江波キリスト教会
 
 


 毎週礼拝を飾っているお花と 週報の巻頭言の み言葉を載せています
 
 
 
 


 2019年7月21日
 
 花材    西洋ヤマゴボウ
 生きるにも死ぬにも 

  
  生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと
  切に願い、希望しています。             
                      (フィリピの信徒への手紙 1・18

 
  神さまの恵みの大きさ、愛の深さ、知恵の広さ。その中にキリスト、主イエスはおられる。      そして働いてくださる。

  この主イエスにパウロは圧倒されて、わたしにとって生きるとはキリストそのものだ。 
 生きるにしても死ぬにしてもキリストのほかに道はない、と告白しているのです。

  だから、「キリストを小さくしない」。

  パウロの中に、キリストが生きて働いておられるように、私たちの中にも、同じように
 キリストは生きて働いておられて、その方を証ししているのです。

  キリストが、私のうちに生きてくださることによって、わたしとこの世、わたしと相手の 人
 との間に、キリストが立っていてくださって、新しい目を通して、新しい歩みを開いてくださる      のです。

  わたしの内で、主イエスが大きくなればなるほど、わたしも大きくされるのです。

 
 

 2019年7月14日


 
 花材    ななかまど   菊 
  キリストが告げ知らされている

   口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、
  わたし はそれ を喜んでいます。これからも喜びます。  
              
                          
                          (フィリピの信徒への手紙 1・18)

   パウロは、福音宣教の働きの動機が何であっても、イエス・キリストに目が注がれ、キリスト  の福音が広く宣べ伝えられているのだからそれで十分だと言うのです。

   パウロは、自分を誇りとはしないのです。

   「福音の働き」によって自分が有名になろうとか、パウロの派閥を作ろうとかということは考   えていないのです。

  ただイエス・キリスト。イエス・キリストこそが福音。「誇るのは主イエスのみ」、それがパウロ   です。

   自分の名声や自分の誇りを求めていないパウロにとって、ただイエス・キリストが宣べ伝え   られる。ただイエス・キリストの福音に生きるものになる。そこにだけ目を注いで、福音の働き  にまい進しているのです。

   とにかくイエス・キリストの福音が告げ知らされているのだから、それこそが喜びなのだとい  うのです。 

 
 

  2019年7月7日


 
 花材   かえで  菊  ドラセナ
 キリストに結ばれて
 
  あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
  それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。       
                          (フィリピの信徒への手紙 1・4-5)  


  「福音にあずかっている」というのは、今このときにも確かに信仰を与えられ、 キリスト と共に生かされて歩んでいるということです。  

  フィリピの教会は、小さく、弱く、貧しい教会でした。
 しかし、その小ささ、弱さのために、争いがあり、大きな波に飲み込まれそうになって、
 恐れを抱くこともあったのです。とても、神さまの平和に満たされているとは思えない出来 事が起こっていました。

  そうでありながら、フィリピの人たちが、何とかイエス・キリストにつながって歩もうとし  ているのを、パウロは知って、共に恵みにあずかる者だと喜び、神さまに感謝しているの です。

  その上で、人につながるのではなく、伝統や言い伝えをよりどころにするのでもなく
、ただイエス・キリストにつながって歩むように、フィリピの人々に、また私たちに伝えてい るのです。
 
 

 2019年6月30日

 
花材 砥草 柳 紫陽花 ゼラニューム

 この名のほかには 
  
  ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名 のほか、人間には与えられていないのです。                       
                                    (使徒言行録 4・12)
 
  私たちの日々の生活の中で、どうにもならないと思える状況に身を置いてしまうときも、また、 祈る言葉さえ見つけ出せずに黙ってしまうときもあります。

  しかしその真ん中で、一緒に歩んでくださる主ご自身が、一人ひとりにふさわしい「恵み」を与  えてくださり、どうにもならない状況の中で、主の恵みの力によって導いてくださるのです。

  そこに、確かに、主は一緒におられる。
 そして、時には、私たちを、丸ごと背負って歩んでくださっているのです。

  私たちは、「イエスの名」を指し示し、たどたどしくても「イエスの名」を紹介することしかできな  いかもしれません。しかし紹介することはできるのです。
 そうすれば、主ご自身が、一人ひとりにふさわしい歩みへと導いてくださるのです。
 
 

 2019年6月23日

 
  花材     南天  小海老草 
  しかし、お言葉ですから

  しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。
                                (ルカ 5・5)


  「賛美と和菓子の会」は、二年目を迎えました。讃美歌を歌い、ショートメッセー ジを  聞き、季節に合った和菓子を作り、一緒に食べて交わりを持ちます。六月は、「水無月 (みなづき)」です。

  4月のショートメッセージの一部です。

  たくさんの人が、イエスさまの話を聞こうと集まってきたので、イエスさまは話を する ために、ペトロに舟をこぎ出してほしいと頼まれました。話が終わると、ペトロ に言わ  れました「沖に漕ぎ出して網を降ろして、漁をしなさい。」 

  ペトロたちは、イエスさまの言葉に驚いたでしょう。「ど素人が、何を言っているのか。 」一晩中、漁をして何も取れなかった。いまさら漁をしても無駄だ。

  しかしペトロは「しかし、お言葉ですから」と、イエスさまの言葉に従って一歩踏  み出すのです。

  一歩踏み出すのには、勇気がいります。しかし何もしなければ、何も起こりません。
 「お言葉ですから」と一歩踏み出すとき、新しいことが起こされ、神さまは祝 福してくださるのです。 

 

 2019年6月16日
 
  花材     枇杷  紫陽花  
主の名を呼び求める
 
 主の名を呼び求める者は皆、救われる。                                                     
                        (使徒言行録 2・21)

  
 こども祝福式を献げられて神さまに感謝いたします。

  「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」ペトロを通して語られた福音の言葉。それは、 私たちにも届けられ、今このように、一緒にいただいている約束の言葉であり、信仰の言  葉です。

  聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ペトロが語った説教は、ただ「主の名、イエス」 を指し示すものでした。私たちも、同じように、ただ主イエス・キリストを指し示すのです。 

  教会は、イエスさまを十字架につけた罪人の集まりです。ペトロも、そして使徒と呼ばれる 弟子たちもそうでした。そして今なおイエスさまを十字架につけたままでいる私たちも同じで す。

  しかし、その十字架の愛によって、私たちは一八〇度変えられて、赦され、救われ、主の 体の教会に招かれているのです。そして主イエスを中心とした交わりの中に生かされてい  ます。

  その交わりの中に、今日、こども祝福式を受けた子どもたちもいるのです。主の名を呼び 求める私たち、共に歩みましょう。
 
 

2019年6月9日

 

  花材   白波  紫陽花  菊
 驚き怪しんで

 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。          (使徒言行録 2・12)

 信仰の先輩たちを覚えての召天者記念礼拝を迎えています。

 聖霊が語らせるままに語られた言葉を聞いた人たちは、驚き、戸惑い、怪しみました。私たちの思いを超えた出来事が、酒に酔ったように、自分に分かる言葉で語られ、驚き戸惑ったからです。

 福音は、私たちの理解を超えていますから、戸惑うし、怪しむのは当たり前かもしれません。

 何の疑問も持たず、言われるままに「信じる」ということは、かえって自分がないのと同じだと思います。

 私たちは、怪しみ、戸惑い、疑問を持ちながら、心に引っかかって気になって落ち着かない。しかし、ある日、心に引っかかっていたものが、すとんと取れて、そういうことだったのかと分かる。そして信仰が起こされる。

 それは、私たちの力や知恵ではありません。私たちを超えた神さまの働きが、信仰の先輩の皆さんに起こされたように、わたしに、あなたに、起こされるのです。
 
 


019年6月2日
 
  花材   砥草  紫陽花  蘇鉄
 すべての主に委ねて

 すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。
                          (使徒言行録 1・24)
 
   
 イエス・キリストの教会は、神さまによって導かれ、立てられていきます。それは、神さまの恵みに他ならないし、私たち人間の思いをはるかに超えた祝福の出来事です。

 神さまの導きなしに、神さまの恵みなしに、イエス・キリストの教会は立つことはできません。

 そこには、イエスさまが、必要な人を、必要に応じて、必ず起こしてくださる。その確信が教会にはあるのです。そこに、私たちは期待し、神さまの恵みを見させていただいて来たし、今もそうです。

 マティアの選出は、もしかしたら、「120人」の思いとは違ったかもしれません。

 教会は、主イエスの教会。私たち人間の思いが先に立つ教会ではありません。私たちの思いもしないことが起こるのです。ときには、そのことに翻弄されることがあるかもしれません。

 しかしそこに、確かに、イエスさまはおられるのです。
 
 

2019年5月26日

花材   砥草 アルストロメリア
     紫陽花

 これほどの信仰を

 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
                             
                           (コリントの信徒への手紙 一 3:6)

 成長させてくださる神は、「わたしはアポロに、わたしはパウロに」と言い争っている間、どこにおられたのだろうか。まったくの傍観者であったのだろうか。見放されていたのでしょうか。

 そうではありません。主イエスを忘れて言い争っている真っただ中に、イエスさまは確かにおられたのです。

 私たちが気づかなかった。気づこうとしなかった。私たちは、それほどに自分にしか目がいっていなかったのです。

 私たちも、ときには、言い争いがあるでしょうし、大きな壁の前に立ち尽くすしかないこともあるでしょう。

 しかし、私たちを見放すことはなさらないイエスさまは、共にいてくださって、私たちの信仰が違う方向にいかないように、祈り続けてくださっているのです。

 そのようにして、私たちを、キリストの教会として、イエスさまと共に歩むものにしてくださっているのです。
 
 
 
 
2019年5月19日


花材    ゆずりは  南天  ゼラニューム
選んだのは、わたし

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
 
                    (ヨハネによる福音書 15・16

 
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言われるとき、「わたしと一緒に生きてほしい」というイエスさまの祈りが込められています。

 「選んだ」。それは、私たちが、イエスさまの試験に合格したから私たちを選んだというのではありません。

 イエスさまと一緒に生きたいと願いながら、できなくて苦しんでいるわたしを、自分の歩みが分からず、どうして良いか分からなくて悩み苦しんでいるわたしを、「わたしの友」と呼んでくださった。

 そして、泥沼のような状態から、引きぬき、引き上げてくださった。そして、神さまの愛の中に導いてくださった。

 それが「わたしがあなたがたを選んだ」と言うイエスさまの言葉なのです。

 だから私たちは、イエスさまと一緒に歩むのです。   
 
 

2019年5月12 日

花材    そけい  百合 アレカヤシ
いのちのパンをいただいて

 彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。 「わたしが命のパンである。」
                         (ヨハネによる福音書 6・34-35)


 永遠の命を与えるパン、それは、イエスさまです。

神さまが、すべての人を救い、永遠の命を与えようとされて、イエスさまをこの世に遣わされたのです。

 だからイエスさまは、「わたしは、わたしを遣わしてくださった方のみ心のままに行っているのだ。
わたしは自分勝手に行っているのではない」と言われるのです。主なる神さまとイエスさまは、それぞれの内におられ働いておられるのです。

 この「いのちのパン」であるイエス・キリストが、私たちと共にいてくださり、共に生きるものとしてくださると、約束してくださったのです。

 私たちは、イエスさまとの出会いを通して、神さまの恵みを、信仰を持って受け取り、それぞれに与えられた人生が、神さまと共にある祝福の中にあると信じて歩むことによって「永遠の命」に至る道が開かれているのです。

 
 

2019年5月5日

花材    紅葉  紫蘭 フリージア3種
 
成長させてくださるのは神
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

                      (コリントの信徒への手紙 一 3:6)

 成長させてくださる神は、「わたしはアポロに、わたしはパウロに」と言い争っている間、どこにおられたのだろうか。まったくの傍観者であったのだろうか。見放されていたのでしょうか。

そうではありません。主イエスを忘れて言い争っている真っただ中に、イエスさまは確かにおられたのです。

私たちが気づかなかった。気づこうとしなかった。私たちは、それほどに自分にしか目がいっていなかったのです。

 たちも、ときには、言い争いがあるでしょうし、大きな壁の前に立ち尽くすしかないこともあるでしょう。

 しかし、私たちを見放すことはなさらないイエスさまは、共にいてくださって、私たちの信仰が違う方向にいかないように、祈り続けてくださっているのです。

 そのようにして、私たちを、キリストの教会として、イエスさまと共に歩むものにしてくださっているのです。

 
 

2019年4月28日


花材    びわ  ばら
心は燃えていた

 道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。
                         (ルカによる福音書 24:32)

 イエス・キリストの復活、それは希望です。

 イエス・キリストにおいて、死の先に、絶望の先に、悲しみの先に、苦しみの先に、「新しい始まり」が開かれていくのです。
しかもそれは、私たちを超えた「向こう側、神さまの方から」来て、新しい始まりを開いてくださるのです。
 復活は、神さまの方からくる神さまの真理、出来事です。

 私たちが、気づこうと気づくまいと、理解できようとそうでなかろうと、神さまの方から来て、私たちに寄り添い続けてくださっている。それが私たちの主イエスさまです。

 十字架の死から復活して、今、このときにも生きておられるイエスさまに、私たちは出会っていますし、聖霊を通して、イエス・キリストの復活のいのちに、触れさせていただいています。
復活のいのちに触れさせていただいている私たちは、今このときにも、心を燃やされて新たにされているのです。
 
   
 
 2019年4月21日


花材     柳   カサブランカ
      椿  シーファン  

生きている方を

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。
                          (ルカによる福音書 24・5-6

イースター(主イエスの復活)おめでとうございます。

 イエスさまを納めた墓に行って、死者の中にイエスさまを探していた婦人たちは、空っぽの墓を後にして帰ってきました。

 それは、イエスさまを死者の中にしか見出そうとしなかった絶望と悲しみからの希望と喜びへの方向転換でした。イエスさまを「死者」ではなく、「生きている方」として見出す方向転換でした。

 二人の天使たちは、生きておられる方を死者の中に捜すのかと問います。私たちの失敗は、生きている方を忘れて、墓の中を探しているようなものです。

 この生きておられる方は、私たちの失敗、悲しみ、苦しみ、悩み、そのすべてを十字架の上に背負って、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と宣言されたお方です。この方と私たちは新しいいのちに生きる希望を与えられているのです。

 
 
 
 2019年4月14日


花材
    柊南天   いちはつ  
       ライラック 
他人を救ったのに

 議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
                      (ルカによる福音書 23-35)


 「他人を救った」、そういわれるイエスさまです。

 イエスさまが、自分ではなく他人を救ったことを、だれもが認めているのです。

 十字架につけるように判決をくだした議員も、十字架につけろと叫んだ人々も、救い主なら自分を救えるはずだ、他人を救ったのだから。「自分を救ってみろ」と侮辱するのです。

 他人を救うよりも、まず自分を救えるかどうかだ。それが救い主ではないか。そう叫ぶのが、私たち人間の基準かも知れません。

 しかし、神さまは、そうではないのです。

 自分を救うことよりも、自分の命を捨ててでも、他人を救うために歩まれるのが、神さまから遣わされた救い主です。

 イエスさまは、自分を救うことよりも、他人を救うことを選ばれた。それ以外は、選ばれなかった。そして、その道を歩まれたのです。
  
 
 
 
 2019年4月7日

花材     ねこやなぎ  たましだ  ゼラニューム 

        紫ケマン  ニゲラ  紫大根

    
  
新しい契約

 これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい。この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

                (ルカによる福音書 22・19-20)


 イエスさまと一緒に歩む「新しい契約」を、これからイエスさまから逃げ出していこうとする弟子たちと、イエスさまは結ぼうとされるのです。何とも不思議です。

 最初から成立しないかのように弟子たちに破られていく契約。イエスさまは、それを承知で結ぼうとされるのです。

 契約は、イエスさまの方からは破られませんし、打ち切られることもありません。

 たとえイエスさまに背を向けていくとしても、「この契約」の中に戻ってくる。そして、イエスさまと一緒に、また歩み出す。それまで、イエスさまは待ち続けてくださる。

 しかも、イエスさまは、ただ待っておられるだけでなくて、信仰が無くならないように祈り続けてくださって、私たちが戻ってくるのを待っていてくださっているのです。
 
 


2019年3月31日

花材     雪柳  黄梅  シンビジューム
主がお入り用です
 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』 と言いなさい。     
                (ルカによる福音書 19・31)


 主であるイエスさまが、「ろばの子」を必要とされるように、私たち一人一人を必要とされています。それは、その人に力があり、何でもできるからでも豊かな賜物を持っているからでもありません。かえって何の力もない、何とも頼りにならない「ろばの子」を用いられるように、私たちを用いられるのです。

 イエスさまをお乗せした「ろばの子」は、小さな体で、初めて人を乗せて、よろよろしながら、でも一生懸命イエスさまをお乗せして歩いていたのではないでしょうか。

 その姿を見て、人々は笑ったかも知れません。そしてイエスさまも、「なんだ、この姿は」と、人々にあざ笑われたでしょう。

 イエスさまは、よろよろしながらイエスさまをお乗せして歩む「ろばの子」と一緒に歩まれることで、その弱さ、頼りなさを、一緒に背負って歩んでくださるのです。

 そのように主と共に歩む私たちを、主がお入り用なのです。
 
   
 

2019年3月24日

花材
    木瓜 君子蘭   鳴子百合  
人間にはできなくても

 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
                       (ルカによる福音書 一八・二七)

 私たちが、何かをすることに固執するのではなく、まず神さまの愛の中に飛び込んでいく。神さまの愛を知り、神さまの愛をもたらされたイエスさまと共に歩むことへと導かれる。

 私たちが「何かをしなければならないこと」に縛られ、本当に大切なものが見えなくなってしまっていることから解放されて歩むことができたら、どんなに心が軽くなるだろうと思います。

 すべては、神さまから祝福としていただくもの。そこに気づいたら、握りしめた手を放そうとしない自分に気づくのではないでしょうか。手の中にあるものがすべてなくなっても、神さまの祝福は豊かで、わたしにも確かな恵みとして届いていることが分かってくる。

 あなたは、何を頼りにしているのか。神さまは、あなたには頼りにならないお方なのか。そう問われているのです。

 イエスさまと一緒に歩むことで、これまで思ってもいなかった新しい歩みが始まるのです。
 
   
 
2019年3月17日


花材
  どらせな  ゼラニューム  
     カランコエ
小さな群れよ、恐れるな

小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。  
                                  (ルカによる福音書 12・32)

 強大なローマの支配の中でも、また、同胞のユダヤ人の中でも、イエス・キリストの教会は、「小さな群れ」に過ぎませんでした。「イエスは主」と告白するだけで、いのちを奪われるかもしれないという危険が迫っていたのです。

 イエスさまの十字架の後、ペトロたちは、ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていたと福音書は伝えています。怖かったのです。恐れていたのです。恐れないはずがないのです。

 今日、私たちが置かれている状況も、当時ほどではないにしても、なかなか理解されない不安の中にあることは似ていると思います。

 江波教会、この小さな船がいつか沈むのではないかと恐れている。これからどうなるのだろうと不安でいっぱいになります。

 そんな私たちに、イエスさまは、約束してくださるのです。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は、喜んで、神の国をくださる。」
 
 
 
2019年3月10日

  
花材
  こでまり   かわらなでしこ  ばら
あなたがたの中で

 わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。
 あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。       
                    (ルカによる福音書 9・48)

 子どもを見てみなさい。この子は、力もないから、ただ、ただ、イエスさまを受け入れて喜んでいるではないか。

 子どもは、その当時、律法を知らないものとして軽んじられていました。おとなが子どもと同列にされることは、愚か者とされ、屈辱的な扱いを受けたのです。しかしイエスさまは、「わたしの名のために、この子どもを受け入れなさい」と言われる。

 ペトロたちにとっては、子どもを受け入れることは、愚か者になれと言われること。だから、そんなことはできないと思ったかもしれません。

 しかしイエスさまは、あえて、「わたしの名のために」と言われた。それは、わたしがこの子と一緒に歩んでいるのだから、この子を受け入れることは、わたしを受け入れ、わたしと一緒に歩むことなのだと言われるのです。
     
  
 
2019年3月3日

花材
  桃  金魚草  玉羊歯

      ひまらや雪ノ下
     

向こう岸へ渡ろう


 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。
     
                  (ルカによる福音書 8・25)
 
 信仰」とは、どういうことなのでしょう。

 ペトロたちが、突然の嵐に慌てふためいて取り乱してしまったのを見て、「信仰が足りない、未熟だ」と言われたのでしょうか。

 そうであれば、信仰がなければ、ちょっとしたことで動揺し、見捨てられたなどと思ってしまうことになるし、逆に、信仰があれば、どんなときにも動揺しない、平安のはずだということになります。

 もしそうなら、イエス・キリストを信じなくても、他の何かを信じることで、安心できるということになってしまいます。

 イエスさまが言われるのは、「イエスを、どう信じているのか」と問われているのです。

 イエスさまは、神さまがイエスさまを通してご自身を顕された肉の体を持った真の神。真の神であり、真の人です。

 私たちは、イエスさまが、一緒にいてくださらなければ、沈んでしまいます。しかし、一緒にいてくださるから、沈むことはないのです。その信仰に生きているのか、と問われているのです。
 
 

2019年2月24日


花材
  紫木蓮  百合  椿
来たるべき方は

来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。     
                            (ルカによる福音書 7・19)

 ヨハネは、いつの間にか自分の「救い主像」を作り上げて、イエスさまを、この「救い主」にしてしまい、
「その通りの救い主なのか」と、イエスさまを評価しようとしたのです。

 そして、自分の思い描いている救い主とは違うと思ってしまったのです。

 目の見えない人を見えるようにされた。それはそれで良い。
しかし本当の救い主なら、自分を牢獄から解放してくださって良いはずだ。悪を断ち切って隅々まで綺麗にしてくれるはずだ。

 しかしそうではない。ヨハネは自分の思いと違うイエスさまに本当に来たるべき方なのか迷ってしまったのです。

 イエスさまは、ヨハネや私たちが、自分の造り上げた「救い主像」につまずく危険があることを知っておられるのです。

 私たちが造り上げて、期待する「救い主」が、救い主ではありません。イエスさまが、ただ、イエスさまが、救い主なのです。

 
 


2019年2月17日

 
花材   さくら  ゼラニューム
良い地に落ちて

ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。       
                         
                        (ルカによる福音書 8・8)

 大勢の人々が、イエスさまの周りに集まってきたとき、イエスさまは、この「種まき」のお話をされて、良い土地に落ちて、たくさんの実を結ぶように、あなたたちも神さまのみ言葉を受け入れて歩みなさい、と言われました。

 神さまのみ言葉が一人一人に届けられるとき、イエスさまは、その言葉を、私たちに届けられると同時に、み言葉がその人の内に留まり続けるように祈り続けてくださっているのです。

 祈って待っているからと言って、み言葉を私たちに与えてくださっているのです。

 良い土地に落ちた種のようにならなければ駄目だと言われているのではありません。道端や石地やいばらの中では駄目だと言われているのでもありません。

 「良い土地」に落ちる種のように、神さまの恵みをたくさん受けてほしい。神さまの恵みをたくさん受けて、神さまの愛の中を歩んでほしい。そう願っておられるのです。

 
 

019年2月10日

花材   梅  椿  朴の木  水仙

安息を与えられる主

 彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、
手は元どおりになった
。          (ルカによる福音書 6・10)

 この人は、手が萎えることによって、いのちの主を礼拝する会堂から締め出され、いのちの主から遠ざけられているのだ。

 神さまから同じように、いのちの息を吹き入れられて生かされている「ひとりの人」として、この人を扱っていないのではないか。イエスを陥れるための道具にしているだけではないか。

 そうであれば、この人の命は、もはや「死」と同じではないか。命が危ないではないか。

 主によって、いのちを与えられ、生かされているものとして、今、同じように、主の礼拝に招かれているはずだ。

 確かに、もう少しで安息日は終わる。しかしそれまで待てないのだ。
イエスさまは、その人に言われました、「手を伸ばしなさい」。

あなたも一緒に、いのちの主を礼拝することに招かれている。だから一緒に、礼拝を捧げよう。
  
 
  

2019年2月3日

花材   ゼンマイ  ラッパ水仙  チューリップ  タマシダ 
新しい革袋に

新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。      
            
                  (ルカによる福音書 5・38)

  イエスさまが私たちと一緒におられることは新しいこと。イエスさまと共に生きること、共に歩むことは、まったく新しいこと。まったく新しいいのちに生かされることです。

 だから新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れてこそ、新しいいのちに生かされるのだと言われるのです。
 けっして、古いものを残して、そこに新しいものを継ぎ当ててこれで良いとすることではないのです。

まったく新しくされて、新しいいのちに生かされ、新しい歩みをすることです。

悔い改めて神さまのもとに返るというのは、まったくの喜びの中で、起こることです。ちょっとだけ嬉しい、ちょっとだけ喜ぶことではないのです。

こんな嬉しいことがあるだろうか。こんなに解き放たれて、何もかもが新しくされて生かされるなんて、何と嬉しいことか。そんな大きな喜びが起こされるのです。
 
 
 
  
  
 
 2019年1月27日


 花材   臘梅   アイリス  ソリダスター          
   
 一人ひとりに手を置いて

  日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人

 たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いて

 いやされた。                  (ルカによる福音書 4・40)


  イエスさまは一晩中、一人ひとりと向き合い、言葉をかけて、手を置いて癒されました。

 しかし、この「癒し」は一時的なこと。病気が治っても、また病気にかかる。
そのたびごとに、癒されないと気が済まなくなる。

 私たちは、いつの間にか、イエスさまを、自分をいやしてくださる都合の良い道具にしてしまう恐れがあるのです。

奇跡を起こすことのできる、すごい人が自分のそばにいる。その奇跡だけが頼り。イエスさまがなさる奇跡的なことが必要であり、奇跡を見ることが目的になってしまう。

 もし他に、同じような奇跡を起こすことができる人がいれば、イエスさまでなくても、だれでも良い。そうなってしまうのです。

 しかし、病気が癒されても、根本的な癒しにはならないし、本当の喜びにはならないのです。イエスさまは、本当の癒しが与えられるようにと、主の福音を伝えられたのです。
 
 
 
 2019年1月20日

 
 花材  ドラセナ カランコエ            
       水仙
 
 荒れ野の中で

 イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”に

よって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。 

                                 (ルカによる福音書 2・1-2)


 今日では、大都会にあっても、一人暮らしの高齢の方が増え、社会から取り残されて孤独になったり、誰にも気づかれずに孤独死する、そんな痛ましいことも起こっています。

 都会の中の荒涼とした「荒れ野」。そこに神はいないのではないかと。

  しかし、そのような「荒れ野」に、神さまは、イエスさまを送られた。そして、あちらこちらに引き   回して、「荒れ野」から、私たちを救い出そうと、イエスさまは誘惑を受けられたのです。

  「荒れ野」の中にあっても、「あなたは独りぼっちではない。わたしがあなたと一緒にいる」と、 イエスさまが共にいてくださる。

 「荒れ野」に追いやられた人たちに、寄り添っていてくださって、誘惑に満ちた「荒れ野」を、
 一緒に歩み、誘惑から守ってくださっているのです。

 
 

 
 2019年1月13日
 
 花材  若松  南天  ポンポン菊 葉ボタン
      
      ゼラニューム

    
 私たちの中にイエスさまも

 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、

 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。               
                       (ルカによる福音書 3・21-22)

  イエスさまは、私たちと同じように、バプテスマを受けて、私たちの罪の中に入っ て来られて、私たちの罪を一切引き受けて、私たちに救いを与える者になろうとさ れた。そして、イエスさまと一緒に、私たちも、主なる神さまのもとに、一緒に導い てくださるために受けてくださった。
 それが「イエスさまのバプテスマ」です。

  そして、バプテスマを受けられたイエスさまは「祈っておられる」。一緒にバプテ スマを受けた人々のことも、そして私たちのことも。私たちが、バプテスマを受け  るとき、イエスさまも一緒にバプテスマを受けられて、一緒に、水の中から上がら れて、私たちのために「祈ってくださっている」。

 この人と、どんなことがあっても一緒にいてください。神さまから引き離そうとする大きな力から救ってください、と祈ってくださっているのです
 
 

 2019年1月6日
 
 花材  若松  千両  ポンポン菊
       ドラセナ    金銀絲
 
 待ち望む先に

 主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。
 
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 
                               (ルカによる福音書 2・29-30)

 主の年二〇一九年、おめでとうございます。今年も、イエスさまに望みを置いて、イエスさまと共に歩みましょう。

 混沌として光が見えなくなったと思える現代。二〇〇〇年前も同じでした。しかし、救いを待ち望んでいたシメオンに、神さまは、イエスさまの誕生という希望を与えられました。主の救いの恵みが確かに届いた。神さまは、私たちを忘れておられない。見捨てておられないことが分かった。それは今も同じです。

 シメオンは高齢になり、その「救い」の実現を見ることはできないかもしれないと分かっていても、生まれて来られたばかりのイエスさまとの出会いによって、確かな救いが来ることを、与えられたのです。

 いのちの源である神さまを仰ぎ見て、待ち望む先に、イエス・キリストの新しいいのちに生かされる希望があり、死を突き破って差し込んでくる「いのちの輝き」を見ることができるのです
 
 

 2018年12月30日
 
 愛らしい クリスマス・ツリー
 現れたいのちのことば

 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを

伝えます。すなわち、命の言について。          (ヨハネの手紙一 1・1)


 私たちが、そして、わたしが、あなたが、今も同じように、見ている方、聞いている方、見ることができるし、触れることができる方。それが、「命の言」であるイエス・キリスト。

 そう言われると不思議に思います。そんなことはない。聖書には書かれているけれど、わたしはイエスさまを見たことはないし、触れたこともない。そう思ってしまいます。

 しかし私たちは、確かに、イエスさまのことを聞いた。イエスさまに出会った。イエスさまの御手がわたしの心に触れた。そして、イエスさまの愛に捉えられた。イエスさまの御手に支えられている。イエスさまの恵みに生かされている。それが分かった。

 だから、イエスさまを主と信じて、イエスさまと一緒に歩もうとしているのではないでしょうか。

 私たちは、今も変わらず、イエスさまに出会い、イエスさまを見て、その声を聞いて、共に歩んでいるのです。

 
 

 2018年12月23日
 
 ローソクが5本ともりました
 人間と同じものに

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとはほ

思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました   
                                                
                                      (フィリピ 2・6-7)


 主イエスのご降誕、クリスマス、おめでとうございます。
 
 私たちは、最初のクリスチャンたちが、日々の生活の中で口ずさんでいた讃美歌、「キリスト賛歌」を覚えたいと思います。

 「神の身分である方、神と等しい方」が、私たちと同じ人間の姿を取って来られ、私たちと同じように生活され、苦しみ、悲しみ、喜びを味あわれて、共に歩んでくださった。それが、イエス・キリスト。

 しかし、待っていたのは十字架の死。それを、私たちを救うための神さまの計画として受け入れ、従順に従い通されたイエスさまの深い愛と恵み。

 クリスマスは、神さまが人間の姿を取って来られて、私たちを愛してやまないと告白された「喜びの日」です。

 神さまの愛と恵み、御子イエスさまの愛と恵みが、クリスマスの出来事の中に溢れています。
 
 

 2018年12月16日
 
  2本目のローソクがともりました
 
 主はお前のただ中に
 
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。

                           (ゼファニヤ書 3・15)


 イエスさまは、ヨセフとマリアの子として、この世にお生まれになりました。

 神さまは、イエスさまの成長を託す人としてヨセフとマリアを選び、この二人に、イエスさまを預けられたのです。

 その子のただ中に、ヨセフとマリアのただ中に、また、その家族のただ中に、神さまは「いつも一緒にいる。だから恐れることはない」と約束してくださったのです。

 同じように、私たちに「大きな喜びの日」を与えてくださる神さまは、「お前のただ中にいる」と言ってくださり、私たちと一緒にいてくださるのです。

 そして、私たちに喜びを与える。わたしもあなたたちと一緒に喜ぶ。その約束を宣言してくださったのです。それが、私たちへのクリスマスのメッセージ。

 だからこそ、私たちは、クリスマス・イエスさまの誕生を、心から喜び、お祝いするのです。

    
 
 
 2018年12月9日
 
 1本目のローソクがともりました。

   (周囲はタマシダです)
 本当の糧

 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。

わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。

ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。        (イザヤ書 55・3)

 私たちは、この世の多くのことに縛られて生きているのではないでしょうか。

 仕事の上でも、学校でも、他の人との関係でも、気を使いながら、気にしながら、不安を抱きながら生活しています。そして、疲れ果ててしまうこともあります。
 
私たちは、神さまのもとにいる方が、神さまのみ言葉で生きる方が、本当は、「平安」なのです。それが分かっているのに、そうしないで、不安な毎日を送っていると思うのです。

 そのような私たちに、神さま自らが、飢えることなく、渇くことのない本当の
「糧」を与えようとしてくださったのです。それが、「イエスさまの誕生」です。

 神さまは、私たちに、本当の糧であるイエスさまを、「何も持たないでいいから、
そのままで受けなさい」と、招いてくださっているのです。
    
 
 

 2018年12月2日
 
 クリスマス ツリー
 恵みの約束を果たすとき

見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。

                                   (エレミヤ書 33・一14)


 エレミヤは、慰めと希望の預言である「新しい契約」を、神さまが結んでくださると呼びかけました。

 この契約は、かつてシナイ山でモーセを通して結ばれた十戒を中心とする「契約」を、もう一度、石の板に書き記すというのではありません。

 私たち一人ひとりと神さまとの間で、結んでいただく直接の「契約」です。一人ひとりの胸の中に授け、彼らの心に、それが書き記されるものなのです。

 そのような「新しい契約」を、神さまが一人ひとりと結ばれるのは、恵みの約束を果たされるときでもあります。

 イエスさまの誕生は、この「新しい契約」を、一人ひとりの胸の中に授け、心に記すように、神さまが起こされた大きな喜びの出来事であり、恵みの約束を果たされた神さまの約束の実現なのです。
  
  


 

 

 2018年11月25日
 
花材  くろもじ ばら  ぎょりゅう梅
主のみ前に
 
 ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデ

に油を注ぎ、イスラエルの王とした。   (サムエル記下 5・3)

 この世の王は、人々から仕えられるための王、人を支配する王。この王とこの世に縛られるのが私たちの現実です。

 私たちも、ときには、自分を「王」の位置に置こうとして苦しみ、自分がイメージする「王」に縛られて歩んでしまうことがあるのではないでしょうか。

 しかしイエスさまは、そのような私たちを、その縛りから解放し、自由にしてくださる「王」として来られたのです。

イエスさまは、仕えられるためではなく、私たちに仕えるために来られた王です。

ただ自分だけしか見ていない私たちに、自分一人で生きているのではない、他の人との関わりの中で生きている、他の人の助けをたくさんいただいて生きているということを知ってほしい。そして、神さまと人に「仕えるもの」になってほしいと願っておられるのです。
 
 


 2018年11月18日
 
  花材  サンゴミズキ  菊  椿   
     
  わたしは降って行って

 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイス

ラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」          
                                       (出エジプト記 3・11)

 「わたしは降って行って」と言われる神さまの前で、モーセは、たじろいでしまいました。

 自分に何ができるだろう。エジプトを逃げ出してきたものが、エジプトに戻って何ができるだろう。

 モーセは、「わたしは何者でしょう。どうして、わたしが」と反論しますが、神さまは、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」と言われるのです。

 あなたが、自分の力で、イスラエルの民を導くのではない。「わたしが降って行って」私が行うことなのだ。そのために、あなたを遣わすのだと言われるのです。

 「わたしはある」と言われる神さまが、「必ず、あなたと共にいる」と約束されて、モーセを、イスラエルの人々の前に、そしてファラオの前に立たせようとされるのです。
   
 
 

 2018年11月11日
 
花材  ユーカリ  アンスリューム   
     
     ばら  レザーファン

 
サラは笑った
 

 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生

まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。          
                                    (創世記 18・13-14a)


 アブラハム、サラの「笑い」を引き起こす中心にあるのが、「年を取っている自分に子供が生まれるはずがない」と思ってしまっている「現実」です。この現実を打ち破らなければ、希望の道は開かれないのです。

 そんなことは起こらないと思っている「現実」に、神さまは挑戦されるのです。それが「主に不可能なことがあろうか」という、アブラハム、サラ、私たちに対する問いかけです。

私たちは、この神さまの問いに、どう答えるのでしょうか。

 ただ一つ、はっきりしているのは、「人間の可能性によって」実現するのではなく、「神さまによって」実現するということです。

 私たちの不信仰な「笑い」を、まったく逆の「喜びの笑い」に変えてくださるのは、ただ「神さまなのだ」ということを、私たちは忘れてはなりません。
 

 

 2018年11月4日

 
 
花材
 かや  しだ  小菊  ランタナ 
     
     せいだから泡立ちそう
    
 わたしの虹を見て

 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべ

て肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。                         
                                (創世記 9・16)


 「虹」が現れるたびに、神さまの契約を思い起こすように言われたのは、私たち人間ではありません。

 神さまご自身が、人間とすべていのちあるものとの間に立てられたご自分の契約を、神さまご自身が心に留め、想い起し続けるために、「虹」を置かれたのです。

 雲の中に虹が現れると、神さまは、ご自分と地上のすべてのいのちあるものとの間に立てた「永遠の契約」に心を留められるのです。

 神さまが創造された人間と、すべていのちあるものを守るという契約、約束は、神さまご自身によって引き受けられる。その神さまの決心が、「虹」に込められているのです。

 しかし、もしも、人間の傲慢によって、いのちあるものが滅ぶとしたら、私たちは、雲の中に置かれた「虹」を見て、神さまの創造のわざを侵害していることに気づかなければなりません。  
  
 
   
 
 2018年10月28日
  
花材
  蘇鉄  葉蘭 アンスリューム

 
私たちも同じ人間
 
 皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同

じ人間にすぎません。               (使徒言行録 14・15)

 パウロたちは、自分たち人間を神とすることはできないとして、ただ主イエスの信仰に立ち続けるのです。すべてをお創りになった唯一の真の神の前に立つものは、自らを神とすることはできません。

 私たちは、神のようになりたいという誘惑に、いつもさらされています。「あなたがいちばんだ。あなたこそが、そうなるのに、もっともふさわしい」、そのような誘惑は、いつもあります。そして、人間を、神のようにしていく。

 しかしパウロは、そして私たちキリスト者は、自らを神とする誘惑を厳しく退ける「信仰」に立つのです。

 真の神を神としないで、人間と人間が作り出すすべてのものを神とするとき、人間の理性は曇らされます。正しい判断が狂わされてしまい、人は、大きく道を踏み外してしまうのです。

 だから、パウロは、叫んだのです、「私たちも、あなたたちと同じ人間に過ぎない。神ではない。」  
 
 
 
 
 2018年10月21日

 
  花材   鶴うめもどき  アンスリューム                   
        へニックス
 涙をぬぐってくださる主

 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目か

 ら涙をことごとくぬぐわれるからである。           ( ヨハネの黙示録 7・17)


 「礼拝」は、神さま、イエスさまの愛に溢れています。だから私たちは、まず礼拝を献げることから一週間を始めるのです。

 礼拝を献げ、礼拝に身を置いて、神さま、イエスさまの愛を一杯受けて、イエスさまと一緒に、それぞれの生活の場に押し出されていく。そこで、どんなことが起こるか分からないけれど、イエスさまが一緒に歩んでくださる。守ってくださる。愛と恵みを注いでくださる。

 そして日々の生活の中で、私たちは、愛するものとして歩むことができるようにされていく。その歩みは、涙を流すことの多い日々かもしれません。苦しみ、悲しみに涙し、辛いことに涙する歩みかもしれません。

 しかし、イエスさまにつながって歩むことで、その涙を主はぬぐってくださる。ぬぐってくださるだけでなく、喜びに変えてくださる。慰めを与え、祝福してくださるのです。

 その歩みが、「礼拝」から始まるのです。

  
 
 

 2018年10月14日

 
 花材   苔つつじ  りんどう  小菊
 
 見えない方を見るように

 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えな い方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。                                            (ヘブライ 11・27)


 「信仰によって」というのは、「目に見えない方を、見ているように」して生きることです。神さまは、私たちには見えません。復活されたイエスさまも、私たちは見ることができません。しかし、その見えない方を、「見ているようにして」生きて歩むのです。


 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)と言われますが、神さまは見えませんから、私たちは不安になります。
だからと言って、「見えない」ものを、形あるものにして、見えるように変えるのではありません。


 見えない神を、見えないままで、しかし見ているように歩む。見えない「主」が生きて私たちと一緒におられる、助けてくださることを信頼して歩む。
イエスさまは、そのようにして歩む私たちと一緒に歩んでくださっているのです。

 
   

 2018年10月7日

  
 花材   木瓜  鶏頭  木イチゴ
 
 
 人にではなく、神に
 

 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりませ ん。                      
                                     (使徒言行録 5・29)


  トロたちが「いのちに言葉」を宣べ伝えると、どうして迫害されたのでしょうか。
 どうして人々は、仲間に加わろうとしなかったのでしょうか。

  それは、ペトロたちが、「人にではなく、神に従わなくてはならない」ということを、言葉  だけにしなかったからです。

  しかし、そのように生きるには生きにくい世の中です。建前だけにしておけば、丸く収ま るし、少しだけ我慢すればよいからです。だから、人々は、イエスさまと共に歩もうとする 人たちを称賛しながらも、あえて、仲間に加わろうとしなかったのだと思うのです。

  しかし、ペトロたちは、イエスさまの十字架の死によって赦され、救われたと信じる信仰  を、あいまいにはできなかったのです。自分に深く関わってくださったイエスさまを、語ら  ないわけにはいかなかったのです。
  
  
 

 2018年9月30日

   花材   はくちょうげ  黄花コスモス 
       ブドウ   ドラセナ
  立ち直ったら

 わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。

 だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。                                    
                               (ルカ 22・32)                                        
 
 あなたのために、信仰が無くならないように祈った。もうすでに祈った。あなたが、わたしを知らないと言っても、「立ち直る」ことができる。だから「立ち直ったら(自分を取り戻したら)、今度は、あなたが、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペトロの力ではない。ただ、イエスさまの憐れみであり、恵みです。

 それなのに、ペトロは、三度「知らない」と言ってしまった。すると、鶏が鳴いた。そのとき、振り向いてペトロを見つめられた「イエスさまのまなざし」。
 「どんなことがあっても、あなたを見捨てない」。
  その「まなざし」は、私たちにも、注がれています。
 私たちは、イエスさまの祈りとまなざしをいただいて、イエスさまと一緒に歩ませていただいているし、その恵みのなかに立ち続けるように招かれているのです。

 
 

 2018年9月23日
 
 花材   枇杷  菊  吾亦紅
 天に蓄えられた希望

 それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。                                            (コロサイ 1・5)


 宣教開始61年記念礼拝を神さまに感謝いたします。

 「天に蓄えられた希望」は、神さまから与えられる確かな「希望」です。
 その希望は、「新しく生かされる希望」です。

 その「希望」を、福音という真理の言葉を通して、私たちは聞いているのです。
「聞いた」というのは、「私たちのところに来て、留まっている」ということ。私たちの目には見えないし、気づかないかもしれない。しかしもうすでに、ここに届いている「希望」です。
確かな「天に蓄えられた希望」をいただいて、私たちは、この世の人生を歩んでいます。

「天に蓄えられた」というなら、「希望」は、死んだ後の復活の希望だけのように聞こえますが、そうではありません。

新しいいのちに生かされて、今日を生きる希望がある。明日、私たちを生かす希望がある。その約束をいただいているのです。  
  
 
 

  2018年9月16日

 
 花材  夏櫨  ほととぎす 小菊
 キリストはただ一度

 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。          (ヘブライ 9・28)

  
 イエスさまの十字架の血によって、しかも、その「ただ、一度だけの献身」によって、私たちは救いへと導かれたのです。だから、もう二度と「犠牲、いけにえ」を捧げる必要がなくなったのです。

 この、一度だけの十字架は、十字架に架かられた後の人間の罪の赦しのためだけではありません。

 すべての人の救いのために、神さまは、イエス・キリストを通して、ご自身を十字架にかけられ、十字架の前までの罪も、十字架の後の罪も、一切の罪を、ご自身で背負って、私たち人間と一緒に歩むと決意されたのです。

 それが、イエス・キリストの十字架です。だから、キリストの教会はこの「十字架」をかかげています。十字架のほかは、かかげる必要がないのです。


 
   
 
  2018年9月9日
 
   花材  石化柳  鶏頭  モンステラ
 あふれる恵み

  神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に  満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできに なります。                 
                          コリントⅡ 9.8


 私たちは、一人ひとりに与えられた「賜物」をもって、神さまの働きに加えていただいている。その喜びを一緒に分かち合うことができる。パウロはそのことを神さまに感謝し、喜んでいるのです

 私たちは、キリストの恵みに招かれたものであり、日々、キリストの恵みをいただいて、その中を歩ませていただいています。
その恵みに応えて、主イエスと共に歩む。そこから「主に仕える」ことが始まるのです。

 私たちが、主に仕え、主と共に歩むことができるように、「あらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせて下さる」と言われますが、そんなことはあるのかなと思ってしまいます。

 しかしパウロは確信しているのです。「神さまは、それがおできになる」。「神さまには、できないことは何一つない」と。

 
 

  2018年9月2日
 
 花材  万両  ドラセナ  ばら 菊2種 ずいき 

 キリストの恵みの中に

 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離

れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果ててい
 
ます。                  (ガラテヤ 1・6)                      
                                 
 イエス・キリストを信じない人たちに、問題があるのではありません。イエスを主と信じる私たちにこそ、問題があるのです。
「福音」を理解しない多くの人がいる。「福音」を拒んでしまう人がいる。それが問題なのではありません。

 「福音」を自分勝手に理解して、これが「福音」だと固執してしまう、縛られ、身動きできなくしてしまう。そうすることで、「福音」の豊かさを失わせ、いのちのないものにしてしまう。それが問題なのだと、パウロは言うのです。

 私たちは、聖書のみ言葉を通して「福音」に触れ続けなければ、「福音」の豊かさを失ってしまいます。「福音」の豊かさが失われると、キリストの恵みに招かれているのに、「福音」の外にいるのと同じになってしまいます。

 主イエスの恵みの中に招かれている私たちです。主イエスの恵みから離れないで歩みましょう。

 
   
 
 2018年8月26日
 
花材  菊2種  ドラセナ  何の木
 共に座る喜び

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。  
                                 (詩編 133・1)                   

 
 主が共におられる祝福の場「礼拝」に招かれて、主の前に共に座り、主の食卓を共に囲む恵み。主日礼拝は、その喜びの場。「なんという恵み、なんという喜び」。

 今日は、北ブロックの「交換講壇」です。江波教会には松江教会の斎木郷次先生が来てくださいました。心から感謝いたします。松江教会は浅海郁典先生(呉教会)がご奉仕です。

 交換講壇は、中国・四国バプテスト教会連合の北ブロックの教会間の交わりの一つの働きです。牧師が他の教会に遣わされ、遣わされた教会で、共に主に礼拝を献げ、主を賛美する。そしてその教会の皆さまと交わりを豊かにし、祈りを共にし、私たちの祈りの課題にしていく。

 そうすることで、互いに祈り合い、覚え合う「信仰の友」が、江波教会にも、主にある他の教会にもおられて、苦闘しながらも、主の恵みのうちに歩んでおられることを覚え、主の業に共に励むものにされたいのです。
 
   
 

  2018年8月19日
 
 花材  夾竹桃  巻晒桑  クジャクの羽
 すべての人に福音を

 神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。

だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。

見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。  (使徒言行録 13・46)

 パウロが宣べ伝える「救い主」は、「十字架につけられたキリスト、救い主」です。それは、拒む人には、「つまずきの石」になるのです。

 パウロが、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントⅠ一:一八)と言いましたように、その当時も、今も、変わりがありません。しかし、神さまに、不公平はありません。「福音」は、すべての人に与えられているのです。

 パウロは、足の塵を払って抵抗しましたが、拒んだ人たち、妨害する人たちに対しても、なお、神さまの愛と憐れみ、恵みがあることを信じて疑いませんでした。神さまが見捨てられない人を、パウロは見捨てることはできないのです。
  「異邦人の方に行く」と言って足の塵を払ったとしても、パウロは、ユダヤ人に、忍耐をもって福音を語り続けたのです。
 
   
 
 2018年8月12日
 
 花材  ミツマタ 百合 ランタナ エノコログサ
      
 隣人に対して真実を

偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。                  (エフェソ 4・25)

 イエス・キリストによって、新しいいのちに生かされている私たちは、互いに、真実を語り合える仲間、「互いに体の一部」なのだから、真実を語り合おう。
イエスさまの生き方を、使徒たちや証し人を通して聞き続けている私たちだ。イエスさまが語られる真実の言葉を、私たちも受けているのだから、主にある真実を語り続けることによって、互いに愛するものになっていこう。パウロはそう言います。。

 「罪ある」私たちが語ることのできる、ただ一つの真実は、「神さまの言葉、イエスさまの言葉」です。

 その「真実の言葉」を、私たち罪あるものが、語ることを許されているのです。

 罪ある私たちが、福音の真実の言葉を語ることが許されている。不思議なことです。しかし、神さまは、このような罪ある「私」を「あなた」を豊かに用いて、主の福音を、みんなに知らせようとされているのです。
  
 
   
 

 2018年8月5日
 
 花材  トクサ  オリヅルラン
      ルドベキア ルリマツリ 
 こどものように

 子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのよう

な者たちのものである。                    (マルコ 10・14)
  
 子どもたちが純真無垢で素直だから「神の国はこのような者たちのもの」と言われているのでしょうか。そうだとすると、私たちも、そのような「子ども」のようになることを求めて、誰がいちばん子どもらしいかを競うことになってしまいます。

 自分こそが、神の国にいちばん近いと思っていた弟子たちは、子どもはもちろん、律法を守ることができないという理由で、社会からも遠ざけられ、隅のほうに追いやられている人々も、神の国から遠いと思っていたのです。

 しかし、弟子たちが、神の国にいちばん遠いと思っていた人たちを、イエスさまは、「神の国は、このような者たちのものだ」と言われたのです。

 この人たちも、弟子であるあなたたちと同じように、神の国の住人だ。神さまに愛されている人たちだ。遠くはないのだと言われたのです。
 
 

 2018年7月29日
 
 花材   そてつ  紫陽花  実付椿
 イエスを見つめながら

  信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前

 にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお 

 座りになったのです。                     
                        (ヘブライ 12・2)

  「耐え忍ぶ」という言葉には、「何かの下に立つ」、「下に留まる」という意味が含まれています。

  私たちが、この世の人生を走り抜こうとするとき、イエスさまは、私たちの下に留まっていてくださり、私たちの人生の歩みを励まし、誤った方向に行かないように支えて くださっている。

  ときには挫折し、もうこれ以上走れない、一歩も歩けないと、しゃがみこんでしまうような私たちを、イエスさまは、丸ごと抱え、支えて、歩んでくださっているのです。

  私たちの下にまで、イエスさまは下ってこられた。それが、十字架の姿です。

  私たちは、私たちに救いをもたらしてくださったイエス・キリストを信じる信仰をもって 、
イエスさまを見つめながら、それぞれに与えられた人生を歩んでいくのです。

 
 
 2018年7月22
 
 花材   ななかまど  りんどう
      
        ゼラニューム 

 
 いちばん偉いものは

 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後に

 なり、すべての人に仕える者になりなさい。」                      
                                    (マルコ 9・35)

  私たち人間は、何ものなのでしょう。
 「神にわずかに劣るものとして、人を造り」(詩編8・6)と言われます。
  そうであれば、私たちは、イエスさまとほとんど変わらないものとして生かされていることになります。

  それほどまでに尊い命を与えられて生かされているのです。

  私たちは、この世をどのように生きて歩んだらよいのでしょうか。イエスさまは言われます。 「すべ  ての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」思いもしない言 葉です。

  誰よりも他の人の先頭に立ち、他の人を自分の思うままに動かすことができる。
  それが「いちばん先になる」ことだと、弟子たちは思っていました。

  しかしイエスさまは、私たちの生活の中で「いちばん低いところを理解し、そのいちばん低いところ に立って、支えなさい」と言われるのです。 
  
 
   
 
 2018年7月15日
 
  花材   ベアグラス  ミリオン 

        アンスリュム  トルコ桔梗
 今は恵みのとき

 恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と

神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。                      
                                       (コリントⅡ 6・2)

  パウロは、「神さまの恵み、救い」を受け取るのは、「今だ。今このときだ」と言います。

  「神さまの恵み、救い」は、あなたがたが掴み取ることができるように、あなたたちの目の前に差し    出されている。しかも、「今、このときに」。そして「今、ここに」。    

  神さまの恵みも救いも、将来、いつの日か受け取れるというのではない。恵みをいただけるかどうか   と、不安な気持ちで待ち続ける必要もない。

  また、どこかに行かなければ受け取ることができないというのでもない。「今、ここで」受け取ることが   できる。 

   だから、無駄にしないでほしい。今すぐに受け取ってほしい。自分は受けるにふさわしくないからと
   遠慮する必要はない。「神さまの恵み」は、あなたの前にあるのだから。
  
 
   
 
 2018年7月8日
 
  花材   檜扇  菊2種
 生ける神の教会

  神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。                      
                              (テモテⅠ 3・15)



 神さまが、イエス・キリストにおいて人となられたのは、神さまが、この世の問題や苦しみに、無関心ではなく、天の高いところから眺めているだけで何も関わろうとされないというのではないのです。

 苦しみ悩む私たちのところに来られた。人の命を傷つける争いの中に入って来られた。そして自ら傷を負われた。争いの真っただ中に、人と人がいがみあい、国と国が争い合い、人が傷つき、自然が破壊される「この世」に来られた。


 そしてその苦しみを一緒に受けられた。一緒に傷を負われた。十字架において一切を引き受けてくださって、神さまの御手に結び付けてくださった。イエス・キリストは、そういうお方として来られたのです。神さまは、このイエス・キリストを、十字架の死から復活させられました。

 「生ける神の教会」は、このイエス・キリストと共に歩み、主イエスの福音に生かされて歩む
「教会」です。その中に、私たちを呼び集めて下さっているのです。
  
  
 
  
 2018年7月1日
 
 花材   砥草  紫陽花
 キリストに結ばれて


 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく 愛の実践を伴う信仰

 こそ大切です。             (ガラテヤ 5・6)


  「愛すること」も、また、私たち人間の手の中にはありません。
 しかし、「愛」においてこそ、私たちは、神さまを見出し、自分の罪が明らかにされていくのです。

   そのような私たちが、神さまに招かれて、イエスを主と信じる信仰をいただき、イエス・キリストに結ばれるこ  とによって、主イエスの恵みの中に生きるものにされます。そして神さまの愛を受けて、神さまの愛の中で愛  するものにされていくのです。

  そこにあるのは、感謝と喜びです。

   信仰があれば、何もしなくてよい、行いは関係ないというのではありません。
  神さまの愛に生かされ、その恵みの中を生きるものは、自分が生かされる歩みの中で、その生きざまや行い  に、影響を与えないはずがありません。 

  その人のうちに、信仰を呼び起こす神さまの愛が働いているのですから。
 
 
 
   
 
  2018年6月24日
 
  花材   夏椿  鉄線 アルケミラ・モリス
 主から贈られた救いの言葉

  兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて

  神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られ ました。
                 
                           (使徒言行録 13・26)

 この「救いの言葉」は、「イエス・キリスト」そのものです。

 エルサレムの指導者たち、そして「十字架につけろ」と叫んだイスラエルの人々が、受け入れることができなかった「イエス・キリスト」です。

 イスラエルの人々は、預言者を通して、「救い主の到来」を聞き続けて心から待ち望んでいました。しかし、イエスさまがベツレヘムでお生まれになったとき、彼らは信じることができなかった。そして死罪に当たることは何もしていないのに、十字架につけて殺してしまったのです。

 かえって、異邦人であり、遠い東方の博士たちや、差別を受けて人口調査の対象にもならなかった羊飼いたちが、救い主の誕生を信じ喜んだのです。

 「救いの言葉」は、2000年の間、聖書を通して聞き続けている人々すべてに、そして私たちに、与えられているのです。
 
   
   
  2018年6月17日
 
 花材   花菖蒲  珍主梅  黄菊
 主のまっすぐな道を

 お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」   

                            (使徒言行録 13・11)

  
 
 パウロは、キリスト者を迫害して、エルサレムからダマスコに向かう途中、イエスさまとの劇的な出会いで、三日間目が見えなくなった経験を通して、イエスを迫害するものから、イエスさまに従うものに変えられました。
  
 主の御手によって、目が見えなくされた魔術師エリマに起こったことも同じです。一旦閉じられた目が開かれることによって、真の神さまに出会い、自分の間違いに気づかされ、心の目が開かれ、新しいいのちに生きるものにされたのです。

 見えていたものを見えなくされ、本当に見るべきものが見えるようにしてくださる。自分の考えや思いに固執して、見えなくなってしまっているのを打ち壊してくださり見えるようにしてくださるのです。

 礼拝でも、日々の生活でも、どこにいても、私たちの目を開いてくださり、本当に大切なことを見えるようにし、気づかせてくださるのです。
  


  
 
 
 
  2018年6月10日 
 
花材  姫七竈 百合 擬宝珠
  あなたも、あなたの家族も

 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」                               (使徒言行録 16・31

 

 パウロは、「あなた」が救われることによって、何もしなくても、「家族も、同時に救われる」と言っているのではありません。「あなたの信仰」が、「家族全体の信仰」になるのであれば、「家族一人一人の意志」は無視されてしまいます。

もし家族の中に、信じることができない人がいても構わない。神さまは、すでに、その人も「救い」の中に入れておられるのだ。

 「あなた」に働かれると同じように、「あなたの家族一人一人」にも働かれている。「あなたの家族」も「神さまが、責任をもって、「救い」へと導いてくださる。

 だから、「あなた」は心配しないで、まずあなたが、主イエスを信じて受け入れることだ。

 そして「主イエス」と共に生きることを通して、家族の一人一人に、その喜びを伝えなさい。イエスさまを中心とした「家庭」を喜び、共に、福音を分かち合うことができるように祈りなさい。パウロはそう言っているのです。

 
 
   
 
  2018年6月3日
 

花材 アリアアム・ギガンジューム  紫陽花
  
    モンステラ  ドクダミ草
思い切って、大胆に

 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って

大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
                     
                          使徒言行録 2・29

 聖霊に満たされて、『神の言葉」に生きて歩もうとするとき、建物全体が揺り動かされるように私たちの全存在が揺すぶられる。そして新しい命に生きるものに変えられて、「思い切って、大胆に」語るものにされるのです。

 しかし現実は、そう簡単ではありません。あちらこちらから圧力を受ければ、差しさわりのない言葉でその場所を何とかしのごうととすることもあります。

 そんな私たちを、イエスさまは、捉えて離さないのです。そして私たちが、「思い切って、大胆に」、神さまの恵みに生きていることを、証しすることができるようにして下さるのです。

 そべては、イエスさまの働き。イエスさまが働いておられる。イエスさまに信頼し委ねるとき、イエスさまご自身が、私たちを通して働いて下さり、私たちの想像を超えた神さまのわざを見せて下さるのです。
 
 
 
  2018年5月27日

花材 アリアアム・ギガンジューム 
    ひまわり
神の霊があなたがたの内に

 神に霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではな

く 霊の支配下にいます。          ローマ8:9


 「霊の思いは、命と平和」と言われるように、すべて命ある者が、聖霊の働きによって「神の恵み、主の平和」の中で、主と共に、「いのち」豊かに、生かされて歩むようにと、神さまは願っておられるのです。

 「霊の支配下にいます」、「神の霊に従って歩む」と言われるのは、私たちが、神さまの恵みの中を歩むということと同じです。

 それは、イエス・キリストにし従って生きる、と言うことに生きる他なりません。

 イエス・キリストに結ばれている者、イエス・キリストにつながり続けて歩んでいるものは、「神の霊、キリストの霊」が、私たちのうちに宿っている、働き続けているのです。

 だから、私たちは、もはや、罪の中にではなく、主の御手の中にいるのだから、主と共に、神さまの恵みの中を歩もうと、パウロは言っているのです。
 
 
 
  2018年 5月20日


花材 ルピナス ジキタリス 夏はぜ 百合 薔薇
     柏葉紫陽花
     万事を益としてくださる主



 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が

益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
  
                                 (ローマ 8・28)

    
 すべて、神さまに愛されている人に、神さまは「よいもの」を与えてくださる。「万事を益となる」ように共に働いてくださる。そう信じて、イエスさまに委ねて私たち歩んでいますし、信仰の先輩たちもあゆんで来られました。

 しかし、ときには、厳しい現実に涙されることもあったと思います。「礼拝」に集いたいと願いながら、年齢を重ねることで体が思うように動かなくなり、一人取り残された思いに襲われたこともあったのではないでしょうか。

 その苦しみの中で祈った。何度も祈った。ときには、祈る言葉さえもわからず、うめくことしかできなかった。

 そのような信仰の先輩たち、また私たちに、「聖書」は、寄り添って、言葉に表せないうめきをもって、祈ることさえできなくなった私たちの「祈り」を、神さまにとりなしてくださっているのです。
 
 
 
 2018年5月13日


花材 ジャーマンアイリス  シンビジューム  紫蘭
与えられる永遠のいのち

 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わ

しになったイエス・キリストを知ることです。

                           (ヨハネ17・3)

  「まことの神さまを知ること」と、「イエスさまを知ること」とは、切り離すことができません。神
さまを知ることはイエス・キリストを知ることであり、イエス・キリストを知ることは神さまを知ることです。

 イエスさまの言葉は、私たちがこの世を生きるときも、この世の生を終えて新しいいのちに生きるときも、聞くべき言葉であり、信頼すべき言葉であり、従うべき唯一の言葉です。
 私たちは、このイエス・キリスト以外に、永遠のいのちに至る道を見出すことはできないのです。

 そして、イエスさまが「時が来ました」と言われるように、今、その「とき」が来ているのです。主イエスを信じて、従って歩むときが、今来ているのです。

 何も他に知る必要はない。ただ、主であるイエス・キリストを知ることです。そうすれば、まことの神さまが分かるのです。
 
   
 
 2018年 5月6日



花材  薔薇 トルコ桔梗 玉しだ 
    かすみ草
悲しみは喜びに

 今はあなたがたも、悲しんでいる。しかしわたしは再びあなたがたと会い、あなた

がたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
                         
                                  (ヨハネ 16・22)

 イエスさまは、「わたしは、再び、あなたがたと会う」と言われます。イエスさまの方から、私たちに会ってくださるのです。私たちは、このイエスさまに出会えばよいのです。
 
 イエスさまは、復活されて永遠のいのちに生きられ、新しいいのちに生きられて、ペトロたちにも、そして
私たちにも、「わたしは、生きている。生きて、再びあなたがたと会う」と言って、出会ってくださるのです。

 そして、今ここに一緒にいてくださる。それだけではない。

 病の床にあって、礼拝に参加することができなくなっている「友」を、訪ねて下さり、そばに寄り添っていてくださる。そして、祈り続けてくださっているのです。

 「わたしは生きているので、あなたも生きる。そしてあなたと一緒に歩む。」そう約束してくださったのです。  
 
 
2018年 4月29日



花材  アロエ  薔薇2種  
主の愛にとどまる

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。

わたしの愛にとどまりなさい。
                 
                       (ヨハネ15・9)
 十字架の苦しみと死を通して、私たちに示してくださった限りない愛。何としても救いへと導こうとされる大きな愛。このイエスさまの十字架の愛にとどまり続けて歩むものとなってほしいと、イエスさまの祈りが込められています。

 イエスさまの愛にとどまり続けて歩むならば、私たちも他の人を愛するものにされ、嬉しく豊かに「愛する」ものにしてくださるのです。 「愛する」という具体的な関わりなしには、「イエスさまの愛に留まる」とい
うことは起こりません。愛するということは愛する相手がいるということ。その相手の命をいつくしみ、その存在を尊び互いに愛し合うことです。


 私たちが、「イエスさまの愛にとどまり続ける」ことによって、私たちも、苦しみ悩んでいる人に無関心ではいられなくなるし、自分のことのように思うことができるように変えられていく。そうしてくださると信じています。

 
 
 
 2018年 4月22日



花材  七竈  芍薬  小菊
互いに愛し合うものに

 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛し


たように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

                  (ヨハネ13・34)

 イエス・キリストの教会は、イエスさまの「この言葉」を刻み続けて、2000年の間歩んできました。主イエスの言葉を真正面から受け止めて立とうと、教会の歩みに刻みつけたのです。江波教会も同じです。

 しかし現実は、「誰が一番偉いか、わたしのはずだ」と言い争い、互いに愛することができない弟子たちであり、私たちです。

 イエスさまが弟子たち、そして私たちを愛されるようには、私たちは人を人を愛することはできません。

 しかし私たちが、「イエスさまの愛を受けて歩んでいる」ことを心に刻み、イエスさまの愛に、しかも十字架の愛に立ち続ける。そこから、私たちの「互いに愛し合う」ということが起こされるのではないでしょうか。

 私たちは、「互いに愛し合いなさい」と言われる言葉を心に刻んで歩み、「イエスさまの愛の中に生きる」ものになりたいと思います。
 
 
   
 
 2018年 4月15日



花材  とくさ  万両   雪の下  しゃが 蘭
わたしを通って

 
 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。


その人は、門を出入りして牧草を見つける。
                   
                   (ヨハネ10・9)
 

 羊は、弱く、迷いやすい動物なのに、それでいて案外強情なところがあるそうです。その迷い易さ、弱さのために、羊たちは、羊飼いの導きが必要なのです。
 
 イエスさまは、この羊飼いと羊たちの関係を通して、イエスさまと私たちの関係をしめされるのです。

 羊飼いが、羊と一緒に同じ門から入り、羊と一緒に歩まれるように、イエスさまは、私たちと一緒に歩まれて、私たちを神さまのもとに導こうとされるのです。

 イエスさまが「囲い」の中に連れて来て下さったのに、神さまから引き離す大きな力で「囲い」の外に出てしまい、神さまに背を向けて歩むことがないように、自分の命を捨ててでも、「どんなことがあっても、たとえ囲いの外に出ても、あなたを守る」と、約束されているのです。

 だから、「他の門」ではない。わたしである「羊の門」。この「門」を通って入ることこそ、「いのち」にいたると言われるのです。
 
 
   
 
 2018年 4月8日

  


花材  五月梅 アザミ 鳴子百合
共に喜び、共に泣くものに

 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、

一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
                
                         (コリントⅠ12・26)

 誰もが、「弱さ」を持ったものとして、この世を生きています。その中にイエス・キリストがいてくださる。それが「キリストの体、教会」です。

 だから、パウロは、「弱さ」を持つものが、「キリストの体」の「一つの部分」
として、「そのままの姿で良い」「構える必要はない、弱いままで良い」、「今、
ここにいる。一緒にいる」、それが必要だし、大切なのだと言うのです。

 私たち誰もが持っている「弱さ」のゆえに、イエス・キリストは、徹底的に十字架
の死を苦しまれ、無残な姿をさらけ出されました。

 「役に立つとか、能力があるとか」の基準ではなく、その「一人一人の存在」その
ものが大切であり、その存在のために、イエスさまは十字架を背負ってくださったの
です。

 そして、死を打ち破って復活されて、「弱さ」丸出しの私たちと共に、何としてでも
一緒に生きようとされているのです。
 
 
 
 2018年 4月1日

  
花材  五月梅  百合  椿

ここにはおられない

 驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを

捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。

                        (マルコ 16・6)


 イエスさまの復活、イースター、おめでとうございます。
 2000年前に起こった出来事、「イエス・キリストの復活」を、私たちの理性や知識で理解することは到底できません。
 
 「神さまが働いてくださったから」というほかありません。
 しかし、「復活されたイエスさまに出会う」という経験は、パウロのように、「劇的に変えられる」ことはないにしても、ペトロや他の弟子たちと同じように、その人の人生を変えていくことも事実です。
 
 2000年の間、復活されたイエスさまに出会い、その人の生き方を変えられた人は数えきれません。「復活されたイエスさまに出会った」という事実は残るのです。私もその一人です。
 
 言葉では説明できないけれど、確実に起こった「復活されたイエスさまとの出会い」。その不思議な経験を通して、私たちは、復活されて今も生きて働いておられるイエス・キリストと共に、歩んでいるのです。
 
 
 
 
 
    
2018年  3月18日 

花材  柳 ロベ 百合 

この杯を、わたしから

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけ

 てください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますよ 
 うに。」                            
                        
                         (マルコ14・36)

                    
                                      
 主なる神さまは、私たち人間をご自分にかたどって創造され、祝福してこの世に生きる者としてくださいました。

 たとえ私たちが神さまに背を向け続けるとしても、それでもなお、神さまは、心から愛され、神さまのところに
帰ってくることを待ち望んでおられるのです。
 それゆえに、神さまの「独り子」であるイエスさまの願いを拒まれ、イエスさまを十字架の上に見捨てることで、イエスさまに答えられたのです。

 この十字架の苦しみを受けることは神さまの意志であると、はっきり理解されたイエスさまは、神さまの意志
に従う決心をされました。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。
 苦しみの祈りを通して、神さまにすべてを委ねて歩む決心をされて、十字架への道を進んで行かれたのです。
 
 
 
 2018年 3月11日

花材  レンギョウ  カラー  ドラセナ
仕えるものに

 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上
になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

                            (マルコ10・43ー44)


 「偉くなりたい」と言うのは、「大きくなりたい、大きな存在になりたい」ということです。大きな
存在になりたい人は、仕えるものになり、そしてもっと大きな存在になりなさい。イエスさまの慰め
と恵みをたくさん受けて、神さまと人に仕えて、仲間たちの間でも、この世でも、大きな存在になり
なさいと言われているのです。

 このように言うと、「仕える」ことばかりが問われているように思われますが、そうではありません。
「喜んで仕えてもらう」ことも大切です。

 私たちは、仕えてもらうことが下手です。しかし喜んで仕えてもらう、小さな奉仕をしてくださることを
喜んで受け入れる。それによって、仕える人は、十分ではないかもしれないけれど、仕えるものになっ
ていく喜びをいただき、恵みをいただくのです。互いに、仕え、仕えられて、主イエスによって、「大きな
もの」にされていくのです。
  
 
 
 2018年 3月4日 

花材 青文字 カーネンション 柘植
信仰のないわたしを

 「おできになるなら、わたしどもを憐れんでおたすけくださいた。」

イエスは言われた。「
『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」

その子の父親はすぐに叫んだ。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
                             (マルコ9・22-24)
 生まれたときから、ひどい病気にかかっている息子を癒やしていただきたいと藁にもすがる思いで、父親は、イエスさまのところに連れてきました。

 イエスさまはおられなかったが、弟子たちはいた。癒やしていただけると思っていたが、弟子たちには癒やせなかった。父親は落胆したでしょう。でも、もしかしたら、その先生であるイエスさまなら、癒やせるかもしれない。だから、父親は「おできになるなら」としか言えなかったのです。

 イエスさまは、その父親の思いを見抜かれた。しかし見抜かれただけではない。これまでの父親の「苦しみ、
悩み、辛さ」その一切を心に留められ、そして引き受けられたのです。

 だからイエスさまは言われました。「『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」父親はすぐに叫びまし
た。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 
 
 
 2018年 2月25日


 椿 菜の花
わたしの愛する子

 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に

恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
                           (マルコ9・7ー8)   


 「これはわたしの愛する子。これに聞け」。この言葉をペテロたちが聞いたとき、周りにはイエスさまだけしかおられませんでした。
 一緒に山を登って来られたイエスさまだけが、ペテロたちと一緒におられるだけでした。このイエスさまと共に、ペトロたちは、また山を下りて、十字架の苦しみが待っているところに向かうのです。

 しかしそこには、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言われた「イエスさま」が一緒におられる。「十字架の苦しみと死、そして復活」を理解できないままのペテロたちだけれど、確かに、イエスさまは共におられるのです。

 この「十字架につけられるイエスさまに聞いて従う」のが、ペテロたちであり、そして私たちです。
 イエス・キリストの言葉を「心に留めて」歩みましょう。
 
 
 
2018年 2月18日 


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それでは、あなたがたは


  イエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがわたしを何者だと言うのか。」

ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」         (マルコ8:29)

              
 
他の人が、どのように言っているかは分かった。それはそれで良いしかし「あなたは、わたしを、何者だというのか。」あなたにとって、わたしは何者なのか。あなたは私とどんな関係があるのか。弟子たちに、そして私たちに
問いかけておられるのです。

 ペトロが、「あなたは、メシア、救い主です」と告白すると、イエスさまは、誰にも言わないようにと言われ、そしてこれから受けるであろう「苦しみ」を予告されました。

 それは、ペテロをはじめ、弟子たちが描いている「メシア」の姿とは、ほど遠い姿です。だからペテロは、イエスさまをいさめようとしたのです。ところが、イエスさまから「サタン、引き下がれ」と叱責されてしまいました。

 しかし、このイエスさまの叱責の言葉は、イエスさまの十字架を背負い、イエスさまに従う、新たな招きの言葉になりました。
 ペテロは、「サタン」とまで言われた言葉を、心に刻んで、主イエスと共に歩んでいくのです。
 
 
   
 
2018年 2月11日 



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主よ、しかし

 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の
下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」
                 (マルコ7:28)

  この女の人は、イエスさまの前にひれ伏したまま、イエスさまと真正面
に向かい合い、イエスさまの言葉を聞いています。

 そして、ひれ伏したままで、イエスさまに戦いを挑むように答えました。
「その通りです。主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパンはいただきます」。
「確かにそうです。それでもなお」と食い下がります。

 「主よ」と、女の人はイエスさまに呼びかけますが、マルコによる福音書で
イエスさまを「主」と呼び告白するのはここだけです。この女の人だけが、イエスさまを「主」と呼ぶのです。ペトロや弟子たちではありません。女の人の熱心な求め。それは、イエスを主と告白する信仰を貫いた言葉です。

 「言い伝え」に固執して、イエスさまに心を開かない当時の指導者たちの姿とは対照的に、イエスさまに何としても「娘を癒して欲しい」と願い求める
「この女の人」の信仰です。

 それが、「主よ、しかし」という言葉に込められています。
 
 
 2018年 2月4日


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十二人を呼び寄せて

 イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。
                       (マルコ 6: 6-7)   

 福音の働きは、「主なる神さまの働き」。私たちはその働きに加えられる「恵み」を与えられています。それで十分なのです。
 しかし、私たちが、主イエスと共に歩むとき、私たちが語る言葉や行いに、私たちの存在が明らかにされて行きます。

 「主と共にある、あなたの歩みは、それでよいのか」と問われるのです。しかしそこに、私たちは立ち続けなければなりません。とても無理だと、あきらめてしまいそうです。

 しかしそのような私たちを、イエスさまは、主を証しするものとして遣わされます。
 「サタン、引き下がれ」と叱られたペテロが、それでもイエスさまから、「福音を伝えなさい、主の証し人として歩みなさい」と送り出されたように、私たちも、日々の生活の場で、証し人として遣わされているのです。 その日々の生活の場で、私たちが主イエスと一緒に歩んでいる。そのことは、すでに主を証しているのです。
 
 
 2018年 1月28日


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安心していきなさい

 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。

安心して行きなさい。もうその病気にかからず、気に暮らしなさい。          
                         (マルコ 5・34)
                   
 「娘」という呼びかけは、もうあなたは、わたしと無関係ではない。イエスさまと
共に歩む仲間、家族なのだ。安心しなさいという言葉です。

 神さまがあなたに働かれたのだ。これからも神さまは働いてくださる。それを信
じて歩みなさい。そして神さまの平安のうちに歩みなさい。「神さまの平安」から離れてはいけないよ。そう言ってくださったのです。

 この女の人にとって必要だったのは、救いを与えるイエスさまと「向かい合う」時だったのです。女の人は、イエスさまと向かい合い、一緒に歩み出すことによって生きる希望を与えられたのです。

 私たちが健康であろうが病気であろうが、どんな人にも、必要な「救い」が与えられるのです。「病気が治る」ことにあるのではなくて、病気であっても、たとえ治らなくても、神さまの「救い」は与えられる。そこに「信仰」があるのです。
 
 
 
 2018年 1月21日

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わたしについて来なさい

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

二人はすぐに網を捨てて従った。
                 (マルコ 1;17-18)
 「捨てる」というのは、それで終わってしまうというのではなくて、そこから、「新しい
歩みが始まる」ということです。 しかも、イエスさまが、「わたしについて来なさい」と言われるのですから、その先を
、神さまが備えてくださっている人生なのです。

 自分の力に頼るのではなく、神さまの言葉に聞いて歩むことが、私たちの人生を豊かにすることになるのです。

 握り締めているものを、一度手放して、「捨てる」ことによって、新しい歩みへの道が開けていく。今まで見えなかったものがみえて来て、人生が広がり、豊かになっていく。 マルコは、「神の子イエス・キリストの福音」は、そのような福音なのだ。だから信じて、イエスさまと一緒に歩もうと、私たちに言っているのです。

 イエスさまは、「恐れることはない。私があなたと一緒にいる。安心してついてきなさい」と
言われているのです。
 
 
2018年1月14日

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神の福音を信じる

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音べ伝えて、

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

                 (マルコ1・14ー15)

 私たちは、「神の国が、すぐそこに来ている」と言われても、実感がわかないし、にわかに信じることができません。

 私たちの生活は、何も変わらないし、世界中に起こっている「争い、憎しみ合い、奪い合い」は無くならない。かえって大きくなっている。どこに「神の国、神さまの愛の支配」が来ているのか。この争い合う状態が、神の愛の支配の中にあるのかと思ってしまいます。

 しかし、「何も変わらない」と思える中に、「光の王」イエスさまは、一緒にいてくださっているのです。「闇」が覆って、私たちの目がふさがれて、見えないかもしれないけれど、もうそこに、「神の国」は、確かに、来ているのです。

 だから、私たちは、神さまの方に向きを変えて、神さまと共に歩む新しい歩みを、希望をもって始め
ましょう。