唐津焼の技法について

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 唐津焼は朝鮮からもたらされた技術が基礎になって発展したものです。その中心になったのは秀吉の朝鮮出兵によって朝鮮から拉致されてきた陶工でした。唐津の町自体その名前は、中国との貿易港であったことに由来しています。唐津から玄海町を通って伊万里に行く途中に鷹島という所があります。ここは元寇の役の時、攻め寄せてきた元の船が沈んでおり、近年、水中考古学者による発掘が進み遺物のも引上げられています。大陸と日本の関係を考えた場合、博多もそうであったように、古くから中国・朝鮮を中心とした東アジア世界との交流の窓口であったといえます。

 また、西日本では陶器のことを「からつ」と呼び、東日本では「せともの」と呼んでいますが、これは唐津から船積みされていたことによります。同じように有田焼を「伊万里焼」と呼び習わしてきたきたのは、伊万里の港が積み出し港であったことによります。

 有田焼が誕生したのは、唐津焼が母体でした。有田焼はご存知のように磁器ですが、唐津焼は陶器です。有田焼が焼成される以前に、唐津焼は、唐津市周辺のみでなく、伊万里、有田、嬉野そして武雄周辺を含む広い地域に煙をあげており、それぞれ地域によって特色のあるやきものを造っていました。一般に唐津としてイメージされるものにとどまらず、いま民芸として括られている黒牟田、弓野の白化粧の上に茶色と緑で松の絵を描いたもの、また多々良の叩きの技法による壷など多彩な窯があります。ごく初期の磁器焼成の窯として知られる有田の天狗谷窯、百阯qにおいても唐津焼が焼成されていました。なにかの時に泉山に磁石が発見されたことにより、磁器焼成の技術を持っていながら陶器しか焼けなかった朝鮮陶工がいっきに磁器焼成に走り、その結果、地味な唐津焼が衰退していったと言えるのではないでしょうか。ただ、泉山での磁石発見以前にも、唐津市周辺の窯ですでに磁器がわずかながら焼成されていたと唐津の窯を尋ねたおりに聞いたことがあります。有田に比べて唐津の窯の発掘がほとんど行なわれていないためその当たりのことが明確ではありませんが、窯場周辺で僅かでも磁石が発見されれば技術は持っていたので焼成したと考えることができ、試験焼成した結果質が悪く継続しなかったものと考えられます。こうした磁石探索は常に行なわれており、その努力の結果泉山が発見されたのではないでしょか。

 ここでは、唐津焼の技法について、紹介したいと思います。とはいっても技術的なことではなく、いままで窯元巡りをして実際に聞いたことや、本を読んで、また実際に見て感じたことなどを中心とした独断と偏見によるものであることを前提として読んでいただければと思います。新しい情報が入ればその都度修正して行きたいと思っています。

【斑唐津】

 斑唐津と呼ばれるものは、わらの灰を中心とした釉薬により焼成されるもので、白い発色をしており、炎の当たり具合によりピンク色に窯変したり、ブルーの斑点やオレンジ色の斑点ををところどころに発色させたものです。斑唐津が珍重される最たるものは「ぐい呑」でしょう。酒を注ぎ見込みにちらちらと揺れるブルーの斑点はきれいなものです。斑唐津の技法は、朝鮮系の他の窯でも見られるものです。高取焼の古いものでは唐津焼として通用しているものもあるといわれています。また、萩焼で、白萩と呼ばれるものもそうです。萩焼の方が、斑唐津に比べてはるかに白く焼成されますが、冷たい感じがあります。この違いは、唐津では、先述の通り、わらの灰を使いますが、萩では籾殻を使うことによるそうです。籾殻の方が珪酸分が多くより白く発色するといわれています。

 白いやきものには志野もあります。この白さは長石によるものです。唐津焼や萩焼の技法とは全く異なるもので、日本で独自に開発されたものです。志野の美しさは白とその下から浮かび上がる緋色のコントラストにあると思います。これら三種類の白さはそれぞれ異なった雰囲気を醸し出しています。このようにやきものの白さにはいろいろあり、斑唐津にもいろいろな白さがあります。今ではセメント色ががった感じのものが大半ですが、温度や焼成される場所によって、色合いなど非常に違ってきます。西岡小十先生のぐい呑で非常に柔らかく、やさしい調子にあがったものを手に入れたことがあります。30年近く通ってこのような感じの斑唐津を見たのは後にも先にもこれ一点です。見る機会がなかっただけなのかもしれませんが・・・。その時、奥にしまわれていたのを表にもってきておられるのにたまたま出っくわしたからでした。他の窯でもこのような発色は見たことがありませんでした。その日、懇意な窯に行ってそれを見せると、ある場所ではこうした感じになるとの話を聞きました。そこの窯でもこうした発色のものを見たことはありません。ごく限られた場所で特別な条件が与えられた場合に出来るのだろうと考えられます。自我自賛で造り手から見れば「おまえが言うほどのものではないよ」と言われるかもしれませんが、私の狭い経験の範囲では他に例がありません。(最近実家の建て替えの際、祖父の収集していたぐい呑などが出てきた中に同じような感じの斑唐津がありました。古いものではありませんが、昭和30年以前のものです。)

 古唐津の斑唐津と現代の斑唐津とを比べると白さに違いがあるように思います。その原因は現在の藁には農薬が含まれているからだとも言われまし、釉薬の調合や、土の違いによるのでしょうか。また、白い発色ではなく全面コバルトブルーに発色しているものもあります。辻清明著「ぐいのみ」(保育社のカラーブックス)の中で紹介されている藤の川内窯の斑唐津のぐいのみやどこかの雑誌で紹介されていた藤ノ木土平氏の花生を見たことがありますが偶然の産物でしょうか。中里太郎右衛門さんは斑唐津について、「失透性の藁灰釉は釉にむらむらが出来ることから斑唐津と呼ばれている。調合の基本は藁灰一、土灰一、長石一の割合である。岸岳古唐津の帆柱、皿屋両窯の初期のものは中国宋鈞窯の天青磁に酷似しているが、時代が下がるにしたがって白くなる。慶長の役以降になると黄色味が加わる。古唐津の斑唐津には火の強くあたった所に、コバルト色の小さな斑文が出ているが、現在ではこの斑文は出ない。基本的に釉の調合が違っているのかもしれないが、それ以上昔と今日の藁が違っているところに原因があると考えられる。藁のかわりに籾殻灰、笹灰なども使用する。」(日本のやきもの4唐津P130・淡交社)と、また、帆柱窯について「昭和二十二年ごろ、故加藤土師萌と発掘したとき、最下層から中国宋鈞窯の天青磁を思わせる藁灰釉の陶片が多数出土した。鈞窯風の釉は、会寧付近にみられるもので、加藤氏によれば、咸鏡北道の鏡城朱南面のものとよく似ているとのことであった。朱南面は鏡城、清津の港に近く、ここの陶工が松浦党に連れられて岸岳山麓の帆柱に来て朱南面式の窯を開いたと考えるのはこじつけであろうか。」(同上P88)と、青い発色の斑唐津の存在を指摘されているが、辻清明氏のぐい呑を別にすれば、他に報告されている例を知らない。ただ、我が家に鈞窯を思わせる発色をした朝鮮唐津の香炉がある。箱書きには「寺沢唐津 朝鮮唐津系 泣早山窯 三河内免前田多々良 文禄役渡来鮮人陶工作」とある。中里太郎右衛門さんは「岸岳くずれの陶工連が、平戸領三川内の長葉山に逃れて開窯したという話もある。泣早山のことである。」(同上P95)と述べられていることから、この香炉の出生地が岸岳直系の窯であるとすれば、この色合いであるかもしれない。ただ、泣早山についての資料がなくその出生が正しいか否か不明であるが、斑唐津を知る上での多少の参考になり、探求の夢を得ることはできるのではないでしょうか。

 また、全面ピンク色に発色する可能性もあると思います。窯の神様の気まぐれも非常に楽しい思いを与えてくれます。この気まぐれに巡り合うためには足しげく唐津に通い、面白いものが取れた時は必ず連絡してもらえる関係を築く必要があります。

 どのような斑唐津が良いのかとなると好みの問題かもしれません。西岡小十先生が「陶説561号」の対談で次のように話されています。

西岡 「・・・この斑の陶片にしても、私たちが焼いたら釉がみんな流れて、この辺が青くなってしまう。」
「いまの作家の作品は、むしろそういうものを斑といってますね。」
西岡 「いまの焼き方と、昔の焼き方は全然違います。長時間焼いて、温度を上げずに、それでいて釉が溶けるような調合をしている。だから土の生地がちゃんと出ている。皿屋の窯址を掘っても、そういう陶片は百ぐらいの陶片の中の何個かですね。わたしが見て、いいなと思う陶片はそんなもんですよ。」

 一般論として斑唐津は厚めに釉をかけるものと考えられてきているはずです。薄くかけたものをほとんど見ませんし、先生の作品にもあまりないと思います。先の自我自賛のぐい呑はむしろ釉が厚くかかったものですし。ここで語られているのは、西岡先生の斑唐津の理想像だろうと思います。

 黄瀬戸の原憲司さんの所にお邪魔した折に見せていただいたのが、大平窯址で拾われた1cm四方の小さな陶片でした。それは見知っている黄瀬戸の色よりはるかに白いものでした。白といっても良いようなものでした。これが原さんの求める黄瀬戸だと熱く語られました。一時それに近づいていましたが何時の間にかいわゆる黄瀬戸の色に近づいていき、独特のかすかにくすんだオリーブ色を感じさせる実にいい黄瀬戸へと変化していきました。これには業者からの忠告があったのではないかと思います。売る立場からは原さんの目指す色では売れないからです。確かに、原さんの目指す色は、伝世品の色と比べ明かに薄くて違っています。これも西岡先生と同じように、原さんが陶片の中に見出した一つの理想だったのでしょうか。お二人とも、良い悪いの問題ではなく、本筋の色とは外れた所に理想のものを見ながら、その再現ではなく、それを含めた伝統の上に立ち、自分のものを追求されているのだと思います。

 ただ、最近、西岡先生が言われている土の生地が見える斑唐津と思わせる感じのものを、ある窯で手に入れました。これは山瀬の土で造られたもので、薄く掛けられた釉藥の向こうに地肌を感じ取ることができます。「長時間焼いて、温度を上げずに、それでいて釉が溶けるような調合」ではないかもしれませんが、しっかり釉藥が溶け、テリの出ているものです。一般に焼かれている釉薬で覆い尽くされた斑唐津と違い、釉薬を透かした地肌のあたたかさが感じ取られ、心が和む使い心地がします。なぜ釉薬を薄くしているのかについて聞いたところ、山瀬の土は粘土質のものと違い、きめが細かく磁器に近いものであり、焼成しても地肌に吸収されないため薄くせざるを得ないといっていました。たしかに、他の土で造った斑唐津は他の窯と同じように厚くかかっていました。窯を焼く人は、我々のしらないところで、いろいろな技術を試行錯誤しながら頑張っておられます。このワインにはどんな料理を合わせるか、どんな順序で飲むかを考えるのと同じでしょうか。

 斑唐津の釉薬との土の関係によっては全く違った調子にあがると思います。赤い土との関係、岸岳系の砂目の多い白い土との関係また山瀬の磁器質の土との関係など、今後窯元巡りの中で聞いてきて報告したいと思います。

【朝鮮唐津】

 朝鮮唐津は、わら灰釉と黒飴釉を掛け分けたものです。よく見られるのは黒飴釉を掛けた上に、口縁部周辺に   掛けたわら灰釉が溶けて流下しながら景色をつくっているものですが、その逆に黒飴釉を流下させたものもあります。   朝鮮唐津は好きなやきものですが、素直に気持ちよく受け入れられるものは少ないように思います。造り手の品性が   もろに現れ、いやらしさを感じさせるものが少なくありません。奇をてらった作品は一見するとついつい心をひかれて   手を出してしまい、使っているうちに嫌になってしまいます。パッと見て気に入り、買ってしまうことの繰り返しで   すが、この繰り返しによって自分の探しているものがどんなものか何時の間にか見えてくるようになるようです。   やはり毎日使っても飽きないもの、使っていることを意識させないもの、しっかりした個性を持ちながら自己主張   を感じさせないやきものが自分のもとめている、いわゆるいいやきものであると感じています。

 西条の賀茂鶴に酒蔵見学に行った折、賀茂鶴の理想とする酒は、呑んでこの酒は旨いと感じさせない、それでいて 飽きさせない、口の中にいつまでも味を残さない酒、それでいて豊かさを感じさせる酒だと伺ったような気が します。見学のあと美酒鍋を囲んで4〜5時間、杜氏さんや営業の方と話し込んでいい加減酔っ払っていたため 以上のように勝手に理解しています。その時、営業の方から、次のような歌を教えてもらいました。

  「うまさけはうましともなく飲むうちに酔ひての後の口のさやけき」(坂口謹一郎)

 ほんとうに良いものとはこんなものでしょうか。

 朝鮮唐津で感じのいいものは西岡良弘先生の作品だと思います。いい感性の持ち主であり、作品もかなり厳しく 選別されているようです。窯の上に置いてあった朝鮮唐津のぐい呑みが良い出来だったので分けてもらおう としたらダメだということでしたが、結局お土産としていただきました。薄造りの、たちぐい飲みでわら灰がたっ ぷり流れたものですが、わら灰がいまひとつ溶けてないのでしょうか。わたしには何が気に入らないのか分りません。 普通こうしたぐい呑みは厚めに造られるのですが、薄く造ったのは冷酒を呑むのには薄いほうがよいからとのことでした。

 小十先生の朝鮮唐津は、人柄をあらわしており穏やかな気持ちのよい風合いをもっています。ぐい呑み、徳利、 花生、陶板など・・・。花生はかなり技巧をこらされていますが、それを感じさせない品格があり、嫌やみを感じさせません。 ぐい呑み、徳利、陶板は、逆に素直に造られているように感じます。陶板は玄関に飾ったりでき、また料理もったりと 楽しめるものです。

 藤ノ木土平さんもいい朝鮮唐津を焼いています。がっしりとした骨格のある力強いものを焼いています。この窯を 知ったきっかけは、偶然唐津の店で朝鮮唐津の掛け花生けを見たからでした。小十先生の名前を知ったのも辻清明氏 の著書「ぐいのみ」の中でみた朝鮮唐津のぐい呑みでした。土平さんも最初のころは釉の調子もまだ平板な感じでしたが、 今は、独自の境地を開いており、一見して藤ノ木土平作と分るものです。花器に厚く掛け流したわら灰釉と黒飴釉の コントラストの見事さは他の窯には追随できない力強さがあります。唐津に同行する若い女性連中はこの力あふれる 土平さんの朝鮮唐津に魅了されて何度も行きたがるようです。   

【絵唐津】

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