江波キリスト教会




    毎週礼拝を飾っているお花と 週報の巻頭言の み言葉を載せています。
  
 
   
 
 2017年  11月12日

花材    寒桜  ストック 小菊 

どうして顔をふせるのか

アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カイン
とその献げ物には目を留められなかった。
                  (創世記四・四ー五)
 
  カインもアベルも、「主によって生まれた」神さまの目に尊く、大切な存在
です。そしてそれぞれに、もっともふさわしい仕事を与えられたのです。
 神さまの恵みは、カインのもアベルにも、同じように注がれています。
 それなのに、どうして「アベルの献げ物」にだけ目を留められたのでしょう。
 
 神さまは、「アベル」、つまり、はかないもの、無価値なもの、弱いもの、小さい
ものに目を留められた、ということではないでしょうか。
 
 当時のイスラエルは、そのような小さな、弱い存在だったのです。そのイスラエル
に、わたしは、あなたたちを選んで、あなたたちと共に歩むと約束されたのです。
 
 そのことを、「アベルのささげものに目を留められる」ことで、示されたのだと思う
のです。
  
 
 
2017年  11月5日 
花材    万年青 薔薇 

いのちの息を吹き入れられて
主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
                                  (創世記二・八)
 「エデンの園(楽園、パラダイス)」に住むようになり、そこを「耕し、守りなさい」と言われたアダム。
 それは、アダムが「土」から造られたものであることを覚えると共に、植物や他の動物たちと、同様に、神さまから「いのちの息」を吹き入れられて生きるものにされて、「エデンの園」で、神さまと共に生きるものにされたということです。

 アダムは、「土」から造られたのだから、「土」から恵みをいただくものとされました。そして「土」を耕し、「土」からの恵みをいただくことを通して、神さまとの交わりに生かされて歩むものにされたのです。
 神さまが一緒にいてくださり、しかも、アダムの一番近いところにいてくださっって一緒に歩んでくださる。
それが、神さまの光に輝かされた「エデンの園」であって、アダムにとっても、人にとっても、大きな喜びで
あったのです。
 
 
 
2017年  10月29日 

花材    かや 猫じゃらし 薔薇 菊

アーメン

あなえあがたの父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。   (マタイ六・八ー九)
 
 イエスさまが教えてくださった「主の祈り」を、キリスト教会が誕生したときから、大切な「祈り」として
祈り続けてきました。
 
 「主の祈り」は、私たちの日々の生活のいたるところで、私たちが祈ることのできる「祈り」であり、
「日々の歩み」から、「主の祈り」を切り離すことはできません。
 
 私たちは、毎日の生活の中で多くの困難を覚え、ときには神さまから引き離そうとする「大きな力」に
引きずりまわされて、クタクタになることがあります。
 しかし、「死」に打ち勝って「死」に勝利されて「復活」されたイエスさまが、私たちがたとえどん底に
落ちたとしても、そこにまで一緒に来てくださって、守り続け、助けだしてくださり、再び立ち上がることができるようにしてくださるのです。
 
 そこに「神さまのみ心」が表され、「神の国」を見させていただく。私たちは、その希望の中におらせていただいて、「神の国」を経験する「恵」を与えられているのです。

 
  
2017年10月22日 
 
花材   ねこやなぎ  パイナップルリリー ドラセナ

すべてを支えてくださる主に

わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目
のある人を赦しましたように。    (マタイ六・十二)


 誰にとっても、人を赦すことは容易なことではありません。しかし、もし人を赦すことができなくて、憎しみや恨みが心に残ったまま、また、苦しみから解放されず、憎しみ続けていると
したら、人生はどんなに暗く、悲惨なことでしょう。

 その上、この祈りの言葉が、他の人の負い目を赦しますから、私の負い目も赦してください」と、他人を赦すことが自分の負い目を赦される条件だとしたら、誰がこの祈りをすることができるでしょうか。

 この祈りは、「わたしは、すでに神さまに赦されているのですから、神さまに赦されているものとして、わたしも赦すことができますように」という『祈り」なのです。

 イエスさまの十字架の死によって、無条件に赦されているのに、どうして他の人を赦すことができないのだろうか。赦さずにはいられないではないか、と言われるのです。
 
 
 
 2017年10月15日

花材   まんさく  りんどう  鳴子百合
祈ることを教えてください
 
だから、こう祈りなさい。  (マタイ 6・9)
 
 マタイによる福音書では、「あなたがたの父は、あなたがたが必要なものをご存じなのだ」と言って、主の祈りを教えられたと書いてあります。

 私たちは、自分にないものを求めて祈るのですし、祈っても祈っても聞かれないと思うと、神は、わたしたちに必要なものが何かを、ご存じないのではなかろうかと言って、嘆き、祈ることをやめるのです。また、神が必要なものを皆知っておられるのなら、何のために祈るのだろうかと思うのです。
 しかし、主は、それを信じたうえで、祈りなさいと言われるのであります。

 これは、わたしたちの常識を越えたことです。このことを考えても、祈りの世界の不思議さに、心を打たれるのであります。
祈りは、神がお求めになるものであり、また、神が与えてくださるものであります。わたしたちは、あらためて、主の弟子たちと共に、「主よ、祈ることを教えてください」と祈らざるをえません。          (竹森満佐一「主の祈り」より) 
 
 
2017年10月8日 


花材  菊 こでまり なでしこ
    
ともにいてくださる主に
 御名があがめられますように。御国ガキますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
             (マタイ 6・9−10)
   
「 主の祈り」は、祈ることだけでなく、毎日の生活の中で、「主に従って歩む』信仰の闘いでもあります。
 
 「主の祈り」を、実際に行って歩むということは、決して簡単ではありません。かえって、
祈っても「実現しない」という虚しさに襲われたり、「祈ること」すらもできない無力を、思いっきり
味わうかもしれません。

 しかし「祈り」は、聞き届けられるかどうか分からないというのではありません。私たちの祈りが、どんなに弱く、ときには迷いながら祈っても、どうにもならないと思いながら祈ったとしても、神さまに聞き届けられていることは、疑いないのです。
 「祈りは、聞き届けられる、聞き届けられている」という確信は、私たちの主である「イエス・キリスト」にあります。

 イエス・キリストにつながっていることによって、神さまは、私たち人間とつながってくださり、私たちを、イエス・キリストによって、神さまと共に生きるものにしてくださったのです。
                             
 
 
 2017年10月1日

花材  かいどう ばら ドラセナ

祈るときは

あなたがたの父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

                     (マタイ六ー九)
 
 私たちは、神さまに祈るとき、どのくらい、神さまを身近に感じているでしょうか。  
 『苦しみのとき、私を呼べ」と言われる神さまです。それほど私たちを心配し、心を痛めてくださっているのです。

 私たちが、行き詰まってしまったり、先が見えなくなったとき、「何とかしてください」と神さまに叫ぶことができる、
ようにしてくださっているのです。
私たちは、遠慮することなく、言葉を飾る必要もなく、うめき声、言葉にならない言葉をもってでも、神さまを呼び求めることが
できるのです。

 必要なものをすべてご存じの神さまを呼び求める「祈り」を、今このときにも、待っておられるのです。
私たちの「祈り、叫び」に、私たちのすべてをご存じの神さまは、もっとも良い方法で答えてくださるのです。
 
   
   
 
2017年9月24日 


花材  かいどう 菊 すすき
つながって歩む
 

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
                         (ヨハネ15・4)
 宣教開始六十年記念礼拝を感謝いたします。
 イエスさまに『つながって』歩み続けた六十年でした。私達は、これからもイエスさまにつながり、留まり続けてまいりましょう。

 復活は本当に起こったのかなど、私たちには何となく分かったようで、よく分からないこともあると思います。
それでも構わないから、イエスさまにつながっているようにと、イエスさまは言われているのです。私たちが、イエスさまにつながり続けていれば、私たちが理解できないことも、神さまが分かるようにしてくださるのです。

 イエスさまは、必死につながって生きようとする私たちを、イエスさまの方から、私たちにつながり続けてくださって、
一緒に歩んでくださるのです。
 
    
 
   
2017年5月14日

花材 ジャーマンアイリス  シンビジューム  紫蘭
わたしを通らなければ
 

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
(ヨハネ 14・6)


 この道は、イエスさまが開いてくださる道ですし、イエスさまご自身が「その道」ですから、誰もがイエスさまを通して知ることができるし、歩むことのできる道なのです。
 そして、イエスさまの「この道」を通って、私たちは父なる神さまのもとに行くことができるのです。

 イエスさまは、私たちと一緒に歩んでくださる人生の同伴者です。

 私たち一人一人に寄り添い、病いや疲れを癒し、苦しみを担ってくださり、どんなときにも一緒にいてくださるお方です。

 このイエスさまを通して、私たちは愛と恵みの神さまを知ることができるのです。
 だから私たちは、イエスさまに祈ることを通して、愛と恵みの神さまを知ることがいつもできるように、イエスさまといつも一緒にいて歩むことができるように、イエスさまにつながっていたいのです。 
 
   
2017年5月7日 

花材 シンビジューム  つつじ  ドラセナ
いのちの主
 

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
(ヨハネ 11・25)


 「あなたの兄弟は復活する」と言われた言葉に、マルタは悲しみの中にも、ラザロ終わりの日に復活して生きるのだと安心を得たのかもしれません。

 しかし、イエスさまが言われるのは、いつ来るか分からない「終わりの日の復活」ではありませんでした。復活の命は、今、私たちに与えられていると言われるのです。
 イエスさまが「復活であり、命」です。今すでに復活して新しい命に生きておられるのですから、復活は、いつ来るかわからないことではなく、「今、ここに」起こっていることなのです。

 私たちが、自分の手の中に、神さまを捉えているのではありません。神さまが、私たちを捉えてくださって、御手の中においてくださっているのです。
 その信仰に生きようとするのか、すでに復活のいのちに生かされて歩むものにされているのを信じるのかと、私たちに問うておられるのです。
 
 
   
2017年4月30日 

花材 ストレチア カーネーション  小手毬  ドラセナ
キリストと共に復活
 

あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。
(コロサイ 3・1)


 イエスさまが、十字架の死から復活されて、新しいのいのちの歩みを始められた。その復活のいのちに触れた私たちも、イエスさまと一緒に復活させられたのだ。
 「古いわたし」がキリストと共に死んで葬られ、キリストと共に復活させられた「新しいいのち」の歩み。すでに新しいいのちに生きるものにされてイエスさまと共に歩んでいる。それが、今のわたしであり、あなたであり、私たちなのです。


 そんな私たちと、神さまは、昨日も、今日も、これからも、一緒に歩んでくださり、どんなことがあっても見放すことも見捨てることもなさらないのです。


 このように、キリストと共に復活させられて、今も生きておられるイエスさまと一緒に、新しいいのちに生きるものとされている私たちなのだから、「上にあるものを求めて歩もう」と励ましているのです。

 
 
   
 2017年4月23日

花材 ストレチア カーネーション  霞草  ドラセナ
新しいいのちに生きる
 

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。                    
(ローマ 6・4)


「新しいいのちの歩み」。それは「神さまの恵みに生きる、神さまの恵みの中を歩む」ということです。

復活されたイエスさまと一緒に歩む私たちも、復活のいのちに生きておられるイエスさまと、不思議な、しかし確かな出会いをいただいて新しい歩みへと導かれていると信じて歩んでいるものです。

その確かな歩みが、イエスさまの十字架の苦しみと死を通して与えてくださった「新しいいのちの歩み」。私たちがまことのいのちをいただいて生きるために、イエスさまは十字架で死んでくださった。

そして復活されて、イエスさまご自身が新しいいのちに生きて、私たちを「神さまの恵み」の中で歩むようにしてくださり、新しいいのちに生きるものにしてくださったのです。

 
 
   
17年4月16日

花材 百合  すすき  ミリオン
あなたがたより先に
 

あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。                     
(マタイ 28・7)


イースター、おめでとうございます。


 ガリラヤは、イエスさまが、ペトロをはじめ弟子たちを最初に召し出されたところ。一緒に福音の働きを始められたところ。ペトロたちが生活し歩んだところ。これからも歩もうとしているところ。ペトロたちの日常の生活の場所です。


 そこに、「先に行って、待っている」と、イエスさまは言われるのです。
 イエスさまは、逃げ出していった弟子たちも、女性たちも、そして私たちも、誰一人、見捨てられません。
 私たちを、一人ひとりの日々の生活の場で呼んでくださり、一緒に歩もうと声をかけてくださって、日々の歩みの中で、新しい歩みを始めようとされるのです。


 そしてイエスさまと一緒に歩む私たちに、死に至るいのちではなくて、永遠に生きるいのちを与え、共に生きようと呼びかけてくださっているのです。

 
 
   
2017年4月9日 

花材 雲龍柳  薔薇  鳴子百合
他人を救ったのに
 

「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。                     
(マタイ 27・42)


 「他人を救った」ことは、イエスさまと対立する人たちも認めています。誰もが、イエスさまに癒され、救われたからです。
そうであれば、他人を救ったのだから自分自身も救えるはずだ。十字架からだって降りられるはずだ。そう叫ぶのです。


 しかしイエスさまは降りて来られない。降りようともされない。神さまのみ旨は、他人を救うことであって、自分を救うことではないからです。


 「他人を救う」というのは、その人と神さまとの関係を取り戻すということ。神さまとの関係を取り戻すことによって、私たちは、神さまにつながり、神さまと一緒に生きるものになるのです。


 もし十字架から降りて来られたら、自分こそ十字架から降りることのできるものだということを証明するだけの「十字架」になってしまいます。
そうじゃない。みんなが言うように、「他人を救うけれど、自分を救うことをしない」イエスさまなのです。
 
 
   
2017年4月2日 

花材 椿  黄梅  雪柳
激しく泣いた
 

ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。                     
(マタイ 26・75)




 弟子たちに逃げられ、ペトロに知らないと言われて、イエスさまは、完全に見捨てられ孤独になられて重い十字架を背負われました。それでもペトロや他の弟子たちと一緒に歩む。イエスさまは、その決意も込めて、十字架を背負われたのです。


 私たちは、その十字架のもとでしか立つことはできないのです。その十字架のもとに立つことで、前に歩み出す勇気と希望を与えられるのです。


 ペトロは、自分が「イエスなど知らない」と否定してしまったことを、後に多くの人々に語り、イエスさまの大きな愛を証ししました。イエスさまとペトロしか知らないことですから、ペトロが黙っていれば誰も分からなかったでしょう。
 けれどもイエスさまの大きな愛に触れたとき、人々に語らざるを得なかったのです。「こんな弱い私でも、主は、愛してくださっている。そしてわたしのために十字架に架かってくださった」。

 
 
 
2017年1月22日

花材 雪柳  オリエントリリー  ドラセナ
わたしについて来なさい
 

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
 (マタイ 4・19−20)


 「主イエスに従う」というのは、「主イエスの背中を見つめて歩む」ということです。


 「すぐに網を捨てて従った」ペトロたちだけではなく、イエスさまに従って歩もうとした他の人たちも、自分の全存在を揺り動かす「主イエスとの出会い」が起こされて、握りしめていたものを手放し、「主イエスの背中を見つめて歩むもの」にされたのです。
  

 私たちは、一人一人に与えられた日々の生活の中で、「主イエスの背中を見つめて」、主イエスと共に歩もうとしています。
「自分の生活の場」。そこが「主イエスに従う場」であり、主イエスと一緒に「福音の働きをする場」になっているのです。


 「すぐに網を捨てて」というのは、自分の生き方の中心を、「自分」から「主イエス」に置き換えること」。そして与えられた生活の場で、主イエスを真ん中において、主イエスの福音を生きるものとして歩むのです。
 
 
   
2017年1月15日

花材 老松  臘梅  千両
罪あるものとして
 

イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
(マタイ 3・16)


 イエスさまは、なぜバプテスマを受けられたのでしょう。


 イエスさまは、罪(神さまに背を向けて、自分勝手に歩んでいること)を悔い改めてバプテスマを受けようとする人々の中に、その一人として、一緒に立っておられます。

 その「罪」に気づいて、悔い改めて神さまの御手の中で共に歩みたいと願って、「罪」を告白し、神さまを第一とし、神さまと共に歩むものになってほしいとバプテスマを受けようとしてきた人たちと、一緒に立っておられます。


 その人たちと、わたしもいて、一緒に歩むのだ。あなたたちが迷い、悩むときにも、一緒に悩んで歩み、あなたと一緒に神さまに立ち直っていくのだ。決してあなたを見捨てることはない。

 それが、私たちと一緒に受けられた、「イエスさまのバプテスマ」です。だから、私たちも、イエスさまと一緒に歩むものになりたいと、バプテスマを受けるのです。
 
 
 
2017年1月8日 

花材 老松  シンビジューム  千両
夢で現れて
 

主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。」
 (マタイ 2・19−20)
  

 「暴力」で支配しようとする「ヘロデ」。それは、恐怖と闇の世界です。


 この暴力的な行為に対して、主の天使によって「夢で告げられたこと」は、「争わないこと」、「暴力から遠ざかる」ことでした。主の天使はヨセフに、「エジプトに逃げなさい」と言い、そしてヘロデが死んで、イスラエルに戻ったときも、ガリラヤに逃げなさいと、ベツレヘムから遠ざかるように言いました。


 ヨセフが、暴力に対して戦う武器は「ただ、主の言葉に従う」ことでした。「主の言葉に従う」ことだけが、ヨセフがマリアとイエスさまを守る「唯一の武器」だったのです。
 主の言葉に従い続けるヨセフの戦いによって、闇の中で、イエスさまは生き続けることができたのです。


 「主の言葉がある」ところに「神、我らと共に」の約束は、消えることはありません。

 
 
   
2017年1月1日

花材 サラシアスパラ  小菊  ユウカリ
    ヘプリカム
新しい道にふみ出して


(占星術の学者たちは)「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
 (マタイ 2・12)


  「別の道」、それは今までは違う「新しい道」。イエスさまと一緒に歩む「新しい道」です。この「新しい道」はイエスさまとの出会いから起こされました。


 
イエスさまと出会わなければ、占星術の学者たちが「新しい道」に歩み出すことはありませんでした。 律法にこだわっていたヨセフに、マリアとイエスさまと共に生きる「新しい道」を与えられました。
 罪人として蔑まれていた「羊飼いたち」。イエスさまに出会って、「救い主なんて自分たちには関係がないと思っていたこと」から「わたしのために救い主が来てくださった」と「新しい歩み」へと変えられました。


  
「イエスさまとの出会い」は、自分の考えや先入観で固まっている自分を打ち壊して、「今まで考えたこともない新しい歩み」へと導いていくのです。そして「その道」は、イエスさまと共に歩む「最高の道、最良の道」。


2017年の歩みも、イエスさまと共に歩んで参りましょう。
 
 
   
 


 
 
   
 2016年12月4日

花材 クワズイモ  ゼラニュウム
来たるべき方は
 

来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。       
(マタイ 11・3)


 ヨハネは、イエスさまが分からなくなって迷い、疑いました。
 悩み、迷い、疑う、ヨハネ。それは真剣な戦いでした。「メシア」と信じているイエスさまこそ、わたしのただ一つの希望であり、この方においてしか希望はないと信じるからこそ、いい加減には向き合うことはできなかったのです。


 だからイエスさまから逃げないで、イエスさまに「来たるべき方は、あなたですか」と向かって行ったのです。

 「良かった。真剣に悩んで、わたしにぶつかって来た。あなたは、わたしから逃げなかった。他の人のところに行こうと思わないで、わたしのところに来た。良かった」。


 「来たるべき方」は、主イエス。


 だから、イエスさま以外のところに、私たちは行かなくてよいのです。他の方を待たなくてよいし、他の方のところに行かなくてよいのです。
 
 
   
2016年11月27日 

花材 梅  菊  日
主の光の中を歩もう
 

ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。                      
(イザヤ書  2・5)


 主イエスのご降誕を待ち望む「待降節」を迎えました。


 イザヤは、待降節を迎える私たちに、「主の光の中を歩もう」と、励まし勧めています。
 預言者イザヤは、その当時、「主に見捨てられた」と絶望し、「主なる神の光の中」を歩もうとしないユダヤの民に、「主に立ち返り、主の光の中を歩もう」と励ましたのです。


 「主の光」は輝いている。あなたたちの足元は確かに照らされている。見えないものはない。光に照らされた主に従って歩むものの「足」がはっきり見えるはずだ。そこに主は共におられる。見捨ててはおられない。突き放してはおられない。これまでも、あなたたちに寄り添い続け、ときには背負って歩まれて来られたではないか。だから主に立ち返って、主と共に「主の光の中を歩もう」と。


 クリスマスは、私たちが人間本来の姿を取り戻し、主の光を見失わないように、神の子イエスが、私たちと一緒に歩もうと望まれて来てくださった「喜びの日」なのです。
 
 
   
2016年9月18日 

花材 梅  菊  日陰
知れ、主こそ神
 

感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。
(詩編 100・4)


 神さまの恵み、慈しみ、愛は、何ら変わることなく、動かされることはありません。この変わることのない、無限の神さまの愛と恵みの上に、私たちの信仰の希望がすえられ、いのちの営みが続いているのです。


 私たちは、ただ神さまの憐れみによって、神さまの愛の御手の中に捕らえられ、その御手の中で生きるものとされているのです。


 そして、この喜びの叫びは、うれしいときだけでなく、苦しいとき、悩みのとき、沈黙のときにも、いいえ、そのときにこそ、神さまによって「喜びの叫び」に変えていただく。それが「礼拝」です。


 神さまは、私たちと一緒にいると約束してくださって、心配しないで、安心して、期待して「喜び歌って、神さまの前に来なさい」、「賛美の歌を歌って、主の庭に入っていきなさい」と呼びかけておられるのです。
 
 
2016年9月11日 

花材 縞かま  バラ  ドラセナ
キリストを住まわせ
 

信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
(エフェソ 3・17)


 「キリストが住んでくださる」というのは、キリストが、わたしの心のうちに住み着いてくださるほど、キリストによって生きるということです。
 

 しかし、私たちは、「キリストが住んでくださっている」という実感はほとんどありませんし、気がつきません。


 私たちは、わたしのうちに住んでくださっているキリストとわたしとが、わたしの中で、いつもせめぎ合いをし、イエスさまを隅っこの方に追いやって、「構わないでください」と言って歩んでいるのではないかと思うのです。


 そんな私たちに、神さまが、神さまにお任せし、神さまと共に歩む「信仰」に生きるようにと、私たちのうちに「キリストを住まわせて」くださった。そして私たちが、神さまの愛に根差し、神さまの愛を真ん中にして生活できるように、私たちと一緒に歩もうとされているのです。
 
2016年9月4日

花材 実椿  クルクマ  ポリポリュウム
仮住まいの身
 

愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
(第一ペトロ 2・11)


 「仮住まいの身」。それは、この世の歩みにおいて主と共に歩む私たちの姿です。この世に歩んでいながら、この世の人たちとは違う生き方をする。だから生きにくくなることもあるけれど、そこに神さまの恵みがあり、喜びがあるのです。


 しかしこの世の荒波に翻弄される中で、ときには「自分の帰っていくところを見失うこと」も起こってきます。だから私たちの戦いは、自分の帰るところを見失わせようとするものとの戦いだと言えます。


 しかし戦いは、主イエスと共に歩む戦いです。だから自分の力だけで戦う必要はないし、主イエスによって与えられる力で戦うことができるのです。しかも戦いが大きくて手に負えないときは私たちに代わって主イエスご自身が戦ってくださるのです。


 主イエスを信じ、主にお任せして、この世の歩みに立つ。それが私たちの「信仰」です。

 
2016年8月28日

花材 ずいき  ねこじゃらし  菊
共に座る喜び
 

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
(詩編133:1)


 主が共におられる祝福の場「礼拝」に招かれて、主の前に共に座り、主の食卓を共に囲む恵み。主の日の礼拝は、その喜びの場。「なんという恵み、なんという喜び」。


 今日は、北ブロックの「交換講壇」です。牧師がそれぞれ所属の教会を離れて礼拝を守ります。江波教会には、広島教会の播磨聡先生が来てくださいました。心から感謝いたします。宮井牧師は、松江教会です。


 交換講壇は、中国・四国バプテスト教会連合の北ブロックの教会間の交わりの一つの働きです。牧師が他の教会に遣わされ、遣わされた教会で、共に主に礼拝を献げ、主を賛美する。そしてその教会の様子を伺い、課題を共有し、祈りを共にし、私たちの祈りの課題にしていく。


 そうすることで、互いに祈り合い、励まし合う「信仰の友」が、江波にも、主にある他の教会にもおられて、苦闘しながらも、主の恵みのうちに歩んでおられることを覚え、主の業に共に励むものになりたいからです。
 
2016年8月21日

花材 菊三種
心から主をほめ歌う
 

むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
(エフェソ 5・18―19)


 「聖霊に満たされ、神さまを賛美し、ほめ歌う」のは、日曜日の「礼拝」だけではありません。しかし「主日礼拝」から始まるのです。


 「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合う」。私たちは詩編も賛歌も霊的な歌も、神さまに向かって歌います。目を閉じて祈るのも、神さまに向かって祈ります。
 「礼拝」に集い、心からの賛美の歌をもって賛美し、心を込めて祈る。神さまからのみ言葉を聞いて、そのみ言葉に応答する。そのことによって私たちは、「神さまと語り合って」いるのです。


 神さまと語り合う私たち一人一人が、神さまの祝福に満たされて、互いに祈り合い、励まし合い、支え合うものにされて、喜びに満たされる。
 そしてそこから日々の生活の場に遣わされて、そこでも主を賛美する。「主日礼拝」から押し出されていく日々の歩み。そのすべてが主を賛美する「礼拝」です。
 
2016年8月14日

花材 万作  菊  女郎花
これを聞いたものは
 

彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
(ヨハネ 8・7)


 イエスさまの言葉を聞いて、沈黙が支配しました。「沈黙」。それは一人一人が神さまと向き合わせられ、自分の罪を問われるときです。自分の罪に気がついたとき、年長者から一人また一人と立ち去りました。


 しかし彼らは、イエスさまと向かい合うチャンスも捨ててしまったのです。とても残念なことです。イエスさまと向かい合おうとしない律法学者やファリサイ派の人たちは、姦通を犯した女の人とも向き合うことはありませんでした。


 この女の人の苦しみ、痛みに気づかないまま、その場から離れてしまったのです。罪を犯さなければならないほどの自分の人生に対する苦しみ、悩み、恥ずかしさを抱えて、それでもなお生きなければならない「女の人」。


 その女の人の苦しみ、痛みに、気づいてほしかった。そうイエスさまは思われているのではないでしょうか。
 
2016年8月7日

花材  まゆみ  ゆり  なつはぜ
あなたもガリラヤ出身なのか
 

彼ら(祭司長たちやファリサイ派の人々)は答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
(ヨハネ 7・52)


 ガリラヤからは、メシア、救い主は生まれない。ガリラヤのナザレで育ったイエスはメシアではない。それをメシアなどと言って人々を惑わすのは、神に呪われたものだ。
 祭司長たちは、そのようにしてイエスさまにレッテルを張り、そこから抜け出せないのです。だからイエスさまを「敵」としか見ようとしないし、イエスさまに会って聞こうともしない。


 ニコデモは「まず本人から聞いて」と言いました。私もイエスさまから聞いた。そして分かった。あなたたちも本人から聞けば分かるはずだ。


 現在でも、自分で張ったレッテルに縛られて、身動きできないでいることが、世界中で起こっています。私たちも、レッテルを張ってしまう危険をいつも持っています。主イエスと顔を合わせ、聞くことから新しい歩みが始まるのです。
 
2016年7月31日 

花材  葉牡丹  ゼラニューム
わたしたちの信仰
 

神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
(第一ヨハネ 5・4)
  

 「世に打ち勝つ」とは、この世を否定し、この世と縁を切ることではありませんし、力で押さえつけて支配することでもありません。


 この世の楽しみや喜びがあることを認めながら、それ以上の喜び溢れる「大いなる方」を知った。だからこの方に聴き、この方に委ねて、この方と一緒に歩むものにされることです。


 イエスさまがこの世におられるように、私たちも主イエスと一緒にこの世に立ち続けるのです。
 イエス・キリストを信じる信仰を持って生きること自体が、すでに「この世の力に打ち勝っている」と言えるのです。


 さまざまな誘惑の中にあって、今も生きておられる主イエスと共に生きる。人生の中心を主イエスに重ねて生きる。そのようにしてイエスさまと共に歩むものとされるのです。
 
2016年7月24日

花材 デンカデンドロ  ポリポリュウム  菊
引き寄せてくださる主
 

わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。
(ヨハネ 6・44)
  

 「イエスを、わたしの主、救い主」と受け入れるのは、簡単なことではありません。目の前にあることにしか目を向けられず、疑いと不安に心乱される私たち。そうでありながら、その不安を自分で取り除くこともできない私たちです。


 だから「父なる神ご自身が、引き寄せてくださらなければ」とイエスさまは言われるのです。
 神さまの方から、私たちを引き寄せてくださらなければ、私たちは「信仰の目」を開くことはできないし、本当のことを見抜くことは難しいのです。


 信仰は、人の力、人の業によらないのです。
 実
に、「イエスを、主、救い主」と信じることは、神さまがなさることです。そのようにして私たちは、イエスさまと向かい合うことができ、イエスさまとの生きた出会いが起こされていくのです。
 そして、分かるのです。主イエスの十字架の愛が見えてくるのです。
 
2016年7月17日 

花材 ひまわり  ニュウサイラン  かすみ草
その兄弟のためにも
 

食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。
(ローマ 14・15)
  

 「裁く(13節)」というのは、自分の都合のいいように「分ける」ことであり、自分の側にないものを「切り捨てる」ことにつながります。
 実は、私たちの日々の歩みの中では「分ける」ことがとても多いのです。自分の価値判断に従って、「分ける、選ぶ、批評する」。そして「裁き、切り捨てる」。


 その基準は、いつも自分が正しい。相手が間違っているという基準。


 しかし、分け隔てて切り捨てた人のためにも、キリストは、わたしと同じように、十字架にかかって死んでくださった。
 神さまの愛は、わたしに注がれていると同じように、その人にも注がれている。その人も「神の愛」に生かされている一人。わたしと同じです。


 私たちは、「分け隔てする」ことから、キリストと共に歩み、その人と共に歩む歩みに踏み出していきたいものです。
 その気づきを与えてくれるのが「教会の交わり」です。
 
2016年7月10日

花材 紅葉  萱  リンドウ
恐れることはない
 

イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。
(ヨハネ 6・20―21)
  

 イエスさまは、「わたしは命のパンである」「わたしは、道であり、真理であり、命である」と言われますが、いずれも「わたしである」と主イエスご自身を指し示す言葉です。

 そのように言われるイエスさまが「わたしだ、恐れることはない」と言ってくださるのです。


 この言葉を聞いて弟子たちは、イエスさまを自分たちの「舟」に、迎え入れようとしました。
 イエスさまだから当たり前のことと思われますが、単に「舟」に乗せるというだけでなく、弟子たちは、「わたしだ、恐れることはない」という言葉に「イエスさまこそ、まことの主」、「私たちの恐れを取り除いてくださるお方」、その信仰に導かれたのではないでしょうか。


 そして、舟に迎え入れるように、イエスさまを、信仰を持って、わたしの中に、迎え入れようとしたのです。

 
2016年7月3日

花材 芋茎  紫陽花
主からの希望をいただいて
 

正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
(使徒言行録 24・15)
  

 パウロは、ただイエス・キリストに自分を置いて、イエス・キリストと共に歩むものであることを明らかにしました。
 それは、イエス・キリストに、人生の生き方、根拠を置くことによって、苦しみ、悲しみ、苦難、悩みなどの中にあっても「生き抜く希望」が与えられると確信したからです。
 

 パウロが立ち続けることができるのは、「神さまに対する確かな希望」です。その希望を、イエス・キリストの「復活」に見出しました。
 私たちは、復活のいのちに生きるイエスさまに、日々出会い、復活のいのちに触れさせていただいています。そして、日々新しいいのちに生きるものにされて歩むことができる、その希望をいただいているのです。
 
2016年6月26日 

花材 琵琶  クサギ 
起きなさい
 

ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。
(使徒言行録 9・40)
  

 ペトロの祈りは、ただペトロ一人の祈りではありませんでした。ヤッファの教会のすべての人の祈りが、ペトロの祈りの背後にあったのです。


 ペトロが、横たわるタビタの傍らで、ひざまずいて祈っているとき、みんなも一緒に、「教会の交わり」を備えてくださった「イエスさま」に、自分の全身を重ね合わせるように、心を合わせて、ひたすら祈ったに違いありません。


 祈るペトロを、そしてヤッファの教会の人々を、聖霊が励まし続けた。聖霊の励ましをいただいて、ひたすら祈った。そこに、聖霊が働かれて「タビタ、起きなさい」の言葉になったのです。


 みんなの祈りが一つになって、ペトロは「イエスさまの言葉」を受けて、タビタに言いました。そこに私たちの想像を超えた「主の出来事」が起こったのです。
 
2016年6月19日 

花材 銀香梅  オリエントリリー  ロベ
成長させてくださるのは
 

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
(Tコリント 3・6)
  

 神さまの御旨が示されて、私たちは教会の働きを共に担って歩んでいます。しかし実際に働いてくださるのは神さまご自身です。
 「パウロがまいた種」が芽を出し、茎が伸び、葉がついて、大きくなった。それは神さまがなさったこと。
 コリントの教会も私たちの教会も、福音の言葉にしっかりと根を張って、主にある信仰に生きる教会に育ててくださっているのは神さまです。


 もちろん植える者も水を注ぐ者も必要です。


 教会は、「神の畑」。神さまが耕され、成長を与えてくださる畑です。そこにパウロが、「種」を植え、アポロが「水」を注いだのです。
 イエス・キリストの教会は、「主と共に働く神の畑」。神さまに招かれた一人一人が、与えられた賜物を生かして共に働く「神の畑」なのです。
 
2016年6月12日

花材 黄百合 紫陽花  鳴子百合
ともに建てられ
 

キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
(エフェソ 2・22)
  

 教会は、イエス・キリストを「かなめ石、中心」として立てられ、キリストにおいて、キリストの愛と恵みのなかで、共に固く組み合わされて建てられています。
 そして新しくされて神さまの前に立ち、「礼拝」を献げるもの、神さまの栄光を輝かせるものとされたのです。


 江波教会も、イエス・キリストを「かなめ石」として、共に組み合わされて「キリストの教会」として建てられ、神さまを礼拝し、神さまの栄光を輝かせるものとしてくださっています。


 一人一人は、キリストの教会をかたち造る「一人」。しかも誰も欠けてはならない「一人」。必要とされている「一人」。イエス・キリストと一緒に生きる「一人」です。
 私たちは、キリストの十字架の血によって新しくされて、イエス・キリストを主と礼拝する「キリストの教会」に集い合うものにされているのです。
 
2016年6月5日

花材 かきつばた
あの方は栄え
 

あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。                          
(ヨハネ 3・30)


 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という告白は、「イエスを主、救い主」との告白です。
 なぜ、あの方は栄えなければならないのか。すべての人の救いのために十字架を背負われるイエスが、神の愛を実現するために立てられ、神さまのもとから遣わされたからです。


 ヨハネは、神さまの恵みを受けて、この「福音」を伝えるものとして立てられました。「イエスこそ主」を指し示す働きが自分の働き。その働きが終われば次の人が同じように「イエスは主」を指し示していく。だから「あの方、イエスこそ栄えなければならない」。そうしなければ「わたしの働き、主イエスを指し示す働き」は神の愛を指し示したことにはならない。そう理解していたのです。


 イエス・キリストの教会が、ただ主イエスを指し示すことにおいてのみキリストの教会であり続ける。イエス・キリストを指し示すことによって私たちの日々の歩みが豊かにされていくのです。

 
2016年5月29日 

花材 アリアムギガンジューム  バラ  
主の名を呼び求めるものは
 

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。                          
(ローマ 10・9)


 私たちは、「口」と「心」が、いつも同じ方向を向いているとは限りません。ときには、心で思っていることと違うことを言ってしまうこともあります。

 「信じます」と口で言ったけれど実は死者の復活ということはよく分からない。あのときは信じたと思ったけれど分からなくなってしまったということもあると思います。


 「イエスを主」と信じることは、自分の生活のあらゆる場面で、イエスさまを、私の主として迎え入れるということです。それは、復活はよく分からないけれど、イエスさまが一緒に歩んでくださっている、ここにおられる。そう信じて、イエスさまと一緒に歩もうとすることです。


 だから、「イエスさまが、どんなことがあっても、わたしといつも一緒にいてくださる」と信じて告白すればよいのです。
 
 2016年5月22日

花材 さんきらい  ロベ  ダリア
神から召され
 

信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。                          
(テモテT 6・12)
  

 私たちに与えられる「永遠のいのち」は、私たちの努力で獲得するものではありませんし、どんなに努力しても獲得することはできません。ただ「神さまの恵み」によるのです。
 主イエスにとどまり続け、「イエスを主」と告白し続ける信仰に生きるほかないのです。


 テモテは、パウロや多くの信仰の友の前で、そして神さまの前で、はっきり「イエスは主、私の救い主」と告白しました。
その告白は、主イエスがピラトの前で「ただ、主なる神のみが崇められるべきお方だ」と告白して十字架の死を受け入れられたのと同じ告白。その告白を「テモテよ、あなたはしたのだ」。
 だから「イエスを主」と告白し続ける信仰に生きて、ただ主イエスに従い、委ねて歩むことではないかと、パウロはテモテに語っているのです。
 
 2016年5月15日
花材 バラ  ギボシ  ゼラニューム  ムクゲ 
花材 花菖蒲  いぼた  ナデシコ
聖霊が私たちと共に
 

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。                          
(ヨハネ 14・16)


 今日は「聖霊降臨日礼拝」、そして先に天に召された信仰の先輩とともに礼拝を献げる「召天者記念礼拝」です。
 

 江波教会の歩みは、「別の弁護者であり、真理の霊」である「聖霊」と共に歩む確かな歩みでした。時には意見の違いがあり、大きな試練を受けたときにも確かに「聖霊」はおられました。


 そして私たちを導いてくださって「主の日の礼拝」を休むことなく与えてくださったのです。「礼拝」が毎週日曜日「週の初めの日」に献げ続けて来られたことは、当たり前のことではありません。神さまの大きな恵み、聖霊の豊かな導きです。 


 その中に、神の言葉を聞こうと祈り、苦闘してこられた信仰の先輩がおられました。私たちは、信仰の先輩の歩みを覚えつつ、なお信仰を確かにして、主から与えられる喜びも、苦しみも、併せて恵みとして受けて、主イエスに留まり続け、共に歩みたいと願っています。
 
2016年5月8日 

花材 しゃくやく
霊が吹き込まれると
 

枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。                          
(エゼキエル 37・5)


 「枯れた骨」。それは神さまを見失い、生きる望みを失った人生。生きる目的を見失った歩み。その「枯れた骨」に「いのちの霊」が吹き込まれると、動かなかった「骨」が動き出す。
 絶望の中にあって、もう何もできない。何をしても無駄だ、何もする気が起らない。そこに「いのちの霊」が吹き込まれる。すると「枯れた骨」が「動き出す」。


 そして「音がする」。最初はかすかな「音」かもしれない。しかしその音があちらこちらで起こり、「音」は大きくなる。だれも止められなくなる。そこに主が共におられるからだ。そうして立ち上がる力を与えられて、自分の足で立ち上がることができるようになる。
 

「主の言葉を聞く」。主の言葉を聞いて主と共に歩むとき、そこに「いのちの霊」が吹き込まれて、私たちは生き生きとした「いのち」あるものに変えられ、生かされるのです。
 
2016年5月1日 

花材 ジャアーマンアイリス  つつじ  
聖霊が助けてくださる
 

 “霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。                          
(ローマ 8・26)
  

  「祈る」ということは、「神を礼拝する」ことです。祈りは、神さまのみ旨を聴くこと。私たちが神さまとどのように一緒に歩むのかを神さまに聴くことですから、そこに神さまとの向かい合いが起こされ、礼拝が起こされます。


 しかし、神さまに聴こうと願いながら、どう祈ったらよいか分からない私に、聖霊ご自身が、言い尽くせないうめきをもって、神さまと私の間に立って執り成してくださるのです。
 それが、聖霊の「執り成し」。「執り成す」とは、「私たちを神さまの前に引き出す」ということ。


 祈っているけれど神さまと向かい合っていない。他のことを考えている。祈りが聞かれないとあきらめようとしている。
そういう私たちを、神さまの前から離れないように、あきらめずに祈るように、聖霊ご自身が執り成してくださるのです。
 
 2016年4月24日

花材 しゃくやく  藤  しゃが
私を愛しているか
 

イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。                          
(ヨハネ 21・15)


 「わたしを愛しているか」とイエスさまはペトロに言われました。「わたしはあなたをこの上なく愛している。私の愛を受けなさい。日々新たに私の愛を受けなさい。そして私と一緒に生きてほしい」そのように言われているのです。
 

 ペトロは、イエスさまを裏切ってしまった。イエスさまの愛を踏みにじってしまった。自分はもうイエスさまに愛されるに値しない。後悔しても後悔しきれない。そんな思いだったでしょう。


 しかしそのペトロのすべてをご存じのイエスさまは、ペトロを責めることをなさらず、「わたしを愛しているか、わたしの愛を受け入れてほしい」と言われたのです。


 「わたしを愛しているか」。それは、私たち一人一人が、イエスさまの愛の中で、神さまの愛の中で、イエスさまと共に生きるものになるようにとの、イエスさまの心を引き裂くような祈りなのです。
 
 2016年4月17日

花材 いちはつ  菊  小菊 
聖霊を受けなさい
 

(イエスは)そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。             (ヨハネ 20・22)


 私たちは「聖霊を受けて」ここに呼び集められ、主イエスを信じる信仰をもって主を礼拝する者にされています。そして聖霊を受けて、聖霊の導きをいただいて毎日を歩んでいるのです。
 

 この世に遣わされるのは、いわば「狼の中に小羊を送るようなもの」。それほどに大きな力が私たちの周りを取り囲んでいます。私たちを身動きできないほどにがんじがらめにしてしまい、大きな力に飲み込まれてしまいそうです。
  そんな大きな力の中に遣わされるのですから、主イエスは、支え、助け、守るために、私たちに「聖霊を送ってくださる」と約束されたのです。


 「聖霊」は、私たちに、「いのちを与える力」。私たちが、どんなときも、どこにいても、生き生きとして生きることができるように、いのちの息を吹き入れてくださるのです。
 
2016年4月10日 

花材  サンゴミズキ  アザミ  つつじ
光の子として歩む
 

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。。                          
(エフェソ 5・8)


 「光の子として歩む」。それは「イエス・キリストの光を身に着けて歩む」ということです。
 キリストの光を身に着けるのですから、何よりもまずキリストの言葉、神の言葉に聴くことから始まります。キリストの福音をまず私たちが受けることから始まります。


 受けた福音を、江波教会を通して、あるいはそれぞれに派遣されている生活の場で共に分かち合う。福音を分かち合う喜びを、教会の中においても外においても嬉しくいただくのです。


 また、「光の子として歩む」というのは「主の光を受けて主イエスに輝かされて生きる」ということです。
 「主イエスの光に輝かされて歩む」のですから、私たちはイエス・キリストの光を受ければ良いのです。主イエスにお任せすれば良いのです。主イエスが私たちのうちに働いて、私たちを「光」として輝くようにしてくださるのです。
 
2016年4月3日 

花材  琵琶  あおい
光について証しする
 

彼(ヨハネ)は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。                       
 (ヨハネ 1・7)


 ヨハネは、自分が光ではないことを知っています。自分を指さして、「わたしが光だ」とは言いません。イエスさまを指さして、「この方こそ、まことの光」だと証しするのです。


 私たちは、自分が「光」になるのではありませんし、自分で光る必要もないし、自分で光らなくても良いのです。
 主イエスの「光」、「まことの光」を受けて、私たちは、まことの光に照らし出されて、イエス・キリストの光で輝くものにされるのです。


 それは「イエス・キリストの光を着る、身にまとう」ということ。 
 イエス・キリストを身にまとうことで、ときには人に苦しめられ、誤解され、疎外されることも起こるかもしれません。しかし十字架を背負われたイエス・キリストが共に歩んでくださる。共に苦しんでくださる中で、主とともに歩む祈りが起こされ、主を証しするものにされていくのです。
 
2016年3月27日 

花材  葉牡丹  椿  パンジー  ヒヤシンス  
マリアと言われると
 

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。・・イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」
(ヨハネ 20・16―17)


 マリアは、愛するイエスさまを失った悲しみ、むなしさで座り込んでいました。イエスさまの死にとらわれたままのマリアの姿です。


 しかし、ここから、向きを変えなければなりません。イエスさまは、すでに復活された。死のままのイエスさまではない。死のままのイエスさまにとどまっている限り何も変わらない。復活されたイエスさまが目の前に立っておられる。そのイエスさまを見なければ、何も変わらないのです。


 もはや支配しているのは「死」ではありません。「いのち」です。「いのちの喜び」です。


 「マリア」と呼びかけられたイエスさまに「ラボニ」と答える。それは「死」から「いのち」への転換を表す言葉。そして復活されたイエスさまと共に歩む「信仰」の応答です。
 
2016年3月20日 

花材  黄梅  椿 
成し遂げられた
 

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
(ヨハネ 19・30)


 「成し遂げられた」、それは「終わった」という意味です。しかしこの「終わり」という言葉は、「すべての終わり」という意味と、「目的を遂げた、成就した」という意味が重なっています。
 イエスさまの十字架の時、何が終わり、そして終わりによって何が実現し始まっているというのでしょうか。


 「終わり」それは、わたしたちから見れば生涯のすべての終わりでしょうが、神さまの目から見ると目的の成就であって終わりではないのです。
 「終わり」から始まる「確かな真実、新しい命の始まり」に目を向けるようにと導かれているのです。


 イエスさまの十字架の死は確かに起こった「終わりのとき」です。しかしその「終わりのとき」は、復活へと導かれる「新しい命の始まりのとき」なのです。
 「成し遂げられた」という言葉は、十字架を通して「新しい命」へと導かれる希望へとつながっているのです。
 
 2016年3月13日

花材 アイリス  こでまり  鳴子百合  
わたしである
 

イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
(ヨハネ 18・11)


  「杯」とは何でしょう。本来ならばイエスさまが受ける必要のないもの。かえって私たちが受けるべきもの。私たちの罪のゆえにもたらされた主イエスの苦しみ、そして死。ペトロに代わって、私たちに代わって、受けてくださった「杯」。

 その「杯」を、「わたしである」と言われたイエスさまが引き受けてくださった。そしてわたしたちを罪の縛りから解放し、救いへと導いてくださった。


 「救い」は武力や力では実現しません。何の解決にもなりません。神さまの意志、計画に従って歩むこと、イエスさまは、ただそのことに従い通されるのです。


 危険の中で神さまの意志に従うには、剣をもって戦おうとしたペトロ以上の勇気が必要です。
 イエスさまが示された勇気は、剣で敵に立ち向かう暴力の勇気ではなく、神さまの意志に従う勇気なのです。
 
 2016年3月6日

花材  こでまり  カーネーション  麦 
主とともに


マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。                       
(ヨハネ 12・3)


 「油を注ぐ」というのは、その方を「王」として認める、立てるということです。ダビデもソロモンも「油注がれて」王として立てられました。


 マリアは、「ともにいてくださるイエスさまと一緒にいたい」。もしかしたらイエスさまは捕らえられるかもしれない。それでも一緒にいたい。そんな思いだったでしょう。


 それが「油を注ぐ」ことによって、マリアは「イエスこそ主、王」と信仰を言い表した。死を覚悟された「イエスと共に生きる」ことを喜びとして「主とともに生きる」ことを表わした。そう言えるのではないでしょうか。
 マリアは、イエスさまの足に香油を塗り、自分の髪でぬぐうことを通して「イエスと共にいる」ことにとどまり続ける決心をしたのです。
 
2016年2月28日 

花材  バンブー  アイリス  クリスマスローズ 
     芽出し紫陽花  シンビジューム  椿  
実にひどい話だ
 

シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。                      
 (ヨハネ 6・67)


 「実にひどい話だ」と、多くの弟子たちが去って行った後に、イエスさまは、十二人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。ペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と、イエスさまに従って歩む決意を表しました。
 残ったのは、わずか十二人。


 あなたから離れて生きることはできない。あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられる方なのだからと告白したペトロ。しかしそのペトロも、ユダも、他のものも、イエスさまの十字架を前にしてイエスさまを捨てて逃げ出しました。一人一人、ナイフで切り裂かれるようにイエスさまから切り離されて行ったのです。


 しかしそんな十二人に、イエスさまは、主の言葉を思い起こさせて、いのちを与える「神の言葉」を受けて、主に立ち返って主の言葉にとどまり続けて生きるようにと、ユダの足も、ペトロの足も、他の弟子たちの足も、洗われたのです。
 
2016年2月21日 

花材  桜  れんぎょう アイリス 
わたしがそうなのです
 

 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
(ヨハネ 9・9)


 私たちが、自分の経験にとどまる限り、イエス・キリストも自分の経験や知識の範囲内でしか見えません。しかしイエス・キリストとの出会いは、自分の経験や知識を超えて、私たちに迫ってきます。


 弟子たちは、自分の経験や過去にこだわって、「目の見えないのは、誰が罪を犯したからですか、本人ですか、それとも両親ですか」とイエスさまに尋ねました。目が見えないのは罪の結果であり、どうにもならないことだと思っていたからです。

 しかし「神の業」は過去のことではなくて、これから起こる「新しい出来事」です。
 この人は、自分の身に起こった新しい出来事に「わたしがそうなのです」と言い表して、主の出来事に立ち続けました。


 「信仰」は、自分の身に起こったイエス・キリストの出来事に立ち続けることですし、立ち続けることが「証し」になるのです。
 
2016年2月14日 

花材  川柳 椿 ぜんまい わら 菜の花
聖霊に導かれて
 

イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
(マタイ 4・1)


 私たちは、たえず「悪魔(私たちを神さまから引き離そうとする大きな力)の誘惑」にさらされていますし、巧妙な悪魔と闘いうる者は誰もいないといってよいでしょう。


 しかし、神さまの願いは人が人として豊かな人生を送ることができるようにされることです。そのために神さまはイエスさまを荒れ野で悪魔と闘せられました。
 それは、いわばイエスさまが私たちと悪魔の間に「盾」となって私たちを守ることを決意され、血みどろの戦いをされたということです。


 日々の生活の中で、悪魔の誘惑に遭うとき、荒れ野で悪魔と闘って勝利されたイエスさまが、私たちと一緒におられる。そして私たちが神さまから引き離されないように、悪魔の誘惑に遭わないように、「退け、サタン」と叫んで闘ってくださっているのです。
 
2016年2月7日

花材  桃  菊  ゴッドセフィアーナ
強めてくださる方のお陰で
 

 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
(フィリピ 4・13)


 パウロの信仰は、ただイエス・キリスト。しかも十字架につけられ、その十字架の死から復活されたイエス・キリストのみでした。
 私たちの信仰は、この十字架の苦しみを受け、そして復活されたイエスをわたしの生き方の中心において歩む決断です。


 パウロは、多くの苦しみのなかでも主ご自身が自分の中で働いておられる、その確信の中で「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」と言い切れたのです。
 「何もかも、すべて、主にお任せして歩む」。パウロの「100%主イエスに信頼し委ねた歩み」を聞き取ることができます。


 私たちは、それぞれの生活の場で、主を証しするものとして、派遣されて行きます。でも証しできない時もあるでしょう。
 しかし、その場に身を置いている、立っている。そこで生かされて生活している。そのことがすでに証しになっているという「恵み」を感謝したいと思います。
 
 2016年1月31日

花材  木瓜  こでまり  菊
良くなりたいか
 

 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
(ヨハネ 5・8―9)


 「良くなりたいか」と言われたイエスさまは、その人を憐れに思われ「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と声をかけられました。するとこの人は、すぐに良くなって床を担いで歩き出しました。
 

 しかし床を担いで歩いたのが安息日だったというので問題が起こりました。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法で許されていない」。この人は言い訳をしました。わたしは、ただ言われるままにしただけだ。何も悪いことはしていない。


 「床を担いで歩きなさい」と言われたのは、安息日にしてはいけないことをしたことでした。


 今までの「38年の病気に縛られた歩み」から「新しい命の歩み」へと、踏み出すための一歩、それが「床を担いで歩くこと」。安息日は新しい歩みへと踏み出すための「大切な日」なのです。

 
 2016年1月24日

花材  木瓜  菜の花  日陰
主の言葉にとどまる
 

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」
(ヨハネ 8・31)


 「主の言葉にとどまる」ということは、主イエスに自分を明け渡すことから始まります。明け渡すことなしにとどまり続けることはできません。


 しかし私たちは、明け渡してしまったら「自分」が無くなってしまう、そう考えて自分にとどまり続けているのではないでしょうか。
 そうして自分にとどまり続けることで、自分を守るためにたくさんの「よろい」を身に着けてしまって、「自分であり続けているつもり」になって、実は、ぎごちなく歩いているのではないでしょうか。


 「主の言葉にとどまり続ける」というのは、重い「よろい」を取り外して「自由」になり「自分らしくなる」こと。「主の言葉を身にまとい、主の言葉にとどまる」ことで「自分を自分らしく生かす」ことになるのです。

 
 2016年1月17日

花材  きいちご  バラ  ドラセナ
恵みによって
 

 わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされました。
(ガラテヤ 1・15ー16)
  

 神さまがパウロを「主の恵み」によって主の働きに立ててくださった。だからパウロの働きは「人によるのではない」。まして自分の思いや力ではない。主が導き、主の後に続いて歩んでいるだけだ。パウロは「主の恵み」によって主を証しし、主の福音を宣べ伝えていると確信しているのです。


 私たちの「証し」も、主ご自身が働き、主ご自身が導いてくださるのです。だから主にお任せして主と共に「証し」すればよいのです。


 私たちの「証し」はパウロのように大きな働きではない。パウロのようにはできないと思うこともあります。
 しかし、私たちも、パウロやペトロと同じように「主の恵み」によって、それぞれの生活の場で、主と共に主を証しするものとして立てられているのです。
 
2016年1月10日 

花材  若松  菊  金銀柳  シ―ファン  ダチョウの羽根
御子のうちに宿らせ
 

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせられました。         
(コロサイ 1・19)


 「満ち溢れるもの」、それは「神さまの愛と恵み」です。


 神さまの愛と恵みが、御子イエスに注がれることによって、イエスさまは十字架を背負う力を与えられ、十字架を通して私たちの罪を引き受け、神さまと和解して私たちに「平和」を与えられました。


 ところが私たちは、そのように和解してくださる神さまに背を向けて離れてしまおうとします。神さまから引き離そうとする力に負けてしまうことがあるからです。


 しかし私たちが神さまから引き離されないように、神の愛と恵みに満ちた御子イエスは、罪のからだのままの私たちを、そのままで、御手の中に受け入れてくださったのです。
 そして、私たちがこの世の荒波の中にあっても、いのち豊かに歩むことができるように、私たち一人一人に寄り添い歩んでくださっているのです。
 
2016年1月3日 

花材  若松  木瓜  ポンポン菊  金銀柳
時が満ちると、神は
 

時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。    
(ガラテヤ 4・3)

主の年2016年、おめでとうございます。


 「時(とき)」というのは、神さまのとき、神さまが良しとされるときのこと。


 だから「時が満ちる」というのは、神さまが、罪の真っ只中で苦しみあえいでいる私たち人間を神の国に入るものとして救い出すときが来た。そのために神の独り子を罪の真っ只中に送るときが来た。そう決意されて独り子をこの世に送ってくださったということ。


 しかも神のかたちのままではなく、人間のすがたをとって、私たち人間と同じ姿になって人として歩む者として来られた。そして私たちと共に生きられ、私たちと同じように生活され、苦しみ、悲しみ、喜びを共にされ、その歩みを通して、私たちに「神の国の福音」を告げ知らせ、神の国の希望を与えようとされた。それがクリスマスの出来事。


 そのクリスマスの中で、2016年を迎えました。