江波キリスト教会
   
 
 

 毎週礼拝を飾っているお花と 週報の巻頭言の,み言葉を載せています
 
   
 
 
2020年9月13日

 
 花材    ほととぎす  鶏頭   シダ     
わたしは必ずあなたと共にいる

 わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそわたしが、あなたを遣わすしるしである。
                          出エジプト3:1-15       
                                

 今月は教会学校のテキストに連携し、出エジプト記からメッセージいたします。一言で出エジプト記を表現するのであれば、『神様によってイスラエルの人々が救い出される物語』と言えるでしょう。

 神様はその働きのために、モーセという人物を選びました。彼はイスラエル人として生まれましたが、社会の状況と抑圧・家族の知恵と工夫・ファラオの王女の憐みにより、王女の息子として、40歳までエジプト人として生活していました。その後の40年間はミディアン人の祭司エトロの娘ツィポラと結婚し、共に生活していました。80歳になったモーセに、主は近づきます。モーセも燃える柴の不思議から、主に近づいていきます。主はモーセに、「エジプト人に虐げられているイスラエル人の叫び声を聞き、彼らの痛みを知った。だから降ってきて、彼らを救い出す。そのためにモーセよ、あなたをファラオのもとに遣わす」と、召命の言葉を告げます。それは、モーセにとって突然の出来事でした。彼は主に対して質問を投げかけます。「わたしは何者か」、「なぜ私なのか」、「主の名前は何か」、等々。神様は答えます、「わたしは必ずあなたと共にいる」と。

神様は今も、一人一人に語り掛け、それぞれの場所へと送り出してくださっているのです。
 
   

2020年9月6日

  

花材
 すすき  りんどう  ロベ         おみなえし
まことの平和は示された
 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。

                    その名は「主は我らの救い」と呼ばれるであろう。


                                   【エレミヤ33:1-16

 むかしむかし、あるところに預言者エレミヤという人がいました。彼は神様の言葉を人々に伝える役割をもっていました。しかし、その言葉は人々が聞きたいとは思えない内容でした。
 「神様に立ち帰りなさい。このままでは国が滅びてしまう」という、厳しい預言だったからです。そして、その預言を聞いた王様は、怒ってエレミヤを牢屋に入れてしまいました…。

 「もう終わりだ」とエレミヤは思いました。国が滅んでしまっては、誰が見ても「終わってしまっている」出来事です。しかし、神様の考えは違います。「あなたたちは罪を犯した。そのため私は怒りを下す。
しかし!それにも関わらず、私がこの町を回復させる。そして『主は我らの救い』と呼ばれる方を遣わす」。私たちは目の前の出来事を見て、喜んだり悲しんだりします。神様の預言は、絶望の只中にいるエレミヤに語られました。悲しみに打ちひしがれている人に、希望の光が与えられたのです
 。神さまの計画は、災いの計画ではなく、平和の計画です。まことの平和なるイエス・キリストが、過去も将来も、そして今も、私たちと共にいてくださっています。向こうからやってくる主の平和に、私たちも近づいてまいりましょう。
 
   

 2020年8月30日

 

  花材   柳  菊2種  こでまり   アロエ  
口先だけの平和ではなく

 「主はこう言われる。さまざまな道に立って、眺めよ。
   昔からの道に立って、眺めよ。昔からの道にッ問いかけてみよ。
 
  どれが、幸いに至る道か、と。
    その道に歩み、魂に安らぎを得よ。

                      エレミヤ6:6-16a
 
 8月は「平和」をテーマにしています。預言者エレミヤは神様の言葉を伝えます。「人々は、平和がないのに『平和、平和』と言う」。当時エルサレムでは、法律が守られておらず、地位ある者による抑圧があり、人々は自らの利益を貪っていたことが記されています。その中で主は、小さくされている人々の叫び声を聞かれた。いじめが起きることにも、上下の力関係が発生する構造にも神様は怒られた。それは「平和」ではない。だからこそ主は、「懲らしめを受け取り、立ち帰りなさい」と語るのです。  

 沖縄のニュースを聞きました。「クラスターが発生した米原子力空母乗組員3000人の沖縄移送計画の取りやめ」というニュースです。沖縄の人達は、とても困りました。沖縄平和運動センターの方は、新聞でこのような発言をしています。「沖縄がまともに扱われないところに、県民の痛みと、憤りがある」と。この叫び声もまた、神様は聞かれているのです。

 『分かれ道に立って、周りを見渡しなさい。過去を振り返り、幸いに至る道をたずねなさい。その道を歩み、魂を安らぎなさい』。主の言葉は、時を超え、場所を超え、今もわたしたちに響いているのです。
 
 
 

2020年8月23日
 
花材      野ブドウ   ほおずき
平和の計画


 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。

それは平和の計画であって災いの警告ではない。将来と希望を与えるものである。
                                       
                                        エレミヤ29:10-14


  聖書には「預言者」という役割を持った人々が登場します。預言者とは、神様からの言葉を預かり、人々に伝える仲介者のことです。預言者エレミヤは自国イスラエルの人々に「主に立ち帰りなさい」、「神様に悔い改めよ」、「滅びゆく」など預言をします。しかし、人々は預言を拒絶し、バビロンによりエルサレムは崩壊します。50年間続くバビロン捕囚の出来事。50年間、地元に帰ることの出来ない人々。今、この現代の日本でも、福島第一原子力発電所の事故により、福島の人々は地元から追いやられたままです。今は、新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除となっていますが、今も、原子力緊急事態宣言は続いています。

 神様は絶えず、「わたしたち」共同体に向けて預言を語ります。広島平和宣言では連帯することが語られました。わたしたちが福島のことを考えない時、福島の人々は広島のことを考えないでしょう。平和の計画は、共同体の中に見いだされていくのです。「隣人」と生きる中で、わたしたちとして生きる中において、神様は平和の計画を立てられたのです。江波に住む私たちは、広島に連帯し、長崎に連帯し、福島に連帯し、日本に連帯し、世界に連帯し、神様に連帯していく。それはまるで平和が広がっていくような光景ではないでしょうか。主による平和の計画は、今もわたしたちを通して進んでいるのです。

  
2020年8月16日
 
花材      野ブドウ   ほおずき 
平和宣言
 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
          主は平和を宣言されます。  詩編85:1-14
 「シャローム」とはヘブライ語で「こんにちは」等と訳される挨拶の言葉です。
そこには、「あなたの上に平和・平安がありますように」という意味が込められています。
 2020広島平和宣言は「連帯」をテーマに語られました。1947広島平和宣言を見てみると、戦争の根本的否定と平和の熱烈なる希求が『平和宣言』として決意の言葉となって表されたように読み取れます。どこが同じで、どこに違いがあるのでしょうか。私は二つを読み比べ、現代が平和を宣言出来ない状況にあるように思いました。パンデミック、それぞれが抱えているストレス、いじめ、差別、死、今も続いているシリアでの戦争…。
 詩編の詩人も、私たちと同じように、平和ではない只中に居ました。神さまに助けを求めていました。そして、主の言葉を聞くために沈黙の時を持ちます。唐突に、一方的に、神さまは宣言します。『主は平和を宣言されます』。主が、私たちに、平安あれと語られる。平和宣言は、人々が再び愚かなふるまいに戻らないためです。広島平和宣言も慰霊碑の前で宣言します。「安らかに眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから」と。
 私たちの状況に関わらず、主が平和を宣言される。主に平和がある。正義の雨は天から注がれ、主への信頼は地上から芽生える。だからこそ私たちも、人々と連帯し、主に連帯し、平和の一歩を、平和の宣言をしてまいりましょう。「シャローム」
                         

2020年8月9日


 花材   とくさ  紫陽花
分断されつつある社会の中で

 キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を造り上げて平和を実現し、十字架を実現し十字架を通して、両者を1つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
                    フェソの信徒への手紙2:11-22

 今月は「平和」がテーマです。今日の箇所では、二つのグループの対立が描かれています。一つはユダヤ人キリスト者、もう一つは異邦人キリスト者。イエス・キリストを信じた後も、ユダヤ人グループは律法を大切にしていました。律法とは神様から与えられた約束です。その律法を守っているという自負と誇りを持っていました。
 一方、異邦人キリスト者は、「救いはイエス・キリストから来る、律法から来るのではない」と信じていました。そして、そのことをユダヤ人キリスト者たちも知っているのに、なぜ、今までの文化や慣習を守っているのかと軽蔑していました。
 わたしたちもまた、文化の違いに直面した時、対立が起こり得ます。結婚においてもそのような場面はあるのではないでしょうか。対立構造の間には、お互いを隔てる「壁」が立っています。文化を隔てる壁、年齢を隔てる壁、性別を隔てる壁、職業を隔てる壁…。「壁」の中には、「敵意」が存在していると、聖書は語ります。私たちは「壁」の前に佇むことしか出来ません。しかし、イエス・キリストは「敵意という壁」を十字架において滅ぼしました。「壁」を失った私たちは、一つの共同体として生きていくことが出来るのです。共同体の中心にイエス・キリストが居るのです。イエス・キリストこそ、私たちの「平和」そのものなのです。
 


2020年8月2日

 花材   青い蓑南天 ピンKッション 椿の実
Q.パンはパンでも…?
 イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。

また魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。    
                               ヨハネによる福音書6:26-40


 パンはパンでも〇〇〇なパンは、なーんだ?例えばその答えは、フライパンや、シャンパン、ジャパン、パンデミック、等が考えられます。

 当時も今も、イスラエルでの主食はパンです。5000家族の食卓をイエス様は用意されました。イエス様が食事を用意してくれるならば、毎食準備しなくていい、働かなくていい、と考えた人々はイエス様を求めました。イエス様以外を求めることは、偶像を求めることになるのです。奇跡もまた、偶像になり得るのです。出来るか出来ないか、行動や結果に囚われてはいないでしょうか。私たちは、存在の価値をどれだけ見出しているでしょうか。
 
 イエス様は、いのちに目を注ぎます。自らを「いのちのパン」と呼び、アンパンマンのように自らを献げてゆくのです。「いのちのパン」は、食べる人の身体を支え、心に栄養をつけさせ、社会的な交わりがあたえられ、更にこの地上のいのちに留まらない、永遠のいのちの糧です。イエス様ご自身を求めてまいりましょう。

 「いのちのパン」は尽きることがありません。今週一週間、食卓の喜びに満ち溢れ、平安を味わい、イエス・キリストのいのちに生かされてまいりましょう。
 

2020年7月26日

花材   柳  百合 モンステラ
      
    
ぶどう酒の喜び

 この葡萄酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが・・・

                  ヨハネによる福音書2:1-11

 今も昔も、結婚式は喜びの時です。しかし、結婚式ほどアクシデントが起こる場面もそう多くありません。

 カナと呼ばれる田舎の村での結婚式が、今回の物語の場面です。用意していたぶどう酒が飲み終わってしまうという、大変なトラブルが起きました!イエス様の母マリアは、息子に問題の解決を頼みます。しかし、他者を自分の都合で動かすことは出来ません。誰が主権を持っているのでしょうか。人に主権があるのか、神に主権があるのか、とても大切なポイントです。

 私たちが神に主権を委ねるということは、私たちが神に従うというチャレンジを受け取ることでもあります。イエス様からの命令は、水がめの水を満タンにするという、問題の解決には繋がらないようなことでした。身体的にも、精神的にも、一歩を踏み出すチャレンジが必要でした。召使いがイエス様の言葉に聞き従う中、イエス様は奇跡をおこなったのです。水がぶどう酒に変わりました。
 主は「良い」お方です。新郎新婦が恥をかかずに済むように、傷つかなくてよいように、愛と憐みにより、水をぶどう酒とされたのです。そのぶどう酒は「良い」ぶどう酒です。 
イエス様は、人という不完全な存在を用いて、飲みきれないほどのぶどう酒を用意されました。結婚式は、イエス様の愛によって注がれた、ぶどう酒の喜びで満たされたのです。

 
2020年7月19日
花材   オリズルラン

『彼の「死」を思いつつ』

 パンを取り感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これはあなたがたになめ私の体である。
 食事の後で、杯も同じようにして「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である
。        
                 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11:17-34
           
 教会が大事にしている働きとして、福音の知らせ・交わり・奉仕があります。三つの大切な目的と言っても過言ではありません。当時、コリントの教会では、仲間割れが起きていました。交わりが崩されていたのです。教会での食事のときのこと。お金持ちのグループは、満ち足りるほどに食べたり飲んだりしていました。しかし、貧しい人たちは、一日の仕事が全て終わってからでないと教会に集うことができず、空腹のままでした。
 問題が起きた時、目的を見失った時、原点に立ち帰る必要があります。
イエス様は何を教えていたのか。イエス様はご自身の体だと語りつつパンを裂き、人々に分け与えられました。そのパンにより、生きるために必要な栄養を受け、神様との和解を受け取ります。
 そのぶどうの杯は、イエス様の血を表します。その血により神さまと新しい約束が結ばれました。キリストを信じる人は、イエス様の死を思います。そして、イエス様が伝えられたように、パンを食べ・ぶどうの杯を飲む、主の晩餐式を行います。主の晩餐式自体が、イエス様の人生を、彼の死を宣べ伝える出来事です。
 主の晩餐式により、一つの体を分かち合う教会の交わりと、その中心にいるイエス様との交わり、そして神さまとの交わりを体験します。主の晩餐式により、イエス様が奉仕されて、用意された食卓を味わいます。主はその食卓に全ての人を招いておられるのです。

 

2020年7月12日



花材   ニュウサイラン  ひまわり
      
       アルタイカ

どこでパンを買えばよいだろうか
   「ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。」 (9節)

 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えられてから,座ったいる人々に分け与えられた。  魚も同じようにして、欲しいだけ,分け与えられた。 (11節)

                              ヨハネによる福音書 6:1-15


 「どこでパンを買えばよいだろうか?」と、イエス様は、12弟子の一人であるフィリポに質問しました。イエス様がパン屋を捜している光景は、なんとも親近感の湧く姿です。しかし、その背景には、病院に行くことが出来ない、食事も十分には取ることが出来ない、5000家族(1万人~2万人)の人々がイエス様の目の前にいたのです。「人々に食卓を用意したい」このイエス様の願いが、冒頭の言葉となったのです。

 これは無理な願いです。お金の問題もありますし、もしパン屋さんが近くにあっても準備しきれないような大量の注文になります。フィリポは正しい答えを言いました。「200万円あってもパンは足りないでしょう。」そのような状況の中、名前も無い『少年』が、5つのパンと2匹の魚をイエス様に献げました。これだけでは、5000家族のお腹を満たすには足りないでしょう。弟子のアンデレも「何の役にも立たない」と評価をしました。しかし!!イエス・キリストは、無視され小さくされた少年のわずかな献げ物に目を留めたのでした。そして何倍・何十倍・何百倍にも祝福し、豊かに用いました。

 私たちは誰かに何かを献げる時、痛みを覚えます。現状が足りなければ渡せないのが普通です。しかし、主が用いる時、不足していた皆が満たされ、更に12籠いっぱいのパンの欠片を受け取るのです。私たちは受け取った恵みをどのように用いてまいりましょうか。

 
 
2020年7月5日


花材   ウイキョウ  ばら モンステラ
神の召命は突然に

 サムエルは油の壺をとり、サウロの頭に油を注ぎ、彼に口づけして,言った。「主があなたに油を注ぎ,ご自分の嗣業の民の指導者とされたのです。

                    サムエル記上9章14-17節、10章1-10節

 私たちは残念ながら、神さまの姿も見えず、声も聞くことが出来ません。それでも、私たちに委ねられていることは「今、神様は、私に何を語り掛けているのか」と、神さまの思いを尋ね求めることであります。そして各々の時に、①み言葉、②アドバイザー、③状況を通して、神さまの思いは表されていきます。

 イスラエルの初代王様となったサウルの場合も、預言者サムエルを通してみ言葉が与えられ、勧めを受け取り、状況を通して導かれていく。サウルは、王様になることを考えていません。彼はただ、居なくなった家畜のロバを探していただけです。

 しかし、神さまの選びは不思議であり、神さまの時は突然です。サウルは、サムエルの預言の通り、①ロバは見つかり、②パンは与えられ、③聖霊を受けて語る言葉が与えられます。それはサウルの思い描く、将来の道ではありませんでした。しかし、神さまは既に道を備えていました。神さまは今も、聖書を通して、祈りを通して、人を通して、状況を通して、あなたに対する思いを語りかけています。大丈夫、恐れることはありません。主が備えられた道、主によって満たされる道だからです。
 
 
2020年6月28日

花材   紫陽花の花々
一本でもニンジン・一人でもニコデモ

 人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。

                      ヨハネによる福音書3章1~15節

 
 聖書にはアイウエオ作文の詩や、韻、たとえ話や、一つの言葉で二つの意味の掛け合わせなど、面白おかしく覚えやすくするための工夫がある。

 ニコデモとイエス様との対話は、すれ違っており噛み合っていないように見える。
しかし、そこにはダブルミーニングやユダヤ教の文化が背景に隠されている。
 
 イエス様はニコデモに向かって、何度も何度も、「アーメン、アーメン(はっきり言っておく)」と、大事なことを伝えている。理解しきれないニコデモに、諦めることなく語りかけ続ける。対比やたとえ話を用いて、何とかして伝えようとする。それは、『わたし(イエス様)を信じ、救われよ』という招きであった。

 イエス・キリストはニコデモに向かって、そして私たち一人一人に向かって、「ラビ(先生)として信じるのではなく、メシア(救い主)として信じなさい」と、諦めることなく語り掛け続けている。十字架のイエス・キリストこそが、私たちに新しい霊・新しいいのちを注いでくださるのである。
 
 

2020年6月21日



 花材   庭に咲いた花々
           たちあおい  紫陽花 
          
霊を求める

 神よ、わたしの内に清い心を創造し
    新しく確かな霊を授けてください。詩篇51:12

 神様の出来事と出会う時、気付かされる時、私たちはその出来事を表現したくなります。また、自分でも目を背けたくなる程の、自分の罪に向き合わされる時、神様を求めるのではないでしょうか。詩編には、神様への思いを言葉にした、祈り・賛美・詩・歌が集められています。

 51編で、詩人は「霊」を求めます。霊とは、他の場面では、風・息・命・心と訳されている言葉です。「霊」は神様からいただく、いのちなのです。そして詩人は3つの霊を求めます。①「確かな霊」確かさ、基準となるものを私たちは持っていません。清い心もありません。神様のみが、新しく創り出してくださいます。②「聖なる霊」私の中にある良心も、神様から与えられたものです。どうか、取り上げないで下さいと、詩人は祈ります。③「自由の霊」私を支える霊は、神様という身分の高いお方の霊、その霊は進んで働き、自由に導き、仕えることを喜ばれる霊。その霊で、私を支えてくださいと求めています。
  驚くことに、神様も「霊」を求めています!「打ち砕かれた霊」を求めているのです。それは神様を求める心。神様の前で、自らが小さくなり、神様の憐みを願う心。その時、赦されていることに、気付かされるのです。今週一週間も、新しい霊を求め、新しいいのちに生かされていきましょう。

 

2020年6月14日



花材    鳴子百合  姫ミズキ  紫蘭
      
       庭の可愛い蘭   ばら
溢 れ ん ば か り の 恵 み
 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ。全ての知恵と理解を与えて,秘め

られた計画を私たちに知らせてくださいました。       エフェソ1;3~14
 
パウロからエフェソの教会の人々へ、熱い思いを込められて書かれた、エフェソの信徒への手紙。

書き始めである1章に書かれている内容は、「神様って、こんな方」という紹介文でした。三位一体なる神様、イエス・キリストの父なる神様と、子なる神イエス・キリストと、父と子から遣わされた聖霊なる神様。
 父なる神様は、①私たちを祝福し、②世界が創られる前から、私たち一人一人を選び、③神様の子ども、養子にしてくれました。イエス・キリストは、④私たちを贖い、⑤私たちの罪を赦し、⑥イエス様にあって一つに集め、⑦約束のものを受け継ぐ者とされました。聖霊なる神様は、⑧私たちに、聖霊で印を押し、⑨将来の約束の保証として、聖霊なる神様を与えてくださいました。

 わたしたちは、来週、バプテスマ式を控えています。私たちがイエス様によって買い戻された金額は、イエス様ご自身のいのちであったことを知るのです。私のいのちの価値は、イエス様のいのちと同じほどに高価で尊いいのちであると言われているのです。

 私の罪を赦すためには、イエス様のいのちが必要な程であった。十字架がなければ、私の罪も、私に対する愛も気付くこと出来なかった。神様は、それほどまでに、あなたが礼拝者となるように招いています。神さまとの交わりに招いています。なんという恵みでしょうか。
 
2020年6月7日


 花材    姫ミズキ  ゼラニューム  ぎぼし

        
驚くべき聖霊のみ業
 一同は聖霊に満たされ,霊が語らせるままに,他の国々の言葉で話しだした。
    
                          使徒言行録2:1~13

 『ペンテコステは教会の誕生日』と、聞いたことはありますか?「聖霊が降ったから、教会の誕生なのだ」と、言えるのですが、私にはピンときませんでした。
 ちなみに、ペンテコステとは、過越祭から50日目に行われる、小麦の収穫祭だったそうです。
 イエス様は弟子たちに「聖霊によるバプテスマを待ちなさい」と命じていました。
しかし、その日がいつ来るのか、弟子たちは知りません。
突然、その日はやってきます。弟子たちは聖霊によって満たされました。人には表現しきれないほどの神様の出来事、奇跡としか言えないような出来事の中で、弟子たちは精一杯の言葉で語らずにはいられなかった。あまりにも大きな音だったため、家の外にまで広がる出来事となった。家の外にいる人々にも届く言葉で、神様の素晴らしい御業が語られたのです。

 人々を集めるのも、弟子たちを用いて礼拝するのも、聖霊なる神様の働きです。
そして『教会』という神様を証する群れが生まれ、言葉を聞いた周りの人々も神様に礼拝をささげるようになった。ペンテコステの出来事が、時を超え、場所を超え、この江波の地まで広がってきたのです。この神様の働きに、諸先輩方は仕えました。江波の地で神様を賛美し、礼拝してきました。そのバトンが今、わたしたちに託されているのです。
 
2020年5月24日


 花材     いろんな花束を頂きました
『父の招き・兄の場合』

 子よ、お前はいつもわたしと私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。
     
                 ルカ福音書15章25~32節
 
 みなさん、おかえりなさい。今日は放蕩息子のたとえ【兄】に注目したいと思います。
私たちは「自分こそが正しい」という思いをもって行動することがあります。『自粛警察』と呼ばれている方々も、自らの行動を正しいと思いながら行っているのでしょう。

 【兄】は一日の働きを終えて、家に帰ろうとしています。すると、家では弟のためのパーティが開かれていました。しかも、なんと父親は弟に、豪華な服・指輪・靴・さらに良く肥えた子牛までプレゼントしたそうです。【兄】は怒りました。弟に対して正義感で裁きます。そして父に対しても責め立てます。その瞬間【兄】は、自らが『絶対的に正しい存在=神様』となりました。しかし【兄】は弟の苦しみも悲しみ知りません。そして、父の愛の深さを知りませんでした。

 二人の息子、性格も違います。歩んできた人生も違います。片方が救われれば、片方は救われないという、悲しい結末なのでしょうか。福音は自分たちの中からは生まれません、向うからやってくるものです。父は【兄】のために家から出て来て、なだめつつ、慰めつつ、宴会に加わるように頼み込むのです。父は今も、弟のためにも【兄】のためにも、いのちを受け取るようにと、愛して招き続けているのです。

 
2020年5月17日

 花材   リアトリス  ゼラニュウム
ただいま,と言わないうちに
 
  お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対してもつみをおかしました。

                       ルカによる福音書15章11~24節
 
 礼拝の初めに『招きの言葉』があります。神様から招かれ、呼び集めてくださるから、
私たちは礼拝をささげることが出来ます。それは、家庭礼拝においても同じです。そして、それぞれの日々の生活に向かっていく皆を、祝福の祈りと共に派遣します。

 集められて、散らされる。散らされて、集められる。「放蕩息子のたとえ」においても、集められるもの、散らされるものが出てきます。

 ①放蕩息子の弟は、財産が分けられた後、すべてをお金に換え集めます。しかし、そのお金は放蕩によって散らされます。 
 ②弟自身は、遠い国に散らされていきます。しかし、我に返り、罪に気付き、故郷に帰ります。
 ③弟は「飢えのために死にそうだ」と思っていました。しかし、父は「死んでいたのに生き返った」と語ります。身体は生きていても、家族・周りの人・神様との関係が断ち切られていた状況を「死んでいた」と父は言うのです。弟自身も、金・物・仕事・自由を失い、自らの存在価値を見出せませんでした。家に帰り、父の恵みと憐みにより、弟のいのちが生き返るのです。

 今日もまた、父のもとに帰りましょう。ただいまと言わないうちに、走り寄ってきてくださる方が、待っていてくださるのですから。

2020年5月10日

 花材     紫蘭  黄金小手毬  鳴子百合  ばら 
慰め(なぐさめ)
 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して,恐れない。

主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。
 
 今年度の主題聖句を見てください。わたしたちの目に見えるところに、神様の働きがあると言っています。花は咲いていません、実をみのらしていません。芽生えているのです。

 是非ご一緒に、神様のみ業を見つめ、分かち合ってまいりましょう。
イザヤという名前は「主は救い」という意味です。そしてイエス様も「主は救い」という意味の名前です。この新型コロナウイルスにより、みんなが救いを求めています。

 「その日」がいつなのか、私たちには分からないけれども、私たちは救いの泉から水をいただくのです。イエス様という泉から汲まれた水は、その人の内で泉となります。「その日」が必ず来る。いいえ、もう既に、その出来事は芽生えています。神様はもう既に、働いておられます。 

 今、主に礼拝を捧げる。み言葉に聞き、神様の御業を分かち合い、主を賛美し、主に応答し、一週間の旅路へと送り出されていきましょう。それはまさに、イザヤの預言の成就です。
 
 
2020年5月3日


   花材      びわ   ばら
今、主に礼拝を捧げる

 見よ,私を救われる神。 わたしは信頼して、恐れない。

 主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。

                       イザヤ書 12章2節

 
  1 栄光と賛美を すべてささげます  
        喜びの歌をもて  心からささげます

  (おりかえし)
     全ての救い主 われらの救い主
         主をほめ 賛美します  受けてください

  2 おののきと恐れを  全て委ねます
        恵みに満ちあふれて  跪き祈ります

  3 全能の父 王の王 贖い主 主よ
        永遠の命与えて  共に歩まれる主よ
 
2020年4月26日

花材    やなぎ ゼラzニューム  

イエスさまの食卓
イエスは来て,パンを取って弟子達にあたえられた。

魚も同じようにされた。
                       ヨハネによる福音書21:13

 1 望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき  
                      数えてみよ 主の恵み 汝が心は 安きを得ん

  (くりかえし)
      数えよ 主の恵み  数えよ 主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ 主の恵み 

 2 主の賜いし十字架を 担いきれず沈むとき  
                        数えてみよ主の恵み つぶやきなどいかであらん

 3 世の楽しみ 富 知識  汝が心を誘うとき
                        数えてみよ主の恵み あまつ国の幸に酔わん
                                   
                                   新生讃美歌 103
            

2020年4月19日


 花材    百合  おうばい  はらん 小菊    
見なければ、わたしは信じない

 「わたしを見たから信じたのか。
 
     見ないのに信じる人は幸いである。」
   ヨハネ福音書:20ー20

  きみの賜物を すべて献げて   神のわざのため 努めいそしめ
   神は人の世に み子を与えて   きみの立つことを 待っておられる
  (くりかえし)
    きみの賜物とを 若い力を    神のみ名のためすべてささげよ
 
  3 どんな災いも 神のひとり子  イエスの十字架の 死には及ばず
     きみの罪とがを すべてゆるして 全きあがないを とげた主の死に
                         新生讃美歌 656

 

2020年4月12日



花材   百合  しゃが  ナデシコ  ニゲラ  カランコエ  
復活のイエスさま
イエスは言われた。
 
 「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリヤは言った。「私の主が

取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」
                    ヨハネによる福音書 20:15
 
  1  この日 主イエスは  復活された  この喜びを 告げ広めよ
     むなしい死より  尽きぬ命   この日 我らを 導かれた

  2  光にいます 復活の主を   心清めて ただ見上げる
     静かに響く 主のみことば   たたえの歌を われら歌う

  3  天に喜び 地に歌声   勝ち歌 高く  響きわたる
     すべてのものよ  声をそろえ  喜び歌え 主の復活を
        
                       新生讃美歌  240
 
2020年4月5日


花材  オオデマリ  百合  小菊
十字架を背負うキリスト

 イエスは,自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語

でゴルゴタとい所に向かわれた。


                       ヨハネによる福音書19章17節

  
     
     カルバリの丘へと  歩み行くイエス君

        罪人の救いに 負いたもう十字架

     尊しや 救い主  木の上に仰ぎ見る

        傷つきて 血を流し  わが為に 死にたもう

                      (新生讃美歌 227  1節)
 
 
2020年3月29日


 花材  やなぎ  シンビジューム  つばき  
乗り込んでおられるイエス

 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 

 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。

   (マルコによる福音書 4・35-36)

            
 向こう岸を照らし出す灯台のようなものだと思うことがあります。私たちが見ることのできない、気づかない向こう岸を、教会は照らすことができるし、今も照らしています。
教会には、いのちの光であるイエスさまが一緒におられるのです。

ここにイエス・キリストの教会がある。それは当たり前のことではありません。ここにイエス・キリストの教会が必要として、イエスさまが教会を立てられたのです。
 それが、江波教会であり、すべてのイエス・キリストの教会も同じです。この世にあって、困難に遭いながらも、イエス・キリストと共に歩んで、この世に立ち続ける教会です。向こう岸に目を向け続けて歩み続ける教会です。

イエスさまは、その向こう岸に渡ろうと呼びかけておられ、私たちの「舟」に、すでに乗り込んでおられるのです。

  
 
2020年3月22日

 
  花材   菊  リナリア  モンステラ  青葉
 主と ともに

 イスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
                   (ヨハネによる福音書 12・5)
  間にか、イエスさまに代わって、自分が一番だと、仲間の弟子たちを見ていたのではないでしょうか。

 自分が一番だ。自分の意見こそが正しい。そんな態度を取るようになっていたのではないか。貧しい人に施すことも、自分が、貧しい人に施してやったと、何か自分の功績のように思ってしまった。

 イエスさまに信頼されて、イエスさまのもっとも近くにいる弟子のひとり、主イエスの愛の業に一番深くかかわっていたのに、主の恵みの中にいたのに、主の恵みを自分のためだけにしてしまった。

イエスさまが一緒におられて働いておられるのに、イエスさまがおられないかのようにしてしまった。

ユダは、イエスさまに一番近くにいながら、実は、一番遠い者になってしまっていたのです。
 
 
2020年3月15日


花材   やなぎ  ゼラニュウム アヲモジ 黄梅
     
 
主よ、わたしたちは

 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。

あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。

 
                         (ヨハネによる福音書 6・68)


 「私たちは、だれのところへ行きましょうか」。

 イエス・キリストに、とどまり続けるほかない。そう告白し、イエスさまと共に歩もうとする私たちは、信仰の戦いの中に押し出されて行きます。

 永遠のいのちであるイエス・キリストの言葉は、私たちを生かす本当の「いのちの言葉」。これ以外の道はない。わたしはイエスの言葉に従って歩む。永遠のいのちの源である神の言葉にとどまり続ける。そこに信仰の戦いが起こります。

 イエス・キリストの教会は、この神の言葉を聴き続け、神の言葉に立ち続けるのです。そして、この「神の言葉」に、私たちは応えて歩むものです。

 すでに私たちは、イエスさまと一緒に生きるようにと、わたしと共に歩んでくださる恵みの中に、おらせていただいてるのです。
 

2020年3月8日

  花材   ゆきやなぎ   菊  柘植
神のわざが現れるために
 本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである
(ヨハネによる福音書 九・三)

「神のわざが現れる」というのは、もはや、私たちの経験や理解を超えた新しい出来事が起こるということです。

 これまでの知識や経験だけにとどまっている限り、分かりません。

 そして、その人だけでなく、見ている人も、誰もが、神のわざが現れたその新しい出来事を、自分のことのように経験することができるのです。

 そこに、私たちの信仰が起こされる。信仰すらも、向こう側、つまり神さまの方からくるのです。

 私たちが、「イエスを主、救い主」と信じて告白することも、自分の身に起こった自分の理解を超えた出来事です。どうして自分の身に起こったのか、言葉ではうまく説明できないけれど、確かに起こったことですし、私たちは、この信仰に立ち続けているのです。
 

2020年3月1日



 花材   桃  菊  ソリダスター
たったこれだけ、でも


 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。

けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
 
                         (ヨハネによる福音書 6・9)

 「5つのパンと2匹の魚」しかない、だから何もできないとあきらめてしまうのか。それとも「5つのパンと2匹の魚」がある、わずかだが確かにあると希望を持つのかと、イエスさまは問いかけられているのです。

 5つのパンと2匹の魚を差し出したのは、大人から見れば何もできないと思われる小さな子どもでした。無力なものが、わずかなものを差し出したことに、神さまは目を留められ、大きな祝福を与えてくださったのです。

 弟子たちは、イエスさまから「こうしない」と言われることをしました。決して難しいことではありません。弟子たちがしたことは、私たちにもできることではないでしょうか。

 イエスさまが、「こうしなさい」と言われるとき、イエスさまが一緒におられて、共に働いてくださり、私たちにできることをさせてくださるのです。

 
 2020年2月23日




 花材   こでまり  グロリオーサ

       レザーファン  
バプテスト教会に集う私たち

  あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の

中にいろいろな人をお立てになりました。

                 
                     (コリントの信徒への手紙 12・27-28)


 バプテスト教会では、「牧師も信徒である」という言葉を聞いたことがあると思います。バプテスト教会では「牧師という身分」はありません(同じように、牧師夫人という身分も)。

 牧師も信徒であるということは、牧師を招聘するときも、教会員の中から立てるということになりますし、牧師を招聘する責任が私たち教会にあることも分かります。

 牧師が辞任し、新しい牧師を招聘しようとするとき、これまで牧師が担ってきた働きが、皆さんの前に現れてきます。それを私たちは受けとめなければなりません。教会員にできることが分かってきますし、これは私たちがすべきことだったのかという発見もします。

 そこで改めて、教会にとって、牧師でなければできないこと、牧師に担っていただきたいことは何かが分かってきます。そのようにして、牧師も教会員も、それぞれに主から託された福音宣教の働きを共に担い合って、一緒に歩んでいくのです。

 
2020年2月16日


 花材   グラジオラス  ロベ  椿 
          
            
起き上がりなさい
 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 
                                                  (ヨハネによる福音書 5・8)


 あなたはもう治ったのだから床を担いで歩きなさいと言われたのは、安息日にしてはいけないことをしなさいと言われたのと同じです。

 床をそこに捨てて、そのまま立ち去っても良かったのに、イエスさまは、床を担いで歩けと言われたのです。

 今までの38年の病気に縛られた歩みから、新しいいのちの歩みへと踏み出すための「一歩」。主によって癒され、主と共に歩む新しい歩みへと歩み出す一歩。それが、床を担いで歩くことだったのです。

 イエスさまは、こう言われたのではないでしょうか。

 あなたは良くなった。癒しのわざは、あなたに起こった。今もその働きは、あなたの中で起こっている。
 だから、わたしにとどまり続けなさい。わたしにつながっていなさい。私から離れないようにしなさい。恐れることはない。新しい歩みへと一歩踏み出しなさい。
    
2020年2月9日

花材   あおもじ 百合 
          
            アルストロメリア
主の言葉に生きる

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

                      (ヨハネによる福音書 8・31-32)



 というのは、単に軽く信じるとか、まあ分かっているというのではなく、「イエスは主である」と告白し続けることであり、自分の存在の基を主イエスに置き続けるということです。自分の存在そのものが、主イエスに根底から支えられている。その中で今を生きている私たちなのです。

 だから、主イエスにとどまり続けていこう。いや主イエスにつながっていないとこの世を歩んでいけないし、生きて行けなのだと言われるのです。

 主イエスと共に生きることを通して、与えられたいのちを尊く、意味あるものとして歩む。「わたし」が誰にも変わることのできない「わたし」として歩むことができるようにしてくださるのです。私たちが、生きる目標を失って、闇の中をさまようことがないように、イエスさまは一緒に歩んでくださるのです。
 
2020年2月2日


花材   あおもじ グズマニア ろべ
イエス・キリストの教会になる

 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちて

おられる場です。
                    (エフェソの信徒への手紙 1・23)


 信仰は、神さまに対する応答であり、心からの信頼をもってなされる具体的な姿で
あって、新しい歩みへと私たちを導くのです。信仰の現実の姿が「教会」です。

 教会は、神さまに属するものとして、「新しく生まれた信仰者の集まり」です。教会は、聖霊なる神によって、一人一人に直接働きかけ起こされたキリストの体です。

 私たちが、自らの自由と責任において、神さまに応えていくものとして呼び集められた「新しく生まれた者」によって、教会は形成されています。

神さまに応えるものとして呼び集められているのですから、教会は、互いの信仰と愛の交わりを深めるとともに、この世の救いのために福音を伝える働きを委ねられているのです。

 イエス・キリストを頭として、一人一人がその部分として結び合わされて体が備わるとき、生けるキリストとしての「教会」になるのです。


 
2020年1月26日



  花材   ハンノキ 水仙 椿
わたしのときは、まだ

 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。

わたしの時はまだ来ていません。」        
                      ヨハネによる福音書 2・4)


 お母さんを「婦人よ」と呼び、ぶどう酒がなくなることが自分と何のかかわりがあるのかと、ずいぶんつれない、よそよそしい言い方です。

 「わたしの時」とは、イエスさまが十字架の苦しみを受けられる時、そしてその死から復活される時のことです。

 しかし、イエスさまの拒絶の言葉にも、お母さんは、ひるみません。

 頼るべき方は、この方をおいて他にいない。お母さんの確信、信頼です。イエスさまのつれない言葉など何でもないかのように、願いが果たされるという期待と確信に満ちています。

 私たちは、イエスさまに祈り求めるとき、イエスさまが働いてくださる、その確信をもって、祈り願っているだろうか。この方こそ、私たちの祈りを聞いてくださると、確信をもって祈っているだろうかと思わされます。

 
 
2020年1月19日


  花材   若松 南天 水仙 千両
来て、見なさい

 ナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは

、「来て、見なさい」と言った。 
                        (ヨハネによる福音書 1・46)


 リポは、イエスさまから「私に従いなさい」といわれて戸惑ったのかもしれません。ナタナエルなら、どう考えるか聞いてみようと思った。

 しかし、ナタナエルから「ナザレから、何か良いものが出るだろうか」と反論されて、「そう言うけれど、何か違うんだよ」。そう心が騒いで、ナタナエルに「来て、見なさい」と言った。

 それは、フィリポが、自分自身に問いかけた言葉でもあるのではないかと思うのです。迷う、戸惑う、疑う。しかし何か違う。イエスさまに出会うと何か違う。そう思った。

 フィリポは、自分なりの理解をしてイエスさまを紹介しました。完璧にイエスさまを知らなくても、自分の理解したイエスさまをそのまま紹介する。

 そうすると、イエスさまが、直接その人に出会ってくださる、声をかけてくださる。そして導いてくださる。

 私たちにできる「証し」は、そういうことではないでしょうか。

 
2020年1月12日


  花材   若松 菊 柊

光を証しするものとして
 彼(ヨハネ)は光ではなく、光について証しをするために来た。     

                    (ヨハネによる福音書 1・8)


 世を照らすまことの光と、光に照らされ光を証しするものとは混同してはなりません。

 人は、ときに、光に照らされているものを、「光」そのものと混同し、神でないものを神とする過ちを犯すことがあります。

 神によって造られた人や物を、あたかも神のようにあがめてしまい、そのものに縛られてしまうことが起こってきます。

 ヨハネは、光であるイエスさまを、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(一・二九)と指し示し、「この方こそ、来るべき神の子」と証ししたのです。

 私たちは、「光」そのものではなく、光に照らされ、光によって輝かされたものとして、この世にいのちを与えられ、生かされている者であることを忘れてはなりません。
そして、自分を指し示すのではなくて、「光」を受けて、その光に照らされて輝いている者として、その光を指し示し、証しする者にされているのです。


 
2020年1月5日

 花材   若松  百合 千両
       
       稲穂
神は、世を愛された

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も
滅びないで、永遠の命を得るためである。     
                         (ヨハネによる福音書 3・16)


 主の年2020年、おめでとうございます。

「一人も滅びないで」と言われます。

 滅びるというのは、その人が、もうどこにもいないものと同じになってしまう、生きているのに死んだものになってしまうということです。

 神さまの愛する手から、いなくなってしまう、その存在が分からなくなってしまう。こんな辛いことはありません。
 それは、神さまにとって、イエスさまにとって、はらわたがちぎれるように、悲しく辛いことなのです。

 私たちは、そのように、神さまに愛され、イエスさまに愛されているのです。そして、私のところに来なさいと招いていてくださっているのです。

 新しい一年の歩みも、私たちを愛し抜かれるイエスさまにつながって、イエスさまと一緒に歩みましょう。

 
 
019年12月29日

  クリスマス礼拝 メッセージ宮井牧師

      ローソクが5本立ちました
すべての人の福音

 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女

もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。      
 
                           (ガラテヤの信徒への手紙 3・28)


 このように言われても、当時も現在も、現実の社会においては、未だに、差別があり、苦しみがあり、それを解消しようという取り組みに消極的な社会であることも事実です。

 それは、イエスを主と信じる教会においても決して容易に解決できる問題ではありませんし、重くのしかかってきます。「牧師は男性に限る、役員も男性だけ」という教会もまだまだあります。

 私たちは、「キリストを着ている」ものとして、この現実の問題を避けて通るのではなくて、しっかりと受け止めて真正面から取り組み、そこから生まれて来る責任に対して、誠実に向き合っていかなければなりません。

 そうすることが、パウロの祈りであったし、イエスさまは、その中に入って行かれて戦われたのです。

 「キリストを着ている」私たちだからこそ、この現実に目を向けて、主イエスと共に歩まなければならないのです。
 

2019年12月22日

 
   会堂入り口に置かれた置かれたイエスのご降誕
 
 今日、ここに

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。
 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。     
                     (ルカによる福音書2・15)
 
  主イエスのご降誕、クリスマス、おめでとうございます。

 羊飼いたちは、「すべての人を救う救い主が来る」ことは知っていました。しかし自分たちには関係ない、神の救いなど自分には関係ないと思っていたのです。   しかし、そうじゃない。

 自分たちのために、わたしのために、救い主がお生まれになった。私たちは見捨てられていない。神さまは共にいてくださる。もはや自分には関係がないとは思えなくなったのです。だから「その出来事を見ようではないか」と。

 羊飼いたちは、不思議な出来事と思いながらも、飼い葉おけのイエスさまに出会い、天使が言ったとおりだと喜びました。

 神さまの出来事は、私たちの理解を超えて不思議です。だから、本当かも知れないと迷いながらも受け入れる、それで良いし、そこから新しい歩みが始まるのです。
2019年12月15日

    ピアノの上のツリーの飾り
 
確かな祝福の中で

天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。

                        (ルカによる福音書1・30)


 神さまの出来事は、私たちにとって、戸惑うこともありますし、恐れをいだきます。しかし、それは神さまからの一方的な「恵み」、すなわち「神さまがあなたと共におられる」という約束を与えてくださった恵みに、ほかならないのです。

 この「私」と共にいてくださる。どんなときにも、どのような状況のときにも、どこにいても、とんでもない出来事が起こったとしても、この「私」と共にいてくださる。「私」を見捨てず、見放さない。そう約束してくださっているのです。

 しかし、神さまの恵みに気づかない私たちは、逃げ出してしまいたいと、不安で一杯になってしまいます。マリアやヨセフと同じです。でも、マリアやヨセフ、私たち一人ひとりの名前を呼んで、「恐れることはない、そのままで、神さまにお任せしなさい」と、告げるのです。

 「神にできないことは、何一つない」。だから恐れる必要はないし、逃げ出す必要もないのです。
 
 

2019年12月8日

    ツリーを飾り、
 電飾が昨年と代わりました

来たるべき方は、主

 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
 
                        (マタイによる福音書11・3-4)

 「見聞きしていること」は何かというと、福音が告げ知らされていることです。

 病人が癒されている、目の見えない人が見えるようになったなどという奇跡が起こっただけではなくて、「神の国の福音」が、それまで福音が届かないと思われていた人々にも届いている、目の前で起こっているということです。

 それは、ヨハネが求めている神の国の実現ではないか。

 単に経済的に貧しいというだけでなく、人と人との関係においても、取り残されて心が貧しくされている人に、福音が告げ知らされ、福音が届いていることによって、確かに実現しているではないか。

 ヨハネ、あなたが期待していることが確かに起こっているし、あなたはそれを聞いているし、見ているではないか。イエスさまはヨハネにそう言われるのです。


 

2019年12月1日


   
ローソクが
  1本ともりました


主イエスを身にまとい

 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
                            (ローマの信徒への手紙13・14)

 今年も、主イエスのご降誕を待ち望む待降節を迎えました。
「身にまとう」と言うのは、そのままの自分に、体の上から主イエス・キリストという服を着ると言うことです。
 私たちは、いつも自分が主人になろうとしますから、イエスさまを受け入れたつもりでも、いつの間にかイエスさまを自分の思うようにしてしまう恐れがあるのです。

 せめて、外からイエスさまに包んでいただく。主イエスに、この罪深いわたしを包んでいただくのです。

 そして、主であるイエスさまを身に着けて、イエスさまに、わたしの主になっていただいて歩もうとするのです。

 わたしが主になるのではなくて、イエスさまに主になっていただく。

 クリスマスは、わたしの主になってくださる方が、私たちのところに来られて、一緒に住んで一緒に歩むと約束してくださった恵みのときです。

 今年も、主イエスのご降誕を待ち望む待降節を迎えました。
「身にまとう」と言うのは、そのままの自分に、体の上から主イエス・キリストという服を着ると言うことです。
 私たちは、いつも自分が主人になろうとしますから、イエスさまを受け入れたつもりでも、いつの間にかイエスさまを自分の思うようにしてしまう恐れがあるのです。
せめて、外からイエスさまに包んでいただく。主イエスに、この罪深いわたしを包んでいただくのです。

 そして、主であるイエスさまを身に着けて、イエスさまに、わたしの主になっていただいて歩もうとするのです。

わたしが主になるのではなくて、イエスさまに主になっていただく。

クリスマスは、わたしの主になってくださる方が、私たちのところに来られて、一緒に住んで一緒に歩むと約束してくださった恵みのときです。

 
 

2019年11月24日

 花材   ドラセナ  菊   
主にのみ望みをおいて

 わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。  
                      (詩編130・5)

 主の恵みの大きさに圧倒され、主の恵みを知らされ、このような罪深いものと一緒にいてくださる恵みに、私たちは気づかされるのです。赦しを与えてくださるのは、主のみ。

 罪の赦しを祈る「祈り」は、気まぐれな祈りではありません。真剣な祈りです。だからこそ、ただ主を待ち望み、赦しを待ち望む信仰を告白するのです。

 待ち望むことは信じるものの姿です。確かな方が応えてくださる、そう信じて希望をもって待ち望む。

 それは信じるものの歩みです。いつ実現するか分からない。けれど信じて待ち望む。そこに、神さまの大きな計画があると信じて歩むのです。

 救い主を待ち望む信仰も、そのように、信じて、信じて、何百年も待ち望んだのです。

 そして、主は、その約束を果たしてくださった。
 それが、イエスさまの誕生、クリスマスです。



 
 
2019年11月17日

 花材   まゆみ  菊 レザーファン
必要なものは、すべてご存じ
求めなさい。そうすれば与えられる。        
          (マタイによる福音書 7・7)


 神さまは、私たちのもっとも必要なもの、いちばん良いものをご存じです。それを与えようとしておられるのです。しかしそれは自分が願っているものとは違うこともあります。

 私たちは、本当に必要なものを願っているだろうか。どうせ願っても実現するわけがない、無駄だと思っていないだろうか。

 この世の歩みに希望を見出せない。何も良いことはない。何も変わらない。何をしても無駄だ。もういい。あきらめた。そんな人に、イエスさまは、言われるのです。

 「それは違う、神さまはあなたの必要なものは何でもご存じなのだ。それを求めるのを、神さまは待っておられるのだ。」

 高齢になって、あれもできなくなった、これも駄目だ。もう無理だ。そうあきらめてしまうかもしれません。しかし人生はまだまだ。これからだってできる。

 あきらめないで求めなさい。そうすれば、あなたに必要なものは与えられる。イエスさまはそう言われるのです。



 
 
2019年11月10日


 花材    ねこやなぎ  ばら   カスミソウ
主は我らの救い

 彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない。・・彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。          
                              (エレミヤ書 23・4、6)


 大きな絶望と闇の中で、主なる神は、わたしの民を牧する牧者「若枝」を起こす、その名は「主は我らの救い」と呼ばれると約束されました。

 イスラエルがもう一度国の繁栄を取り戻すと、人々は期待しました。それはイエスさまがお生まれになるときも依然として続いていました。

 しかし、救い主待望の期待は、単にイスラエルの救い、イスラエルの国の繁栄だけではありません。神さまによって「いのち」を与えられたすべての人々への救いが実現すると言われるのです。

 長い間神さまに背き、恵みの業を忘れた歩みにも関わらず、若枝を起こすと言われる希望の言葉が、すべての人々に、そして私たちにも約束してくださったのです。

 
2019年11月3日

 花材    びわ  百合   菊
新しい契約を結ぶ日

よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。  
                                     (エレミヤ書 31・31)


 エルサレム神殿を中心とした、新しい神の民として、「新しい契約」としての信仰の共同体が起こされる。
だから希望をもって待ち望もうと、エレミヤはイスラエルの人々を励ましました。

しかし、新しい信仰共同体は、エルサレム神殿が再建されれば起こされるというのではありません。

 まったく新しい、まことの「救い主」の誕生として起こされなければならないと、神さまはそう決心なさったのです。
 それが「新しい契約」。

 エレミヤから600年経って、イエスさまの誕生を、ヨセフに告げた天使はこう言いました。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は、自分の民を罪から救うからである。」
                             (マタイ1・20-21)

「イエス」という名前は、「主は、救う」という意味です。
 
2019年10月27


 花材    砥草  りんどう   玉羊歯  
必要を満たしてくださる神

 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに

必要なものをすべて満たしてくださいます。

                    (フィリピの信徒への手紙 4・19)

 「受けるよりは、与える方が幸いだ」(使徒20・35)と言われていることは、私たちは十分に理解しています。

 お世話をすることは喜んでしますが、お世話をされることは苦手で、誰にも迷惑をかけたくないと、受けることを遠慮することが多いのではないでしょうか。

 私たちは、与えることだけでなく、受けることも、恵みとして神さまからいただいているのです。受けることで、与える人と受ける人とが一緒に、神さまの恵みにあずかる「喜び」を共にしたいのです。与える人と受ける人との関係が一方的にあるのではなく、お互いに、与える人であり、受ける人なのです。

 そのようにして、私たちは、一緒に、神さまの恵みをたくさん受けるのです。

 神さまは、私たちに必要なものは、すべてご存じです。そして、その必要を、すべて満たしてくださるのです。
  
2019年10月20


 花材   枇杷  風扇とうわた   野ブドウ  菊
 わたしを強めてくださる方

 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
     
                    (フィリピの信徒への手紙 4・13)


 キリストを迫害する者から、キリストの弟子として生きるものに変えられてからのパウロの人生は、想像を超える壮絶な戦いでした。

 私たちも、パウロほどではないにしても、「主イエスを信じる信仰」をいただいたことによって、家族の間で、友人の間で、うまくいかない、辛い思いをしたなどは、何度もあったのではないでしょうか。

 それでも、イエス・キリストにつながっていることで、自分の生き方をいつも整えられる、そう信じて歩んでいます。

 十字架の上で、苦しみ、叫んで、死んでいかれたイエス・キリストが、私たちと一緒にいて、苦しみを共にしてくださる、苦しみを分かってくださる、寄り添ってくださる。

 そして、復活されて、新しい命に生きられ、今も生きて働いておられる。だから、私たちも、新しい命に生きることができる、そう信じて、主イエスと共に歩んでいるのです。
 
 
   
2019年10月13日



 花材   ふうせんとうわた  グロリオーサ  ドラセナ
 平和の神がともに

 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見た

ことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
        
                  (フィリピの信徒への手紙 4・9)
 
 パウロが、市民社会の中で、誰もが守っていることを、あなたたちも守って歩んでほしい。そうすることで共に福音に生きるものにされていると言うのです。
 「学んだこと、受けたこと」と言うのは、イエス・キリストの福音をいただいて、この世に生きて歩むとき、どのように信仰をもって歩んでいくのか、パウロも、人々から学んできたし、受けてきたものです。

 だから、どのように生きようとするのかを、わたしも学んできたように、あなたたちも学んでほしい、受けてほしいと、パウロは願うのです。

 そうすれば、平和の神は、あなたたちと一緒におられる。それは、主イエスの十字架がいつも私たちの真ん中に立っていて、その十字架の死からの復活の希望がいつも与えられるからです。

 この恵みが、わたしにも、あなたにもあるのです。
 
     
   
2019年10月6日



 花材   ユウカリ  オンシジュウム  バラ
同じ思いをいだいて

主において同じ思いを抱きなさい。 
       
                (フィリピの信徒への手紙 4・2)


 確かに言われる通りなのですが、理想的で無理だと思ってしまいます。同じ思いを抱くことができないから争うのです。

 しかし、それでもパウロは、同じ思いを抱きなさい、常に喜びなさいと言います。
 その中心は、「主において」ということです。同じ思いを抱くことも、喜ぶことも、主においてすることだと言うのです。
「主において」と言うのは、「キリストの中に存在している」ということです。

 すでに、私たちは、キリストの中にあるから、キリストの愛と恵みに守られて、キリストの愛から引き離されることはないのです。キリストの御手の中で生きており、キリストの御手の中で悩み、苦しみ、喜ぶものにされているのです。

 苦しみや悩みの中にあるときも、イエス・キリストの中にいるのだから、心配しないで、同じ思いを抱きなさい、喜びなさいとパウロは言うのです。
 
   
2019年9月29日

 
 花材   紫陽花  蘇鉄   彼岸花2種
主を待つ希望

 わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い

主として来られるのを、わたしたちは待っています。

                 (フィリピの信徒への手紙 3・20)
 私たちは、日々の生活を歩む中で、主イエスを信じる信仰の歩みに困惑させられるときもありますし、辛い思いをすることもあります。あんなことはしなければよかった、言わなければよかったと後悔することもあります。

 ときに「弱さ」をさらけ出すのです。「弱さ」を繰り返しながら、主イエスの恵みに生かされる歩みを重ねていくのが私たちです。

 そのようなわたしを、主イエスの十字架によって赦され、主イエスと共に新しいいのちに生かされ、一緒に歩むものにしてくださったのです。

 私たちは、主イエ スと共に生きるのです。主イエスにつながって、主イエスと一緒に歩むのです。主イエスの十字架を心に刻んで歩むのです。そして復活の希望に生きて歩むのです。

 主を待ち望む希望は、その歩みの中にあるのです。
 
   
2019年9月22日

花材   野ブドウ  西洋コスモス   ゼラニューム
      
      彼岸花   ヒマラヤ予期の下の葉
前を向いて、ひたすら

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標

を目指してひたすら走ることです。        

                     (フィリピの信徒への手紙 3・13-14)

 「後ろのものを忘れ」と言うのは、それまでのことを全部忘れてしまって、なかったことにして良いと言っているのではありません。私たちが神さまに、そしてほかの人に対し「行ったこと」は、消えることはありません。

 しかし、それを全部背負って、一緒に歩んでくださる恵みの主、イエス・キリストが、私たちと一緒におられるのです。

 さまざまな出来事が起こる中にあっては、主イエスに目を注いで走り続けることなくしては、信仰を守ることはできないほど、神さまから引き離そうとする力は大きいのです。

 主イエスが、しっかりと私たちの手を取って、引き離されないようにしてくださっているのです。

 だから、私たちは、主の恵みの中を、前を向いて、ひたすら、歩んで参りましょう。そして、江波教会の62年の歴史の上に、私たちの「証し」のできごとを、積み重ねてまいりましょう。

 
   
 
 
2019年9月15日

  花材     初雪草  秋桜
イエスを誇りとして歩む
 わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らな

いからです。          
                   (フィリピの信徒への手紙 3・3)
  

 わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」によって、それまで、自分を支えてきたもの、自分の存在を確信していたものが、ひっくり返されるのです。

 肉に頼る生き方から、肉に頼らない生き方に変えられたのは、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるという確信。それがパウロの人生を変えたのです。

 イエスさまとの出会いは、誰もが、新しい歩みへと変えられるのです。

 成功している人も、挫折した人も、強い人も、弱い人も、裕福な人も、貧しい人も、健康な人も、病気がちの人も、自分は大丈夫だという人も、自分はどうしようもない駄目だという人も、誰もが、イエスさまに出会うと、神さまの祝福の中に、導かれるのです。そして、イエスさまと一緒に歩む「恵み」のすばらしさに気づかされるのです。
 
 
     
   
2019年9月8日

  花材    栗  薔薇  青木  
      
 この最後の者にも

  わたしは、この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 
 
                   (マタイによる福音書 20・14)


 「賛美と和菓子の会」は、8月はお休みでしたが、9月26日に行います。9月は「薯蕷饅頭」を作ります。参加されて楽しいときを過ごしてみてください。

 「7月」のショートメッセージは、「ブドウ園のたとえ話」でした。

 この話を聞くと、私たちは「神さまは不公平だ」と納得できずに「えっ」と思ってしまいます。

 人は、誰もが尊い命を、神さまから与えられているのであって、能力があって仕事ができる人が、できない人よりも優れているとは言えないのだ。それで人間の価値が決まるわけではないのだ、と言われているのです。

 神さまの目から見れば、人の命は、みんな同じ。誰もが、神さまから与えられた命。だから尊い。

 イエスさまは、人は誰も、神さまから見れば、同じように尊い命を与えられて生かされているのだから、同じように、「生きる力を与えられる」のは当たり前だ、と言われるのです。

 
   
2019年9月1日
 
花材   パンパスグラス  ネリネ  
      
      百日草   西洋コスモス
主において喜ぶ
エパフロディトは、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。               
                            (フィリピの信徒への手紙 2・26)

 フィリピから、牢獄に捕らえられているパウロのもとに来て、福音の働きに努めているけれど、フィリピのことが忘れられないのです。

 フィリピの人たちは、エパフロディトが、パウロのところで、しっかり福音の働きをしていると思っていたのに、ホームシックにかかって、早く帰りたいと言っているなんて、しっかりしろよ。そんなふうに思っていたのかもしれません。

 エパフロディトは、あなたたちが心配するようなことは何もない。主イエスが、主の復活の証人として、彼を立てて下さり、用いてくださっている。

 私たちは同じように、イエス・キリストよって生かされ、主イエスの恵みにあずかっているのだ。

 だから「主において一緒に喜ぼう。私も喜んでいる。」
 
   
 
   
   
   
   
 2019年8月4日

 
 花材    椿  ゼラニューム
 心を合わせ、思いを一つに

  同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの

 喜びを満たしてください。           フィリピの信徒への手紙 2・2)


  心を合わせ、思いを一つにすることができるのは、「神の言葉、イエスさまの言 葉」です。私たち人間の言葉ではありません。ただ、神さまの言葉に聴いていくほ かありません。

  思いを一つにするのは、一人ひとりの色を消して、同じ色にしてしまうのではあ りません。その人の存在を消して、個性を失わせて、同じものにしてしまうのでも ありません。 

  イエス・キリストの教会は、主イエスによって呼び集められた人たちを、大切に  して、一人ひとりを用いられるのです。 

  ただ、イエス・キリストと共に歩むものとして、主イエスで一つになる。イエスさま で思いを合わせるのです。

  だから、私たちの思いを超えて働いておられる、イエスさまにつながり続け、
 イエスさまの恵みの中を歩ませていただくほかないのです。
 
   
 2019年7月28日
 
  花材    アルストロメリア 紫陽花 えのころぐさ

         はすいも  さんじそう  さるすべり  アベリヤ
 恵みとして与えられているもの

  あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために
 苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
            
                  (フィリピの信徒への手紙 1・29)
 
  「苦しむことも、恵みとして与えられている」。そう言われても、大きすぎ て背負いきれずに倒れてしまいそうです。

 しかも「キリストのために、苦しむことも」と言います。

  「キリストのために苦しむ」というのは、イエス・キリストと一緒に、ときに は、イエスを主と信じるがゆえに迫害を受けることもある人生を歩むとい うことです。

 イエス・キリストに捉えられて、イエス・キリストと共に生きるものとして、イエスさまと一緒に歩む。どんなことがあってもイエス・キリストから離れないということです。

 それは、私たちには、とても、背負い切れない大きな恵みです。しかし、イエスさまが一緒に背負ってくださるのです。

 イエスさまが、一緒に歩んでくださって、道を開いてくださるのです。
 
   

 2019年7月21日
 
 花材    西洋ヤマゴボウ
 生きるにも死ぬにも 

  
  生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと
  切に願い、希望しています。             
                      (フィリピの信徒への手紙 1・18

 
  神さまの恵みの大きさ、愛の深さ、知恵の広さ。その中にキリスト、主イエスはおられる。      そして働いてくださる。

  この主イエスにパウロは圧倒されて、わたしにとって生きるとはキリストそのものだ。 
 生きるにしても死ぬにしてもキリストのほかに道はない、と告白しているのです。

  だから、「キリストを小さくしない」。

  パウロの中に、キリストが生きて働いておられるように、私たちの中にも、同じように
 キリストは生きて働いておられて、その方を証ししているのです。

  キリストが、私のうちに生きてくださることによって、わたしとこの世、わたしと相手の 人
 との間に、キリストが立っていてくださって、新しい目を通して、新しい歩みを開いてくださる      のです。

  わたしの内で、主イエスが大きくなればなるほど、わたしも大きくされるのです。

 
   
 2019年7月14日


 
 花材    ななかまど   菊 
  キリストが告げ知らされている

   口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、
  わたし はそれ を喜んでいます。これからも喜びます。  
              
                          
                          (フィリピの信徒への手紙 1・18)

   パウロは、福音宣教の働きの動機が何であっても、イエス・キリストに目が注がれ、キリスト  の福音が広く宣べ伝えられているのだからそれで十分だと言うのです。

   パウロは、自分を誇りとはしないのです。

   「福音の働き」によって自分が有名になろうとか、パウロの派閥を作ろうとかということは考   えていないのです。

  ただイエス・キリスト。イエス・キリストこそが福音。「誇るのは主イエスのみ」、それがパウロ   です。

   自分の名声や自分の誇りを求めていないパウロにとって、ただイエス・キリストが宣べ伝え   られる。ただイエス・キリストの福音に生きるものになる。そこにだけ目を注いで、福音の働き  にまい進しているのです。

   とにかくイエス・キリストの福音が告げ知らされているのだから、それこそが喜びなのだとい  うのです。 

 
   
  2019年7月7日


 
 花材   かえで  菊  ドラセナ
 キリストに結ばれて
 
  あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
  それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。       
                          (フィリピの信徒への手紙 1・4-5)  


  「福音にあずかっている」というのは、今このときにも確かに信仰を与えられ、 キリスト と共に生かされて歩んでいるということです。  

  フィリピの教会は、小さく、弱く、貧しい教会でした。
 しかし、その小ささ、弱さのために、争いがあり、大きな波に飲み込まれそうになって、
 恐れを抱くこともあったのです。とても、神さまの平和に満たされているとは思えない出来 事が起こっていました。

  そうでありながら、フィリピの人たちが、何とかイエス・キリストにつながって歩もうとし  ているのを、パウロは知って、共に恵みにあずかる者だと喜び、神さまに感謝しているの です。

  その上で、人につながるのではなく、伝統や言い伝えをよりどころにするのでもなく
、ただイエス・キリストにつながって歩むように、フィリピの人々に、また私たちに伝えてい るのです。
 
   
 2019年6月30日

 
花材 砥草 柳 紫陽花 ゼラニューム

 この名のほかには 
  
  ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名 のほか、人間には与えられていないのです。                       
                                    (使徒言行録 4・12)
 
  私たちの日々の生活の中で、どうにもならないと思える状況に身を置いてしまうときも、また、 祈る言葉さえ見つけ出せずに黙ってしまうときもあります。

  しかしその真ん中で、一緒に歩んでくださる主ご自身が、一人ひとりにふさわしい「恵み」を与  えてくださり、どうにもならない状況の中で、主の恵みの力によって導いてくださるのです。

  そこに、確かに、主は一緒におられる。
 そして、時には、私たちを、丸ごと背負って歩んでくださっているのです。

  私たちは、「イエスの名」を指し示し、たどたどしくても「イエスの名」を紹介することしかできな  いかもしれません。しかし紹介することはできるのです。
 そうすれば、主ご自身が、一人ひとりにふさわしい歩みへと導いてくださるのです。
 
   
 2019年6月23日

 
  花材     南天  小海老草 
  しかし、お言葉ですから

  しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。
                                (ルカ 5・5)


  「賛美と和菓子の会」は、二年目を迎えました。讃美歌を歌い、ショートメッセー ジを  聞き、季節に合った和菓子を作り、一緒に食べて交わりを持ちます。六月は、「水無月 (みなづき)」です。

  4月のショートメッセージの一部です。

  たくさんの人が、イエスさまの話を聞こうと集まってきたので、イエスさまは話を する ために、ペトロに舟をこぎ出してほしいと頼まれました。話が終わると、ペトロ に言わ  れました「沖に漕ぎ出して網を降ろして、漁をしなさい。」 

  ペトロたちは、イエスさまの言葉に驚いたでしょう。「ど素人が、何を言っているのか。 」一晩中、漁をして何も取れなかった。いまさら漁をしても無駄だ。

  しかしペトロは「しかし、お言葉ですから」と、イエスさまの言葉に従って一歩踏  み出すのです。

  一歩踏み出すのには、勇気がいります。しかし何もしなければ、何も起こりません。
 「お言葉ですから」と一歩踏み出すとき、新しいことが起こされ、神さまは祝 福してくださるのです。 

 
 2019年6月16日
 
  花材     枇杷  紫陽花  
主の名を呼び求める
 
 主の名を呼び求める者は皆、救われる。                                                     
                        (使徒言行録 2・21)

  
 こども祝福式を献げられて神さまに感謝いたします。

  「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」ペトロを通して語られた福音の言葉。それは、 私たちにも届けられ、今このように、一緒にいただいている約束の言葉であり、信仰の言  葉です。

  聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ペトロが語った説教は、ただ「主の名、イエス」 を指し示すものでした。私たちも、同じように、ただ主イエス・キリストを指し示すのです。 

  教会は、イエスさまを十字架につけた罪人の集まりです。ペトロも、そして使徒と呼ばれる 弟子たちもそうでした。そして今なおイエスさまを十字架につけたままでいる私たちも同じで す。

  しかし、その十字架の愛によって、私たちは一八〇度変えられて、赦され、救われ、主の 体の教会に招かれているのです。そして主イエスを中心とした交わりの中に生かされてい  ます。

  その交わりの中に、今日、こども祝福式を受けた子どもたちもいるのです。主の名を呼び 求める私たち、共に歩みましょう。
 
   
2019年6月9日

 

  花材   白波  紫陽花  菊
 驚き怪しんで

 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。          (使徒言行録 2・12)

 信仰の先輩たちを覚えての召天者記念礼拝を迎えています。

 聖霊が語らせるままに語られた言葉を聞いた人たちは、驚き、戸惑い、怪しみました。私たちの思いを超えた出来事が、酒に酔ったように、自分に分かる言葉で語られ、驚き戸惑ったからです。

 福音は、私たちの理解を超えていますから、戸惑うし、怪しむのは当たり前かもしれません。

 何の疑問も持たず、言われるままに「信じる」ということは、かえって自分がないのと同じだと思います。

 私たちは、怪しみ、戸惑い、疑問を持ちながら、心に引っかかって気になって落ち着かない。しかし、ある日、心に引っかかっていたものが、すとんと取れて、そういうことだったのかと分かる。そして信仰が起こされる。

 それは、私たちの力や知恵ではありません。私たちを超えた神さまの働きが、信仰の先輩の皆さんに起こされたように、わたしに、あなたに、起こされるのです。
 
   
019年6月2日
 
  花材   砥草  紫陽花  蘇鉄
 すべての主に委ねて

 すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。
                          (使徒言行録 1・24)
 
   
 イエス・キリストの教会は、神さまによって導かれ、立てられていきます。それは、神さまの恵みに他ならないし、私たち人間の思いをはるかに超えた祝福の出来事です。

 神さまの導きなしに、神さまの恵みなしに、イエス・キリストの教会は立つことはできません。

 そこには、イエスさまが、必要な人を、必要に応じて、必ず起こしてくださる。その確信が教会にはあるのです。そこに、私たちは期待し、神さまの恵みを見させていただいて来たし、今もそうです。

 マティアの選出は、もしかしたら、「120人」の思いとは違ったかもしれません。

 教会は、主イエスの教会。私たち人間の思いが先に立つ教会ではありません。私たちの思いもしないことが起こるのです。ときには、そのことに翻弄されることがあるかもしれません。

 しかしそこに、確かに、イエスさまはおられるのです。
 
   
2019年5月26日

花材   砥草 アルストロメリア
     紫陽花

 これほどの信仰を

 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
                             
                           (コリントの信徒への手紙 一 3:6)

 成長させてくださる神は、「わたしはアポロに、わたしはパウロに」と言い争っている間、どこにおられたのだろうか。まったくの傍観者であったのだろうか。見放されていたのでしょうか。

 そうではありません。主イエスを忘れて言い争っている真っただ中に、イエスさまは確かにおられたのです。

 私たちが気づかなかった。気づこうとしなかった。私たちは、それほどに自分にしか目がいっていなかったのです。

 私たちも、ときには、言い争いがあるでしょうし、大きな壁の前に立ち尽くすしかないこともあるでしょう。

 しかし、私たちを見放すことはなさらないイエスさまは、共にいてくださって、私たちの信仰が違う方向にいかないように、祈り続けてくださっているのです。

 そのようにして、私たちを、キリストの教会として、イエスさまと共に歩むものにしてくださっているのです。
 
     
   
2019年5月19日


花材    ゆずりは  南天  ゼラニューム
選んだのは、わたし

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
 
                    (ヨハネによる福音書 15・16

 
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言われるとき、「わたしと一緒に生きてほしい」というイエスさまの祈りが込められています。

 「選んだ」。それは、私たちが、イエスさまの試験に合格したから私たちを選んだというのではありません。

 イエスさまと一緒に生きたいと願いながら、できなくて苦しんでいるわたしを、自分の歩みが分からず、どうして良いか分からなくて悩み苦しんでいるわたしを、「わたしの友」と呼んでくださった。

 そして、泥沼のような状態から、引きぬき、引き上げてくださった。そして、神さまの愛の中に導いてくださった。

 それが「わたしがあなたがたを選んだ」と言うイエスさまの言葉なのです。

 だから私たちは、イエスさまと一緒に歩むのです。   
 
   
2019年5月12 日

花材    そけい  百合 アレカヤシ
いのちのパンをいただいて

 彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。 「わたしが命のパンである。」
                         (ヨハネによる福音書 6・34-35)


 永遠の命を与えるパン、それは、イエスさまです。

神さまが、すべての人を救い、永遠の命を与えようとされて、イエスさまをこの世に遣わされたのです。

 だからイエスさまは、「わたしは、わたしを遣わしてくださった方のみ心のままに行っているのだ。
わたしは自分勝手に行っているのではない」と言われるのです。主なる神さまとイエスさまは、それぞれの内におられ働いておられるのです。

 この「いのちのパン」であるイエス・キリストが、私たちと共にいてくださり、共に生きるものとしてくださると、約束してくださったのです。

 私たちは、イエスさまとの出会いを通して、神さまの恵みを、信仰を持って受け取り、それぞれに与えられた人生が、神さまと共にある祝福の中にあると信じて歩むことによって「永遠の命」に至る道が開かれているのです。

 
   
2019年5月5日

花材    紅葉  紫蘭 フリージア3種
 
成長させてくださるのは神
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

                      (コリントの信徒への手紙 一 3:6)

 成長させてくださる神は、「わたしはアポロに、わたしはパウロに」と言い争っている間、どこにおられたのだろうか。まったくの傍観者であったのだろうか。見放されていたのでしょうか。

そうではありません。主イエスを忘れて言い争っている真っただ中に、イエスさまは確かにおられたのです。

私たちが気づかなかった。気づこうとしなかった。私たちは、それほどに自分にしか目がいっていなかったのです。

 たちも、ときには、言い争いがあるでしょうし、大きな壁の前に立ち尽くすしかないこともあるでしょう。

 しかし、私たちを見放すことはなさらないイエスさまは、共にいてくださって、私たちの信仰が違う方向にいかないように、祈り続けてくださっているのです。

 そのようにして、私たちを、キリストの教会として、イエスさまと共に歩むものにしてくださっているのです。

 
   
2019年4月28日


花材    びわ  ばら
心は燃えていた

 道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。
                         (ルカによる福音書 24:32)

 イエス・キリストの復活、それは希望です。

 イエス・キリストにおいて、死の先に、絶望の先に、悲しみの先に、苦しみの先に、「新しい始まり」が開かれていくのです。
しかもそれは、私たちを超えた「向こう側、神さまの方から」来て、新しい始まりを開いてくださるのです。
 復活は、神さまの方からくる神さまの真理、出来事です。

 私たちが、気づこうと気づくまいと、理解できようとそうでなかろうと、神さまの方から来て、私たちに寄り添い続けてくださっている。それが私たちの主イエスさまです。

 十字架の死から復活して、今、このときにも生きておられるイエスさまに、私たちは出会っていますし、聖霊を通して、イエス・キリストの復活のいのちに、触れさせていただいています。
復活のいのちに触れさせていただいている私たちは、今このときにも、心を燃やされて新たにされているのです。
 
     
   
 2019年4月21日


花材     柳   カサブランカ
      椿  シーファン  

生きている方を

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。
                          (ルカによる福音書 24・5-6

イースター(主イエスの復活)おめでとうございます。

 イエスさまを納めた墓に行って、死者の中にイエスさまを探していた婦人たちは、空っぽの墓を後にして帰ってきました。

 それは、イエスさまを死者の中にしか見出そうとしなかった絶望と悲しみからの希望と喜びへの方向転換でした。イエスさまを「死者」ではなく、「生きている方」として見出す方向転換でした。

 二人の天使たちは、生きておられる方を死者の中に捜すのかと問います。私たちの失敗は、生きている方を忘れて、墓の中を探しているようなものです。

 この生きておられる方は、私たちの失敗、悲しみ、苦しみ、悩み、そのすべてを十字架の上に背負って、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と宣言されたお方です。この方と私たちは新しいいのちに生きる希望を与えられているのです。

 
     
 
 2019年4月14日


花材
    柊南天   いちはつ  
       ライラック 
他人を救ったのに

 議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
                      (ルカによる福音書 23-35)


 「他人を救った」、そういわれるイエスさまです。

 イエスさまが、自分ではなく他人を救ったことを、だれもが認めているのです。

 十字架につけるように判決をくだした議員も、十字架につけろと叫んだ人々も、救い主なら自分を救えるはずだ、他人を救ったのだから。「自分を救ってみろ」と侮辱するのです。

 他人を救うよりも、まず自分を救えるかどうかだ。それが救い主ではないか。そう叫ぶのが、私たち人間の基準かも知れません。

 しかし、神さまは、そうではないのです。

 自分を救うことよりも、自分の命を捨ててでも、他人を救うために歩まれるのが、神さまから遣わされた救い主です。

 イエスさまは、自分を救うことよりも、他人を救うことを選ばれた。それ以外は、選ばれなかった。そして、その道を歩まれたのです。
  
 
     
 
 2019年4月7日

花材     ねこやなぎ  たましだ  ゼラニューム 

        紫ケマン  ニゲラ  紫大根

    
  
新しい契約

 これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。
わたしの記念としてこのように行いなさい。この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

                (ルカによる福音書 22・19-20)


 イエスさまと一緒に歩む「新しい契約」を、これからイエスさまから逃げ出していこうとする弟子たちと、イエスさまは結ぼうとされるのです。何とも不思議です。

 最初から成立しないかのように弟子たちに破られていく契約。イエスさまは、それを承知で結ぼうとされるのです。

 契約は、イエスさまの方からは破られませんし、打ち切られることもありません。

 たとえイエスさまに背を向けていくとしても、「この契約」の中に戻ってくる。そして、イエスさまと一緒に、また歩み出す。それまで、イエスさまは待ち続けてくださる。

 しかも、イエスさまは、ただ待っておられるだけでなくて、信仰が無くならないように祈り続けてくださって、私たちが戻ってくるのを待っていてくださっているのです。