一.初冠(ういこうぶり)
そんな夏休みだった。いちめんの緑の草と水のにおいと、夏の真昼は太陽が真上に上がるせいか、短い陰がいっそう黒々としていた。冷たい川で泳ぎ、アイスキャンディーを買い、宿題をするふりをした。祖母が食事の世話をし、蚊遣りを焚き、布団を敷いてくれた。
中学に入ってからは、夜のラジオに夢中になった。弟と従弟と布団に腹ばいになって聞いた。が、宿題はあいかわらず夏の末にじっと待っていた。
高二の夏私は、この明るい山あいですごすのは、ひとまず終わりにするつもりでいた。来年は大学入試に向けての勉強に没頭するつもりだった。その夏は、部活動がいったん休みになってから行ったので、八月になっていた。
宿題は山ほどあったが、私が手にしたのは、暗誦の宿題がでていた百人一首だけだった。開いてはながめるだけで、いっこうに暗記する気にはなれなかった。盆前になっても、ただの一首も私の頭の中に入ってはいなかった。
盆の入りの前日、従姉弟たちがやってきた。私と同級の従姉は、私が開いて伏せたまま寝ころんでいた百人一首のテキストを見つけた。
「どれくらい覚えた?」
「んん……」
私は伏せていたテキストを再び顔の上にかざした。
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにしわれならなくに
大きく太く印刷されたその歌の横に、通釈が橙色の小さな文字で印刷されていた。
「みちのくのしのぶもじ刷りのように乱れる私の心はだれのせいで乱れはじめたのだろうか、私のせいではないのに(あなたのせいで乱れたのですよ)」
私は、初めて彼女の声や顔を意識したように思った。同い年の彼女は、弟がいるせいもあってか、いろいろと世話焼きであったが、私は従弟と私の弟と三人でばかりでいて、彼女は彼女の大好きな祖母と家事をいきいきとしていた。
その時私が考えたのは、彼女も同級で、やはり百人一首を勉強しているのだなということだった。幼い時からよく会っていた彼女を、異性として意識することを、私はずっとせずにいたし、そのときもそうだった。
そしてその時、彼女は偶然、私が目にしていた歌を暗誦しはじめた。それに追従するかのように、庭の柿の木から油蝉の声が鳴き始めた。
「みちのくのしのぶもじずりたれゆえにみだれそめにしわれならなくに」
家の脇を流れる渓流の音が、油蝉の鳴き声の奥に聞こえた。
その夕方からだった。祖母が痴呆症の兆候をあらわした。
祖母が準備した夕食は冷凍の海老フライとハンバーグだったが、海老フライはフライパンで炒めてあり、ハンバーグは油で揚げてあった。私たち孫はその間違いを口々に指摘したが、祖母はいっさい受け入れなかった。もともと頑固な祖母であったので、私たちはしようがないという表情でそれらを食べた。その間、従姉はなにも言わなかった。
「みだりそめにしわれならなくに」
乱れはじめた。まるで自分でないかのように。
そのように私は歌を理解していた。
昔、ある男が、元服して、奈良の都、春日の里に所領する理由で、狩りに行った。その田舎に、たいそう艶めかしい姉妹が住んでいた。この男がこっそりのぞき見た。思わず昔の都には似つかわしくなく暮らしていたので、心戸惑った。男の着ていた狩衣の裾をちぎって、歌を書いて送った。その男は、しのぶ刷りの狩衣を着ていた。
春日野の里に住む若紫のような若々しく美しいあなたのような刷り染めの衣、そのしのぶ刷りのような心の乱れは行きつく先がわからない
と即座に詠んで贈った。すぐに、おもしろいことと思ったのであろう。
みちのくのしのぶもじ刷りのように乱れる私の心はだれのせいで乱れはじめたのだろうか、自分のせいではないのに
という歌と同趣の歌である。昔の人は、このように年少のうちから風流をしたものだ。