三.ひじきもといふもの


 豆腐のみそ汁とひじきには、幼いころの思い出がある。ただ、私はのべつまくなしにつづいてきた存在だという実感があるので、いつが幼いころなのか判然としない。が、小学校高学年だったろう。

 母の里では、地区総出で法事をする習わしがあり、それ用の赤い塗りの箱膳が何組も用意されていた。そして、伯父や祖父の法事の時は地区の人々が朝から集まり、台所や座敷のにぎわいはお祭りのようだった。私たち子供にも、めいめいに箱膳があてがわれ、精進料理の昼食を摂った。その時に必ずあったのが、豆腐のみそ汁とひじきだった。そしてそのどちらも、私は苦手だった。

 豆腐のみそ汁は焦げ臭かった。今にして思えば、田舎風の濃厚な豆腐を、みそ汁の中に入れ、ぐらぐらと煮立てたために、植物性蛋白質の焦げたにおいがしていたのだろう。家で母が作ってくれた豆腐のみそ汁は嫌いでなかったが、かなりの歳になるまで、焼き豆腐と厚揚げは、苦手ではないにしても美味しいとは思わなかった。

 ひじきは、なんだったのだろう。私の中では、食物の範疇に入ってなかったようだ。黒々として、もさもさとして、海草と言うにはあまりに短くぼつぼつとして、これが海草だと言われても、私にはひじきが海の中で漂っているイメージが結べなかった。

「伊勢物語」のこの章段の解説を見ると、当時珍しいものとしてあつかわれているし、ひじき加工会社のホームページを見ると、女性の美しさを引き立てるものとされていたとある。今も髪の黒さを艶々させる効能があるとされているし、栄養的にも効果あるものとして扱われている。

 しかしともかく、私には食物としては認識されていなかった。なぜこんなものが食膳にあるのか、理解できずにいた。箱膳の上に、ご飯やみそ汁、漬け物や他の副食物と並んで、醤油で煮しめたボール紙の切り屑が置いてあるようだった。これは誇張ではなく、実際にそう思っていた。それくらいに、私にとってひじきは食物ではなかったのである。

 ある年の法事の時、たぶん小学5年生か6年生の時だったろう。

 祖母の家は古い農家で、母屋に接続して牛小屋があり、その隣に便所と風呂が接続していた。ごく小さいころは、便所に行くたびに黒々と大きな牛の前を通るのが恐ろしくてたまらなかった。やがて牛はいなくなり、牛小屋は納屋になり、その上の二階に小さな部屋が作られた。

 そこには、少し年の離れた従姉が下宿したり、誰か勤めに出ている女性が住んでいたりしていたようだが、その時はただの空き部屋だった。その二階で、私たち従兄姉弟どうしは法事の食事を摂ろうと言いあわせた。そのように、親や叔母たちに言ったはずであった。が、いつの間にか従姉弟たちや私の弟はいなくなり、私だけが待っている部屋に叔母が上がってきた。そして、腹立たしげに箱膳を置いた。

 私はひとり取り残されたのだ。従姉弟や弟は大人たちと座敷で食事を済ませたようだった。その牛小屋だった上の二階で、私は意地になって食事をした。ひじきの小鉢に箸をのばし、やはりその食物を理解できずに。

 今思うと、私は生まれついて、外れた存在なのだろう。そして、外れた存在の私に、ひじきは理解できなかった、ということなのかもしれない。

 外れた存在である私から、さらに外れてひじきがあったということかもしれない。私は理解不能なひじきを、その時食べた。

 私がひじきを食物として認識したのは、結婚してからだった。結婚した彼女がひじきが好きだったのだ。あの時と同じように調理されたそれは、しかし、私の口に入った。その時、ひじきを食物として理解した。けっこうなものだと思った。

 そして、理解不能な自分というものが、理解不能と言うことすらおきざりに取り残された。


 昔、男がいた。思いを寄せる女のもとに、ヒジキ藻というものを送り届ける時に、

  あなたが私を思っているならばどんな粗末なところでもいっしょに寝ましょう。ひじきの「しき」ではありませんが、敷物に私たちの袖をしてでも

 二条の中宮高子が、まだ中宮にもおなりでなく、普通の身分の方でいらした時のことである。


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