんて無いから絵や地図の方が何かひらめくものがあるかな、なんて・・・」
今度は華燐が苦笑する番だった。田舎育ちという事実は、こういう時露呈せざるを得ない。
すると、それを聞いていた烽焔は、やや考えるようにしてからこう返した。
「・・・少しなら、協力できるけど?」
「え?」
「桐巳や槍瑛みたいに博識じゃねぇけど、簡単な地歴くらいなら」
「・・・あ、ありがとうございます!!」
思わぬ助け舟だった。
「地図・・・?」
「だな。」
近くの机を陣取って、先ほど手に入れた巻物を広げてみる。書庫の蔵書はどれも古いものや高価なものだろうから、華燐には毎度緊張する作業だった。そこに現れたのは、様々な曲線といくつかの文字で形作られた一枚の地図だった。
「・・・嘉条の、ですか?」
地理に詳しくない華燐が、安易な連想で尋ねる。
「いや、嘉条はこの区切られた部分。他の三国も合わせた全体図だな」
「全体・・・」
改めて、即興の講義が始まった。
全体は、僅かに横長で、所々に突起したり窪んだりしている形だった。子供が泥を固めた造形物のようだと華燐は感じた。先ほど、『嘉条だ』と指でなぞられたのは、地図の下方に区切られた部分。国境と思しき上部(上部が北、下部が南を指すらしい)に重なるように描かれた細かな波線は山脈を指すもので、連影(れんえい)山脈というらしい。同様に、北に区切られた部分が北の大国・朧阿(ろうあ)であり、対照的にその南に連なる山脈を天峰(てんほう)山脈と呼ぶ。西に区切られたのが少飛(しょうひ)、東に区切られたのが史鳳(しほう)。少飛の東部に見られる斜線部分は、天明(テンミン)大森林と呼ばれる樹海のような地域で、史鳳と朧阿の境界線の半分は白明(はくめい)山脈が占めていた。
更に、それぞれの区画内部を走っている波線は大河で、それぞれの国に2〜3本ずつ見て取れる。各国は、それぞれに領土の大きさが違い、国力は大体その大きさに比例しているという。目測で考えると、順に朧阿、史鳳、嘉条、少飛の順だろうかと華燐は考えた。
烽焔の説明は、本当に概要的なものだったが、何も知らないところから教わる華燐にとっては逆にありがたかった。
大体の地形説明が終わり、華燐は聞いた事と地図の内容を見比べるようにしてまじまじと地図を眺めた。
「・・・ここは、国じゃないんですか?」
華燐はふと地図の中心部分――連影山脈と天峰山脈に挟まれた地域を指差した。嘉条と朧阿の間に挟まれた部分である。
「ああ、その辺りは少数部族が点在してて、どの国にも属してない」
「へぇ・・・」
少数部族とは、部族ごとに独特の、同じ髪の色や瞳の色を持った人々であるらしい。
「どれくらいいたかは覚えてないけどな。・・・あ、ちなみに陽興の都はココな」
烽焔の指が、嘉条の中心部分を指す。自分の出身は小鴻(しょうこう)だと話すと、それならここだと幾らか南に下がった部分が示された。
この陽興の都まで、馬車を利用して一日と半分ほどかかったが、この地図の上でその距離は、華燐の人差し指一本分の長さにも満たない。それを考えると、今ここに一目で見渡している世界が、とんでもなく広大なものに感じられた。
「こんなに・・・広いんだ・・・」
「この国境線の位置が大体決まったのが、建国の頃だってんだから、気の長い話だよな」
「建国の、頃・・・?」
烽焔の言葉に聞き返す。確か、華燐の持つ御剣は建国の頃から祀られていると聞いた。
「ああ、確か『建国伝承』ってのがあるんだけど、何だったかな・・・・・・『今生の・・・』?『天地・・・』・・・」
「『今生の祖たる天地開闢の礎を國史に叙べ傳へて曰く』ですよ」
記憶の糸の端々を呟いていた烽焔の背後で、澱みの無い正答が聞こえた。
「桐巳さん」
背後にはちゃっかりと湖成も手を振っていた。おそらく目を覚ました若者を言いくるめて、華燐たちを探しあてたのは彼女だろう。一方、不鮮明だった記憶がはっきりしたところで、烽焔は相槌を打った。
「あー、それそれ。さすが詳しいなお前」
「帝学で散々暗記させられただけですよ」
誉められる事でもない事を誉められて、桐巳は苦笑しながら返した。帝学とは、皇族の子女と、宮に仕える者の子女の通う学院の事で、父親が文官だった桐巳はそこの出身者なのだという。ちなみに烽焔や槍瑛は国中から入学者の集まる、都にのみ設けられた大学の出身者である。
「てゆーか、建国伝承なんて持ち出して何なさってるんです?」
桐巳の背後から卓上を覗き込んだ湖成は、そこに広げられた地図をまじまじと見遣り、華燐たちとを見比べた。華燐がいきさつを話すと、
「・・・はー、なるほどー。烽焔様、ウソとかデタラメ教えませんでしたァ?」
と、からかうように烽焔に詰め寄る。
「ンな事無ェよ・・・・・・多分。ああ丁度いいや、桐巳、交替」
沙那も連れて来れば良かったなぁと楽しげに提案する湖成に、勘弁してくれと手で示し、烽焔は桐巳に話題を振った。
「私ですか?」
「で、でも桐巳さん忙しいんじゃ・・・」
慌てて否定したのは華燐である。確かに教えてもらえるならば有り難いが、相手の邪魔をしようとは思っていない。烽焔は非番だというので願い出たわけだが。
しかし、桐巳の返答は穏やかなものだった。
「丁度、目途がついたんでお邪魔してみたんです。構いませんよ、私で良ければ」
そう言って、手にしていた数冊の書物を机の隅に重ねる。華燐は改めて居住いを正した。
「はーい、それじゃ湖成、生徒その2になりまーす」
そしてごっこ遊びでもするかのように、湖成が華燐の隣に陣取る。烽焔は、桐巳に席を譲った。
「建国伝承のこと、でしたかね」
桐巳は近くの書架に軽く目を遣って、一冊を取り出す。ぱらぱらと捲り、ひとつの頁を広げた。そこに並んでいたのは、現在使われている言語よりも更に古い古典のように思われた。桐巳はこれがそうだと言い、その内容を読み始めた。
今生の祖たる天地開闢の礎を國史に叙べ傳へて曰く
天地の開闢より幾年、人間自ら統べ治め、州里と成す。
然も、天地創生の回たるが如く、小我の神祇為らんと欲する小慧、幾重に錯雑す。
安くんぞ因業為らんや。即ち小慧是に肥硝し、禍乱と成る。
幾許なり遍し戦禍哀鳴降り敷かる地輿。民生須く英毅英主の出るべしと希ふ。
何れの時ぞ、許多なる豪壮を聚集せし覇の出る。
即ち南侯 蛮領統し者 御名を尊びて 紅帝と称ふ。
即ち東侯 卜呪叙し者 御名を尊びて 珀帝と称ふ。
即ち西侯 理業併し者 御名を尊びて 碧帝と称ふ。
即ち北侯 胡狼従し者 御名を尊びて 玄帝と称ふ。
宣て 紅帝統し地輿を、嘉辰の条成らんとて 嘉条と唱ふる也。
是に紅帝 諡して 花琉帝と称ふ。即ち嘉条開元の祖と祀らん。
「えー・・・っと・・・・・・」
ゆっくりと述べられた文面だったが、初めて聞く、しかも古風な言い回しに華燐の咀嚼は限界になっていた。隣の席では湖成が両手で頬杖をついて感心したように頷いている。
「はー・・・これって正式に言うとそんなに堅苦しい文章だったんですねえ。私の場合、師匠が要約して教えてくれたんですけど。やっぱり帝学って堅苦しい所だったんですか?」
「普通に生活していれば左程・・・と言うか、湖成さん一体どんな要約を・・・?」
「えーっとですね、・・・『要するに、思慮浅い者達が好き勝手に争った挙句、四国(よんこく)の始祖がそれを平定したのが国の始まりだ』って」
「それはまた・・・思い切った意訳を・・・」
ご丁寧に、湖成は腕を組み、無い扇子を振って師の物真似までやってみせた。湖成の言う『師』が永泉である事は桐巳も知っていた。この長い口上を暗記までさせられるのは帝学ならではだと認識していたが、他所ではこうも敬意も何も無い認識をされているのかと思うと、どう言っていいやら解らなかった。
「あー、確かそんな意味だったそーだそーだ。俺史学の時間よく寝ててさー。後から槍瑛に似たような解説してもらった」
更にもう一方では烽焔が納得顔で昔を思い出している。
「お二人とも・・・・・・」
この場合、文句を言うべきは訳者なのかその生徒なのか。
ちなみに華燐はと言えば、むしろその意訳を有り難いと思ったが、敢えて口には出さなかった。
「・・・という事は・・・、嘉条の始祖・・・煌莱陛下の遠いご先祖にあたる方はえっと・・・か、花琉(かりゅう)陛下とおっしゃるんですか?」
華燐のたどたどしい質問に、桐巳はやんわりと解説した。
「いいえ、『諡(おくりな)』ですから。『花琉帝』というのは、その死後に呼ばれた名という事になります」
「本当の名前じゃないんですか」
「建国当時には、記録を残す手段が無かったそうですからね。先ほどの伝承も、何代か口承で伝えられたものを、文字としてやっと今のような書面に残されたものですから」
「はぁ・・・」
「ああ、それでも確か、その文字の意味から花琉帝は女性だったのではないかという説がありますね」
「女性?」
華燐は聞き返した。という事は、『平定』を成し遂げたのは女性という事だろうか。そのような偉業を成し遂げるのはてっきり男性ばかりだと思っていたが。そう言われてみれば、華燐の持つ『花玉』は烽焔などが佩いているものとはやや華奢な造りで、どちらかと言えば女性的な印象を受けなくも無い。もっとも、建国の始祖と御剣に関係があるか否かは不明のままだが。
「もっとも、民俗学や言語学が混じった俗説的な考えですけどね」
桐巳は笑って付け加えた。いずれにせよ、想像も及ばない過去の話であり、事実、廟に祀られているのは偶像の無い精神的な存在に過ぎないのである。
ふと窓から差す光は角度と色を変え、橙色の光が時間の過ぎた事を示していた。
* * * * *
白錘(はくすい)は、小柄な身体に何冊もの書物や巻物を抱え、政務室の前まで辿り着いた。両手が塞がっているので、一度そっと床に荷を下ろす。面倒な作業だが、茶飯事の事となれば慣れも出てくる。そして、下がってきていた眼鏡を持ち上げ、入室の礼儀として軽く戸を叩く。これが彼がその部屋に入るまでの一連の茶飯事であった。
夜がその帳(とばり)を下ろし、月と星が庭園の池の水面に映る、明るい晩だった。
「失礼します」
扉を開け、荷物を持ち直して入室してきた少年に気付き、卓上に向き合っていた男は顔を上げた。
「よう、白錘か」
男――槍瑛は一息入れて、伸びをしながら書物を置く少年を見た。彼は、自分の助手のような仕事をしている。気性はさほど荒くなく、どちらかと言えば気弱な人種だったが、成績は良く、よく気のつく少年だった。
白錘は、部屋に重ねられた書類と書物を比較照合させる準備をしながら話し始めた。
「書庫で調べ物をしていたらすっかり遅くなってしまって。そう言えば、華燐さん・・・でしたっけ?今日は桐巳さん達と書庫で色々頑張ってらしたみたいですよ」
「そっか・・・」
「…どうされたんです?・・・地図、ですか?」
曖昧な相槌に、白錘は話し相手の手元に目を遣った。そこには大陸を示した地図と、それを簡略的に模写した紙片が重ねられていた。
「んー、ちょっとコレ見てくれるか?」
「・・・これは・・・?」
灯りをかざしてよく見ると、模写された地図は、何処かおかしい。国境線を示した黒い墨の線までは大体同じだが、一本朱墨で線が引かれている。それは、中央平原の東側約三分の一ほどを分断するように縦に走っていた。そして、その線を引いたであろう人物は、別の紙片の束を手にして一言呟いた。
「遊布が今まで調べてきた情報から推測してみた、今の実質的国境線・・・?」
語尾が疑問のように上がっているという事は、あまり断定したくない事なのだろう。
「……実質的?」
白錘は問い返した。北の大国・朧阿の南側から下ろされた朱色の線は、やがて嘉条の北側に届こうとしている。
「そ。年代から考えりゃ少しずつなんだけど、ここから東側にある・・・と思われてた少数部族は、今殆ど残っていないらしい」
「残って・・・いない・・・・・・?」
四国に属する人間が『少数部族』と呼ぶ人々は、その民族だけでいわば小型の国を形成している。季節ごとに土地を動く者たちもいると聞くが、部族同士で争うという話は聞いたことが無い。
「史鳳・・・ですか?」
「いや、あそこの国主にそーゆー趣味があるとは聞いたことが無い」
西の少飛はまず国境線さえ接していない。 ということは。
「さて問題。お前ならこの線をどう続ける?」
西方・東方へ広げれば少飛・史鳳へ。南下すれば、嘉条へ。紙の上では何の事は無い一瞬の作業。しかし、現実となれば。
「僕には・・・・・・引けません」
「だよなァ。いっそお前が朧阿の皇帝だったらと思ったんだけど」
「でも、どういう事ですか?建国から今まで、こんな事は・・・」
少なくとも、国史には記されていない。四方の国の、少数部族への対応は様々であるが、少なくとも一方的に侵攻したという事実は無い。
「俺が聞きてェよ」
にわか仕立ての地図と向き合っていた槍瑛は、呟いて嘆息した。
「・・・どうされるんですか?」
「それは今晩じっくり考える。とりあえず明日コレ報告するから召集かけといて」
それだけ言って、槍瑛は立ち上がった。
「さーて、どうすっかねー」
窓の外では闇に紛れた木々が、風を受けてざわざわと、鳴いた。
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