江波キリスト教会
 
 


 毎週礼拝を飾っているお花と 週報の巻頭言の,み言葉を載せています
 
 
 
   
   
 
2021年10月3日

花材  ユッカ 菊 鶏頭
信じて祈る
 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。
                                  マタイによる福音書 21章18-22節



 『信じる』や『祈る』という言葉を、教会ではよく耳にします。主語を付け加えるならば、私が信じ、私が祈るとなるでしょう。その上で重要なのは目的語。一体、私は誰を信じているのかが問われます。私達が人にお願いをする時に、「その人ならば叶えてくれることを信じて」頼むのではないでしょうか。信頼の根拠が自分の側にあるならば、状況次第で揺れ動いてしまうでしょう(例.お金・人脈・外見・権力・体力)。クリスチャンはイエス・キリストを根拠とします。イエス様ならば、私の願いを叶えることができる。私にはできなくても、神様ならばできる。神様の思いに一致するならば叶う。だからこそ自分の願いを明らかにし、その願いが神様の思いと一致することを求め、御心が成るように、イエス様の名前で祈り委ねるのです。信じる根拠も、祈る根拠も、私達の側にはなく、イエス様にあります。だからこそ、私達の状況に関わらず、イエス様を信じ祈ることが赦されている。
イエス様を求める時、私達はイエス様と結ばれます。イエス様に結ばれる時、私達は豊かに実を結びます。大胆に祈り求めましょう。イエス様ご自身が、私達の実を楽しみに信じて祈ってくださっているのですから。
 
 

 
2021年9月26日



花材  ヒメヒマワリ  サルビア  たにウツギ
         アオイ             
         
主による平和を祈る

  剣を打ち直して鋤きとし  槍を打ち直して鎌とする
    国は国に向かって剣をあげず もはや戦うことを学ばない。

                        イザヤ書 2章1-5節

フランシスコの平和の祈り

 主よ、わたしを平和の器とならせてください。
    憎しみがあるところに愛を、     争いがあるところに赦しを、
    分裂があるところに一致を、     疑いのあるところに信仰を、
    誤りがあるところに真理を、     絶望があるところに希望を、
    闇あるところに光を、        悲しみあるところに喜びを。

 ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
     理解されるよりも理解する者に、
     愛されるよりも愛する者に。
     それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
     許すことによって赦され、
     自分のからだをささげて死ぬことによって
     とこしえの命を得ることができるからです。
 
  

2021年9月26日


花材  ツルニチニチソウ  ばら ルリマツリ


ありえないんですけど!

 後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
                  
                   マタイによる福音書20章1-16節

イエスが生きていた時代も、日雇い労働者がいました。一日分の給料がなければ、その日を生き抜くことができない。2000年前も不況で失業者が沢山あふれていました。そんな中、収穫のために、労働力を求めて街にやって来たブドウ園の主人。イエスはそのような主人にたとえて、『天の国』について語り始めました。
主人は朝6時から出かけていき、労働者を1日分の給料、約8000円で雇います。朝9時、昼12時、15時、17時にも出かけ、労働者を雇います。しかし後から来たものに対して、報酬を明言しません。夕方の18時頃、みんなにお給料を渡しました。なんと遅く来た順に、しかも全員に同じ8000円ずつを支払ったのです。
意味が分からない。ありえない話です。労働者は誰一人として損をしていない。損しているのは主人だけ。それでも、最後に来た人が得をして、朝一から来た人が割を食っているように思えるのは何故でしょう。働いた量を他者と比べて自ら誇っていた人物は、報酬を他者と比べる中で喜びを失いました。神様は私たちの必要をご存知です。当たり前ではなく、一日分の糧を感謝して受け取る時、恵みと喜びを味わうことになるのです。

 
  
2021年9月19日



花材   アブラナ  彼岸花  
借金返済措置
 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」
イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍まで赦しなさい。」

                   マタイによる福音書18章21-35節



 人の悩みの多くは人間関係に由来します。人が集まれば、喧嘩がおこることもありますし、気に食わないことをしたりされたりすることもあり得ます。子どもであっても大人であっても人間関係に悩むのではないでしょうか。そして一旦崩れた関係を回復するのはなかなかに困難です。2000年前の聖書の時代も同じでした。
 弟子の一人がイエス様に聞きました。「何回、友達を赦せばいいのですか。」イエス様はたとえ話で答えます。「ある家来は王様から6000億円の借金をしていた。返済することのできない家来を可哀そうに思い、王様は借金を帳消しにした。その後、その家来が100万円を貸している他の仲間に出会った。しかしその家来は仲間を赦さずに牢屋に入れた。王様はこの家来の対応に怒って牢屋に入れた。」
 「赦さなければ、神様から赦されない」といった、交換条件を語られているのではありません。注目するポイントは、イエス様による桁外れの『赦し』です。どれほどの憐れみが、恵みが、愛が注がれているのか。赦しは関係の回復へと繋がります。この神様の赦しを受け入れなさい、そして隣人を受け入れなさいと招かれているのです。
 
 
 


2021年9月12日

花材   ツルニチニチソウ   百日紅
         ブーゲンビリア   百合                               
        
100%の福音

 これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。〈10節)

 これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心はない。
        
                        マタイによる福音書18章10-14節 


 聖書には人間を『羊』にたとえる物語があります。羊は、おくびょうで視力が悪い生き物です。そのような弱さを抱えている羊は、群れで生活し、羊飼いの声に聞き従う性質をもっています。しかし時に、群れから迷い出て行ってしまうことがあるのだそうです。

 100匹の羊を持ち、その内の1匹が迷い出たならば、あなたはどうしますか?と、イエスは私たちに問いかけます。多数決や、「最大多数の最大幸福」で考えれば、99匹の安全確保を第一にするべきでしょう。
しかし、迷い出た1匹の羊の立場に身を置く時、どれほどの不安だったかと想像するのです。外敵に襲われることも、崖に身を落とすことも、岩に挟まることもあり得ます。99%死が迫っていた。それにも関わらず、
救い出してくれた方がいる。死ではなく命が与えられた。いったいどれほどの喜びでしょう。
 
 イエスはこの喜びに連帯し、一緒になって喜んでくれるのです。99匹にとっても他人事とはなりません。迷い出た1匹は、もしかしたら明日の自分の姿かもしれないからです。そのように捉える時、残された羊たちにとっても、羊飼いが1匹を大切にして探しに出かけていくことは、希望の出来事となるのです。
 
 

 
2021年9月5日


 花材   ツルニチニチソウ  白百合
あなたはわたしを何者だと言うのか。

この小な者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報い受ける。

                 マタイによる福音書 10章40-42節、  11章1節                                     


 暦の上では秋ですが、まだまだ暑い日が続いております。熱中症などお気をつけて水分補給を心掛けてください。どうぞみなさん、心身共にご自愛下さい。
 
 当時のイスラエルも夏場は乾季のため、日差しが大変だったことでしょう。弟子たちは、イエスに励まされつつ派遣され、町から町へと旅していきました。受け入れられる事もあれば、拒絶される事もあります。太陽が照りつける中、長時間歩いて来た弟子たちです。
 「おつかれさま」と労われ、冷たい水をコップ一杯いただけたなら、どれほどの喜びとなったことでしょうか。心も体も生き返ったことでしょう。聖書は語ります。「イエスの弟子という理由で、小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」なんという祝福の言葉でしょうか。
 イエスの弟子をサポートするならば、同等の報酬を受けるようになると約束されています。
その小さな者とは、イエスの弟子であり、イエス自身であり、全ての小さき者に連帯する神様です。小さな出来事にも関わらず、それは神様の必要を満たし、神様と共に働く行為となり、神様の御業となる。この働きに私たちは招かれているのです。
 
 
 

2021年8月29日


 
 花材   柊南天  スプレー菊 玉羊歯
 いのちより大切なもの

 自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

                マタイによる福音書 10章32-39節

 
 詩人の星野富弘さんが『いのちより大切なもの』という詩を書いています。「いのちが 一番大切だと思っていたころ/生きるのが 苦しかった/いのちよりも大切なものがあると知った日/生きているのが嬉しかった」
 さて、みなさんは、いのちよりも大切なものがあると思いますか。あなたの使命(生きる目的)、命をかける程に情熱を燃やしているものは何でしょうか。今はまだ、情熱を注ぐ先を探している方もおられることでしょう。
 イエス・キリストは使命を持っていました。イエスの行動は『あなたを愛する』という使命に直結します。
 愛するが故に、出会いに行き・教え・福音を宣べ伝え・癒しました。そして、十字架上で命をかけて救いを成し遂げたのです。聖書は決して命を過小評価しません。一羽の雀の命も大切にされる神様です。あなたの命も大切にされる神様です。イエスの命をかけるほどに、あなたの命は大切にされています。それでは、あなたは何を優先順位の一位にするのでしょうか。イエス・キリストの神様は、ねたむ神でもあります。二番目ではダメなのです。あなたを愛する神様は、あなたから愛されたいと熱心に願っておられます。
 
 

2021年8月22日



 花材   南天  夏水仙   小エビ草
恐れるな 恐れるな 恐れよ 恐れるな
 
 魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。

                  マタイによる福音書 10章26-31節 11


 「恐れ」という言葉から、みなさんは何を想像するでしょうか。
私たちは、大雨や、地震、津波などの自然災害を恐れます。いじめ・虐待・周りからの評価・戦争、人に対しても恐れるでしょう。コロナ等の疫病に対する恐れが世界中に広がっています。また、自分自身の変化に対する恐れもあるでしょう。
  
 主は、私たちを派遣します。各自は派遣先で、預かった言葉を語る使命が与えられます。「屋根の上で言い広めよ」とありますが、イエスの仲間だと知られては迫害されていた時代です。
それでも、「恐れるな」と語られているのです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」、いのちの主を「畏れよ」と。

  この方は、わずか数百円程の雀のいのちにも寄り添われる方。あなたの髪の毛一本一本をも大切に数えておられる方。そのような神様が、死ぬ時においても、死の先においても、共にいる。だから「恐れるな」、この福音は、人間だけでなく全てのいのちに語られています。だから「恐れるな」、変化を恐れずに、神様に応えてまいりましょう。一人の変化は、水面に投げ込まれた小石のようです。そこから波紋は広がっていくのです。

 
 

 
2021年8月15日

 

  花材  ツルニチニチソウ  鶏頭  アデニウム  
派遣キリスト社員
 
 話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である
          マタイによる福音書 10章16-25節


 「派遣」という言葉は、当時のユダヤ文化において全権大使の意味を持っていました。例えば王様から派遣される場合、王様の代理人として、王様の権威を預かって交渉にあたったのです。現代において「派遣」と聞けば、社員という言葉が続くことでしょう。派遣社員は、雇用の不安定さや、福利厚生、給与面においてデメリットがあります。誰によって派遣されているのかが重要です。
 神様はイエスをこの世に派遣しました。そのイエスは弟子たちを派遣します。時に、遣わされる場所は困難な場面かもしれません。それは「狼の群れの中に送り込まれる羊」にたとえられる程です。イエス自身、人々からうとまれ、「悪霊の頭」と呼ばれ、命の危機にあいました。「迫害されたなら、他の町に逃げなさい」と、イエスは語ります。弟子たちが逃げた先で、イエスを宣べ伝えたことにより、キリスト教は広まっていきました。主によって逃げる先が備えられ、命が守られ、派遣されていったのです。
 しかし弟子たちの中には、捕らえられ、裁判にかけられる者もいました。命が脅かされるような極限状態の中においても、主の霊は共にあり、主の言葉も共にあったのです。
 
 
 

 
 
2021年8月8日




  花材  黄百合  カラーの葉  

悲鳴をあげよ
 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を延べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。                 
                               マタイによる福音書 9章35-38節
 


物事を相手に伝えるときに、より分かりやすくするため、たとえが用いられます。本日の聖書箇所で、イエスは群衆を『羊』と『収穫物』として表現します。
その『羊』は、健康な羊ではありません。飼い主の居ない羊。弱り果て、その上さらに打ちひしがれた羊のような、群衆の姿です。羊飼いの守りも導きもないため、夜も休むことができず、食物や水も満足に得られない羊。絶望の悲鳴をあげながら、それでも一縷の望みを持ってやってきた群衆を、イエスは痛みを覚えるほどに愛を持って見つめました。そして、教育を施し、良き知らせを語り、病を癒していきました。
イエスは、ご自身を求めてやってくる人々を見て、『収穫物』にたとえます。収穫はあり余るほどあるのに、働く人が少ない。だから主に祈り求めなさい、と語ります。やせこけた群衆の姿にも関わらず、豊かな実りを見る。失業者が多い時代に、働き人を求める。イエスは人々に、安心と栄養を与えます。だからこそ、イエスに結ばれる人々は溢れるばかりの命に与る。イエスの目は、取り切れない程の実りを見ています。悲しみの悲鳴は、嬉しい悲鳴へと、主によって変えられていく。希望はここにあります。

  
2021年8月1日



  花材  パイナップルリリー  バンブー 

      エノコログサ
 
マラナタ ―祈りと賛美を分かち合い―

 あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。(12節b)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。(13節)

                      ヤコブの手紙 5章7-20節
  
聖書は『忍耐』を勧めます。正直避けたくなるような言葉ですが、文脈があります。全てを我慢しなさいという意味ではなく、『主が来られる時』を待ち望むように言われているのです。忍耐の理由は、神様に対する期待です。希望があるからこそ、待ち望むことができるのです。
 それに加えて、聖書が語る忍耐は、一人きりの歩みではありません。私たちの人生、まるで神様が自分を見捨てているような、辛い時や悲しい時があります。そのような時は、隣人と共に祈り合おう。まるで神様なしでも自分は生きていけるような、楽しい時や嬉しい時があります。そのような時は、隣人と共に賛美しよう。そのような時、私たちには忍耐が必要です。一人ではなく周りの友と助け合いながら生きていこう。孤独に苦しむことも、孤立を喜ぶこともしなくていいのです。
 ことわざにも『喜びは分かち合うことによって倍になり、悲しみは分かち合うことによって半分になる』と、あります。隣人と祈り合う時、その悲しみをイエス様も分かち合われます。隣人と賛美をささげる時、その喜びをイエス様も分かち合われます。忍耐する時、イエス様も共に忍耐されているのです。
 
 
 

 2021年7月25日
 
  花材  とくさ  ひまわり
実を味わう!

 上から出た知恵は、何よりも先ず、純真で、更に温和で、優しく従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。(17節)
 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和の中に蒔かれるのです。(18節)

                            ヤコブの手紙 3章13-18節


 『知恵』という言葉から何をイメージするでしょうか。知識人・賢者・哲学者・おばあちゃんの知恵袋という言葉もあります。聖書における『知恵』は、時代によって定義が移り変わってきました。①人が賢く生きるための実践的知識。②神様から与えられる賜物。③人格をもった知恵=イエス様。それらの知恵には『主の群れを導き、主の宮を建て上げる』という共通項を見出すことが出来ます。

 心の思いは、言葉として出て、行動に現れます。私たちは蒔いた種を刈り取らなくてはいけません。知恵があるならば、ふさわしい実を受け取ることでしょう。それは、純粋で、平和的で、素直で、慈しみに満ち、裏表も偽善もない、神様の義の実です。自慢や、嘘や、自分勝手さや、ねたみ心が、実として現れることがあるかも知れません。その時は、どのような種が私たちの心に蒔かれているのか、吟味する必要があるのです。
 知恵は天から降ってきました。努力して身に着けるものではなく、与えられるものです。ただし、何のために知恵を求めるのでしょうか…。隣人と共に主のために生きる時、知恵は発揮され、共同体が建て上げられていきます。イエス様から蒔かれた種を豊かに実らせ、隣人と共に、収穫の実りを味わってまいりましょう。
     
 
 
 
 
 

2021年7月18日

 花材  グラジオラス 数種
心を研ぎ澄ませて

 私の兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら人を分け隔てしてはなりません。(1節)
 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに裁きに打ち勝つのです。(13節)

                         ヤコブの手紙 2章1-13節



 私たちは違いに敏感です。そして線引きされた外側に対して、排除しようとする力が働きます。クラスにおいてはいじめが、地域においては差別が、民族においては虐殺が、歴史上幾度となく繰り返されてきました。差別は身近な課題でしょうか、遠く離れた問題でしょうか。部落差別・人種差別・性差別・性的少数者差別・「障碍」者差別。もし、あなたの家族が、差別を受けてきた方と深い関係を結びたいと言われた時には、どのような言葉をかけるでしょうか。
 誰かを上に持ち上げ、誰かを下に貶める『差別』を聖書は否定します。「重んじる命」や「軽んじる命」があるのではない。命に優劣はなく、神様はあなたの命も、隣人の命も愛されたのです。差別の先には、命がおびやかされる未来が待っています。だからこそ差別は社会全体の問題であり、私自身の課題です。「差別なんて無い」と、目をつむり、耳を閉ざすのではなく、目の前の小さな叫び声に耳を傾けましょう。イエス・キリストに目を留め、耳を澄ませましょう。神の立場に固執することなく、最も小さな存在となり、命を懸けて愛を注がれた救い主。この方によって、私たちに自由がもたらされているのですから。
 
 

 
 2021年7月11日


花材   カラー 百合  姫檜扇水仙  茉莉花
気 心 腹 神 己
 聞くに早く、話すに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(19節)

 御言葉行う人になりなさい。(22節)    ヤコブの手紙1章19-27節


 今回の題は、「気は長く、心は丸く、腹立てず、神は大きく、己は小さく」と読みます。

 日常において「怒り」に振り回されることはありませんか。怒りによって傷つけたり、傷つけられたりしたことは、誰しもあることでしょう。今後一切怒ってはいけない、ということではありません。怒りそのものは大切な感情で、命の危機から抜け出したり、脅威から自分を守ったりすることを助けます。しかし時に、この怒りによって大切な存在をも傷つけてしまうことがあるのです。問題は用い方です。怒りに支配されるのではなく、怒りを適切にコントロールする必要があるのです。怒った時に、ひと呼吸を置くことは効果的です。心理学的知見では、怒りの背後に、悲しさや寂しさや恐れや不安があるといいます。怒りを知ることは対策となるでしょう。 

 聖書は、「怒るのに遅いように」と語ります。人が怒りを発する多くの場合、自分の正義で相手を裁きます。つまり、神様を第一としない怒りは、神様の義になりません。自らの努力には限界があります。しかし神様には限界がありません。み言葉は心に届きます。私に届けられたみ言葉、命の言葉であるイエス・キリストによって、み言葉を行う者となりましょう。

 
 
 
 2021年6月27日


 花材  アンスリウム
主のいのちに結ばれて
 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れて下さる。(14節)

                                    ヨハネの手紙一 5章6-15節


 「証し」という言葉は元来、法廷用語として用いられました。言い換えれば、裁判の折に答えた「証言」を意味する言葉です。裁判で嘘をつくことは偽証罪にあたります。旧約聖書の十戒においても、偽証することは神様に対する罪であると定められています。

 キリスト教は迫害された歴史と、迫害してきた歴史をもっています。ヨハネの手紙が書かれた時代は、迫害されていた時代です。イエス・キリストを信仰していると証しすることは、文字通り命がけだったのです。しかし、そのような人の証し、それにまさる神の証しがあると聖書は語ります。人々はイエス・キリストを証しします。では神であるイエス・キリストは何を証ししているのでしょうか。それは、 イエス・キリストの命を人々に与えられたことを証ししているのです。十字架につけられ死に至るまで、命がけで人々を愛することを決められた、イエス・キリスト。それが神の証しなのです。人々が生きるようになるように。愛を受け取り、愛を与える、愛し合う者となるように。神の光によって人の闇を照らすように。イエス・キリストは命を、私たちに与えられました。この方を教会は証ししているのです。
 
 

 2021年6月20日


花材  グロリオーサ  紫陽花各種
ここに愛があります

 愛する者たちよ、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、
愛する者は皆神から生まれ、神を知っているからです

                             ヨハネの手紙一4章7-21節
 みなさんにとって『愛』とは何でしょうか。思いやる心、恋人を慕う情熱、家族への慈しみ、「月がきれいですね」、「あなたのためなら死んでもいい」と表現した人もいます。聖書で語られている神様の愛(アガペー)は、自らの欲求を満たすための愛でなければ、感情的な愛でもありません。アガペーとは、相手を大切にする決意が込められた愛なのです。
 多くの場合、価値を見出された時に、愛するという行動になります。しかし神様は違います。条件無しで、何よりもまず先に、神様が私たちを愛することを決められた。神様は人々に何回も裏切られ、傷つけられました。しかし神様は私たちを諦めず、愛し続けた。この神様の愛を知り、愛を受け取り、愛に留まる人に対して、今度は愛する一歩へとチャレンジが与えられている。それは、お互いが生きるようになるためです。誰かが犠牲になるのではなく、共に生きるようになるために神様は愛を示された。世の中では、小さくされた存在が虐げられています。まず知るところから始めましょう。興味をもって関わりましょう。相手を大切にする決意をしましょう。
 神様の愛が広がっていきますように。
 
 

 2021年6月13日

花材   庭の木 庭の花々 
いのちのことば
 わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
                             ヨハネの手紙一1章1-10節

 私たちにとって、『光』とは何でしょうか。太陽、電球、携帯、ロウソク等々、思い浮かべるかもしれません。人間は光によって食べる物が与えられ、光によって行動することができています。時に、熱中症や日焼けを恐れて、光を避けることもありますが、基本的に光を頼って生きています。私たちの目には見えない体内においても、ビタミンDは光を浴びることによって生成される栄養素です。
  聖書は、神は光であると語ります。私たちが隠していたものが、光によって照らされることもあるでしょう。しかし、光によって私たちの命は保たれています。私たちの抱えている闇も、神の光によって照らされていく。夜の闇が太陽の光によって押し出されていくように、闇は光に勝たなかった。完璧な人間になれとは、聖書は語りません。自分の罪を神様の前に明らかにする時、罪人である自分は神様の光によって照らされていく。神様の光によってあらゆる罪から清められる。光の子と見做されていく。光の交わりへと加えられていく。教会は、光である神様に希望を見出し、命を受け取り歩んできました。「光の中を歩みなさい」神様は今日もあなたを招いておられます。
 
 

2021年6月6日

花材   枇杷の木 菊 ゼラニューム
          しゃが
廃墟より 新たにされる 神の霊

 荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。

荒れ果て破壊されて廃墟となった町々が城壁のある町になった。

                            
エゼキエル書36章22-38節


 一人では困難な課題も、チームで対処することで解決に向かうことが多々あります。ことわざに「三人寄れば文殊の知恵」という教訓もあれば、毛利元就も「三本の矢」として家族の団結を語ります。聖書もまた「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」と、交わりの豊かさを説いています。
 イスラエルがバビロニア帝国の支配下にあった時、エゼキエルは神様の言葉を民に伝えます。
「これは主の裁きである。しかし今、私の霊をあなた方に与える。時が来れば、イスラエルの廃墟は建て直される。その時人々は、私が主なる神であることを知るようになる。」神様の愛が、私たちの外見・内面などに依拠するならば、容易く取り去られていくものでしょう。しかし神様は、神様のために、人を愛するのです。一見、傲慢にも思える考え方です。それでも私たちの側に愛される理由が何一つ無いと知る時に、それにも関わらず愛してくださる、神様の恵みを覚えます。この恵みにより、神様と人・人と隣人・人と自然世界との関係は回復すると語られています。私たちは神様が繋ぎ合わせる交わりへと、今日も招かれているのです。
 

 

 2021年5月30日

 
花材   しだれ柳 紫陽花  しゃが 
聖霊に満たされて

 主の名を呼び求める者は皆、救われる。 21節
ナザレの人イエスこそ、神から使わされた者です。22節
                     使徒言行録2章14-24、32-39節

 教会には大切な記念日が3つあります。1つ目はイエス・キリストの誕生日であるクリスマス。2つ目はイエス様が十字架につけられ3日後に復活した日であるイースター。そして3つ目が本日のペンテコステです。創造主なる神様とイエス様により降された、聖霊なる神様をお祝いする日。聖霊の働きにより、イエス様の良い知らせが口コミで世界中へ広がりました。そして人々が集まり教会が誕生しました。
 聖霊は人々を力づけ、心を神様へと向けさせます。ペンテコステの50日前、師であるイエス様が十字架につけられ殺されました。祭司と長老達による妬み・弟子たちの恐れによる裏切り・総督の評判を気にする自己保身・自分には関係ないという見て見ぬふり…人々の罪により、イエス様は死んだのです。私たちには罪があります。自分は立派な人間であると誇ったり、逆にダメな人間だと貶めたり、他人を羨んだり、見下したりすることがないでしょうか。私にはあります。聖霊は、自分を見たり他人を見たり上げたり下げたりする私たちの心を、神様へと向けます。私たちの心を、神様の愛と恵みと希望へと、方向転換させるのです。主は今日もあなたを招いています。

 
 


2021年5月23日

  
花材   シンビジューム 
      梅花うつぎ
      柏葉紫陽花 
主の共同体のために

 わたしは、いつも目の前に主を見ていた。わたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
 だから、わたしの心は楽しみ、体も希望のうちに生きるであろう。

                民数記27章12-23節                           


 自らの死を目前にした時、私たちは何を願い、どのように行動するでしょうか。宗教改革者の一人、マルティン・ルターは「たとえ明日 世界が滅亡しようとも、今日私は リンゴの苗木を植える。」示唆に富んだ言葉を残しています。果実を味わうのは私ではないかもしれないが、今からでも未来への希望を育むことが出来る。いつ終わりが来るか私たちには分からないからこそ、今を精一杯生きる。ということでしょうか。
 モーセは120歳になり、神様から自らの命の終わりを告げられます。神様から託され、イスラエルの民のリーダーとして仕えてきた40年間でした。山あり谷ありの人生の旅路、その終わりに差し掛かっています。彼は自らの命が長らえることを求めません。彼の家族が権威を持つことも求めません。彼は主の共同体のために仕えるリーダーを求め、主に委ねます。彼は自分に似たリーダーを想定しますが、主が立てたリーダーであるヨシュアとはタイプが違います。ただし共通点もあります。モーセの欠点をアロンが補ったように、ヨシュアの足りないところをエルアザルが支えました。そして何よりも神様こそが、イスラエルの群れを導いてくださっているのです。
 
 
 
  

  2021年5月16日
  
花材   トクサ ツリガネソウ 
      ドラセナ    ゼラニューム  

神様ごめんなさい
   レビ記1章~4章  

 『ごめんなさい』と『ありがとう』は人生を豊かにする魔法の言葉です。人はもちろん、神様においても、関係性を改善する大切な言葉です。神様は、エジプトの奴隷になっていたイスラエルの民を救い出します。聖なる方である神様が、イスラエルの民に対して、聖なる民となるように指針を示すのです。『レビ記』はその一つであり、儀式や祭事における様々な約束事が記されています。

 もしも、個人が罪を犯したのであれば、家庭環境に合わせ傷一つない牛や羊や山羊や鳥を燃やし尽くして献げました。もしも、神様との和解を望む時には、いけにえの動物の脂肪や内臓や血を神様に献げ、残った肉は献げ物をした人々と、祭司とが分け合います。そうして、神様と自分と隣人とが一緒に食卓を囲んだのです。もしも、共同体が罪を犯した場合は、その罪に気付いた時にいけにえの動物を焼き尽くして献げました。そのようにして、神様に『ごめんなさい』をしたのです。聖書では、イエス・キリストこそが傷一つない小羊として献げられたと語られています。神様は赦しの道を備え、招いておられます。『ありがとう』の言葉をもって、主の胸に飛び込んでまいりましょう。

 
 
 

 
  2021年5月9日

   
 花材   白ユリ カーネンション
  
     シダ  カスミソウ  釣鐘草
子どもたちに祝福を

 子どもをたちをわたしのところに来させなさい。 子どもたちを抱き上げ、手をおいて祝福された。
                マルコによる福音書10章13-16節 

 私たちは、受け入れられる時・大切に扱われる時、喜びを感じるものです。逆に、ぞんざいな扱いをされる時・無視をされる時には悲しくなります。力があり声の大きい人の意見は通り、周りの人達の意見は通らないことになれば、ますます影響力の格差は広がるでしょう。

 2000年前、子どもは親の所有とみなされていました。小さくされていた存在でした。大人たちが真面目な話をしている最中、子ども達がイエス様の元に祝福を求めてやってきたのです。
 弟子たちは、イエス様がお話しに集中できるようにと、叱ります。しかしイエス様はこの弟子たちに憤り「子ども達を私の元に来させなさい」と語るのです。
子ども達にとって自分たち一人一人が、かけがえのない存在として見出される時となったのです。しかも祝福はそれだけに留まりません。

 イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と伝えるのです。神の国は能力や功績によるのではなく、受け入れる時に味わうものです。お互いに受け入れ、受け入れられる中で、神の国は広がります。両手を広げたイエス様が、今日も私たち一人一人を招いておられます。

 
 
2021年5月2日
  
 花材   カサブランカ  ほか

  (杉本牧師就任按手式の花)
大切なことを大切にする

 あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。

   祭司も大勢この信仰に入った。         使徒言行録6章1-7節


 難民支援の働きをされている方から、次のことを聞きました。「私は支援する側・あなたは支援を受ける側という固定された意識ではボランティアを続けられなくなる。場面が変われば構造は逆転し、支援を受ける側から支援をする側が教わることも多々あるのだ。そこから相手の存在に対するリスペクトが生まれ、自分の中にあった差別意識や偏見からの解放につながった。」
 
 初代教会では二つのグループが対立構造にありました。地元民と移住者達です。当時教会はセーフティーネットの役割も果たしていました。食べ物が無い人に対して食事を整え、衣類が無い人には服を与えていたのです。そのような中、移住者のやもめに食事が少ししか与えられなかったという、いのちに関わる問題が起こります。弟子たちは全員で総会を開き、互いのいのちを大切にすることを決めました。霊的な食事である御言葉と祈りに専念する人達と、身体の栄養のために食卓を整えるリーダー達を選出し、役割分担をします。なんとリーダー達は全員、移住者達の中から選ばれました。選出された人達を信頼し・委ね・祈り・支えるようになり、教会はますます祝福に満たされていきました。
 
 

2021年4月25日
 
 
 花材   やなぎ   椿  葉牡丹 
教会の使命
 わたし世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる

                       マタイによる福音書 28章16-20節
 

 なさんは『力』が与えられたら、何をしたいと願いますか?全てを行える能力と権利が与えられたら、一体何をするでしょうか?現在ミャンマーでは、力による支配が行われています。軍は何をしても許されていると信じ込み、一人一人のいのちが日に日に失われています。とんでもないことです。力は用い方によって危険性を伴うものです。

 聖書は、復活されたイエス様に全ての権能(能力と権利)が与えられたと宣言します。その権能をもって弟子たちに命じます。「すべての民の所に行き、教え、神様の名によってバプテスマを授け、弟子にしなさい。」全ての権能があるならば、人々を強制的に従わせることも出来たはずです。しかしそのようなことはされなかった。自分さえ良ければという価値観ではなく、共に生きるために権能を用いられた。イエス様は人々のために、十字架に架かり・復活されました。つまり、自分のために人々のいのちを奪う支配者ではなく、人々のいのちのために自らをささげた支配者でした。私たちはそれぞれに与えられている力をどのように用いるのでしょうか。イエス様はあなたに向かって「共に生きよう」と招いておられます。

 

2021年4月18日
  

花材    小手毬   鳴子百合  ばら
賛美せずにはいられない

 あなたはわたしの嘆きを踊に変え
       粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。

                   
詩編 30編2-13節

 『賛美』とは何でしょうか。普通の歌と何が違うのでしょうか。ヘブライ語では7種類もの言葉で賛美を表現しています。①褒めたたえる、②手を挙げて感謝を表す、③音楽を用いて誉める、④叫び求める、⑤未来に期待してたたえる、⑥即興的に歌う、⑦喜び踊る。私が考える賛美における大切なポイントは、方向性です。神様に向いているかどうかが、賛美とそれ以外の歌とを分ける指標ではないでしょうか。逆に、演歌であってもポップスであってもロックであっても、神様に向かう時に賛美になり得るのです。

 では、私たちはどのような時に『賛美』するのでしょうか。物事が上手くいっている時は自らを誇り、悲しみの出来事に直面すれば神は居ないと判断してしまう。神様は人間にとって都合のいい道具ではありません。また神様は人間を道具として扱いません。人格(神格)を持った存在です。私(神様)とあなた(人間)という交わりを重視します。高ぶる者には躓きを与えて向き合い、絶望の淵にいる人には希望を示して向き合う。その時、躓きも希望も、神様との出会いの機会となるのです。神様へ方向転換する機会になる。神様との交わりによって『賛美』へと変えられていくのです。

 

2021年4月11日

  

花材    庭木  しゃが   君子蘭  

主は生きておられる


 あの方は、ここには居られない・かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。

               マタイによる福音書 28章1-10節 

 キリスト教の理解困難な教えの一つに、イエス・キリストの「復活」があります。私たちの経験では、復活を目にしたことはありません。イエスと共に過ごし、前もって復活することを聞いていた弟子たちですら信じることが出来ませんでした。そのため、イエスが捕まり十字架に架かり死んだ時、弟子たちは絶望したのです。
 弟子の女性たちが、死臭を抑える香油を塗るためイエスの墓にやってきます。イエスとのお別れのためにやってきたのです。しかし、遺体があるはずのその場所には、空っぽになった墓だけが残されていました。天使が女性たちに語りかけます。「あの方は死者の中から復活された。」誰一人として復活の様子を見た人はいません。イエスの亡骸が置かれた墓の中、神様だけが共にいたのです。その後、復活のイエスは私たちの日常で出会い挨拶を交わされる。何が起きたのか、どのように起こされたのか、人には明かされないままに。弟子たちの目の前に現れ、会話し、触れ合う。主は今も生きておられる。死が終わりではなかった。悲しみから喜びへ、絶望から希望へと変えられる。人には不可能なこの奇跡がイエス・キリストの「復活」なのです。
 
 
 


2021年3月28日



  花材    黄梅   アルストロメリア
散らされた羊たち

 まるで強盗にでも向かうように、剣や棒をもって捉えに来たのか。

           マタイによる福音書 26章47-56節


 私たちは多くの場合、『敵』か『味方』という尺度で判断しているのではないでしょうか。そして『敵』に対して、力(経済力・権力・武力)によって支配する場面を見ることがあります。2000年前も同じでした。
 イエスの人気に、宗教指導者たちは嫉妬し、ついに不当な手段で逮捕に踏み切ります。大量の人員と武器を用意して、イエスと弟子たちを追い詰めました。イエスの悲しみはどれほどだったことでしょう。弟子の一人であるユダが、宗教指導者たちの側に立ち、イエスを引き渡そうとしていました。しかし、イエスはユダに対して「友よ」と語り掛けます。危機的状況に陥っている他の弟子たちは、裏切り者に対して怒りを覚えたことでしょう。そしてユダを「友」と呼ばれるイエスに対しても躓きました。それでもイエスを守ろうと、弟子は剣を振るって大祭司の手下に攻撃します。しかし、イエスは弟子に剣を下ろすように命じられ、自ら捕らえられてしまう。
 弟子たちはどうしようもなく、イエスを見捨てて逃げ出します。イエスは自ら捕まることによって、弟子たちの命を、宗教指導者たちの命を、保たれたのです。『敵』や『味方』を越えて『友』となる、イエスの愛がここにあります。
 

 
  2021年3月14




  花材  ゆきやなぎ   黄梅    椿 
信仰の告白

 あなたはメシア、生ける神の子です。
           マタイによる福音書 16章13-20節


 みなさんは、どのように教育を受けましたか。『答え』を覚える形で学ぶことも多いかもしれません。ユダヤ教の先生は、弟子たちに質問を通して教育をしました。『答え』が与えられるのではなく、自ら見出すことに重きを置いているのです。 

 イエスは弟子たちに問いかけます。「あなたたちは私(イエス)のことを何者だと言いますか。」弟子たちは、イエスと共に生活をし、教えを聞き、癒しを見て、奇跡を体験してきました。弟子の一人が答えます。「キリストです。神の子です。生きておられる方です。」キリストとは、油注がれた者=救い主の意味です。
 
 当時イスラエルを支配していたのはローマ帝国であり、皇帝の称号が神の子でした。もし兵隊がこの答えを耳にしたならば命が脅かされる危険があります。それでも、天の父なる神と、深い関係を結んでいるのは目の前に居るイエスだと告白しているのです。ユダヤ文化では、偶像を死んだ神と呼び、イスラエルの神こそが生きて働いておられると信じていました。イエスは弟子のこの答えに満足し祝福します。そして、天の父がこのことを現わしてくれたから信仰告白へと導かれたのだと、神様を誉めたたえました。
     「あなたはイエスのことを何者だと言いますか。」
 
  
 
 
 
2021年2月28日

 
花材  しだれ柳  ストック
              ヒマラヤ雪の下
いやすキリスト

イスラエルの中でさえこれほどの信仰は見たことがない。 10節
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」

                          マタイによる福音書 8章5-13節

 最近、驚いたことはありましたか。久しぶりに動物園に行ったのですが、沢山の驚きがありました。象の巨大さに驚き、フラミンゴの美しさに目が奪われました。傷ついたサルは、隔離して治療するよりも仲間達と共に過ごす方が回復は早いのだそうです。
  イエス様も驚かれました。それは一人のローマ軍百人隊長との出来事です。当時イスラエルはローマの支配下にありました。支配者側である彼が、イエス様にお願いをしにやってきたのです。イエス様は、彼の謙遜的な態度に驚きました。彼の願いは、半身不随になって苦しんでいた僕の癒しでした。召使いが物扱いされていた時代、僕のために奔走する彼の愛情に、イエス様は驚きました。そして、「わたしが行って、癒してあげよう」というイエス様の申し出を、彼は辞退します。彼は、イエス様の言葉一つで癒されることを信じていたのです。

 イエス様は彼の信仰に驚きました。百人隊長は僕の痛みを、まるで我が事のように痛みました。イエス様による癒しは百人隊長に与えられました。自らの癒しと同時に、僕は癒されました。痛みを分かち合い、癒しをも分かち合ったのです。驚くべき主の御業がおこされていきました。
  
2021年2月21日
 

 花材  南天 すいせん 
 的外れ

 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。
                        ルカによる福音書 19章1-10節

 背が小さくて、お金持ち、そして嫌われ者のザアカイが聖書に描かれています。
彼は、イエス様のウワサを聞き、そのような素晴らしい人物であるならば一目見てみたいと思いました。しかしイエス様の周りは、人々が大勢集まっています。背が低いザアカイはイエス様に出会うことが出来ません。場所を変わってくれないかと頼むことも出来ません。木に登り、自分の力で何とかしようと画策します。イエス様はそのザアカイに向かって語り掛けます。『ザアカイ、急いで降りてきなさい。』
 私たちも上を目指して人生の木を登っているのかもしれません。自らの力で、人よりも偉くなりたい、裕福になりたいと頑張る事があります。しかし、登り切った先で、孤独になってしまってはいないでしょうか。何かが違うと思っても、その木から降りることも出来なくなっているのではないでしょうか。その木は、私たちのプライド・人との距離・神様との隔たりなのかも知れません。イエス様は招きます。方向転換しなさいと語り掛けます。私たちの痛みと苦しみと悩みをご存知である方が、幸いの方向へと導いてくださいます。神様の招きは、的外れの生き方から、的を合わせてくださるのです。
 
 

2021年2月14日

 
 花材  枇杷  百合  ドラセナ
 教えるキリスト

 供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰ってきて、供え物を捧げなさい
                         マタイ5章21-26節

 私たちが抱える悩みの多くは人間関係にあります。誰もが人間関係の悩みを持っています。この関係性を壊しかねないのが「怒り」ではないでしょうか。
 心理学の中では、怒りとは一番初めの思いではないと言われています。例えば、思い通りに物事が進まない時、焦ります。自分の事を大切にされていないと思う時、寂しさを覚えます。

 約束の時間に相手が現れなければ、不安になるでしょう。自分のこだわりから外れれば、戸惑います。その後、怒りという感情が湧いてくるのです。しかし、怒りをぶつけても、その奥にある思いまでは伝わらず、根本的な解決には至りません。怒りを怒りのまま発しないためのコツとして、6秒間を数えるというものがあります。怒りは瞬発的に爆発する傾向があるので、6秒待つと、ある程度冷静さを取り戻すことができるのです。

 イエス様は、「怒りを発するならば、殺人と同様に裁かれる」と語られました。「悪口を言うならば、火の地獄行き」だと語ります。だからこそ、急いで仲直りしなさいと勧めました。神様が人間たちに差し伸べられた仲直りの手、それがイエス・キリストです。

 その手が私たち一人一人をも繋ぎ合わせていくのです。
 
 

2021年2月7日
 
 花材 あおき ストック ドラセナ
    カランコエ   葉ボタン
 
湖のほとり
 イエスは「わたしについてきなさい来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われた。
 二人はすぐ網を捨てて従った。
                       マタイ4章18-25節


 ガリラヤ地方にある湖のほとり、そこで漁をしていた4人の若者がいました。イエス様は呼び掛けます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」その言葉に聞き従い、4人はイエス様の弟子になりました。彼らにも養う家族がいました。不安や戸惑いもあったことでしょう。それでも彼らはイエス様を信じ、従っていきました。

 ガリラヤ地方にある湖のほとり、そこでイエス様達は伝道活動を始めます。チームで伝道の働きを進められたのです。①留まらずに歩き回り、人々と出会い続けました。②礼拝の場所・教育の場所・裁判の場所であるシナゴーグで聖書を語りました。③「天の国が近づいた」という良い知らせを伝えました。④身体の痛み、心の痛み、魂の痛み、社会的な痛みに寄り添い、その痛みを癒していきました。その姿を通して、多くの人々がイエス様を信じ、従っていきました。
 今でも同じことが言えるのです。イエス様が私のところにまで来られた。招いてくれて、教えてくれて、福音を語り、癒しの手を差し伸べてくれた。だからこそ、この恵みと喜びを隣人に分かち合っていきたい。一人ではなくチームで協力しながら、伝道の働きが繋がっていくのです。
 

2021年1月24日
 
花材  枯れすすき  新種百合 
     シャコバサボテン
 悔い改めは、愛のため

暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ

                                   マタイ4章12-17節

 イエス・キリストによる初めのメッセージ、それは「悔い改めよ。天の国が近づいた」という呼び掛けの言葉でした。これはバプテスマのヨハネから引き継いだ言葉です。しかし、同じ言葉でも、ヨハネとイエスでは内容に違いが出てきます。『天の国は近づいた』とヨハネが語っても、ヨハネ自身が天の国を動かすことは出来ません。その時が近づいてきている事を預言したのです。天の国とは、神様が王様として支配する王国です。王様は王子を代理人として派遣します。神の子がこの世に生まれたクリスマス。天の国の権威を持つ方が、地上の国にまで降って来た。イエスが「わたしのもとに来なさい」と語る時、それは天の国への招待です。まさに『天の国は近づいた』のです。

『悔い改めよ』とヨハネが語る内容は、過去に犯した罪の告白と、神へ焦点を向けることの招きです。しかし、神様がどこにいるのか分からなければ焦点を合わせることが出来ません。『悔い改めよ』とイエスが語るのは、私たちと一緒になって、神様のもとに連れていくためです。まるで迷子の子どもが親の居る場所を分からなくなってしまった時に、子どもを見つけて一緒に神のもとに立ち帰るために、イエスは派遣されたのです。

 

2021年1月17日

 
 花材  ローズマリー 新種百合 千両
バプテスマとバプテスト
 
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が。天から聞こえた。

                     マタイ3章13-17節

 キリスト教が大切にしている礼典(儀式)に『バプテスマ』があります。
 バプテスマとは元々、浸す・洗う、という意味の言葉です。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい」と人々に呼び掛け、罪を告白する人々にバプテスマを授けました。ヨルダン川で人々に対して、『一度水に沈めた後、水から起き上がらせ』=バプテスマを授けたのです。バプテスマの儀式を通して、罪人としての命は死に、罪が洗われて、新しい命に生かされることを表現しました。

 イエス・キリストもまた、ヨハネからバプテスマを授かります。しかしこの出来事は、大きな問いを生みました。果たして、イエスには罪があったのでしょうか。悔い改めることがあったのでしょうか。…イエスは誕生後すぐに、イスラエルからエジプトに逃避します。そして再びエジプトからイスラエルに戻ってきます。イスラエル民族の歴史を、まるで辿っていくかのように歩まれました。人々の歴史を、私の歴史だと受け止められた。
 人々の罪を、私の罪だと告白された。人々と共に、神様のもとに悔い改めた。イエスのバプテスマは、罪人に連帯して生きるという決心です。そして私たちのバプテスマは、イエスに連帯して生きるという決心です。
 

2021年1月10日
  

 小西さん宅からいただいた、素晴らしい千両

主の御業 新たに密かに 芽生えてく
 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。

 わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。

                           イザヤ43章16-20節


 新しい一年が始まりました。日ごとに新しい命があたえられ、生かされていることを覚えます。新年の抱負、みなさんはどのような計画を立てているでしょうか。江波教会においても、新しい年度をどのようなテーマで過ごしていくのか、共に聞いていきたいと願っています。今日の聖書の箇所は、今年度の主題聖句です。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」このみ言葉を胸に、一年を過ごしてきました。

 そして次の一歩を、主に期待しながら、共に探りつつ踏み出していきたいと考えています。新しい一歩を踏み出す時、前を向く必要があります。過去の悲しみに縛られたり、過去の栄光に囚われたりすると、前を向くことが出来ません。今、神様の語り掛けに耳を澄まし、今、神様の御業に目を注ぐことへと招かれているのです。しかし、その御業は、草木の芽のようにまだ明らかにはなっていません。幻のように掴みにくいものです。

 しかし、神様の御業は新しく、自然界にまで広がり、動植物も満たされるようになるという光景が預言されています。幻に目を凝らしていきましょう。神様の新しい御業はもう既に始まっているのですから。
 

2021年1月3日
 
逃げろ!
 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。 「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
         
                             マタイ2:13-23

 エジプトで生まれたモーセも、ベツレヘムで生まれたイエス・キリストも、王様によって命を狙われました。男の赤ちゃんを全て殺害するようにという命令が下されていたからです。その背景には、独裁者による地位への固執と、自分さえ良ければという身勝手な思いと、手にした権力を失うかもしれないという不安がありました。赤ん坊という小さな存在にまで、恐れを生じていたのです。その後下された虐殺命令。大切な命を奪われた人々からは、「慰めの言葉なんていらない、子どもたちはもう居ないから」と、悲痛な叫び声が響き渡りました。
私たちは、「逃げるのは恥だ」と教えられてきたように思います。しかし、聖書は真逆の価値観を提示します。
逃げろと、神様が命令するのです。神様ご自身が、逃れる場所となる。シェルターとなる。命を守る砦となる。だから、逃げなさいと語り掛けているのです。
 逃げてはいけないと思う時、頼れるのは自分の力です。逃げても良いんだと思える時、頼りになる存在を思い出します。私たちの痛みを知り、嘆き悲しむ声を聞かれた主が、共に居て下さる。そして、必要なもの全てを備え、導いてくださる主に頼り、新しい一年を歩み出しましょう。
 

2020年12月27日

 
 クリスマスツリー

         星の光に導かれ
星の光に導かれ

 見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。

」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。


                              マタイ1:21-23、2:1-12

 ♰メリークリスマス!この挨拶はMerry(愉快な)+ Christ(キリスト)+ mas(礼拝)という、三つの単語が組み合わさっている言葉です。「喜びのキリスト礼拝」と言うことも出来るでしょう。世界で初めのクリスマスは、イエス・キリストの誕生の際におこなわれました。星の光に導かれ、遠い国からやってきた博士たちによって礼拝がささげられたのです。
 私たちは友人に誘われたり、家族に連れられたり、または、ご自身の関心によって、聖書を読んだり教会に集ったりします。そこには、きっかけ・導きがありました。私を教会に誘った人はどのような導きがあったのだろうか。
 さらにその前の人の導きは…どんどん遡っていった時に、この星の光の導きに繋がっているのです。私たちは導きによって、出会いが与えられ、変えられていく。誰かと出会う時に、その人が私の心に生まれる。
 イエス様との出会いも同じです。あなたがイエス様と出会う時、あなたの中にイエス様が生まれる。それが、あなたにとってのクリスマスなのです。綿々と繋がっている歴史。2000年前にイエス・
キリストがこの世に誕生し、今に至るまで人々と出会い続けていることに繋がっているのです。
 

2020年12月20日

 
   クリスマスツリー
 大いなる光

 ひとりのみどりごが わたしたちのために生まれた。
 その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
                                           イザヤ8:23b、9:1-9:6
                             
 先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、驚くべき指導者、力ある神、「永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
♰イスラエルはチグリス川・ユーフラテス川と、ナイル川を結ぶ肥沃な三日月地帯の中央に位置しています。土地に恵まれ作物を豊かに収穫できる場所は、他国から見て魅力的な国であるため、イスラエルは幾度も他国からの侵略に苛まれてきました。
 北王国イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされた頃、南王国ユダにて預言者イザヤは、神様からのみ言葉を宣べ伝えていました。その預言は、「北王国イスラエルの地は辱めを受けたが、後にこの地は栄光を受ける。それは神の子が与えられたからだ。」というものでした。既に、北王国イスラエルの人々は奴隷になっており、まるで闇の中を生活するようなものだったことでしょう。しかし、そのような只中に「闇を照らす、大いなる光が輝いた」と、将来の出来事を過去形で語るのです。この言葉はイエス・キリストの誕生によって成就しました。この方は、人の子として、神様の一人子として誕生しました。イエス・キリストは、リーダーとして、力を持った存在として、永遠の父親として、平和の担い手として神様から派遣されました。神様の人々に対する熱心な愛情が、イエス・キリストの誕生=クリスマスという神様の奇跡となったのです。
 
 
2020年12月6日
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  教会堂 
入り口 受付に飾られた 降誕
約束の光

 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。…
 主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。…起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。

             イザヤ59:1-2、59:8-60:2
 クリスマスを待ち望むアドベントの期間、第二週目になりました。クリスマスまでの一カ月間、週毎に一本ずつ4本のロウソクに火を灯していきます。それぞれのロウソクは「希望」 「平和」「喜び」「愛」と呼ばれています。私たちはそれらの光を無くしては、生きていくことが出来ません。私たちには光が必要です。
 いつも光の中を歩んでいきたいと思いながらも、まるで闇の中を歩んでいるような気持ちになることが、人生の中にはあるのではないでしょうか。神様に失望し、諦めてしまいそうになることもあります。しかし、そのような中にあっても神様が私たちを見捨てたのでは無いのです。逆に、私たちが神様から離れ去ってしまったのだと、聖書は語ります。それにも関わらず、神様の恵みは注がれていく。クリスマスとは、神様から遠く離れた私たちのところに光が降ってきた日であり、歴史的な転換点であり、西暦の始まりであり、イエス・キリストの誕生日なのです。私たちは自分自身を見つめた時、光を見出すことは困難です。しかし、イエス・キリストを見出す時、光を受け取ります。『光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。』
 約束の光の中、イエス・キリストの光の中、今週一週間を歩んでまいりましょう。
 
 

2020年11月29日


 
  
  牧師館 
入り口に飾られた リース
              
高いたかい低いひくい

 ハレルヤ。 主のしもべらよ、主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ。

  今よりとこしえに 主の御名がたたえられるように。    詩編113:1-9
 

 子どもの頃、「高いたかい、低いひくい」と抱かれながらの上下運動が楽しかった思い出があります。現在は、幼児の頭へのダメージがあることが分かり、控えるように注意されておりますが…。年齢を重ねるにつれ、この感覚を失っていることに気付きます。成績や評価が上がることを願い求め、下がりたくはないと思うのが普通の感覚ではないでしょうか。
 
 聖書は、この価値観も認めつつ、新たな光を差し込みます。諸国の王よりも権威を持ち、時間や空間を支配している主を誉めたたえています。驚くべきことに、そのような高いところに居た方が、低いところに降って来られると語るのです。これは人となられたイエス・キリストを表しています。王子様が身分を隠し、違う国にお忍びに行きました。イエスが共に生きたのは、貧しい漁師たち、社会から排斥された人々、「罪びと」のレッテルを貼られた売春婦や取税人でした。それは諸国の王様から見たら小さな存在、まるで塵芥にも等しく思える存在だったことでしょう。
 しかし、イエスはその一人一人に目を留め、出会い続け、時に癒し、時に食卓を囲み、共に生きる者となりました。王子様との会見も、食卓も、本来特別な相手としかなされない出来事です。そのような特別な存在として、主はあなたと出会うために降って来られたのです。   ハレルヤ!
 

20年11月22日

 
  花材  庭に咲いた皇帝ダリア
呪いは祝福に 災いから幸いへ

 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
 高ぶることなく、ろばに乗ってくる。     
 見よ、あなたの王が来る。雌ろばの子であるろばに乗って。9節

                             ゼカリヤ8:1-23


 果たして苦しみの意味とは何なのだろうか。古今東西、多くの人々がこの問に向き合ってきた。今日の聖書の箇所は、衝撃的な言葉で答えている。それは、「神が災いをくだす決意をした」との言葉だ。続く質問は「では、なぜ神は災いをくだすのだろうか」という疑問だ。その理由として「神は、激しく熱烈に愛情を注がれる方」であると、神の性質が語られている。愛していないならば、または無関心でいるならば、相手の言動や行動に対して、怒らなくて済むかもしれない。しかし、愛する民が神様を裏切るならば、神は怒りを発せられるのである。

 神の怒りは災いとして現れることがある。しかし、災いで終わるものではない。神様との関係性は、一方的な神の恵みによって回復される。それは「神があなたに幸いをもたらす決意をした」からである。聖書は私たちに語り掛ける。神様があなたに対して真実であるように、あなたも隣人に対して真実でありなさい。神様の正義が愛に満ちているように、あなたの正義も愛で満たしなさい。神様によって平和の種が蒔かれたのだから、あなたも平和をもたらす裁きをしなさいと、招いている。自分の真実・自分の正義・自分だけの平和は争いを生む。神の愛により、神と人、人と人、人と自然との関係性は、繋ぎ合わされるのである。
 

20年11月22日



クリスマスツリーが飾られました

 
  
求む!礼拝者

 あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(21節)

今がその時である。なぜなら、父がこのように礼拝をす者を求められるからだ。(23節b)
                       
      
                                       ヨハネ4::7-26


 今日の聖書の舞台、イスラエルにあるサマリアという場所は、ガリラヤ湖と死海の間に位置します。この地域は雨が少なく乾燥していました。イエス様は歩き疲れ、喉が渇き、井戸のところに座っています。するとそこにサマリアの女性が水を汲みにやってきました。イエス様はこの女性に「水を飲ませてください」と声を掛けます。しかし返事は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女性の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と、つっけんどんな言葉。一体どういう訳なのでしょう。
 この理由はサマリア人とユダヤ人との間に、歴史的な確執があったからです。両者は700年以上にも渡る犬猿の仲でした。イエス様はそのような対立の中で、相手の居る場所に自ら赴き、心が離れていた人に寄り添っていったのです。
そしてこの女性は、結婚と別れを繰り返しており、サマリア人の中でも孤立し、小さくされていた人物でした。イエス様は彼女の触れてほしくない、知られたくない、隠していたい、最も暗い場所を明らかにされました。イエス様の光が差し込む時、この人のイエス様に対する認識は、ユダヤ人男性⇒先生⇒預言者⇒救い主と、少しずつ変えられていきました。私たちは出会いによって変えられていきます。イエス様は今日も、あなたとの出会いを心待ちにしておられるのです。

 

20年11月15日

 花材   実なり万両  シダ  コスモス
生ける神殿

 あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を表しなさい。 (19~20
                                      Ⅰコリント6:12-20
 アメリカの大統領選挙はひとまずの決着がつきました。しかし、今なお両陣営の分断が続いております。私たちも先日、就任按手式記念品を4種類のデザインから投票によって決めようとしましたが、票が割れて過半数を超えるものはありませんでした。そこで、A案とB案を混ぜたE案、C案とD案を混ぜたF案、二種類を作成することに決まりました。私たちは一票の内に、思いを込め、祈りを込め、応援し、委ねていきます。広島での選挙、教会での総会、学校での生徒会選出、それぞれの場面で一票をもって主体的に関わっています。そこには選び取る自由があり、お互いに決められたことを守っていく責任があります。

 自由があるところに責任もある。イエス様が私たちを罪から解放し、自由にしました。だからこそ私たちは、再び罪の支配下に陥らないようにする責任があるのです。あなたの体は、もはやあなただけの体ではなく、イエス・キリストの体の一部分だからです。さらに、あなたの体は聖霊が住まう神殿であると聖書は宣言します。モーセの幕屋、ソロモンの神殿と同様に、今あなたの体が神殿であり、神様の栄光を現す器なのです。あなたを通して人々は神様に出会っていく。だからこそ私たちは、神様を証していきましょう。一人一人の体を通して神様の栄光が現れていくことを祈りつつ。
 
 
20年11月8日

 
 花材   実なり万両  シダ   
幕屋とキリスト

 キリストは、既に実現している恵みの大祭司としてお出でになったのですから、
人間の手で造られたのではない。

                            ヘブライ人への手紙9:1-20


 聖書には『贖い(あがない)』という言葉が出てきます。あまり聞いたことのない単語かもしれません。この贖いという言葉は、原語から調べると三つの意味をもっていることが分かります。
  一つ目は、罪を覆うこと…傷口を絆創膏で覆い、罪に対して応急処置をするイメージです。二つ目は、身代金の支払い…誘拐された人を取り戻すこと。三つ目は、家族としての振る舞い…家族が借金をして、土地が差し押さえられたり、奴隷となったりしたならば、それらを買い戻す行為を意味します。

 十戒の石板が納められた契約の箱。箱の蓋は、『贖いの蓋・恵みの座』と名付けられていました。エルサレムの民の中で、一人しかいない大祭司が、一年に一度の『大贖罪日』に、雄牛と山羊の血を贖いの蓋に振りかけます。「生き物の命は血の中にある…血はその中の命によって贖いをする」(レビ記)それが罪の贖いのための儀式だからです。
 
この文脈の中で、イエス・キリストが分かち合われます。ただ一度十字架で流された血によって、私たちは罪から清められ、罪の奴隷から買い戻された。イエス・キリストこそが、神と人とを繋ぐ大祭司であると、聖書は語ります。イエス・キリストは今日も、あなたのために私のために血を流されているのです。イエス・キリストのいのちに与り、生かされてまいりましょう。

 

020年11月1日

 
 花材  やなぎ  ゼラニューム  黄菊  晒し木
無から『勇』を生み出す主

 万軍の主は言われる。わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。まことに、万軍の主はこう言われる。 
                                     (5節)
 この場所にわたしは平和を与える。(9節)      ハガイ2:1-9
 大切な物が無くなるのは、とても悲しい出来事です。先日行われた、日本バプテスト連盟の臨時総会にて、天城山荘という宿泊施設の経営権移譲を検討していることが話し合われました。私にとって、バプテスマの決心や、牧師への献身のきっかけとなった思い出の場所です。それでも、何が一番大切なのか。何を第一とするのか。建物よりも、神様を大事に考えていきたいのです。
 ソロモンの建てた神殿は、バビロニア帝国により壊されてしまいました。今まで礼拝のために用いてきた祭具も無くなりました。イスラエルの民がバビロン捕囚にて帰還したとき、神殿は廃墟となっていたのです。苦しい時、辛い時、私たちは「何を第一にしているのか」と、本質を問われます。
 頼りにするものは何も無いと、気落ちしているイスラエルの民に、神様は「勇気を出しなさい」と、語り掛けます。そして勇気を持てない、私たちの様々な理由に対して、ことごとく反論していきます。私たちが大切にしていた神様との約束、十戒の石板が無くなっても、神様ご自身が契約を保持していると語ります。だから、勇気を出しなさい。私たちの目の前に何も無いように思えても、主の約束に目を注いでいきましょう。今日も万軍の主があなたと共におられるのですから。
 

2020年10月25日

 
花材  枇杷の実  鉢植え 黄菊 
幕屋から神殿へ

 両手を天に伸ばして、祈った。

 「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はあり ません」 {8章22b~23)               列王記上8:20-30
                 
 家を建てるというのは、多くの場合一生に一度あるかないかという大切な出来事です。
 ましてや、神様のための住まいを建てる時、どれほどの思いが込められているでしょうか。モーセによる幕屋とソロモンによる神殿、この二つはとても似ています。どちらも人々の生活の中心であり、礼拝の中心でした。どちらも礼拝のために、神様へ動物を捧げる祭壇・祭司が身体を清めるための洗盤・幕屋の光源となる7つの燭台・パンとぶどう酒の献げ物・香の祭壇・そして十戒が納められた契約の箱が備えられました。幕屋と神殿には、もう一つ共通点があります。どちらも完成した時に、神様の栄光が現れたのです。
 神殿が完成した時、ソロモン王は祈ります。今回、5つの視点からこの祈りを見本にしたいと思います。「約束を守り、愛を注いで下さる神様」と祈りを捧げる対象へ①告白の言葉をもって呼びかけます。そして、②感謝と願いを語ります。祈りの中で、③自分と神様に出会う、交わりが与えられます。ソロモンは豪華絢爛な神殿を建て上げましたが、それでも「世界を創造された神様が入るにはふさわしくない」と、④砕かれ悔い改めます。そして、「私の罪を赦してください」と、⑤神様に立ち返ります。私たちも祈りましょう。神様は今も変わらずに、一人一人の祈りに耳を澄ませ、目を注いで下さっているのですから。
 
 

2020年10月18日

 
 花材  柊南天  菊 ゼラニュウム  エノコログサ 
移動式礼拝堂

  雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。(34節)

  旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべてすべてのに見えたからである。(38節)       
               出エジプト40:34-38

 出エジプト記における最後の章では、幕屋が完成した場面が描かれています。幕屋とは、神様がイスラエルの民に指示し造らせた、神様の住まいのことです。この幕屋が完成したとき、主の栄光が幕屋に満ちて、誰一人として幕屋に入ることが出来なかったと記されています。先ほどまで、モーセはこの幕屋の中で祭具を整えていたにも関わらず、モーセすらも幕屋に入れませんでした。神様はモーセに「あなたはわたしの顔をみることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」と、語ります。虫眼鏡で太陽を見てしまっては、目が耐えきれず失明してしまいます。それと同じように、人が神様を直接見てしまっては、心や身体が耐えきれないのかもしれません。
 そのうえで神様は直接見ることは出来ない人間に合わせ、幕屋を通して人々と出会っていくのです。幕屋はイスラエルの民の中心にありました。幕屋は空間的な中心だけでなく、生活の中心、意識の中心、礼拝の中心となります。この旅を通して神様は、イスラエルの民を導き守りました。「わたしは必ずあなたと共にいる」と、モーセに約束された神様は、「わたしは必ずあなた達と共にいる」と、イスラエルの人々に幕屋を通して示してくださいました。そして主の約束は今に至るまで続いているのです。
 
 

2020年10月11日

 
 
   
マナ ~天からのパン~

 「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。(4節)

 「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。(15節B)

                 出エジプト16:2-5、11-21、31、35


 神様から、大切なイスラエルの民に与えられた十の約束。『十戒』の一つに、安息日の教えがあります。安息日の教えとは、6日間あなたの仕事をし、7日目は仕事を休み、神様を覚える時とするという内容でした。休みのない奴隷生活だった民にとって、この安息日の教えは、喜びの約束となりました。しかし、私たちは「働きに出なければ、食べる物が得られないかもしれない」と、不安におそわれます。また、「もっと働けば、豊かに暮らせるに違いない」と願う者です。

 イスラエルの民も同じでした。そのような民に、神様は『マナ』と呼ばれる、甘いウエハースのようなパンを与えました。しかしマナは6日目を除いて、保存することが出来ません。ある人は、一日分のマナをやりくりして翌日にとっておこうとしました。また、ある人は、休みとされた7日目にもマナを得ようとしました。しかし、どちらの試みも失敗に終わります。

 私たちは、自分で仕事や財産をコントロールしたいと願います。与えられている分を管理することは大切な事です。しかし、ここで神様は根本的なことを伝えています。それは、恵みがどこから来るのか、誰によって養われているのかを教えているのです。安息日、それは神様に信頼をするという日々の歩みです。イスラエルの民は40年間、主に養われて生きました。
 
   
  


   
 


2020年9月27日
 
 花材   すすき  彼岸花  
              
                ドラセナ
主の約束、主との約束

 今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちは全ての民の

間にあって わたしの宝となる。               出エジプト19:1-8a


 本日は江波教会の誕生日です。この地で宣教が始まったのは1957年9月20日、63歳を迎えています。当初、そろばん教室の建物をお借りして集会が始まりました。それから一人一人が、一歩一歩、主と共なる歩みをされ、それぞれの歴史を積み重ねた上に、今、江波キリスト教会がここに建っています。63年の歩み、それは冒険の旅に譬えることが出来るでしょう。苦しい道のり、別れと出会い、困難な出来事、感動の涙…。私たちは、神様との出来事を『証』として言葉にします。言い換えれば旅の途中にあるセーブポイント。道を見失った時に、立ち返る場所になります。
 自分の力ではどうしようもない、困難な出来事を目の前にした時、多くの人は『神様を求める』のではないでしょうか。なんとか上手くいったならば神様に感謝することでしょう。それでも、再び同じような出来事を前にした時、今度は神様を求めずに、自らの経験を頼りにするのではないでしょうか。そうではなく、神様によってこの出エジプトの出来事が為された、神様に礼拝する時が与えられた、これは神様の約束の成就だ、と、モーセは証しているのです。そしてイスラエルの民も、この神様の約束に応答して生きることを告白します。私たちの63年間の歩みも主の守りと導きであることを告白しましょう。『主よ、あなたの約束に、今、聞き従います』。

   
  

   
2020年9月20日

 
 花材   紫陽花  夾竹桃   菊 ばら
忙しくても、忘れずに

 これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいた

イスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである

                           出エジプト12:21-28


 「忙」も「忘」も、心を亡くすと書きます。今、ゆっくり深呼吸をして、心静かに、小さな声に耳を澄ませてみませんか?私たちの日常はともすると忙しすぎるのかもしれません。たくさんの物事に押し流されて、大切なことを忘れてしまっているのかもしれません。

 イスラエルの人々も、エジプトから解放され、神様が招く場所に向けて出発するという時に、心を騒がしていました。神様は、「イスラエルの人々が“過ぎ越され”救われた出来事を忘れないようにしなさい。儀式の意味を子供たちに伝えなさい」と語ります。形にとらわれ中身がおろそかになってしまっては意味がありません。しかし私たちが出来事を忘れないために、形を持つことは有効な手段です。この掟により、今でもユダヤ教の人々は『過越祭』を守り続けています。そして、イエス様も十字架の前夜、『過越祭』を行いました。

私たちもイエス様の『主の晩餐式』を毎月覚えていますが、この原型は『過越祭』にあるのです。『過越祭』では傷のない小羊が屠られ、その血を入口の柱に塗ることで、滅ぼす者から“過ぎ越され”ました。人々の祈りや善行によって救われたのではなく、小羊の血によって救われたのです。そして聖書は、イエス・キリストを、傷のない小羊だと証しているのです。
   
 
 
 

 2020年8月30日

 

  花材   柳  菊2種  こでまり   アロエ  
口先だけの平和ではなく

 「主はこう言われる。さまざまな道に立って、眺めよ。
   昔からの道に立って、眺めよ。昔からの道にッ問いかけてみよ。
 
  どれが、幸いに至る道か、と。
    その道に歩み、魂に安らぎを得よ。

                      エレミヤ6:6-16a
 
 8月は「平和」をテーマにしています。預言者エレミヤは神様の言葉を伝えます。「人々は、平和がないのに『平和、平和』と言う」。当時エルサレムでは、法律が守られておらず、地位ある者による抑圧があり、人々は自らの利益を貪っていたことが記されています。その中で主は、小さくされている人々の叫び声を聞かれた。いじめが起きることにも、上下の力関係が発生する構造にも神様は怒られた。それは「平和」ではない。だからこそ主は、「懲らしめを受け取り、立ち帰りなさい」と語るのです。  

 沖縄のニュースを聞きました。「クラスターが発生した米原子力空母乗組員3000人の沖縄移送計画の取りやめ」というニュースです。沖縄の人達は、とても困りました。沖縄平和運動センターの方は、新聞でこのような発言をしています。「沖縄がまともに扱われないところに、県民の痛みと、憤りがある」と。この叫び声もまた、神様は聞かれているのです。

 『分かれ道に立って、周りを見渡しなさい。過去を振り返り、幸いに至る道をたずねなさい。その道を歩み、魂を安らぎなさい』。主の言葉は、時を超え、場所を超え、今もわたしたちに響いているのです。
 
 

2020年8月23日
 
花材      野ブドウ   ほおずき
平和の計画


 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。

それは平和の計画であって災いの警告ではない。将来と希望を与えるものである。
                                       
                                        エレミヤ29:10-14


  聖書には「預言者」という役割を持った人々が登場します。預言者とは、神様からの言葉を預かり、人々に伝える仲介者のことです。預言者エレミヤは自国イスラエルの人々に「主に立ち帰りなさい」、「神様に悔い改めよ」、「滅びゆく」など預言をします。しかし、人々は預言を拒絶し、バビロンによりエルサレムは崩壊します。50年間続くバビロン捕囚の出来事。50年間、地元に帰ることの出来ない人々。今、この現代の日本でも、福島第一原子力発電所の事故により、福島の人々は地元から追いやられたままです。今は、新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除となっていますが、今も、原子力緊急事態宣言は続いています。

 神様は絶えず、「わたしたち」共同体に向けて預言を語ります。広島平和宣言では連帯することが語られました。わたしたちが福島のことを考えない時、福島の人々は広島のことを考えないでしょう。平和の計画は、共同体の中に見いだされていくのです。「隣人」と生きる中で、わたしたちとして生きる中において、神様は平和の計画を立てられたのです。江波に住む私たちは、広島に連帯し、長崎に連帯し、福島に連帯し、日本に連帯し、世界に連帯し、神様に連帯していく。それはまるで平和が広がっていくような光景ではないでしょうか。主による平和の計画は、今もわたしたちを通して進んでいるのです。

  
2020年8月16日
 
花材      野ブドウ   ほおずき 
平和宣言
 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
          主は平和を宣言されます。  詩編85:1-14
 「シャローム」とはヘブライ語で「こんにちは」等と訳される挨拶の言葉です。
そこには、「あなたの上に平和・平安がありますように」という意味が込められています。
 2020広島平和宣言は「連帯」をテーマに語られました。1947広島平和宣言を見てみると、戦争の根本的否定と平和の熱烈なる希求が『平和宣言』として決意の言葉となって表されたように読み取れます。どこが同じで、どこに違いがあるのでしょうか。私は二つを読み比べ、現代が平和を宣言出来ない状況にあるように思いました。パンデミック、それぞれが抱えているストレス、いじめ、差別、死、今も続いているシリアでの戦争…。
 詩編の詩人も、私たちと同じように、平和ではない只中に居ました。神さまに助けを求めていました。そして、主の言葉を聞くために沈黙の時を持ちます。唐突に、一方的に、神さまは宣言します。『主は平和を宣言されます』。主が、私たちに、平安あれと語られる。平和宣言は、人々が再び愚かなふるまいに戻らないためです。広島平和宣言も慰霊碑の前で宣言します。「安らかに眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから」と。
 私たちの状況に関わらず、主が平和を宣言される。主に平和がある。正義の雨は天から注がれ、主への信頼は地上から芽生える。だからこそ私たちも、人々と連帯し、主に連帯し、平和の一歩を、平和の宣言をしてまいりましょう。「シャローム」
                         

2020年8月9日


 花材   とくさ  紫陽花
分断されつつある社会の中で

 キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を造り上げて平和を実現し、十字架を実現し十字架を通して、両者を1つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
                    フェソの信徒への手紙2:11-22

 今月は「平和」がテーマです。今日の箇所では、二つのグループの対立が描かれています。一つはユダヤ人キリスト者、もう一つは異邦人キリスト者。イエス・キリストを信じた後も、ユダヤ人グループは律法を大切にしていました。律法とは神様から与えられた約束です。その律法を守っているという自負と誇りを持っていました。
 一方、異邦人キリスト者は、「救いはイエス・キリストから来る、律法から来るのではない」と信じていました。そして、そのことをユダヤ人キリスト者たちも知っているのに、なぜ、今までの文化や慣習を守っているのかと軽蔑していました。
 わたしたちもまた、文化の違いに直面した時、対立が起こり得ます。結婚においてもそのような場面はあるのではないでしょうか。対立構造の間には、お互いを隔てる「壁」が立っています。文化を隔てる壁、年齢を隔てる壁、性別を隔てる壁、職業を隔てる壁…。「壁」の中には、「敵意」が存在していると、聖書は語ります。私たちは「壁」の前に佇むことしか出来ません。しかし、イエス・キリストは「敵意という壁」を十字架において滅ぼしました。「壁」を失った私たちは、一つの共同体として生きていくことが出来るのです。共同体の中心にイエス・キリストが居るのです。イエス・キリストこそ、私たちの「平和」そのものなのです。
 


2020年8月2日

 花材   青い蓑南天 ピンKッション 椿の実
Q.パンはパンでも…?
 イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。

また魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。    
                               ヨハネによる福音書6:26-40


 パンはパンでも〇〇〇なパンは、なーんだ?例えばその答えは、フライパンや、シャンパン、ジャパン、パンデミック、等が考えられます。

 当時も今も、イスラエルでの主食はパンです。5000家族の食卓をイエス様は用意されました。イエス様が食事を用意してくれるならば、毎食準備しなくていい、働かなくていい、と考えた人々はイエス様を求めました。イエス様以外を求めることは、偶像を求めることになるのです。奇跡もまた、偶像になり得るのです。出来るか出来ないか、行動や結果に囚われてはいないでしょうか。私たちは、存在の価値をどれだけ見出しているでしょうか。
 
 イエス様は、いのちに目を注ぎます。自らを「いのちのパン」と呼び、アンパンマンのように自らを献げてゆくのです。「いのちのパン」は、食べる人の身体を支え、心に栄養をつけさせ、社会的な交わりがあたえられ、更にこの地上のいのちに留まらない、永遠のいのちの糧です。イエス様ご自身を求めてまいりましょう。

 「いのちのパン」は尽きることがありません。今週一週間、食卓の喜びに満ち溢れ、平安を味わい、イエス・キリストのいのちに生かされてまいりましょう。
 

2020年7月26日

花材   柳  百合 モンステラ
      
    
ぶどう酒の喜び

 この葡萄酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが・・・

                  ヨハネによる福音書2:1-11

 今も昔も、結婚式は喜びの時です。しかし、結婚式ほどアクシデントが起こる場面もそう多くありません。

 カナと呼ばれる田舎の村での結婚式が、今回の物語の場面です。用意していたぶどう酒が飲み終わってしまうという、大変なトラブルが起きました!イエス様の母マリアは、息子に問題の解決を頼みます。しかし、他者を自分の都合で動かすことは出来ません。誰が主権を持っているのでしょうか。人に主権があるのか、神に主権があるのか、とても大切なポイントです。

 私たちが神に主権を委ねるということは、私たちが神に従うというチャレンジを受け取ることでもあります。イエス様からの命令は、水がめの水を満タンにするという、問題の解決には繋がらないようなことでした。身体的にも、精神的にも、一歩を踏み出すチャレンジが必要でした。召使いがイエス様の言葉に聞き従う中、イエス様は奇跡をおこなったのです。水がぶどう酒に変わりました。
 主は「良い」お方です。新郎新婦が恥をかかずに済むように、傷つかなくてよいように、愛と憐みにより、水をぶどう酒とされたのです。そのぶどう酒は「良い」ぶどう酒です。 
イエス様は、人という不完全な存在を用いて、飲みきれないほどのぶどう酒を用意されました。結婚式は、イエス様の愛によって注がれた、ぶどう酒の喜びで満たされたのです。

 
2020年7月19日
花材   オリズルラン

『彼の「死」を思いつつ』

 パンを取り感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これはあなたがたになめ私の体である。
 食事の後で、杯も同じようにして「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である
。        
                 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11:17-34
           
 教会が大事にしている働きとして、福音の知らせ・交わり・奉仕があります。三つの大切な目的と言っても過言ではありません。当時、コリントの教会では、仲間割れが起きていました。交わりが崩されていたのです。教会での食事のときのこと。お金持ちのグループは、満ち足りるほどに食べたり飲んだりしていました。しかし、貧しい人たちは、一日の仕事が全て終わってからでないと教会に集うことができず、空腹のままでした。
 問題が起きた時、目的を見失った時、原点に立ち帰る必要があります。
イエス様は何を教えていたのか。イエス様はご自身の体だと語りつつパンを裂き、人々に分け与えられました。そのパンにより、生きるために必要な栄養を受け、神様との和解を受け取ります。
 そのぶどうの杯は、イエス様の血を表します。その血により神さまと新しい約束が結ばれました。キリストを信じる人は、イエス様の死を思います。そして、イエス様が伝えられたように、パンを食べ・ぶどうの杯を飲む、主の晩餐式を行います。主の晩餐式自体が、イエス様の人生を、彼の死を宣べ伝える出来事です。
 主の晩餐式により、一つの体を分かち合う教会の交わりと、その中心にいるイエス様との交わり、そして神さまとの交わりを体験します。主の晩餐式により、イエス様が奉仕されて、用意された食卓を味わいます。主はその食卓に全ての人を招いておられるのです。

 

2020年7月12日



花材   ニュウサイラン  ひまわり
      
       アルタイカ

どこでパンを買えばよいだろうか
   「ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。」 (9節)

 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えられてから,座ったいる人々に分け与えられた。  魚も同じようにして、欲しいだけ,分け与えられた。 (11節)

                              ヨハネによる福音書 6:1-15


 「どこでパンを買えばよいだろうか?」と、イエス様は、12弟子の一人であるフィリポに質問しました。イエス様がパン屋を捜している光景は、なんとも親近感の湧く姿です。しかし、その背景には、病院に行くことが出来ない、食事も十分には取ることが出来ない、5000家族(1万人~2万人)の人々がイエス様の目の前にいたのです。「人々に食卓を用意したい」このイエス様の願いが、冒頭の言葉となったのです。

 これは無理な願いです。お金の問題もありますし、もしパン屋さんが近くにあっても準備しきれないような大量の注文になります。フィリポは正しい答えを言いました。「200万円あってもパンは足りないでしょう。」そのような状況の中、名前も無い『少年』が、5つのパンと2匹の魚をイエス様に献げました。これだけでは、5000家族のお腹を満たすには足りないでしょう。弟子のアンデレも「何の役にも立たない」と評価をしました。しかし!!イエス・キリストは、無視され小さくされた少年のわずかな献げ物に目を留めたのでした。そして何倍・何十倍・何百倍にも祝福し、豊かに用いました。

 私たちは誰かに何かを献げる時、痛みを覚えます。現状が足りなければ渡せないのが普通です。しかし、主が用いる時、不足していた皆が満たされ、更に12籠いっぱいのパンの欠片を受け取るのです。私たちは受け取った恵みをどのように用いてまいりましょうか。

 
2020年6月28日

花材   紫陽花の花々
一本でもニンジン・一人でもニコデモ

 人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。

                      ヨハネによる福音書3章1~15節

 
 聖書にはアイウエオ作文の詩や、韻、たとえ話や、一つの言葉で二つの意味の掛け合わせなど、面白おかしく覚えやすくするための工夫がある。

 ニコデモとイエス様との対話は、すれ違っており噛み合っていないように見える。
しかし、そこにはダブルミーニングやユダヤ教の文化が背景に隠されている。
 
 イエス様はニコデモに向かって、何度も何度も、「アーメン、アーメン(はっきり言っておく)」と、大事なことを伝えている。理解しきれないニコデモに、諦めることなく語りかけ続ける。対比やたとえ話を用いて、何とかして伝えようとする。それは、『わたし(イエス様)を信じ、救われよ』という招きであった。

 イエス・キリストはニコデモに向かって、そして私たち一人一人に向かって、「ラビ(先生)として信じるのではなく、メシア(救い主)として信じなさい」と、諦めることなく語り掛け続けている。十字架のイエス・キリストこそが、私たちに新しい霊・新しいいのちを注いでくださるのである。
 
 

2020年6月21日



 花材   庭に咲いた花々
           たちあおい  紫陽花 
          
霊を求める

 神よ、わたしの内に清い心を創造し
    新しく確かな霊を授けてください。詩篇51:12

 神様の出来事と出会う時、気付かされる時、私たちはその出来事を表現したくなります。また、自分でも目を背けたくなる程の、自分の罪に向き合わされる時、神様を求めるのではないでしょうか。詩編には、神様への思いを言葉にした、祈り・賛美・詩・歌が集められています。

 51編で、詩人は「霊」を求めます。霊とは、他の場面では、風・息・命・心と訳されている言葉です。「霊」は神様からいただく、いのちなのです。そして詩人は3つの霊を求めます。①「確かな霊」確かさ、基準となるものを私たちは持っていません。清い心もありません。神様のみが、新しく創り出してくださいます。②「聖なる霊」私の中にある良心も、神様から与えられたものです。どうか、取り上げないで下さいと、詩人は祈ります。③「自由の霊」私を支える霊は、神様という身分の高いお方の霊、その霊は進んで働き、自由に導き、仕えることを喜ばれる霊。その霊で、私を支えてくださいと求めています。
  驚くことに、神様も「霊」を求めています!「打ち砕かれた霊」を求めているのです。それは神様を求める心。神様の前で、自らが小さくなり、神様の憐みを願う心。その時、赦されていることに、気付かされるのです。今週一週間も、新しい霊を求め、新しいいのちに生かされていきましょう。

 

2020年6月14日



花材    鳴子百合  姫ミズキ  紫蘭
      
       庭の可愛い蘭   ばら
溢 れ ん ば か り の 恵 み
 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ。全ての知恵と理解を与えて,秘め

られた計画を私たちに知らせてくださいました。       エフェソ1;3~14
 
パウロからエフェソの教会の人々へ、熱い思いを込められて書かれた、エフェソの信徒への手紙。

書き始めである1章に書かれている内容は、「神様って、こんな方」という紹介文でした。三位一体なる神様、イエス・キリストの父なる神様と、子なる神イエス・キリストと、父と子から遣わされた聖霊なる神様。
 父なる神様は、①私たちを祝福し、②世界が創られる前から、私たち一人一人を選び、③神様の子ども、養子にしてくれました。イエス・キリストは、④私たちを贖い、⑤私たちの罪を赦し、⑥イエス様にあって一つに集め、⑦約束のものを受け継ぐ者とされました。聖霊なる神様は、⑧私たちに、聖霊で印を押し、⑨将来の約束の保証として、聖霊なる神様を与えてくださいました。

 わたしたちは、来週、バプテスマ式を控えています。私たちがイエス様によって買い戻された金額は、イエス様ご自身のいのちであったことを知るのです。私のいのちの価値は、イエス様のいのちと同じほどに高価で尊いいのちであると言われているのです。

 私の罪を赦すためには、イエス様のいのちが必要な程であった。十字架がなければ、私の罪も、私に対する愛も気付くこと出来なかった。神様は、それほどまでに、あなたが礼拝者となるように招いています。神さまとの交わりに招いています。なんという恵みでしょうか。
 
2020年6月7日


 花材    姫ミズキ  ゼラニューム  ぎぼし

        
驚くべき聖霊のみ業
 一同は聖霊に満たされ,霊が語らせるままに,他の国々の言葉で話しだした。
    
                          使徒言行録2:1~13

 『ペンテコステは教会の誕生日』と、聞いたことはありますか?「聖霊が降ったから、教会の誕生なのだ」と、言えるのですが、私にはピンときませんでした。
 ちなみに、ペンテコステとは、過越祭から50日目に行われる、小麦の収穫祭だったそうです。
 イエス様は弟子たちに「聖霊によるバプテスマを待ちなさい」と命じていました。
しかし、その日がいつ来るのか、弟子たちは知りません。
突然、その日はやってきます。弟子たちは聖霊によって満たされました。人には表現しきれないほどの神様の出来事、奇跡としか言えないような出来事の中で、弟子たちは精一杯の言葉で語らずにはいられなかった。あまりにも大きな音だったため、家の外にまで広がる出来事となった。家の外にいる人々にも届く言葉で、神様の素晴らしい御業が語られたのです。

 人々を集めるのも、弟子たちを用いて礼拝するのも、聖霊なる神様の働きです。
そして『教会』という神様を証する群れが生まれ、言葉を聞いた周りの人々も神様に礼拝をささげるようになった。ペンテコステの出来事が、時を超え、場所を超え、この江波の地まで広がってきたのです。この神様の働きに、諸先輩方は仕えました。江波の地で神様を賛美し、礼拝してきました。そのバトンが今、わたしたちに託されているのです。
 
2020年5月24日


 花材     いろんな花束を頂きました
『父の招き・兄の場合』

 子よ、お前はいつもわたしと私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。
     
                 ルカ福音書15章25~32節
 
 みなさん、おかえりなさい。今日は放蕩息子のたとえ【兄】に注目したいと思います。
私たちは「自分こそが正しい」という思いをもって行動することがあります。『自粛警察』と呼ばれている方々も、自らの行動を正しいと思いながら行っているのでしょう。

 【兄】は一日の働きを終えて、家に帰ろうとしています。すると、家では弟のためのパーティが開かれていました。しかも、なんと父親は弟に、豪華な服・指輪・靴・さらに良く肥えた子牛までプレゼントしたそうです。【兄】は怒りました。弟に対して正義感で裁きます。そして父に対しても責め立てます。その瞬間【兄】は、自らが『絶対的に正しい存在=神様』となりました。しかし【兄】は弟の苦しみも悲しみ知りません。そして、父の愛の深さを知りませんでした。

 二人の息子、性格も違います。歩んできた人生も違います。片方が救われれば、片方は救われないという、悲しい結末なのでしょうか。福音は自分たちの中からは生まれません、向うからやってくるものです。父は【兄】のために家から出て来て、なだめつつ、慰めつつ、宴会に加わるように頼み込むのです。父は今も、弟のためにも【兄】のためにも、いのちを受け取るようにと、愛して招き続けているのです。

 
2020年5月17日

 花材   リアトリス  ゼラニュウム
ただいま,と言わないうちに
 
  お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対してもつみをおかしました。

                       ルカによる福音書15章11~24節
 
 礼拝の初めに『招きの言葉』があります。神様から招かれ、呼び集めてくださるから、
私たちは礼拝をささげることが出来ます。それは、家庭礼拝においても同じです。そして、それぞれの日々の生活に向かっていく皆を、祝福の祈りと共に派遣します。

 集められて、散らされる。散らされて、集められる。「放蕩息子のたとえ」においても、集められるもの、散らされるものが出てきます。

 ①放蕩息子の弟は、財産が分けられた後、すべてをお金に換え集めます。しかし、そのお金は放蕩によって散らされます。 
 ②弟自身は、遠い国に散らされていきます。しかし、我に返り、罪に気付き、故郷に帰ります。
 ③弟は「飢えのために死にそうだ」と思っていました。しかし、父は「死んでいたのに生き返った」と語ります。身体は生きていても、家族・周りの人・神様との関係が断ち切られていた状況を「死んでいた」と父は言うのです。弟自身も、金・物・仕事・自由を失い、自らの存在価値を見出せませんでした。家に帰り、父の恵みと憐みにより、弟のいのちが生き返るのです。

 今日もまた、父のもとに帰りましょう。ただいまと言わないうちに、走り寄ってきてくださる方が、待っていてくださるのですから。

2020年5月10日

 花材     紫蘭  黄金小手毬  鳴子百合  ばら 
慰め(なぐさめ)
 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して,恐れない。

主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。
 
 今年度の主題聖句を見てください。わたしたちの目に見えるところに、神様の働きがあると言っています。花は咲いていません、実をみのらしていません。芽生えているのです。

 是非ご一緒に、神様のみ業を見つめ、分かち合ってまいりましょう。
イザヤという名前は「主は救い」という意味です。そしてイエス様も「主は救い」という意味の名前です。この新型コロナウイルスにより、みんなが救いを求めています。

 「その日」がいつなのか、私たちには分からないけれども、私たちは救いの泉から水をいただくのです。イエス様という泉から汲まれた水は、その人の内で泉となります。「その日」が必ず来る。いいえ、もう既に、その出来事は芽生えています。神様はもう既に、働いておられます。 

 今、主に礼拝を捧げる。み言葉に聞き、神様の御業を分かち合い、主を賛美し、主に応答し、一週間の旅路へと送り出されていきましょう。それはまさに、イザヤの預言の成就です。
 
 
2020年5月3日


   花材      びわ   ばら
今、主に礼拝を捧げる

 見よ,私を救われる神。 わたしは信頼して、恐れない。

 主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。

                       イザヤ書 12章2節

 
  1 栄光と賛美を すべてささげます  
        喜びの歌をもて  心からささげます

  (おりかえし)
     全ての救い主 われらの救い主
         主をほめ 賛美します  受けてください

  2 おののきと恐れを  全て委ねます
        恵みに満ちあふれて  跪き祈ります

  3 全能の父 王の王 贖い主 主よ
        永遠の命与えて  共に歩まれる主よ
 
2020年4月26日

花材    やなぎ ゼラニューム  

イエスさまの食卓
イエスは来て,パンを取って弟子達にあたえられた。

魚も同じようにされた。
                       ヨハネによる福音書21:13

 1 望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき  
                      数えてみよ 主の恵み 汝が心は 安きを得ん

  (くりかえし)
      数えよ 主の恵み  数えよ 主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ 主の恵み 

 2 主の賜いし十字架を 担いきれず沈むとき  
                        数えてみよ主の恵み つぶやきなどいかであらん

 3 世の楽しみ 富 知識  汝が心を誘うとき
                        数えてみよ主の恵み あまつ国の幸に酔わん
                                   
                                   新生讃美歌 103
            

2020年4月19日


 花材    百合  おうばい  はらん 小菊    
見なければ、わたしは信じない

 「わたしを見たから信じたのか。
 
     見ないのに信じる人は幸いである。」
   ヨハネ福音書:20ー20

  きみの賜物を すべて献げて   神のわざのため 努めいそしめ
   神は人の世に み子を与えて   きみの立つことを 待っておられる
  (くりかえし)
    きみの賜物とを 若い力を    神のみ名のためすべてささげよ
 
  3 どんな災いも 神のひとり子  イエスの十字架の 死には及ばず
     きみの罪とがを すべてゆるして 全きあがないを とげた主の死に
                         新生讃美歌 656

           
 
    
 
 
                                    
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