江波キリスト教会
 
 


 毎週礼拝を飾っているお花と 週報の巻頭言の み言葉を載せています
 
   
   
   
 

  2018年9月16日

 
 花材  夏櫨  ほととぎす 小菊
 キリストはただ一度

 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。          (ヘブライ 9・28)

  
 イエスさまの十字架の血によって、しかも、その「ただ、一度だけの献身」によって、私たちは救いへと導かれたのです。だから、もう二度と「犠牲、いけにえ」を捧げる必要がなくなったのです。

 この、一度だけの十字架は、十字架に架かられた後の人間の罪の赦しのためだけではありません。

 すべての人の救いのために、神さまは、イエス・キリストを通して、ご自身を十字架にかけられ、十字架の前までの罪も、十字架の後の罪も、一切の罪を、ご自身で背負って、私たち人間と一緒に歩むと決意されたのです。

 それが、イエス・キリストの十字架です。だから、キリストの教会はこの「十字架」をかかげています。十字架のほかは、かかげる必要がないのです。


 
   
 
  2018年9月9日
 
   花材  石化柳  鶏頭  モンステラ
 あふれる恵み

  神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に  満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできに なります。                 
                          コリントU 9.8


 私たちは、一人ひとりに与えられた「賜物」をもって、神さまの働きに加えていただいている。その喜びを一緒に分かち合うことができる。パウロはそのことを神さまに感謝し、喜んでいるのです

 私たちは、キリストの恵みに招かれたものであり、日々、キリストの恵みをいただいて、その中を歩ませていただいています。
その恵みに応えて、主イエスと共に歩む。そこから「主に仕える」ことが始まるのです。

 私たちが、主に仕え、主と共に歩むことができるように、「あらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせて下さる」と言われますが、そんなことはあるのかなと思ってしまいます。

 しかしパウロは確信しているのです。「神さまは、それがおできになる」。「神さまには、できないことは何一つない」と。

 
 

  2018年9月2日
 
 花材  万両  ドラセナ  ばら 菊2種 ずいき 

 キリストの恵みの中に

 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離

れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果ててい
 
ます。                  (ガラテヤ 1・6)                      
                                 
 イエス・キリストを信じない人たちに、問題があるのではありません。イエスを主と信じる私たちにこそ、問題があるのです。
「福音」を理解しない多くの人がいる。「福音」を拒んでしまう人がいる。それが問題なのではありません。

 「福音」を自分勝手に理解して、これが「福音」だと固執してしまう、縛られ、身動きできなくしてしまう。そうすることで、「福音」の豊かさを失わせ、いのちのないものにしてしまう。それが問題なのだと、パウロは言うのです。

 私たちは、聖書のみ言葉を通して「福音」に触れ続けなければ、「福音」の豊かさを失ってしまいます。「福音」の豊かさが失われると、キリストの恵みに招かれているのに、「福音」の外にいるのと同じになってしまいます。

 主イエスの恵みの中に招かれている私たちです。主イエスの恵みから離れないで歩みましょう。

 
   
 
 2018年8月26日
 
花材  菊2種  ドラセナ  何の木
 共に座る喜び

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。  
                                 (詩編 133・1)                   

 
 主が共におられる祝福の場「礼拝」に招かれて、主の前に共に座り、主の食卓を共に囲む恵み。主日礼拝は、その喜びの場。「なんという恵み、なんという喜び」。

 今日は、北ブロックの「交換講壇」です。江波教会には松江教会の斎木郷次先生が来てくださいました。心から感謝いたします。松江教会は浅海郁典先生(呉教会)がご奉仕です。

 交換講壇は、中国・四国バプテスト教会連合の北ブロックの教会間の交わりの一つの働きです。牧師が他の教会に遣わされ、遣わされた教会で、共に主に礼拝を献げ、主を賛美する。そしてその教会の皆さまと交わりを豊かにし、祈りを共にし、私たちの祈りの課題にしていく。

 そうすることで、互いに祈り合い、覚え合う「信仰の友」が、江波教会にも、主にある他の教会にもおられて、苦闘しながらも、主の恵みのうちに歩んでおられることを覚え、主の業に共に励むものにされたいのです。
 
   
 

  2018年8月19日
 
 花材  夾竹桃  巻晒桑  クジャクの羽
 すべての人に福音を

 神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。

だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。

見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。  (使徒言行録 13・46)

 パウロが宣べ伝える「救い主」は、「十字架につけられたキリスト、救い主」です。それは、拒む人には、「つまずきの石」になるのです。

 パウロが、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントT一:一八)と言いましたように、その当時も、今も、変わりがありません。しかし、神さまに、不公平はありません。「福音」は、すべての人に与えられているのです。

 パウロは、足の塵を払って抵抗しましたが、拒んだ人たち、妨害する人たちに対しても、なお、神さまの愛と憐れみ、恵みがあることを信じて疑いませんでした。神さまが見捨てられない人を、パウロは見捨てることはできないのです。
  「異邦人の方に行く」と言って足の塵を払ったとしても、パウロは、ユダヤ人に、忍耐をもって福音を語り続けたのです。
 
   
 
 2018年8月12日
 
 花材  ミツマタ 百合 ランタナ エノコログサ
      
 隣人に対して真実を

偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。                  (エフェソ 4・25)

 イエス・キリストによって、新しいいのちに生かされている私たちは、互いに、真実を語り合える仲間、「互いに体の一部」なのだから、真実を語り合おう。
イエスさまの生き方を、使徒たちや証し人を通して聞き続けている私たちだ。イエスさまが語られる真実の言葉を、私たちも受けているのだから、主にある真実を語り続けることによって、互いに愛するものになっていこう。パウロはそう言います。。

 「罪ある」私たちが語ることのできる、ただ一つの真実は、「神さまの言葉、イエスさまの言葉」です。

 その「真実の言葉」を、私たち罪あるものが、語ることを許されているのです。

 罪ある私たちが、福音の真実の言葉を語ることが許されている。不思議なことです。しかし、神さまは、このような罪ある「私」を「あなた」を豊かに用いて、主の福音を、みんなに知らせようとされているのです。
  
 
   
 

 2018年8月5日
 
 花材  トクサ  オリヅルラン
      ルドベキア ルリマツリ 
 こどものように

 子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのよう

な者たちのものである。                    (マルコ 10・14)
  
 子どもたちが純真無垢で素直だから「神の国はこのような者たちのもの」と言われているのでしょうか。そうだとすると、私たちも、そのような「子ども」のようになることを求めて、誰がいちばん子どもらしいかを競うことになってしまいます。

 自分こそが、神の国にいちばん近いと思っていた弟子たちは、子どもはもちろん、律法を守ることができないという理由で、社会からも遠ざけられ、隅のほうに追いやられている人々も、神の国から遠いと思っていたのです。

 しかし、弟子たちが、神の国にいちばん遠いと思っていた人たちを、イエスさまは、「神の国は、このような者たちのものだ」と言われたのです。

 この人たちも、弟子であるあなたたちと同じように、神の国の住人だ。神さまに愛されている人たちだ。遠くはないのだと言われたのです。
 
 

 2018年7月29日
 
 花材   そてつ  紫陽花  実付椿
 イエスを見つめながら

  信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前

 にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお 

 座りになったのです。                     
                        (ヘブライ 12・2)

  「耐え忍ぶ」という言葉には、「何かの下に立つ」、「下に留まる」という意味が含まれています。

  私たちが、この世の人生を走り抜こうとするとき、イエスさまは、私たちの下に留まっていてくださり、私たちの人生の歩みを励まし、誤った方向に行かないように支えて くださっている。

  ときには挫折し、もうこれ以上走れない、一歩も歩けないと、しゃがみこんでしまうような私たちを、イエスさまは、丸ごと抱え、支えて、歩んでくださっているのです。

  私たちの下にまで、イエスさまは下ってこられた。それが、十字架の姿です。

  私たちは、私たちに救いをもたらしてくださったイエス・キリストを信じる信仰をもって 、
イエスさまを見つめながら、それぞれに与えられた人生を歩んでいくのです。

 
 
 2018年7月22
 
 花材   ななかまど  りんどう
      
        ゼラニューム 

 
 いちばん偉いものは

 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後に

 なり、すべての人に仕える者になりなさい。」                      
                                    (マルコ 9・35)

  私たち人間は、何ものなのでしょう。
 「神にわずかに劣るものとして、人を造り」(詩編8・6)と言われます。
  そうであれば、私たちは、イエスさまとほとんど変わらないものとして生かされていることになります。

  それほどまでに尊い命を与えられて生かされているのです。

  私たちは、この世をどのように生きて歩んだらよいのでしょうか。イエスさまは言われます。 「すべ  ての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」思いもしない言 葉です。

  誰よりも他の人の先頭に立ち、他の人を自分の思うままに動かすことができる。
  それが「いちばん先になる」ことだと、弟子たちは思っていました。

  しかしイエスさまは、私たちの生活の中で「いちばん低いところを理解し、そのいちばん低いところ に立って、支えなさい」と言われるのです。 
  
 
   
 
 2018年7月15日
 
  花材   ベアグラス  ミリオン 

        アンスリュム  トルコ桔梗
 今は恵みのとき

 恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と

神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。                      
                                       (コリントU 6・2)

  パウロは、「神さまの恵み、救い」を受け取るのは、「今だ。今このときだ」と言います。

  「神さまの恵み、救い」は、あなたがたが掴み取ることができるように、あなたたちの目の前に差し    出されている。しかも、「今、このときに」。そして「今、ここに」。    

  神さまの恵みも救いも、将来、いつの日か受け取れるというのではない。恵みをいただけるかどうか   と、不安な気持ちで待ち続ける必要もない。

  また、どこかに行かなければ受け取ることができないというのでもない。「今、ここで」受け取ることが   できる。 

   だから、無駄にしないでほしい。今すぐに受け取ってほしい。自分は受けるにふさわしくないからと
   遠慮する必要はない。「神さまの恵み」は、あなたの前にあるのだから。
  
 
   
 
 2018年7月8日
 
  花材   檜扇  菊2種
 生ける神の教会

  神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。                      
                              (テモテT 3・15)



 神さまが、イエス・キリストにおいて人となられたのは、神さまが、この世の問題や苦しみに、無関心ではなく、天の高いところから眺めているだけで何も関わろうとされないというのではないのです。

 苦しみ悩む私たちのところに来られた。人の命を傷つける争いの中に入って来られた。そして自ら傷を負われた。争いの真っただ中に、人と人がいがみあい、国と国が争い合い、人が傷つき、自然が破壊される「この世」に来られた。


 そしてその苦しみを一緒に受けられた。一緒に傷を負われた。十字架において一切を引き受けてくださって、神さまの御手に結び付けてくださった。イエス・キリストは、そういうお方として来られたのです。神さまは、このイエス・キリストを、十字架の死から復活させられました。

 「生ける神の教会」は、このイエス・キリストと共に歩み、主イエスの福音に生かされて歩む
「教会」です。その中に、私たちを呼び集めて下さっているのです。
  
  
 
  
 2018年7月1日
 
 花材   砥草  紫陽花
 キリストに結ばれて


 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく 愛の実践を伴う信仰

 こそ大切です。             (ガラテヤ 5・6)


  「愛すること」も、また、私たち人間の手の中にはありません。
 しかし、「愛」においてこそ、私たちは、神さまを見出し、自分の罪が明らかにされていくのです。

   そのような私たちが、神さまに招かれて、イエスを主と信じる信仰をいただき、イエス・キリストに結ばれるこ  とによって、主イエスの恵みの中に生きるものにされます。そして神さまの愛を受けて、神さまの愛の中で愛  するものにされていくのです。

  そこにあるのは、感謝と喜びです。

   信仰があれば、何もしなくてよい、行いは関係ないというのではありません。
  神さまの愛に生かされ、その恵みの中を生きるものは、自分が生かされる歩みの中で、その生きざまや行い  に、影響を与えないはずがありません。 

  その人のうちに、信仰を呼び起こす神さまの愛が働いているのですから。
 
 
 
   
 
  2018年6月24日
 
  花材   夏椿  鉄線 アルケミラ・モリス
 主から贈られた救いの言葉

  兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて

  神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られ ました。
                 
                           (使徒言行録 13・26)

 この「救いの言葉」は、「イエス・キリスト」そのものです。

 エルサレムの指導者たち、そして「十字架につけろ」と叫んだイスラエルの人々が、受け入れることができなかった「イエス・キリスト」です。

 イスラエルの人々は、預言者を通して、「救い主の到来」を聞き続けて心から待ち望んでいました。しかし、イエスさまがベツレヘムでお生まれになったとき、彼らは信じることができなかった。そして死罪に当たることは何もしていないのに、十字架につけて殺してしまったのです。

 かえって、異邦人であり、遠い東方の博士たちや、差別を受けて人口調査の対象にもならなかった羊飼いたちが、救い主の誕生を信じ喜んだのです。

 「救いの言葉」は、2000年の間、聖書を通して聞き続けている人々すべてに、そして私たちに、与えられているのです。
 
   
   
  2018年6月17日
 
 花材   花菖蒲  珍主梅  黄菊
 主のまっすぐな道を

 お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」   

                            (使徒言行録 13・11)

  
 
 パウロは、キリスト者を迫害して、エルサレムからダマスコに向かう途中、イエスさまとの劇的な出会いで、三日間目が見えなくなった経験を通して、イエスを迫害するものから、イエスさまに従うものに変えられました。
  
 主の御手によって、目が見えなくされた魔術師エリマに起こったことも同じです。一旦閉じられた目が開かれることによって、真の神さまに出会い、自分の間違いに気づかされ、心の目が開かれ、新しいいのちに生きるものにされたのです。

 見えていたものを見えなくされ、本当に見るべきものが見えるようにしてくださる。自分の考えや思いに固執して、見えなくなってしまっているのを打ち壊してくださり見えるようにしてくださるのです。

 礼拝でも、日々の生活でも、どこにいても、私たちの目を開いてくださり、本当に大切なことを見えるようにし、気づかせてくださるのです。
  


  
 
 
 
  2018年6月10日 
 
花材  姫七竈 百合 擬宝珠
  あなたも、あなたの家族も

 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」                               (使徒言行録 16・31

 

 パウロは、「あなた」が救われることによって、何もしなくても、「家族も、同時に救われる」と言っているのではありません。「あなたの信仰」が、「家族全体の信仰」になるのであれば、「家族一人一人の意志」は無視されてしまいます。

もし家族の中に、信じることができない人がいても構わない。神さまは、すでに、その人も「救い」の中に入れておられるのだ。

 「あなた」に働かれると同じように、「あなたの家族一人一人」にも働かれている。「あなたの家族」も「神さまが、責任をもって、「救い」へと導いてくださる。

 だから、「あなた」は心配しないで、まずあなたが、主イエスを信じて受け入れることだ。

 そして「主イエス」と共に生きることを通して、家族の一人一人に、その喜びを伝えなさい。イエスさまを中心とした「家庭」を喜び、共に、福音を分かち合うことができるように祈りなさい。パウロはそう言っているのです。

 
 
   
 
  2018年6月3日
 

花材 アリアアム・ギガンジューム  紫陽花
  
    モンステラ  ドクダミ草
思い切って、大胆に

 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って

大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
                     
                          使徒言行録 2・29

 聖霊に満たされて、『神の言葉」に生きて歩もうとするとき、建物全体が揺り動かされるように私たちの全存在が揺すぶられる。そして新しい命に生きるものに変えられて、「思い切って、大胆に」語るものにされるのです。

 しかし現実は、そう簡単ではありません。あちらこちらから圧力を受ければ、差しさわりのない言葉でその場所を何とかしのごうととすることもあります。

 そんな私たちを、イエスさまは、捉えて離さないのです。そして私たちが、「思い切って、大胆に」、神さまの恵みに生きていることを、証しすることができるようにして下さるのです。

 そべては、イエスさまの働き。イエスさまが働いておられる。イエスさまに信頼し委ねるとき、イエスさまご自身が、私たちを通して働いて下さり、私たちの想像を超えた神さまのわざを見せて下さるのです。
 
 
 
  2018年5月27日

花材 アリアアム・ギガンジューム 
    ひまわり
神の霊があなたがたの内に

 神に霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではな

く 霊の支配下にいます。          ローマ8:9


 「霊の思いは、命と平和」と言われるように、すべて命ある者が、聖霊の働きによって「神の恵み、主の平和」の中で、主と共に、「いのち」豊かに、生かされて歩むようにと、神さまは願っておられるのです。

 「霊の支配下にいます」、「神の霊に従って歩む」と言われるのは、私たちが、神さまの恵みの中を歩むということと同じです。

 それは、イエス・キリストにし従って生きる、と言うことに生きる他なりません。

 イエス・キリストに結ばれている者、イエス・キリストにつながり続けて歩んでいるものは、「神の霊、キリストの霊」が、私たちのうちに宿っている、働き続けているのです。

 だから、私たちは、もはや、罪の中にではなく、主の御手の中にいるのだから、主と共に、神さまの恵みの中を歩もうと、パウロは言っているのです。
 
 
 
  2018年 5月20日


花材 ルピナス ジキタリス 夏はぜ 百合 薔薇
     柏葉紫陽花
     万事を益としてくださる主



 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が

益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
  
                                 (ローマ 8・28)

    
 すべて、神さまに愛されている人に、神さまは「よいもの」を与えてくださる。「万事を益となる」ように共に働いてくださる。そう信じて、イエスさまに委ねて私たち歩んでいますし、信仰の先輩たちもあゆんで来られました。

 しかし、ときには、厳しい現実に涙されることもあったと思います。「礼拝」に集いたいと願いながら、年齢を重ねることで体が思うように動かなくなり、一人取り残された思いに襲われたこともあったのではないでしょうか。

 その苦しみの中で祈った。何度も祈った。ときには、祈る言葉さえもわからず、うめくことしかできなかった。

 そのような信仰の先輩たち、また私たちに、「聖書」は、寄り添って、言葉に表せないうめきをもって、祈ることさえできなくなった私たちの「祈り」を、神さまにとりなしてくださっているのです。
 
 
 
 2018年5月13日


花材 ジャーマンアイリス  シンビジューム  紫蘭
与えられる永遠のいのち

 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わ

しになったイエス・キリストを知ることです。

                           (ヨハネ17・3)

  「まことの神さまを知ること」と、「イエスさまを知ること」とは、切り離すことができません。神
さまを知ることはイエス・キリストを知ることであり、イエス・キリストを知ることは神さまを知ることです。

 イエスさまの言葉は、私たちがこの世を生きるときも、この世の生を終えて新しいいのちに生きるときも、聞くべき言葉であり、信頼すべき言葉であり、従うべき唯一の言葉です。
 私たちは、このイエス・キリスト以外に、永遠のいのちに至る道を見出すことはできないのです。

 そして、イエスさまが「時が来ました」と言われるように、今、その「とき」が来ているのです。主イエスを信じて、従って歩むときが、今来ているのです。

 何も他に知る必要はない。ただ、主であるイエス・キリストを知ることです。そうすれば、まことの神さまが分かるのです。
 
   
 
 2018年 5月6日



花材  薔薇 トルコ桔梗 玉しだ 
    かすみ草
悲しみは喜びに

 今はあなたがたも、悲しんでいる。しかしわたしは再びあなたがたと会い、あなた

がたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
                         
                                  (ヨハネ 16・22)

 イエスさまは、「わたしは、再び、あなたがたと会う」と言われます。イエスさまの方から、私たちに会ってくださるのです。私たちは、このイエスさまに出会えばよいのです。
 
 イエスさまは、復活されて永遠のいのちに生きられ、新しいいのちに生きられて、ペトロたちにも、そして
私たちにも、「わたしは、生きている。生きて、再びあなたがたと会う」と言って、出会ってくださるのです。

 そして、今ここに一緒にいてくださる。それだけではない。

 病の床にあって、礼拝に参加することができなくなっている「友」を、訪ねて下さり、そばに寄り添っていてくださる。そして、祈り続けてくださっているのです。

 「わたしは生きているので、あなたも生きる。そしてあなたと一緒に歩む。」そう約束してくださったのです。  
 
 
2018年 4月29日



花材  アロエ  薔薇2種  
主の愛にとどまる

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。

わたしの愛にとどまりなさい。
                 
                       (ヨハネ15・9)
 十字架の苦しみと死を通して、私たちに示してくださった限りない愛。何としても救いへと導こうとされる大きな愛。このイエスさまの十字架の愛にとどまり続けて歩むものとなってほしいと、イエスさまの祈りが込められています。

 イエスさまの愛にとどまり続けて歩むならば、私たちも他の人を愛するものにされ、嬉しく豊かに「愛する」ものにしてくださるのです。 「愛する」という具体的な関わりなしには、「イエスさまの愛に留まる」とい
うことは起こりません。愛するということは愛する相手がいるということ。その相手の命をいつくしみ、その存在を尊び互いに愛し合うことです。


 私たちが、「イエスさまの愛にとどまり続ける」ことによって、私たちも、苦しみ悩んでいる人に無関心ではいられなくなるし、自分のことのように思うことができるように変えられていく。そうしてくださると信じています。

 
 
 
 2018年 4月22日



花材  七竈  芍薬  小菊
互いに愛し合うものに

 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛し


たように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

                  (ヨハネ13・34)

 イエス・キリストの教会は、イエスさまの「この言葉」を刻み続けて、2000年の間歩んできました。主イエスの言葉を真正面から受け止めて立とうと、教会の歩みに刻みつけたのです。江波教会も同じです。

 しかし現実は、「誰が一番偉いか、わたしのはずだ」と言い争い、互いに愛することができない弟子たちであり、私たちです。

 イエスさまが弟子たち、そして私たちを愛されるようには、私たちは人を人を愛することはできません。

 しかし私たちが、「イエスさまの愛を受けて歩んでいる」ことを心に刻み、イエスさまの愛に、しかも十字架の愛に立ち続ける。そこから、私たちの「互いに愛し合う」ということが起こされるのではないでしょうか。

 私たちは、「互いに愛し合いなさい」と言われる言葉を心に刻んで歩み、「イエスさまの愛の中に生きる」ものになりたいと思います。
 
 
   
 
 2018年 4月15日



花材  とくさ  万両   雪の下  しゃが 蘭
わたしを通って

 
 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。


その人は、門を出入りして牧草を見つける。
                   
                   (ヨハネ10・9)
 

 羊は、弱く、迷いやすい動物なのに、それでいて案外強情なところがあるそうです。その迷い易さ、弱さのために、羊たちは、羊飼いの導きが必要なのです。
 
 イエスさまは、この羊飼いと羊たちの関係を通して、イエスさまと私たちの関係をしめされるのです。

 羊飼いが、羊と一緒に同じ門から入り、羊と一緒に歩まれるように、イエスさまは、私たちと一緒に歩まれて、私たちを神さまのもとに導こうとされるのです。

 イエスさまが「囲い」の中に連れて来て下さったのに、神さまから引き離す大きな力で「囲い」の外に出てしまい、神さまに背を向けて歩むことがないように、自分の命を捨ててでも、「どんなことがあっても、たとえ囲いの外に出ても、あなたを守る」と、約束されているのです。

 だから、「他の門」ではない。わたしである「羊の門」。この「門」を通って入ることこそ、「いのち」にいたると言われるのです。
 
 
   
 
 2018年 4月8日

  


花材  五月梅 アザミ 鳴子百合
共に喜び、共に泣くものに

 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、

一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
                
                         (コリントT12・26)

 誰もが、「弱さ」を持ったものとして、この世を生きています。その中にイエス・キリストがいてくださる。それが「キリストの体、教会」です。

 だから、パウロは、「弱さ」を持つものが、「キリストの体」の「一つの部分」
として、「そのままの姿で良い」「構える必要はない、弱いままで良い」、「今、
ここにいる。一緒にいる」、それが必要だし、大切なのだと言うのです。

 私たち誰もが持っている「弱さ」のゆえに、イエス・キリストは、徹底的に十字架
の死を苦しまれ、無残な姿をさらけ出されました。

 「役に立つとか、能力があるとか」の基準ではなく、その「一人一人の存在」その
ものが大切であり、その存在のために、イエスさまは十字架を背負ってくださったの
です。

 そして、死を打ち破って復活されて、「弱さ」丸出しの私たちと共に、何としてでも
一緒に生きようとされているのです。
 
 
 
 2018年 4月1日

  
花材  五月梅  百合  椿

ここにはおられない

 驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを

捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。

                        (マルコ 16・6)


 イエスさまの復活、イースター、おめでとうございます。
 2000年前に起こった出来事、「イエス・キリストの復活」を、私たちの理性や知識で理解することは到底できません。
 
 「神さまが働いてくださったから」というほかありません。
 しかし、「復活されたイエスさまに出会う」という経験は、パウロのように、「劇的に変えられる」ことはないにしても、ペトロや他の弟子たちと同じように、その人の人生を変えていくことも事実です。
 
 2000年の間、復活されたイエスさまに出会い、その人の生き方を変えられた人は数えきれません。「復活されたイエスさまに出会った」という事実は残るのです。私もその一人です。
 
 言葉では説明できないけれど、確実に起こった「復活されたイエスさまとの出会い」。その不思議な経験を通して、私たちは、復活されて今も生きて働いておられるイエス・キリストと共に、歩んでいるのです。
 
 
 
 
 
    
2018年  3月18日 

花材  柳 ロベ 百合 

この杯を、わたしから

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてく

ださい。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
            
                                      (マルコ14・36) 
 主なる神さまは、私たち人間をご自分にかたどって創造され、祝福してこの世に生きる者としてくださいました。

 たとえ私たちが神さまに背を向け続けるとしても、それでもなお、神さまは、心から愛され、神さまのところに
帰ってくることを待ち望んでおられるのです。
 それゆえに、神さまの「独り子」であるイエスさまの願いを拒まれ、イエスさまを十字架の上に見捨てることで、イエスさまに答えられたのです。

 この十字架の苦しみを受けることは神さまの意志であると、はっきり理解されたイエスさまは、神さまの意志
に従う決心をされました。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。
 苦しみの祈りを通して、神さまにすべてを委ねて歩む決心をされて、十字架への道を進んで行かれたのです。
 
 
 
 2018年 3月11日

花材  レンギョウ  カラー  ドラセナ
仕えるものに

 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上
になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

                            (マルコ10・43ー44)


 「偉くなりたい」と言うのは、「大きくなりたい、大きな存在になりたい」ということです。大きな
存在になりたい人は、仕えるものになり、そしてもっと大きな存在になりなさい。イエスさまの慰め
と恵みをたくさん受けて、神さまと人に仕えて、仲間たちの間でも、この世でも、大きな存在になり
なさいと言われているのです。

 このように言うと、「仕える」ことばかりが問われているように思われますが、そうではありません。
「喜んで仕えてもらう」ことも大切です。

 私たちは、仕えてもらうことが下手です。しかし喜んで仕えてもらう、小さな奉仕をしてくださることを
喜んで受け入れる。それによって、仕える人は、十分ではないかもしれないけれど、仕えるものになっ
ていく喜びをいただき、恵みをいただくのです。互いに、仕え、仕えられて、主イエスによって、「大きな
もの」にされていくのです。
  
 
 
 2018年 3月4日 

花材 青文字 カーネンション 柘植
信仰のないわたしを

 「おできになるなら、わたしどもを憐れんでおたすけくださいた。」

イエスは言われた。「
『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」

その子の父親はすぐに叫んだ。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
                             (マルコ9・22−24)
 生まれたときから、ひどい病気にかかっている息子を癒やしていただきたいと藁にもすがる思いで、父親は、イエスさまのところに連れてきました。

 イエスさまはおられなかったが、弟子たちはいた。癒やしていただけると思っていたが、弟子たちには癒やせなかった。父親は落胆したでしょう。でも、もしかしたら、その先生であるイエスさまなら、癒やせるかもしれない。だから、父親は「おできになるなら」としか言えなかったのです。

 イエスさまは、その父親の思いを見抜かれた。しかし見抜かれただけではない。これまでの父親の「苦しみ、
悩み、辛さ」その一切を心に留められ、そして引き受けられたのです。

 だからイエスさまは言われました。「『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」父親はすぐに叫びまし
た。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 
 
 
 2018年 2月25日


 椿 菜の花
わたしの愛する子

 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に

恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
                           (マルコ9・7ー8)   


 「これはわたしの愛する子。これに聞け」。この言葉をペテロたちが聞いたとき、周りにはイエスさまだけしかおられませんでした。
 一緒に山を登って来られたイエスさまだけが、ペテロたちと一緒におられるだけでした。このイエスさまと共に、ペトロたちは、また山を下りて、十字架の苦しみが待っているところに向かうのです。

 しかしそこには、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言われた「イエスさま」が一緒におられる。「十字架の苦しみと死、そして復活」を理解できないままのペテロたちだけれど、確かに、イエスさまは共におられるのです。

 この「十字架につけられるイエスさまに聞いて従う」のが、ペテロたちであり、そして私たちです。
 イエス・キリストの言葉を「心に留めて」歩みましょう。
 
 
 
2018年 2月18日 


花材   桜  アイリス  菜の花
それでは、あなたがたは


  イエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがわたしを何者だと言うのか。」

ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」         (マルコ8:29)

              
 
他の人が、どのように言っているかは分かった。それはそれで良いしかし「あなたは、わたしを、何者だというのか。」あなたにとって、わたしは何者なのか。あなたは私とどんな関係があるのか。弟子たちに、そして私たちに
問いかけておられるのです。

 ペトロが、「あなたは、メシア、救い主です」と告白すると、イエスさまは、誰にも言わないようにと言われ、そしてこれから受けるであろう「苦しみ」を予告されました。

 それは、ペテロをはじめ、弟子たちが描いている「メシア」の姿とは、ほど遠い姿です。だからペテロは、イエスさまをいさめようとしたのです。ところが、イエスさまから「サタン、引き下がれ」と叱責されてしまいました。

 しかし、このイエスさまの叱責の言葉は、イエスさまの十字架を背負い、イエスさまに従う、新たな招きの言葉になりました。
 ペテロは、「サタン」とまで言われた言葉を、心に刻んで、主イエスと共に歩んでいくのです。
 
 
   
 
2018年 2月11日 



花材 猫柳 金魚草 若松
主よ、しかし

 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の
下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」
                 (マルコ7:28)

  この女の人は、イエスさまの前にひれ伏したまま、イエスさまと真正面
に向かい合い、イエスさまの言葉を聞いています。

 そして、ひれ伏したままで、イエスさまに戦いを挑むように答えました。
「その通りです。主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパンはいただきます」。
「確かにそうです。それでもなお」と食い下がります。

 「主よ」と、女の人はイエスさまに呼びかけますが、マルコによる福音書で
イエスさまを「主」と呼び告白するのはここだけです。この女の人だけが、イエスさまを「主」と呼ぶのです。ペトロや弟子たちではありません。女の人の熱心な求め。それは、イエスを主と告白する信仰を貫いた言葉です。

 「言い伝え」に固執して、イエスさまに心を開かない当時の指導者たちの姿とは対照的に、イエスさまに何としても「娘を癒して欲しい」と願い求める
「この女の人」の信仰です。

 それが、「主よ、しかし」という言葉に込められています。
 
 
 2018年 2月4日


花材 南天 水仙 万両 日陰葛 
十二人を呼び寄せて

 イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。
                       (マルコ 6: 6−7)   

 福音の働きは、「主なる神さまの働き」。私たちはその働きに加えられる「恵み」を与えられています。それで十分なのです。
 しかし、私たちが、主イエスと共に歩むとき、私たちが語る言葉や行いに、私たちの存在が明らかにされて行きます。

 「主と共にある、あなたの歩みは、それでよいのか」と問われるのです。しかしそこに、私たちは立ち続けなければなりません。とても無理だと、あきらめてしまいそうです。

 しかしそのような私たちを、イエスさまは、主を証しするものとして遣わされます。
 「サタン、引き下がれ」と叱られたペテロが、それでもイエスさまから、「福音を伝えなさい、主の証し人として歩みなさい」と送り出されたように、私たちも、日々の生活の場で、証し人として遣わされているのです。 その日々の生活の場で、私たちが主イエスと一緒に歩んでいる。そのことは、すでに主を証しているのです。
 
 
 2018年 1月28日


花材  猫柳 キンギョソウ 菊
安心していきなさい

 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。

安心して行きなさい。もうその病気にかからず、気に暮らしなさい。          
                         (マルコ 5・34)
                   
 「娘」という呼びかけは、もうあなたは、わたしと無関係ではない。イエスさまと
共に歩む仲間、家族なのだ。安心しなさいという言葉です。

 神さまがあなたに働かれたのだ。これからも神さまは働いてくださる。それを信
じて歩みなさい。そして神さまの平安のうちに歩みなさい。「神さまの平安」から離れてはいけないよ。そう言ってくださったのです。

 この女の人にとって必要だったのは、救いを与えるイエスさまと「向かい合う」時だったのです。女の人は、イエスさまと向かい合い、一緒に歩み出すことによって生きる希望を与えられたのです。

 私たちが健康であろうが病気であろうが、どんな人にも、必要な「救い」が与えられるのです。「病気が治る」ことにあるのではなくて、病気であっても、たとえ治らなくても、神さまの「救い」は与えられる。そこに「信仰」があるのです。
 
 
 
 2018年 1月21日

花材 水仙 椿 小菊
わたしについて来なさい

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

二人はすぐに網を捨てて従った。
                 (マルコ 1;17−18)
 「捨てる」というのは、それで終わってしまうというのではなくて、そこから、「新しい
歩みが始まる」ということです。 しかも、イエスさまが、「わたしについて来なさい」と言われるのですから、その先を
、神さまが備えてくださっている人生なのです。

 自分の力に頼るのではなく、神さまの言葉に聞いて歩むことが、私たちの人生を豊かにすることになるのです。

 握り締めているものを、一度手放して、「捨てる」ことによって、新しい歩みへの道が開けていく。今まで見えなかったものがみえて来て、人生が広がり、豊かになっていく。 マルコは、「神の子イエス・キリストの福音」は、そのような福音なのだ。だから信じて、イエスさまと一緒に歩もうと、私たちに言っているのです。

 イエスさまは、「恐れることはない。私があなたと一緒にいる。安心してついてきなさい」と
言われているのです。
 
 
2018年1月14日

花材 

若松 千両 ポンポン菊 葉ボタン

神の福音を信じる

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音べ伝えて、

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

                 (マルコ1・14ー15)

 私たちは、「神の国が、すぐそこに来ている」と言われても、実感がわかないし、にわかに信じることができません。

 私たちの生活は、何も変わらないし、世界中に起こっている「争い、憎しみ合い、奪い合い」は無くならない。かえって大きくなっている。どこに「神の国、神さまの愛の支配」が来ているのか。この争い合う状態が、神の愛の支配の中にあるのかと思ってしまいます。

 しかし、「何も変わらない」と思える中に、「光の王」イエスさまは、一緒にいてくださっているのです。「闇」が覆って、私たちの目がふさがれて、見えないかもしれないけれど、もうそこに、「神の国」は、確かに、来ているのです。

 だから、私たちは、神さまの方に向きを変えて、神さまと共に歩む新しい歩みを、希望をもって始め
ましょう。
 
 
 2018年1月7日

花材 若松 千両 ポンポン菊
見よ、神の小羊

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
                 (ヨハネ1:
・二九)

  主の年二〇一八年を迎えました。
 私たちのこの一年の歩み、ときに迷うこともあるかもしれません。しかし大丈夫。「主の光」が、いつも、どんなことがあっても輝いていて

、その先を照らして導いていますから、その後をついて行けば良いからです。 主に従って歩むとき、迷い、悩むことはあっても、必ず目的地に着く。 「顔を上げて見よ」。私たちを照らす「輝く光」が、私たちの前にあるではないか。 確かに、日々の歩みの中で、とても「主を証しする」と、胸を張って言えないかも知れない。

 でもそんな私たちに、イエスさまは近づいてきてくださっているのです。だから心配
しないで、すべてを主に委ねて歩みましょう。
  
2017年12月31日 

花材 銀松笠 杉 カーネーション
すべての人を照らすまことの光

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
                           (ヨハネ一・九)

 イエスさまがお生まれになった夜、野宿しながら羊の番をしていた羊飼いたちに、最初
に告げられた言葉は「恐れるな」でした。

 真っ暗闇の中で、突然輝いた「光」。それは、かえって私たちに戸惑いを与え、恐れを
抱かせるかも知れません。
 しかし恐れる必要はない。「光」は、恐怖ではなく、苦しみ、悲しみを、喜びに変え、恐怖
や絶望を、希望へと変えるのです。

 イエスさまは、私たちの間に住まわれ、苦しむ人々、悲しむ人々と共に歩み、共に涙を流し
、共に苦しまれるお方です。

 私たちを、「暗闇」から「光」へと救い出すために、私たちの一切を背負って十字架にかかって
くださったのです。この十字架の出来事は、この地上において、起こりました。
 そして十字架の死を打ち破って復活されて、新しい命に生きて、私たちと共におられるのも、
この地上なのです。

 だから、「光」は、私たちが生活しているこの地上で、輝き続けているのです。いささかも、光
を失うことなく、輝き続けているのです。
 
 
 2017年12月24日

花材 チューリップ 杉 バーゼリア カーネーション
わたしたちの間に宿られた

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
                  (ヨハネ一・一四)

 主イエスの御降誕、クリスマス、おめでとうございます。
 「宿る」というのは、「住む」ということ。「私たちの生活の場に一緒に住まわれる」
ということです。

 神さまによっていのちを与えられ生かされているすべてのものが、御子によって救われるために、私たちの世に一緒に「住んでくださった」のです。

 私たちが生活している「この世」は、決して良いことばかりではありません。厳しく
頼りなく、虚しい思い打ちのめされることの多い「世界」です。 しかしそこに、イエスさまが一緒に住んで、一緒に歩んでくださっている。

私たちの苦しみ、悩み、虚しさ、喜びを一緒に背負ってくださっている。 私たちが、イエスさまと一緒に歩むことによって、神さまのもとにつないでくださっているのです。 
 
 
 2017年 12月17日

花材  万両 やましだ 水仙 日陰
光が輝いた

闇の中を歩む民は大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に光
が輝いた。             (イザヤ九・一)

 イザヤは、すでに神さまの御手が届いた。その光を見た。光は輝いた。神さまの救いがすでに『起こった」と、これから起こる「救いの出来事」を、過去の出来事として、語ります。

 しかし現実は未だに厳しい抑圧の中で、「解放の出来事」が起こる兆しなど、どこにも
見当たりません。人々は、「光は輝いた」と伝えられた後も、「大いなる光」に出会うまでに、真っ暗な闇の中を依然として歩み続けました。

 「メシア、救い主」が来られるなど、はかない夢。そう思うと、落胆し、失望し、立ち上がることなど、とてもできない。 そのような状況の中でなお、イザヤは神さまから託された「希望の言葉」を伝えるのです。

 「わたしは,あなたたちと共にいる神。あなたたちを見捨てることも、見放すこともしない。あなたたちを、苦しみの中から救い出す。あなたたちと交わした約束は、必ず、実現する。」

 「光」は、闇の中で輝いている。消えることはない。
 
 
 
 2017年12月10日

花材  推薦 小菊 日陰
主によって喜ぶ
主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。 
                                  (サムエル上二・一)

 信じることのできるお方は、ただ主のみ。それが分かって、ハンナは主にあって大いに喜びの声を上げました。
 子どもがいないために、「神さまに呪われたもの」とさえ言われて苦しめられ、自分自身も神さまから遠いものと思い込んでいたハンナ。

 神さまは、多くの「苦しみ」からハンナを解放され喜び祝うものにされたのです。 人の目から見れば、まったく起こりえないと思えることを、神さまは確かな御手をもって実行される。神さまの愛によって治められる「新しい世界」を実現なさる。
その確かな希望を、すべての人に与えてくださった。

 ハンナは、蔑みを受ける中で、苦しみ、涙する祈りを通して、小さいものに目を留めて顧みてくださる主なる神さまに、「新しい世界」の希望を見ることができたのではないでしょうか。
 
 
   
 
 2017年 12月3日
 
花材  ニューサイラン  ジンジャー
    カーネイション 金宝樹
 
ひとつの芽が萌えいで

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ちその上に

主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
           
                               (イザヤ書十一・一ーニ)

 主イエスのご降誕を待ち望む待降節をむかえました。

 人の罪や神さまへの背きにも関わらず、神さまの憐れみと愛のゆえに、もう一度、ダビデの末、子孫から「主の霊がその上にとどまるメシア、救い主」が生まれると約束され、希望を与えられたのです。

 イエスさまがお生まれになる、およそ700年前のことです。
 イスラエルの人々は、イザヤを通して与えられた「主の救いの計画、救い主誕生」の実現までには、およそ700年の時が必要でした。

 今日、明日、すぐに実現するのではない。何と気の長い年月。
 「神の国がいつ来るのか、どのように実現するのか」。現実とは思えないような中で、「主の言葉は確かに実現する。」という希望の中に、私たちも招かれているのです。          
 
 
 
 2017年  11月26日

花材  えにしだ  菊 ソリダスター  
わたしは主、あなたたちの神

わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたとの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。
                
                        (出エジプト記六・七)

 イスラエルの人々も、そしてファラオも、モーセの言葉を聞いて、かたくなになって
、神さまの言葉を受け入れることができませんでした。その「かたくなな心」を打ち破
って、主なる神さまは、「神さまの言葉」を、ファラオにも、イスラエルの人々にも届けられるのです。

 イエスさまの誕生を、天使がマリアに告げ知らせたとき、マリアは、「どうして、そのようなことが、ありえましょうか」と言いました。

 「救いの誕生」は、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と、信じることのできない「心」を打ち砕いて、届けられる「喜び」の出来事です。

 主は、「わたしは、あなたたちの神となって、あなたたちと一緒に歩み、あなたたちを守り、あなたたちを見捨てない」と約束し、今このときも一緒に歩んでくださっているのです。 
 
 
2017年11月19日


花材  木瓜 菊 晒ししだ  
わたしはあなたの盾
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。
         (創世記十五・五)

 アブラハムがしたことは、ただ一つ。「天を仰いで、星を見た」ということ、「神さまの方に、顔を上げた」ということです。
 天を見上げ、神さまの創造の大きさを知り、その中にある「人」の小ささを知って自分の存在を知らされた。人間は、神さまの前に、ほんの小さな存在。しかしその人間に、神さまが関わってくださって「あなたを祝福する」を言って下さった。

 「わたし」が、真ん中にいて自分の計画通りに何でも叶うのではない。神さまがなさるのだ。
 圧倒的な神さまの大きさに捉えられて、アブラハムは「はい、分かりました」と返事をした。それが、「信じた」ということではないでしょうか。
だから、「信じます」としか言えなかった。何を信じるのか、具体的に説明はできないけれど、「信じます」というだけだった。
 神さまは、「それで十分だ、それで良い。その信仰で良い」。そう言って

 
 
 
 2017年  11月12日

花材    寒桜  ストック 小菊 

どうして顔をふせるのか

アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。
                  (創世記四・四ー五)
 
  カインもアベルも、「主によって生まれた」神さまの目に尊く、大切な存在
です。そしてそれぞれに、もっともふさわしい仕事を与えられたのです。
 神さまの恵みは、カインのもアベルにも、同じように注がれています。
 それなのに、どうして「アベルの献げ物」にだけ目を留められたのでしょう。
 
 神さまは、「アベル」、つまり、はかないもの、無価値なもの、弱いもの、小さい
ものに目を留められた、ということではないでしょうか。
 
 当時のイスラエルは、そのような小さな、弱い存在だったのです。そのイスラエル
に、わたしは、あなたたちを選んで、あなたたちと共に歩むと約束されたのです。
 
 そのことを、「アベルのささげものに目を留められる」ことで、示されたのだと思う
のです。
  
 
 
2017年  11月5日
 

花材    万年青 薔薇 

いのちの息を吹き入れられて
主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
                                  (創世記二・八)
 「エデンの園(楽園、パラダイス)」に住むようになり、そこを「耕し、守りなさい」と言われたアダム。
 それは、アダムが「土」から造られたものであることを覚えると共に、植物や他の動物たちと、同様に、神さまから「いのちの息」を吹き入れられて生きるものにされて、「エデンの園」で、神さまと共に生きるものにされたということです。

 アダムは、「土」から造られたのだから、「土」から恵みをいただくものとされました。そして「土」を耕し、「土」からの恵みをいただくことを通して、神さまとの交わりに生かされて歩むものにされたのです。
 神さまが一緒にいてくださり、しかも、アダムの一番近いところにいてくださっって一緒に歩んでくださる。
それが、神さまの光に輝かされた「エデンの園」であって、アダムにとっても、人にとっても、大きな喜びで
あったのです。
 
 
 
2017年  10月29日 

花材    かや 猫じゃらし 薔薇 菊

アーメン

あなえあがたの父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。   (マタイ六・八ー九)
 
 イエスさまが教えてくださった「主の祈り」を、キリスト教会が誕生したときから、大切な「祈り」として
祈り続けてきました。
 
 「主の祈り」は、私たちの日々の生活のいたるところで、私たちが祈ることのできる「祈り」であり、
「日々の歩み」から、「主の祈り」を切り離すことはできません。
 
 私たちは、毎日の生活の中で多くの困難を覚え、ときには神さまから引き離そうとする「大きな力」に
引きずりまわされて、クタクタになることがあります。
 しかし、「死」に打ち勝って「死」に勝利されて「復活」されたイエスさまが、私たちがたとえどん底に
落ちたとしても、そこにまで一緒に来てくださって、守り続け、助けだしてくださり、再び立ち上がることができるようにしてくださるのです。
 
 そこに「神さまのみ心」が表され、「神の国」を見させていただく。私たちは、その希望の中におらせていただいて、「神の国」を経験する「恵」を与えられているのです。

 
  
2017年10月22日 
 
花材   ねこやなぎ  パイナップルリリー ドラセナ

すべてを支えてくださる主に

わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目
のある人を赦しましたように。    (マタイ六・十二)


 誰にとっても、人を赦すことは容易なことではありません。しかし、もし人を赦すことができなくて、憎しみや恨みが心に残ったまま、また、苦しみから解放されず、憎しみ続けていると
したら、人生はどんなに暗く、悲惨なことでしょう。

 その上、この祈りの言葉が、他の人の負い目を赦しますから、私の負い目も赦してください」と、他人を赦すことが自分の負い目を赦される条件だとしたら、誰がこの祈りをすることができるでしょうか。

 この祈りは、「わたしは、すでに神さまに赦されているのですから、神さまに赦されているものとして、わたしも赦すことができますように」という『祈り」なのです。

 イエスさまの十字架の死によって、無条件に赦されているのに、どうして他の人を赦すことができないのだろうか。赦さずにはいられないではないか、と言われるのです。
 
 
 
 2017年10月15日

花材   まんさく  りんどう  鳴子百合
祈ることを教えてください
 
だから、こう祈りなさい。  (マタイ 6・9)
 
 マタイによる福音書では、「あなたがたの父は、あなたがたが必要なものをご存じなのだ」と言って、主の祈りを教えられたと書いてあります。

 私たちは、自分にないものを求めて祈るのですし、祈っても祈っても聞かれないと思うと、神は、わたしたちに必要なものが何かを、ご存じないのではなかろうかと言って、嘆き、祈ることをやめるのです。また、神が必要なものを皆知っておられるのなら、何のために祈るのだろうかと思うのです。
 しかし、主は、それを信じたうえで、祈りなさいと言われるのであります。

 これは、わたしたちの常識を越えたことです。このことを考えても、祈りの世界の不思議さに、心を打たれるのであります。
祈りは、神がお求めになるものであり、また、神が与えてくださるものであります。わたしたちは、あらためて、主の弟子たちと共に、「主よ、祈ることを教えてください」と祈らざるをえません。          (竹森満佐一「主の祈り」より) 
 
 
2017年10月8日 


花材  菊 こでまり なでしこ
    
ともにいてくださる主に
 御名があがめられますように。御国ガキますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
             (マタイ 6・9−10)
   
「 主の祈り」は、祈ることだけでなく、毎日の生活の中で、「主に従って歩む』信仰の闘いでもあります。
 
 「主の祈り」を、実際に行って歩むということは、決して簡単ではありません。かえって、
祈っても「実現しない」という虚しさに襲われたり、「祈ること」すらもできない無力を、思いっきり
味わうかもしれません。

 しかし「祈り」は、聞き届けられるかどうか分からないというのではありません。私たちの祈りが、どんなに弱く、ときには迷いながら祈っても、どうにもならないと思いながら祈ったとしても、神さまに聞き届けられていることは、疑いないのです。
 「祈りは、聞き届けられる、聞き届けられている」という確信は、私たちの主である「イエス・キリスト」にあります。

 イエス・キリストにつながっていることによって、神さまは、私たち人間とつながってくださり、私たちを、イエス・キリストによって、神さまと共に生きるものにしてくださったのです。
                             
 
 
 2017年10月1日

花材  かいどう ばら ドラセナ

祈るときは

あなたがたの父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

                     (マタイ六ー九)
 
 私たちは、神さまに祈るとき、どのくらい、神さまを身近に感じているでしょうか。  
 『苦しみのとき、私を呼べ」と言われる神さまです。それほど私たちを心配し、心を痛めてくださっているのです。

 私たちが、行き詰まってしまったり、先が見えなくなったとき、「何とかしてください」と神さまに叫ぶことができる、
ようにしてくださっているのです。
私たちは、遠慮することなく、言葉を飾る必要もなく、うめき声、言葉にならない言葉をもってでも、神さまを呼び求めることが
できるのです。

 必要なものをすべてご存じの神さまを呼び求める「祈り」を、今このときにも、待っておられるのです。
私たちの「祈り、叫び」に、私たちのすべてをご存じの神さまは、もっとも良い方法で答えてくださるのです。
 
   
   
 
2017年9月24日 


花材  かいどう 菊 すすき
つながって歩む
 

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
                         (ヨハネ15・4)
 宣教開始六十年記念礼拝を感謝いたします。
 イエスさまに『つながって』歩み続けた六十年でした。私達は、これからもイエスさまにつながり、留まり続けてまいりましょう。

 復活は本当に起こったのかなど、私たちには何となく分かったようで、よく分からないこともあると思います。
それでも構わないから、イエスさまにつながっているようにと、イエスさまは言われているのです。私たちが、イエスさまにつながり続けていれば、私たちが理解できないことも、神さまが分かるようにしてくださるのです。

 イエスさまは、必死につながって生きようとする私たちを、イエスさまの方から、私たちにつながり続けてくださって、
一緒に歩んでくださるのです。
 
    
 
   
2017年5月14日

花材 ジャーマンアイリス  シンビジューム  紫蘭
わたしを通らなければ
 

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
(ヨハネ 14・6)


 この道は、イエスさまが開いてくださる道ですし、イエスさまご自身が「その道」ですから、誰もがイエスさまを通して知ることができるし、歩むことのできる道なのです。
 そして、イエスさまの「この道」を通って、私たちは父なる神さまのもとに行くことができるのです。

 イエスさまは、私たちと一緒に歩んでくださる人生の同伴者です。

 私たち一人一人に寄り添い、病いや疲れを癒し、苦しみを担ってくださり、どんなときにも一緒にいてくださるお方です。

 このイエスさまを通して、私たちは愛と恵みの神さまを知ることができるのです。
 だから私たちは、イエスさまに祈ることを通して、愛と恵みの神さまを知ることがいつもできるように、イエスさまといつも一緒にいて歩むことができるように、イエスさまにつながっていたいのです。 
 
   
2017年5月7日 

花材 シンビジューム  つつじ  ドラセナ
いのちの主
 

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
(ヨハネ 11・25)


 「あなたの兄弟は復活する」と言われた言葉に、マルタは悲しみの中にも、ラザロ終わりの日に復活して生きるのだと安心を得たのかもしれません。

 しかし、イエスさまが言われるのは、いつ来るか分からない「終わりの日の復活」ではありませんでした。復活の命は、今、私たちに与えられていると言われるのです。
 イエスさまが「復活であり、命」です。今すでに復活して新しい命に生きておられるのですから、復活は、いつ来るかわからないことではなく、「今、ここに」起こっていることなのです。

 私たちが、自分の手の中に、神さまを捉えているのではありません。神さまが、私たちを捉えてくださって、御手の中においてくださっているのです。
 その信仰に生きようとするのか、すでに復活のいのちに生かされて歩むものにされているのを信じるのかと、私たちに問うておられるのです。
 
 
   
2017年4月30日 

花材 ストレチア カーネーション  小手毬  ドラセナ
キリストと共に復活
 

あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。
(コロサイ 3・1)


 イエスさまが、十字架の死から復活されて、新しいのいのちの歩みを始められた。その復活のいのちに触れた私たちも、イエスさまと一緒に復活させられたのだ。
 「古いわたし」がキリストと共に死んで葬られ、キリストと共に復活させられた「新しいいのち」の歩み。すでに新しいいのちに生きるものにされてイエスさまと共に歩んでいる。それが、今のわたしであり、あなたであり、私たちなのです。


 そんな私たちと、神さまは、昨日も、今日も、これからも、一緒に歩んでくださり、どんなことがあっても見放すことも見捨てることもなさらないのです。


 このように、キリストと共に復活させられて、今も生きておられるイエスさまと一緒に、新しいいのちに生きるものとされている私たちなのだから、「上にあるものを求めて歩もう」と励ましているのです。

 
 
   
 2017年4月23日

花材 ストレチア カーネーション  霞草  ドラセナ
新しいいのちに生きる
 

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。                    
(ローマ 6・4)


「新しいいのちの歩み」。それは「神さまの恵みに生きる、神さまの恵みの中を歩む」ということです。

復活されたイエスさまと一緒に歩む私たちも、復活のいのちに生きておられるイエスさまと、不思議な、しかし確かな出会いをいただいて新しい歩みへと導かれていると信じて歩んでいるものです。

その確かな歩みが、イエスさまの十字架の苦しみと死を通して与えてくださった「新しいいのちの歩み」。私たちがまことのいのちをいただいて生きるために、イエスさまは十字架で死んでくださった。

そして復活されて、イエスさまご自身が新しいいのちに生きて、私たちを「神さまの恵み」の中で歩むようにしてくださり、新しいいのちに生きるものにしてくださったのです。

 
 
   
17年4月16日

花材 百合  すすき  ミリオン
あなたがたより先に
 

あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。                     
(マタイ 28・7)


イースター、おめでとうございます。


 ガリラヤは、イエスさまが、ペトロをはじめ弟子たちを最初に召し出されたところ。一緒に福音の働きを始められたところ。ペトロたちが生活し歩んだところ。これからも歩もうとしているところ。ペトロたちの日常の生活の場所です。


 そこに、「先に行って、待っている」と、イエスさまは言われるのです。
 イエスさまは、逃げ出していった弟子たちも、女性たちも、そして私たちも、誰一人、見捨てられません。
 私たちを、一人ひとりの日々の生活の場で呼んでくださり、一緒に歩もうと声をかけてくださって、日々の歩みの中で、新しい歩みを始めようとされるのです。


 そしてイエスさまと一緒に歩む私たちに、死に至るいのちではなくて、永遠に生きるいのちを与え、共に生きようと呼びかけてくださっているのです。

 
 
   
2017年4月9日 

花材 雲龍柳  薔薇  鳴子百合
他人を救ったのに
 

「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。                     
(マタイ 27・42)


 「他人を救った」ことは、イエスさまと対立する人たちも認めています。誰もが、イエスさまに癒され、救われたからです。
そうであれば、他人を救ったのだから自分自身も救えるはずだ。十字架からだって降りられるはずだ。そう叫ぶのです。


 しかしイエスさまは降りて来られない。降りようともされない。神さまのみ旨は、他人を救うことであって、自分を救うことではないからです。


 「他人を救う」というのは、その人と神さまとの関係を取り戻すということ。神さまとの関係を取り戻すことによって、私たちは、神さまにつながり、神さまと一緒に生きるものになるのです。


 もし十字架から降りて来られたら、自分こそ十字架から降りることのできるものだということを証明するだけの「十字架」になってしまいます。
そうじゃない。みんなが言うように、「他人を救うけれど、自分を救うことをしない」イエスさまなのです。
 
 
   
2017年4月2日 

花材 椿  黄梅  雪柳
激しく泣いた
 

ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。                     
(マタイ 26・75)




 弟子たちに逃げられ、ペトロに知らないと言われて、イエスさまは、完全に見捨てられ孤独になられて重い十字架を背負われました。それでもペトロや他の弟子たちと一緒に歩む。イエスさまは、その決意も込めて、十字架を背負われたのです。


 私たちは、その十字架のもとでしか立つことはできないのです。その十字架のもとに立つことで、前に歩み出す勇気と希望を与えられるのです。


 ペトロは、自分が「イエスなど知らない」と否定してしまったことを、後に多くの人々に語り、イエスさまの大きな愛を証ししました。イエスさまとペトロしか知らないことですから、ペトロが黙っていれば誰も分からなかったでしょう。
 けれどもイエスさまの大きな愛に触れたとき、人々に語らざるを得なかったのです。「こんな弱い私でも、主は、愛してくださっている。そしてわたしのために十字架に架かってくださった」。

 
 
 
2017年1月22日

花材 雪柳  オリエントリリー  ドラセナ
わたしについて来なさい
 

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
 (マタイ 4・19−20)


 「主イエスに従う」というのは、「主イエスの背中を見つめて歩む」ということです。


 「すぐに網を捨てて従った」ペトロたちだけではなく、イエスさまに従って歩もうとした他の人たちも、自分の全存在を揺り動かす「主イエスとの出会い」が起こされて、握りしめていたものを手放し、「主イエスの背中を見つめて歩むもの」にされたのです。
  

 私たちは、一人一人に与えられた日々の生活の中で、「主イエスの背中を見つめて」、主イエスと共に歩もうとしています。
「自分の生活の場」。そこが「主イエスに従う場」であり、主イエスと一緒に「福音の働きをする場」になっているのです。


 「すぐに網を捨てて」というのは、自分の生き方の中心を、「自分」から「主イエス」に置き換えること」。そして与えられた生活の場で、主イエスを真ん中において、主イエスの福音を生きるものとして歩むのです。