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毎週礼拝を飾っているお花と 週報の巻頭言の,み言葉を載せています |
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2021年10月3日 |
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花材 ユッカ 菊 鶏頭 |
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信じて祈る
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信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。
マタイによる福音書 21章18-22節
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『信じる』や『祈る』という言葉を、教会ではよく耳にします。主語を付け加えるならば、私が信じ、私が祈るとなるでしょう。その上で重要なのは目的語。一体、私は誰を信じているのかが問われます。私達が人にお願いをする時に、「その人ならば叶えてくれることを信じて」頼むのではないでしょうか。信頼の根拠が自分の側にあるならば、状況次第で揺れ動いてしまうでしょう(例.お金・人脈・外見・権力・体力)。クリスチャンはイエス・キリストを根拠とします。イエス様ならば、私の願いを叶えることができる。私にはできなくても、神様ならばできる。神様の思いに一致するならば叶う。だからこそ自分の願いを明らかにし、その願いが神様の思いと一致することを求め、御心が成るように、イエス様の名前で祈り委ねるのです。信じる根拠も、祈る根拠も、私達の側にはなく、イエス様にあります。だからこそ、私達の状況に関わらず、イエス様を信じ祈ることが赦されている。
イエス様を求める時、私達はイエス様と結ばれます。イエス様に結ばれる時、私達は豊かに実を結びます。大胆に祈り求めましょう。イエス様ご自身が、私達の実を楽しみに信じて祈ってくださっているのですから。
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2021年9月26日
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花材 ヒメヒマワリ サルビア たにウツギ
アオイ |
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主による平和を祈る
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剣を打ち直して鋤きとし 槍を打ち直して鎌とする
国は国に向かって剣をあげず もはや戦うことを学ばない。
イザヤ書 2章1-5節
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フランシスコの平和の祈り
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、 争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、 疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、 絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、 悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。
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2021年9月26日
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花材 ツルニチニチソウ ばら ルリマツリ |
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ありえないんですけど!
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後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
マタイによる福音書20章1-16節
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イエスが生きていた時代も、日雇い労働者がいました。一日分の給料がなければ、その日を生き抜くことができない。2000年前も不況で失業者が沢山あふれていました。そんな中、収穫のために、労働力を求めて街にやって来たブドウ園の主人。イエスはそのような主人にたとえて、『天の国』について語り始めました。
主人は朝6時から出かけていき、労働者を1日分の給料、約8000円で雇います。朝9時、昼12時、15時、17時にも出かけ、労働者を雇います。しかし後から来たものに対して、報酬を明言しません。夕方の18時頃、みんなにお給料を渡しました。なんと遅く来た順に、しかも全員に同じ8000円ずつを支払ったのです。
意味が分からない。ありえない話です。労働者は誰一人として損をしていない。損しているのは主人だけ。それでも、最後に来た人が得をして、朝一から来た人が割を食っているように思えるのは何故でしょう。働いた量を他者と比べて自ら誇っていた人物は、報酬を他者と比べる中で喜びを失いました。神様は私たちの必要をご存知です。当たり前ではなく、一日分の糧を感謝して受け取る時、恵みと喜びを味わうことになるのです。
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2021年9月19日
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花材 アブラナ 彼岸花 |
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借金返済措置
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「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」
イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍まで赦しなさい。」
マタイによる福音書18章21-35節
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人の悩みの多くは人間関係に由来します。人が集まれば、喧嘩がおこることもありますし、気に食わないことをしたりされたりすることもあり得ます。子どもであっても大人であっても人間関係に悩むのではないでしょうか。そして一旦崩れた関係を回復するのはなかなかに困難です。2000年前の聖書の時代も同じでした。
弟子の一人がイエス様に聞きました。「何回、友達を赦せばいいのですか。」イエス様はたとえ話で答えます。「ある家来は王様から6000億円の借金をしていた。返済することのできない家来を可哀そうに思い、王様は借金を帳消しにした。その後、その家来が100万円を貸している他の仲間に出会った。しかしその家来は仲間を赦さずに牢屋に入れた。王様はこの家来の対応に怒って牢屋に入れた。」
「赦さなければ、神様から赦されない」といった、交換条件を語られているのではありません。注目するポイントは、イエス様による桁外れの『赦し』です。どれほどの憐れみが、恵みが、愛が注がれているのか。赦しは関係の回復へと繋がります。この神様の赦しを受け入れなさい、そして隣人を受け入れなさいと招かれているのです。
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2021年9月12日
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花材 ツルニチニチソウ 百日紅
ブーゲンビリア 百合 |
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100%の福音
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これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。〈10節)
これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心はない。
マタイによる福音書18章10-14節 |
聖書には人間を『羊』にたとえる物語があります。羊は、おくびょうで視力が悪い生き物です。そのような弱さを抱えている羊は、群れで生活し、羊飼いの声に聞き従う性質をもっています。しかし時に、群れから迷い出て行ってしまうことがあるのだそうです。
100匹の羊を持ち、その内の1匹が迷い出たならば、あなたはどうしますか?と、イエスは私たちに問いかけます。多数決や、「最大多数の最大幸福」で考えれば、99匹の安全確保を第一にするべきでしょう。
しかし、迷い出た1匹の羊の立場に身を置く時、どれほどの不安だったかと想像するのです。外敵に襲われることも、崖に身を落とすことも、岩に挟まることもあり得ます。99%死が迫っていた。それにも関わらず、
救い出してくれた方がいる。死ではなく命が与えられた。いったいどれほどの喜びでしょう。
イエスはこの喜びに連帯し、一緒になって喜んでくれるのです。99匹にとっても他人事とはなりません。迷い出た1匹は、もしかしたら明日の自分の姿かもしれないからです。そのように捉える時、残された羊たちにとっても、羊飼いが1匹を大切にして探しに出かけていくことは、希望の出来事となるのです。
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花材 ツルニチニチソウ 白百合 |
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あなたはわたしを何者だと言うのか。
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この小な者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報い受ける。
マタイによる福音書 10章40-42節、 11章1節 |
暦の上では秋ですが、まだまだ暑い日が続いております。熱中症などお気をつけて水分補給を心掛けてください。どうぞみなさん、心身共にご自愛下さい。
当時のイスラエルも夏場は乾季のため、日差しが大変だったことでしょう。弟子たちは、イエスに励まされつつ派遣され、町から町へと旅していきました。受け入れられる事もあれば、拒絶される事もあります。太陽が照りつける中、長時間歩いて来た弟子たちです。
「おつかれさま」と労われ、冷たい水をコップ一杯いただけたなら、どれほどの喜びとなったことでしょうか。心も体も生き返ったことでしょう。聖書は語ります。「イエスの弟子という理由で、小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」なんという祝福の言葉でしょうか。
イエスの弟子をサポートするならば、同等の報酬を受けるようになると約束されています。
その小さな者とは、イエスの弟子であり、イエス自身であり、全ての小さき者に連帯する神様です。小さな出来事にも関わらず、それは神様の必要を満たし、神様と共に働く行為となり、神様の御業となる。この働きに私たちは招かれているのです。
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2021年8月29日
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花材 柊南天 スプレー菊 玉羊歯 |
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いのちより大切なもの
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自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
マタイによる福音書 10章32-39節 |
詩人の星野富弘さんが『いのちより大切なもの』という詩を書いています。「いのちが 一番大切だと思っていたころ/生きるのが 苦しかった/いのちよりも大切なものがあると知った日/生きているのが嬉しかった」
さて、みなさんは、いのちよりも大切なものがあると思いますか。あなたの使命(生きる目的)、命をかける程に情熱を燃やしているものは何でしょうか。今はまだ、情熱を注ぐ先を探している方もおられることでしょう。
イエス・キリストは使命を持っていました。イエスの行動は『あなたを愛する』という使命に直結します。
愛するが故に、出会いに行き・教え・福音を宣べ伝え・癒しました。そして、十字架上で命をかけて救いを成し遂げたのです。聖書は決して命を過小評価しません。一羽の雀の命も大切にされる神様です。あなたの命も大切にされる神様です。イエスの命をかけるほどに、あなたの命は大切にされています。それでは、あなたは何を優先順位の一位にするのでしょうか。イエス・キリストの神様は、ねたむ神でもあります。二番目ではダメなのです。あなたを愛する神様は、あなたから愛されたいと熱心に願っておられます。
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2021年8月22日
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花材 南天 夏水仙 小エビ草 |
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恐れるな 恐れるな 恐れよ 恐れるな
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魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
マタイによる福音書 10章26-31節 11
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「恐れ」という言葉から、みなさんは何を想像するでしょうか。
私たちは、大雨や、地震、津波などの自然災害を恐れます。いじめ・虐待・周りからの評価・戦争、人に対しても恐れるでしょう。コロナ等の疫病に対する恐れが世界中に広がっています。また、自分自身の変化に対する恐れもあるでしょう。
主は、私たちを派遣します。各自は派遣先で、預かった言葉を語る使命が与えられます。「屋根の上で言い広めよ」とありますが、イエスの仲間だと知られては迫害されていた時代です。
それでも、「恐れるな」と語られているのです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」、いのちの主を「畏れよ」と。
この方は、わずか数百円程の雀のいのちにも寄り添われる方。あなたの髪の毛一本一本をも大切に数えておられる方。そのような神様が、死ぬ時においても、死の先においても、共にいる。だから「恐れるな」、この福音は、人間だけでなく全てのいのちに語られています。だから「恐れるな」、変化を恐れずに、神様に応えてまいりましょう。一人の変化は、水面に投げ込まれた小石のようです。そこから波紋は広がっていくのです。
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2021年8月15日
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花材 ツルニチニチソウ 鶏頭 アデニウム |
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派遣キリスト社員
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話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である
マタイによる福音書 10章16-25節 |
「派遣」という言葉は、当時のユダヤ文化において全権大使の意味を持っていました。例えば王様から派遣される場合、王様の代理人として、王様の権威を預かって交渉にあたったのです。現代において「派遣」と聞けば、社員という言葉が続くことでしょう。派遣社員は、雇用の不安定さや、福利厚生、給与面においてデメリットがあります。誰によって派遣されているのかが重要です。
神様はイエスをこの世に派遣しました。そのイエスは弟子たちを派遣します。時に、遣わされる場所は困難な場面かもしれません。それは「狼の群れの中に送り込まれる羊」にたとえられる程です。イエス自身、人々からうとまれ、「悪霊の頭」と呼ばれ、命の危機にあいました。「迫害されたなら、他の町に逃げなさい」と、イエスは語ります。弟子たちが逃げた先で、イエスを宣べ伝えたことにより、キリスト教は広まっていきました。主によって逃げる先が備えられ、命が守られ、派遣されていったのです。
しかし弟子たちの中には、捕らえられ、裁判にかけられる者もいました。命が脅かされるような極限状態の中においても、主の霊は共にあり、主の言葉も共にあったのです。
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2021年8月8日
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花材 黄百合 カラーの葉
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悲鳴をあげよ
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イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を延べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
マタイによる福音書 9章35-38節 |
物事を相手に伝えるときに、より分かりやすくするため、たとえが用いられます。本日の聖書箇所で、イエスは群衆を『羊』と『収穫物』として表現します。
その『羊』は、健康な羊ではありません。飼い主の居ない羊。弱り果て、その上さらに打ちひしがれた羊のような、群衆の姿です。羊飼いの守りも導きもないため、夜も休むことができず、食物や水も満足に得られない羊。絶望の悲鳴をあげながら、それでも一縷の望みを持ってやってきた群衆を、イエスは痛みを覚えるほどに愛を持って見つめました。そして、教育を施し、良き知らせを語り、病を癒していきました。
イエスは、ご自身を求めてやってくる人々を見て、『収穫物』にたとえます。収穫はあり余るほどあるのに、働く人が少ない。だから主に祈り求めなさい、と語ります。やせこけた群衆の姿にも関わらず、豊かな実りを見る。失業者が多い時代に、働き人を求める。イエスは人々に、安心と栄養を与えます。だからこそ、イエスに結ばれる人々は溢れるばかりの命に与る。イエスの目は、取り切れない程の実りを見ています。悲しみの悲鳴は、嬉しい悲鳴へと、主によって変えられていく。希望はここにあります。
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2021年8月1日
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花材 パイナップルリリー バンブー
エノコログサ |
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マラナタ ―祈りと賛美を分かち合い―
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あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。(12節b)
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。(13節)
ヤコブの手紙 5章7-20節
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聖書は『忍耐』を勧めます。正直避けたくなるような言葉ですが、文脈があります。全てを我慢しなさいという意味ではなく、『主が来られる時』を待ち望むように言われているのです。忍耐の理由は、神様に対する期待です。希望があるからこそ、待ち望むことができるのです。
それに加えて、聖書が語る忍耐は、一人きりの歩みではありません。私たちの人生、まるで神様が自分を見捨てているような、辛い時や悲しい時があります。そのような時は、隣人と共に祈り合おう。まるで神様なしでも自分は生きていけるような、楽しい時や嬉しい時があります。そのような時は、隣人と共に賛美しよう。そのような時、私たちには忍耐が必要です。一人ではなく周りの友と助け合いながら生きていこう。孤独に苦しむことも、孤立を喜ぶこともしなくていいのです。
ことわざにも『喜びは分かち合うことによって倍になり、悲しみは分かち合うことによって半分になる』と、あります。隣人と祈り合う時、その悲しみをイエス様も分かち合われます。隣人と賛美をささげる時、その喜びをイエス様も分かち合われます。忍耐する時、イエス様も共に忍耐されているのです。
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2021年7月25日
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花材 とくさ ひまわり
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実を味わう!
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上から出た知恵は、何よりも先ず、純真で、更に温和で、優しく従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。(17節)
義の実は、平和を実現する人たちによって、平和の中に蒔かれるのです。(18節)
ヤコブの手紙 3章13-18節
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『知恵』という言葉から何をイメージするでしょうか。知識人・賢者・哲学者・おばあちゃんの知恵袋という言葉もあります。聖書における『知恵』は、時代によって定義が移り変わってきました。①人が賢く生きるための実践的知識。②神様から与えられる賜物。③人格をもった知恵=イエス様。それらの知恵には『主の群れを導き、主の宮を建て上げる』という共通項を見出すことが出来ます。
心の思いは、言葉として出て、行動に現れます。私たちは蒔いた種を刈り取らなくてはいけません。知恵があるならば、ふさわしい実を受け取ることでしょう。それは、純粋で、平和的で、素直で、慈しみに満ち、裏表も偽善もない、神様の義の実です。自慢や、嘘や、自分勝手さや、ねたみ心が、実として現れることがあるかも知れません。その時は、どのような種が私たちの心に蒔かれているのか、吟味する必要があるのです。
知恵は天から降ってきました。努力して身に着けるものではなく、与えられるものです。ただし、何のために知恵を求めるのでしょうか…。隣人と共に主のために生きる時、知恵は発揮され、共同体が建て上げられていきます。イエス様から蒔かれた種を豊かに実らせ、隣人と共に、収穫の実りを味わってまいりましょう。 |
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2021年7月18日
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花材 グラジオラス 数種 |
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心を研ぎ澄ませて
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私の兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら人を分け隔てしてはなりません。(1節)
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに裁きに打ち勝つのです。(13節)
ヤコブの手紙 2章1-13節
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私たちは違いに敏感です。そして線引きされた外側に対して、排除しようとする力が働きます。クラスにおいてはいじめが、地域においては差別が、民族においては虐殺が、歴史上幾度となく繰り返されてきました。差別は身近な課題でしょうか、遠く離れた問題でしょうか。部落差別・人種差別・性差別・性的少数者差別・「障碍」者差別。もし、あなたの家族が、差別を受けてきた方と深い関係を結びたいと言われた時には、どのような言葉をかけるでしょうか。
誰かを上に持ち上げ、誰かを下に貶める『差別』を聖書は否定します。「重んじる命」や「軽んじる命」があるのではない。命に優劣はなく、神様はあなたの命も、隣人の命も愛されたのです。差別の先には、命がおびやかされる未来が待っています。だからこそ差別は社会全体の問題であり、私自身の課題です。「差別なんて無い」と、目をつむり、耳を閉ざすのではなく、目の前の小さな叫び声に耳を傾けましょう。イエス・キリストに目を留め、耳を澄ませましょう。神の立場に固執することなく、最も小さな存在となり、命を懸けて愛を注がれた救い主。この方によって、私たちに自由がもたらされているのですから。
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2021年7月11日
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花材 カラー 百合 姫檜扇水仙 茉莉花 |
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気 心 腹 神 己
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聞くに早く、話すに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(19節)
御言葉行う人になりなさい。(22節) ヤコブの手紙1章19-27節
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今回の題は、「気は長く、心は丸く、腹立てず、神は大きく、己は小さく」と読みます。
日常において「怒り」に振り回されることはありませんか。怒りによって傷つけたり、傷つけられたりしたことは、誰しもあることでしょう。今後一切怒ってはいけない、ということではありません。怒りそのものは大切な感情で、命の危機から抜け出したり、脅威から自分を守ったりすることを助けます。しかし時に、この怒りによって大切な存在をも傷つけてしまうことがあるのです。問題は用い方です。怒りに支配されるのではなく、怒りを適切にコントロールする必要があるのです。怒った時に、ひと呼吸を置くことは効果的です。心理学的知見では、怒りの背後に、悲しさや寂しさや恐れや不安があるといいます。怒りを知ることは対策となるでしょう。
聖書は、「怒るのに遅いように」と語ります。人が怒りを発する多くの場合、自分の正義で相手を裁きます。つまり、神様を第一としない怒りは、神様の義になりません。自らの努力には限界があります。しかし神様には限界がありません。み言葉は心に届きます。私に届けられたみ言葉、命の言葉であるイエス・キリストによって、み言葉を行う者となりましょう。
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2021年6月27日
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花材 アンスリウム |
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主のいのちに結ばれて
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何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れて下さる。(14節)
ヨハネの手紙一 5章6-15節
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「証し」という言葉は元来、法廷用語として用いられました。言い換えれば、裁判の折に答えた「証言」を意味する言葉です。裁判で嘘をつくことは偽証罪にあたります。旧約聖書の十戒においても、偽証することは神様に対する罪であると定められています。
キリスト教は迫害された歴史と、迫害してきた歴史をもっています。ヨハネの手紙が書かれた時代は、迫害されていた時代です。イエス・キリストを信仰していると証しすることは、文字通り命がけだったのです。しかし、そのような人の証し、それにまさる神の証しがあると聖書は語ります。人々はイエス・キリストを証しします。では神であるイエス・キリストは何を証ししているのでしょうか。それは、 イエス・キリストの命を人々に与えられたことを証ししているのです。十字架につけられ死に至るまで、命がけで人々を愛することを決められた、イエス・キリスト。それが神の証しなのです。人々が生きるようになるように。愛を受け取り、愛を与える、愛し合う者となるように。神の光によって人の闇を照らすように。イエス・キリストは命を、私たちに与えられました。この方を教会は証ししているのです。
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2021年6月20日 |
花材 グロリオーサ 紫陽花各種 |
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ここに愛があります
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愛する者たちよ、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、
愛する者は皆神から生まれ、神を知っているからです。
ヨハネの手紙一4章7-21節
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みなさんにとって『愛』とは何でしょうか。思いやる心、恋人を慕う情熱、家族への慈しみ、「月がきれいですね」、「あなたのためなら死んでもいい」と表現した人もいます。聖書で語られている神様の愛(アガペー)は、自らの欲求を満たすための愛でなければ、感情的な愛でもありません。アガペーとは、相手を大切にする決意が込められた愛なのです。
多くの場合、価値を見出された時に、愛するという行動になります。しかし神様は違います。条件無しで、何よりもまず先に、神様が私たちを愛することを決められた。神様は人々に何回も裏切られ、傷つけられました。しかし神様は私たちを諦めず、愛し続けた。この神様の愛を知り、愛を受け取り、愛に留まる人に対して、今度は愛する一歩へとチャレンジが与えられている。それは、お互いが生きるようになるためです。誰かが犠牲になるのではなく、共に生きるようになるために神様は愛を示された。世の中では、小さくされた存在が虐げられています。まず知るところから始めましょう。興味をもって関わりましょう。相手を大切にする決意をしましょう。
神様の愛が広がっていきますように。
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2021年6月13日 |
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花材 庭の木 庭の花々 |
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いのちのことば
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わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
ヨハネの手紙一1章1-10節 |
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私たちにとって、『光』とは何でしょうか。太陽、電球、携帯、ロウソク等々、思い浮かべるかもしれません。人間は光によって食べる物が与えられ、光によって行動することができています。時に、熱中症や日焼けを恐れて、光を避けることもありますが、基本的に光を頼って生きています。私たちの目には見えない体内においても、ビタミンDは光を浴びることによって生成される栄養素です。
聖書は、神は光であると語ります。私たちが隠していたものが、光によって照らされることもあるでしょう。しかし、光によって私たちの命は保たれています。私たちの抱えている闇も、神の光によって照らされていく。夜の闇が太陽の光によって押し出されていくように、闇は光に勝たなかった。完璧な人間になれとは、聖書は語りません。自分の罪を神様の前に明らかにする時、罪人である自分は神様の光によって照らされていく。神様の光によってあらゆる罪から清められる。光の子と見做されていく。光の交わりへと加えられていく。教会は、光である神様に希望を見出し、命を受け取り歩んできました。「光の中を歩みなさい」神様は今日もあなたを招いておられます。
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2021年6月6日 |
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花材 枇杷の木 菊 ゼラニューム
しゃが |
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廃墟より 新たにされる 神の霊
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荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。
荒れ果て破壊されて廃墟となった町々が城壁のある町になった。
エゼキエル書36章22-38節 |
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一人では困難な課題も、チームで対処することで解決に向かうことが多々あります。ことわざに「三人寄れば文殊の知恵」という教訓もあれば、毛利元就も「三本の矢」として家族の団結を語ります。聖書もまた「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」と、交わりの豊かさを説いています。
イスラエルがバビロニア帝国の支配下にあった時、エゼキエルは神様の言葉を民に伝えます。
「これは主の裁きである。しかし今、私の霊をあなた方に与える。時が来れば、イスラエルの廃墟は建て直される。その時人々は、私が主なる神であることを知るようになる。」神様の愛が、私たちの外見・内面などに依拠するならば、容易く取り去られていくものでしょう。しかし神様は、神様のために、人を愛するのです。一見、傲慢にも思える考え方です。それでも私たちの側に愛される理由が何一つ無いと知る時に、それにも関わらず愛してくださる、神様の恵みを覚えます。この恵みにより、神様と人・人と隣人・人と自然世界との関係は回復すると語られています。私たちは神様が繋ぎ合わせる交わりへと、今日も招かれているのです。
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2021年5月30日
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花材 しだれ柳 紫陽花 しゃが
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聖霊に満たされて
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主の名を呼び求める者は皆、救われる。 21節
ナザレの人イエスこそ、神から使わされた者です。22節
使徒言行録2章14-24、32-39節 |
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教会には大切な記念日が3つあります。1つ目はイエス・キリストの誕生日であるクリスマス。2つ目はイエス様が十字架につけられ3日後に復活した日であるイースター。そして3つ目が本日のペンテコステです。創造主なる神様とイエス様により降された、聖霊なる神様をお祝いする日。聖霊の働きにより、イエス様の良い知らせが口コミで世界中へ広がりました。そして人々が集まり教会が誕生しました。
聖霊は人々を力づけ、心を神様へと向けさせます。ペンテコステの50日前、師であるイエス様が十字架につけられ殺されました。祭司と長老達による妬み・弟子たちの恐れによる裏切り・総督の評判を気にする自己保身・自分には関係ないという見て見ぬふり…人々の罪により、イエス様は死んだのです。私たちには罪があります。自分は立派な人間であると誇ったり、逆にダメな人間だと貶めたり、他人を羨んだり、見下したりすることがないでしょうか。私にはあります。聖霊は、自分を見たり他人を見たり上げたり下げたりする私たちの心を、神様へと向けます。私たちの心を、神様の愛と恵みと希望へと、方向転換させるのです。主は今日もあなたを招いています。
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2021年5月23日
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花材 シンビジューム
梅花うつぎ
柏葉紫陽花 |
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主の共同体のために
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わたしは、いつも目の前に主を見ていた。わたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
だから、わたしの心は楽しみ、体も希望のうちに生きるであろう。
民数記27章12-23節 |
自らの死を目前にした時、私たちは何を願い、どのように行動するでしょうか。宗教改革者の一人、マルティン・ルターは「たとえ明日 世界が滅亡しようとも、今日私は
リンゴの苗木を植える。」示唆に富んだ言葉を残しています。果実を味わうのは私ではないかもしれないが、今からでも未来への希望を育むことが出来る。いつ終わりが来るか私たちには分からないからこそ、今を精一杯生きる。ということでしょうか。
モーセは120歳になり、神様から自らの命の終わりを告げられます。神様から託され、イスラエルの民のリーダーとして仕えてきた40年間でした。山あり谷ありの人生の旅路、その終わりに差し掛かっています。彼は自らの命が長らえることを求めません。彼の家族が権威を持つことも求めません。彼は主の共同体のために仕えるリーダーを求め、主に委ねます。彼は自分に似たリーダーを想定しますが、主が立てたリーダーであるヨシュアとはタイプが違います。ただし共通点もあります。モーセの欠点をアロンが補ったように、ヨシュアの足りないところをエルアザルが支えました。そして何よりも神様こそが、イスラエルの群れを導いてくださっているのです。
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2021年5月16日
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花材 トクサ ツリガネソウ
ドラセナ ゼラニューム
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神様ごめんなさい
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レビ記1章~4章
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『ごめんなさい』と『ありがとう』は人生を豊かにする魔法の言葉です。人はもちろん、神様においても、関係性を改善する大切な言葉です。神様は、エジプトの奴隷になっていたイスラエルの民を救い出します。聖なる方である神様が、イスラエルの民に対して、聖なる民となるように指針を示すのです。『レビ記』はその一つであり、儀式や祭事における様々な約束事が記されています。
もしも、個人が罪を犯したのであれば、家庭環境に合わせ傷一つない牛や羊や山羊や鳥を燃やし尽くして献げました。もしも、神様との和解を望む時には、いけにえの動物の脂肪や内臓や血を神様に献げ、残った肉は献げ物をした人々と、祭司とが分け合います。そうして、神様と自分と隣人とが一緒に食卓を囲んだのです。もしも、共同体が罪を犯した場合は、その罪に気付いた時にいけにえの動物を焼き尽くして献げました。そのようにして、神様に『ごめんなさい』をしたのです。聖書では、イエス・キリストこそが傷一つない小羊として献げられたと語られています。神様は赦しの道を備え、招いておられます。『ありがとう』の言葉をもって、主の胸に飛び込んでまいりましょう。
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2021年5月9日
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花材 白ユリ カーネンション
シダ カスミソウ 釣鐘草
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子どもたちに祝福を
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子どもをたちをわたしのところに来させなさい。 子どもたちを抱き上げ、手をおいて祝福された。
マルコによる福音書10章13-16節 |
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私たちは、受け入れられる時・大切に扱われる時、喜びを感じるものです。逆に、ぞんざいな扱いをされる時・無視をされる時には悲しくなります。力があり声の大きい人の意見は通り、周りの人達の意見は通らないことになれば、ますます影響力の格差は広がるでしょう。
2000年前、子どもは親の所有とみなされていました。小さくされていた存在でした。大人たちが真面目な話をしている最中、子ども達がイエス様の元に祝福を求めてやってきたのです。
弟子たちは、イエス様がお話しに集中できるようにと、叱ります。しかしイエス様はこの弟子たちに憤り「子ども達を私の元に来させなさい」と語るのです。
子ども達にとって自分たち一人一人が、かけがえのない存在として見出される時となったのです。しかも祝福はそれだけに留まりません。
イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と伝えるのです。神の国は能力や功績によるのではなく、受け入れる時に味わうものです。お互いに受け入れ、受け入れられる中で、神の国は広がります。両手を広げたイエス様が、今日も私たち一人一人を招いておられます。
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2020年8月30日
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花材 柳 菊2種 こでまり アロエ |
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口先だけの平和ではなく
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「主はこう言われる。さまざまな道に立って、眺めよ。
昔からの道に立って、眺めよ。昔からの道にッ問いかけてみよ。
どれが、幸いに至る道か、と。
その道に歩み、魂に安らぎを得よ。
エレミヤ6:6-16a |
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8月は「平和」をテーマにしています。預言者エレミヤは神様の言葉を伝えます。「人々は、平和がないのに『平和、平和』と言う」。当時エルサレムでは、法律が守られておらず、地位ある者による抑圧があり、人々は自らの利益を貪っていたことが記されています。その中で主は、小さくされている人々の叫び声を聞かれた。いじめが起きることにも、上下の力関係が発生する構造にも神様は怒られた。それは「平和」ではない。だからこそ主は、「懲らしめを受け取り、立ち帰りなさい」と語るのです。
沖縄のニュースを聞きました。「クラスターが発生した米原子力空母乗組員3000人の沖縄移送計画の取りやめ」というニュースです。沖縄の人達は、とても困りました。沖縄平和運動センターの方は、新聞でこのような発言をしています。「沖縄がまともに扱われないところに、県民の痛みと、憤りがある」と。この叫び声もまた、神様は聞かれているのです。
『分かれ道に立って、周りを見渡しなさい。過去を振り返り、幸いに至る道をたずねなさい。その道を歩み、魂を安らぎなさい』。主の言葉は、時を超え、場所を超え、今もわたしたちに響いているのです。
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2020年8月23日 |
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花材 野ブドウ ほおずき |
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平和の計画
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わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって災いの警告ではない。将来と希望を与えるものである。
エレミヤ29:10-14
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聖書には「預言者」という役割を持った人々が登場します。預言者とは、神様からの言葉を預かり、人々に伝える仲介者のことです。預言者エレミヤは自国イスラエルの人々に「主に立ち帰りなさい」、「神様に悔い改めよ」、「滅びゆく」など預言をします。しかし、人々は預言を拒絶し、バビロンによりエルサレムは崩壊します。50年間続くバビロン捕囚の出来事。50年間、地元に帰ることの出来ない人々。今、この現代の日本でも、福島第一原子力発電所の事故により、福島の人々は地元から追いやられたままです。今は、新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除となっていますが、今も、原子力緊急事態宣言は続いています。
神様は絶えず、「わたしたち」共同体に向けて預言を語ります。広島平和宣言では連帯することが語られました。わたしたちが福島のことを考えない時、福島の人々は広島のことを考えないでしょう。平和の計画は、共同体の中に見いだされていくのです。「隣人」と生きる中で、わたしたちとして生きる中において、神様は平和の計画を立てられたのです。江波に住む私たちは、広島に連帯し、長崎に連帯し、福島に連帯し、日本に連帯し、世界に連帯し、神様に連帯していく。それはまるで平和が広がっていくような光景ではないでしょうか。主による平和の計画は、今もわたしたちを通して進んでいるのです。
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2020年8月16日
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花材 野ブドウ ほおずき |
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平和宣言
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わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
主は平和を宣言されます。 詩編85:1-14
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「シャローム」とはヘブライ語で「こんにちは」等と訳される挨拶の言葉です。
そこには、「あなたの上に平和・平安がありますように」という意味が込められています。
2020広島平和宣言は「連帯」をテーマに語られました。1947広島平和宣言を見てみると、戦争の根本的否定と平和の熱烈なる希求が『平和宣言』として決意の言葉となって表されたように読み取れます。どこが同じで、どこに違いがあるのでしょうか。私は二つを読み比べ、現代が平和を宣言出来ない状況にあるように思いました。パンデミック、それぞれが抱えているストレス、いじめ、差別、死、今も続いているシリアでの戦争…。
詩編の詩人も、私たちと同じように、平和ではない只中に居ました。神さまに助けを求めていました。そして、主の言葉を聞くために沈黙の時を持ちます。唐突に、一方的に、神さまは宣言します。『主は平和を宣言されます』。主が、私たちに、平安あれと語られる。平和宣言は、人々が再び愚かなふるまいに戻らないためです。広島平和宣言も慰霊碑の前で宣言します。「安らかに眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから」と。
私たちの状況に関わらず、主が平和を宣言される。主に平和がある。正義の雨は天から注がれ、主への信頼は地上から芽生える。だからこそ私たちも、人々と連帯し、主に連帯し、平和の一歩を、平和の宣言をしてまいりましょう。「シャローム」
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2020年8月9日
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花材 とくさ 紫陽花
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分断されつつある社会の中で
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キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を造り上げて平和を実現し、十字架を実現し十字架を通して、両者を1つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
フェソの信徒への手紙2:11-22
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今月は「平和」がテーマです。今日の箇所では、二つのグループの対立が描かれています。一つはユダヤ人キリスト者、もう一つは異邦人キリスト者。イエス・キリストを信じた後も、ユダヤ人グループは律法を大切にしていました。律法とは神様から与えられた約束です。その律法を守っているという自負と誇りを持っていました。
一方、異邦人キリスト者は、「救いはイエス・キリストから来る、律法から来るのではない」と信じていました。そして、そのことをユダヤ人キリスト者たちも知っているのに、なぜ、今までの文化や慣習を守っているのかと軽蔑していました。
わたしたちもまた、文化の違いに直面した時、対立が起こり得ます。結婚においてもそのような場面はあるのではないでしょうか。対立構造の間には、お互いを隔てる「壁」が立っています。文化を隔てる壁、年齢を隔てる壁、性別を隔てる壁、職業を隔てる壁…。「壁」の中には、「敵意」が存在していると、聖書は語ります。私たちは「壁」の前に佇むことしか出来ません。しかし、イエス・キリストは「敵意という壁」を十字架において滅ぼしました。「壁」を失った私たちは、一つの共同体として生きていくことが出来るのです。共同体の中心にイエス・キリストが居るのです。イエス・キリストこそ、私たちの「平和」そのものなのです。
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花材 青い蓑南天 ピンKッション 椿の実 |
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Q.パンはパンでも…?
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イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。
また魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
ヨハネによる福音書6:26-40
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パンはパンでも〇〇〇なパンは、なーんだ?例えばその答えは、フライパンや、シャンパン、ジャパン、パンデミック、等が考えられます。
当時も今も、イスラエルでの主食はパンです。5000家族の食卓をイエス様は用意されました。イエス様が食事を用意してくれるならば、毎食準備しなくていい、働かなくていい、と考えた人々はイエス様を求めました。イエス様以外を求めることは、偶像を求めることになるのです。奇跡もまた、偶像になり得るのです。出来るか出来ないか、行動や結果に囚われてはいないでしょうか。私たちは、存在の価値をどれだけ見出しているでしょうか。
イエス様は、いのちに目を注ぎます。自らを「いのちのパン」と呼び、アンパンマンのように自らを献げてゆくのです。「いのちのパン」は、食べる人の身体を支え、心に栄養をつけさせ、社会的な交わりがあたえられ、更にこの地上のいのちに留まらない、永遠のいのちの糧です。イエス様ご自身を求めてまいりましょう。
「いのちのパン」は尽きることがありません。今週一週間、食卓の喜びに満ち溢れ、平安を味わい、イエス・キリストのいのちに生かされてまいりましょう。
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2020年7月26日
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花材 柳 百合 モンステラ
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ぶどう酒の喜び
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この葡萄酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが・・・
ヨハネによる福音書2:1-11
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今も昔も、結婚式は喜びの時です。しかし、結婚式ほどアクシデントが起こる場面もそう多くありません。
カナと呼ばれる田舎の村での結婚式が、今回の物語の場面です。用意していたぶどう酒が飲み終わってしまうという、大変なトラブルが起きました!イエス様の母マリアは、息子に問題の解決を頼みます。しかし、他者を自分の都合で動かすことは出来ません。誰が主権を持っているのでしょうか。人に主権があるのか、神に主権があるのか、とても大切なポイントです。
私たちが神に主権を委ねるということは、私たちが神に従うというチャレンジを受け取ることでもあります。イエス様からの命令は、水がめの水を満タンにするという、問題の解決には繋がらないようなことでした。身体的にも、精神的にも、一歩を踏み出すチャレンジが必要でした。召使いがイエス様の言葉に聞き従う中、イエス様は奇跡をおこなったのです。水がぶどう酒に変わりました。
主は「良い」お方です。新郎新婦が恥をかかずに済むように、傷つかなくてよいように、愛と憐みにより、水をぶどう酒とされたのです。そのぶどう酒は「良い」ぶどう酒です。
イエス様は、人という不完全な存在を用いて、飲みきれないほどのぶどう酒を用意されました。結婚式は、イエス様の愛によって注がれた、ぶどう酒の喜びで満たされたのです。
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2020年7月19日 |
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花材 オリズルラン
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『彼の「死」を思いつつ』
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パンを取り感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これはあなたがたになめ私の体である。
食事の後で、杯も同じようにして「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 11:17-34
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教会が大事にしている働きとして、福音の知らせ・交わり・奉仕があります。三つの大切な目的と言っても過言ではありません。当時、コリントの教会では、仲間割れが起きていました。交わりが崩されていたのです。教会での食事のときのこと。お金持ちのグループは、満ち足りるほどに食べたり飲んだりしていました。しかし、貧しい人たちは、一日の仕事が全て終わってからでないと教会に集うことができず、空腹のままでした。
問題が起きた時、目的を見失った時、原点に立ち帰る必要があります。
イエス様は何を教えていたのか。イエス様はご自身の体だと語りつつパンを裂き、人々に分け与えられました。そのパンにより、生きるために必要な栄養を受け、神様との和解を受け取ります。
そのぶどうの杯は、イエス様の血を表します。その血により神さまと新しい約束が結ばれました。キリストを信じる人は、イエス様の死を思います。そして、イエス様が伝えられたように、パンを食べ・ぶどうの杯を飲む、主の晩餐式を行います。主の晩餐式自体が、イエス様の人生を、彼の死を宣べ伝える出来事です。
主の晩餐式により、一つの体を分かち合う教会の交わりと、その中心にいるイエス様との交わり、そして神さまとの交わりを体験します。主の晩餐式により、イエス様が奉仕されて、用意された食卓を味わいます。主はその食卓に全ての人を招いておられるのです。
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2020年7月12日
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花材 ニュウサイラン ひまわり
アルタイカ
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どこでパンを買えばよいだろうか
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「ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。」 (9節)
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えられてから,座ったいる人々に分け与えられた。 魚も同じようにして、欲しいだけ,分け与えられた。 (11節)
ヨハネによる福音書 6:1-15
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「どこでパンを買えばよいだろうか?」と、イエス様は、12弟子の一人であるフィリポに質問しました。イエス様がパン屋を捜している光景は、なんとも親近感の湧く姿です。しかし、その背景には、病院に行くことが出来ない、食事も十分には取ることが出来ない、5000家族(1万人~2万人)の人々がイエス様の目の前にいたのです。「人々に食卓を用意したい」このイエス様の願いが、冒頭の言葉となったのです。
これは無理な願いです。お金の問題もありますし、もしパン屋さんが近くにあっても準備しきれないような大量の注文になります。フィリポは正しい答えを言いました。「200万円あってもパンは足りないでしょう。」そのような状況の中、名前も無い『少年』が、5つのパンと2匹の魚をイエス様に献げました。これだけでは、5000家族のお腹を満たすには足りないでしょう。弟子のアンデレも「何の役にも立たない」と評価をしました。しかし!!イエス・キリストは、無視され小さくされた少年のわずかな献げ物に目を留めたのでした。そして何倍・何十倍・何百倍にも祝福し、豊かに用いました。
私たちは誰かに何かを献げる時、痛みを覚えます。現状が足りなければ渡せないのが普通です。しかし、主が用いる時、不足していた皆が満たされ、更に12籠いっぱいのパンの欠片を受け取るのです。私たちは受け取った恵みをどのように用いてまいりましょうか。
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2020年6月28日
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花材 紫陽花の花々 |
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一本でもニンジン・一人でもニコデモ
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人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。
ヨハネによる福音書3章1~15節 |
聖書にはアイウエオ作文の詩や、韻、たとえ話や、一つの言葉で二つの意味の掛け合わせなど、面白おかしく覚えやすくするための工夫がある。
ニコデモとイエス様との対話は、すれ違っており噛み合っていないように見える。
しかし、そこにはダブルミーニングやユダヤ教の文化が背景に隠されている。
イエス様はニコデモに向かって、何度も何度も、「アーメン、アーメン(はっきり言っておく)」と、大事なことを伝えている。理解しきれないニコデモに、諦めることなく語りかけ続ける。対比やたとえ話を用いて、何とかして伝えようとする。それは、『わたし(イエス様)を信じ、救われよ』という招きであった。
イエス・キリストはニコデモに向かって、そして私たち一人一人に向かって、「ラビ(先生)として信じるのではなく、メシア(救い主)として信じなさい」と、諦めることなく語り掛け続けている。十字架のイエス・キリストこそが、私たちに新しい霊・新しいいのちを注いでくださるのである。
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2020年6月21日
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花材 庭に咲いた花々
たちあおい 紫陽花
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霊を求める
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神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。詩篇51:12 |
神様の出来事と出会う時、気付かされる時、私たちはその出来事を表現したくなります。また、自分でも目を背けたくなる程の、自分の罪に向き合わされる時、神様を求めるのではないでしょうか。詩編には、神様への思いを言葉にした、祈り・賛美・詩・歌が集められています。
51編で、詩人は「霊」を求めます。霊とは、他の場面では、風・息・命・心と訳されている言葉です。「霊」は神様からいただく、いのちなのです。そして詩人は3つの霊を求めます。①「確かな霊」確かさ、基準となるものを私たちは持っていません。清い心もありません。神様のみが、新しく創り出してくださいます。②「聖なる霊」私の中にある良心も、神様から与えられたものです。どうか、取り上げないで下さいと、詩人は祈ります。③「自由の霊」私を支える霊は、神様という身分の高いお方の霊、その霊は進んで働き、自由に導き、仕えることを喜ばれる霊。その霊で、私を支えてくださいと求めています。
驚くことに、神様も「霊」を求めています!「打ち砕かれた霊」を求めているのです。それは神様を求める心。神様の前で、自らが小さくなり、神様の憐みを願う心。その時、赦されていることに、気付かされるのです。今週一週間も、新しい霊を求め、新しいいのちに生かされていきましょう。
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2020年6月14日
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花材 鳴子百合 姫ミズキ 紫蘭
庭の可愛い蘭 ばら
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溢 れ ん ば か り の 恵 み
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神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ。全ての知恵と理解を与えて,秘め
られた計画を私たちに知らせてくださいました。 エフェソ1;3~14 |
パウロからエフェソの教会の人々へ、熱い思いを込められて書かれた、エフェソの信徒への手紙。
書き始めである1章に書かれている内容は、「神様って、こんな方」という紹介文でした。三位一体なる神様、イエス・キリストの父なる神様と、子なる神イエス・キリストと、父と子から遣わされた聖霊なる神様。
父なる神様は、①私たちを祝福し、②世界が創られる前から、私たち一人一人を選び、③神様の子ども、養子にしてくれました。イエス・キリストは、④私たちを贖い、⑤私たちの罪を赦し、⑥イエス様にあって一つに集め、⑦約束のものを受け継ぐ者とされました。聖霊なる神様は、⑧私たちに、聖霊で印を押し、⑨将来の約束の保証として、聖霊なる神様を与えてくださいました。
わたしたちは、来週、バプテスマ式を控えています。私たちがイエス様によって買い戻された金額は、イエス様ご自身のいのちであったことを知るのです。私のいのちの価値は、イエス様のいのちと同じほどに高価で尊いいのちであると言われているのです。
私の罪を赦すためには、イエス様のいのちが必要な程であった。十字架がなければ、私の罪も、私に対する愛も気付くこと出来なかった。神様は、それほどまでに、あなたが礼拝者となるように招いています。神さまとの交わりに招いています。なんという恵みでしょうか。
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2020年6月7日
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花材 姫ミズキ ゼラニューム ぎぼし
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驚くべき聖霊のみ業
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一同は聖霊に満たされ,霊が語らせるままに,他の国々の言葉で話しだした。
使徒言行録2:1~13
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『ペンテコステは教会の誕生日』と、聞いたことはありますか?「聖霊が降ったから、教会の誕生なのだ」と、言えるのですが、私にはピンときませんでした。
ちなみに、ペンテコステとは、過越祭から50日目に行われる、小麦の収穫祭だったそうです。
イエス様は弟子たちに「聖霊によるバプテスマを待ちなさい」と命じていました。
しかし、その日がいつ来るのか、弟子たちは知りません。
突然、その日はやってきます。弟子たちは聖霊によって満たされました。人には表現しきれないほどの神様の出来事、奇跡としか言えないような出来事の中で、弟子たちは精一杯の言葉で語らずにはいられなかった。あまりにも大きな音だったため、家の外にまで広がる出来事となった。家の外にいる人々にも届く言葉で、神様の素晴らしい御業が語られたのです。
人々を集めるのも、弟子たちを用いて礼拝するのも、聖霊なる神様の働きです。
そして『教会』という神様を証する群れが生まれ、言葉を聞いた周りの人々も神様に礼拝をささげるようになった。ペンテコステの出来事が、時を超え、場所を超え、この江波の地まで広がってきたのです。この神様の働きに、諸先輩方は仕えました。江波の地で神様を賛美し、礼拝してきました。そのバトンが今、わたしたちに託されているのです。
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2020年5月24日
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花材 いろんな花束を頂きました
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『父の招き・兄の場合』 |
子よ、お前はいつもわたしと私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。
ルカ福音書15章25~32節
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みなさん、おかえりなさい。今日は放蕩息子のたとえ【兄】に注目したいと思います。
私たちは「自分こそが正しい」という思いをもって行動することがあります。『自粛警察』と呼ばれている方々も、自らの行動を正しいと思いながら行っているのでしょう。
【兄】は一日の働きを終えて、家に帰ろうとしています。すると、家では弟のためのパーティが開かれていました。しかも、なんと父親は弟に、豪華な服・指輪・靴・さらに良く肥えた子牛までプレゼントしたそうです。【兄】は怒りました。弟に対して正義感で裁きます。そして父に対しても責め立てます。その瞬間【兄】は、自らが『絶対的に正しい存在=神様』となりました。しかし【兄】は弟の苦しみも悲しみ知りません。そして、父の愛の深さを知りませんでした。
二人の息子、性格も違います。歩んできた人生も違います。片方が救われれば、片方は救われないという、悲しい結末なのでしょうか。福音は自分たちの中からは生まれません、向うからやってくるものです。父は【兄】のために家から出て来て、なだめつつ、慰めつつ、宴会に加わるように頼み込むのです。父は今も、弟のためにも【兄】のためにも、いのちを受け取るようにと、愛して招き続けているのです。
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2020年5月17日 |
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花材 リアトリス ゼラニュウム
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ただいま,と言わないうちに
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お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対してもつみをおかしました。
ルカによる福音書15章11~24節
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礼拝の初めに『招きの言葉』があります。神様から招かれ、呼び集めてくださるから、
私たちは礼拝をささげることが出来ます。それは、家庭礼拝においても同じです。そして、それぞれの日々の生活に向かっていく皆を、祝福の祈りと共に派遣します。
集められて、散らされる。散らされて、集められる。「放蕩息子のたとえ」においても、集められるもの、散らされるものが出てきます。
①放蕩息子の弟は、財産が分けられた後、すべてをお金に換え集めます。しかし、そのお金は放蕩によって散らされます。
②弟自身は、遠い国に散らされていきます。しかし、我に返り、罪に気付き、故郷に帰ります。
③弟は「飢えのために死にそうだ」と思っていました。しかし、父は「死んでいたのに生き返った」と語ります。身体は生きていても、家族・周りの人・神様との関係が断ち切られていた状況を「死んでいた」と父は言うのです。弟自身も、金・物・仕事・自由を失い、自らの存在価値を見出せませんでした。家に帰り、父の恵みと憐みにより、弟のいのちが生き返るのです。
今日もまた、父のもとに帰りましょう。ただいまと言わないうちに、走り寄ってきてくださる方が、待っていてくださるのですから。
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2020年5月10日
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花材 紫蘭 黄金小手毬 鳴子百合 ばら |
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慰め(なぐさめ)
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見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して,恐れない。
主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。 |
今年度の主題聖句を見てください。わたしたちの目に見えるところに、神様の働きがあると言っています。花は咲いていません、実をみのらしていません。芽生えているのです。
是非ご一緒に、神様のみ業を見つめ、分かち合ってまいりましょう。
イザヤという名前は「主は救い」という意味です。そしてイエス様も「主は救い」という意味の名前です。この新型コロナウイルスにより、みんなが救いを求めています。
「その日」がいつなのか、私たちには分からないけれども、私たちは救いの泉から水をいただくのです。イエス様という泉から汲まれた水は、その人の内で泉となります。「その日」が必ず来る。いいえ、もう既に、その出来事は芽生えています。神様はもう既に、働いておられます。
今、主に礼拝を捧げる。み言葉に聞き、神様の御業を分かち合い、主を賛美し、主に応答し、一週間の旅路へと送り出されていきましょう。それはまさに、イザヤの預言の成就です。
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2020年5月3日
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花材 びわ ばら |
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今、主に礼拝を捧げる
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見よ,私を救われる神。 わたしは信頼して、恐れない。
主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。
イザヤ書 12章2節
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1 栄光と賛美を すべてささげます
喜びの歌をもて 心からささげます
(おりかえし)
全ての救い主 われらの救い主
主をほめ 賛美します 受けてください
2 おののきと恐れを 全て委ねます
恵みに満ちあふれて 跪き祈ります
3 全能の父 王の王 贖い主 主よ
永遠の命与えて 共に歩まれる主よ
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花材 やなぎ ゼラニューム
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イエスさまの食卓
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イエスは来て,パンを取って弟子達にあたえられた。
魚も同じようにされた。
ヨハネによる福音書21:13
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1 望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき
数えてみよ 主の恵み 汝が心は 安きを得ん
(くりかえし)
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ 主の恵み
2 主の賜いし十字架を 担いきれず沈むとき
数えてみよ主の恵み つぶやきなどいかであらん
3 世の楽しみ 富 知識 汝が心を誘うとき
数えてみよ主の恵み あまつ国の幸に酔わん
新生讃美歌 103 |
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2020年4月19日
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見なければ、わたしは信じない
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「わたしを見たから信じたのか。
見ないのに信じる人は幸いである。」 ヨハネ福音書:20ー20
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2 きみの賜物を すべて献げて 神のわざのため 努めいそしめ
神は人の世に み子を与えて きみの立つことを 待っておられる
(くりかえし)
きみの賜物とを 若い力を 神のみ名のためすべてささげよ
3 どんな災いも 神のひとり子 イエスの十字架の 死には及ばず
きみの罪とがを すべてゆるして 全きあがないを とげた主の死に
新生讃美歌 656
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