Act.1「稔之の過去(幼少編)」

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7月上旬、蒸し暑い日の夜。
亮哉と西谷は、稔之の親友、中田伸道から、
綾香と稔之の過去話を聞いていた。

父親同士が大学時代の親友同士で勤務先も同じ。
稔之の両親が共働きだった為、幼い頃の稔之は頻繁に
綾香の家に預けられる事が多かった。
そこで、綾香と稔之は出会ったのだ。

家庭的な綾香の母親と違い、稔之の母親は才色兼備のキャリアウーマン。
若い頃から、眩むような美しさを放っていたが、
30歳となった時分には、知性の輝きも加わり、
人を惹きつける魅力は、一層増していた。
しかし、稔之の母親が持つ美しさは、家庭の幸せを崩すきっかけとなった。
ちょうど、稔之の父親も仕事が一番軌道に乗っていた時期で、家庭をあまり顧みなかった事も、より歯車となってしまった。

・・・なんで、何時もこいつ居るんだ?
もうすぐ5歳になろうとする稔之は、保育園から帰宅する度に、
いつの間にか、不愉快な気分になるのが日課となっていた。
部屋には母親と、そして母親の横には、
高そうなスーツを身に纏った男が、ソファに座っていたからだ。
確か仕事先で知り合った大切なお客様だと、紹介された記憶がある。
しかし、子供心にも
『お客様』が自分達の家にいるのはおかしいというのには気付いていた。
しかも、男が来るのは必ず父親が居ない時だ。

だが、稔之はあえて疑問を口には出さなかった。
いや、出せなかったといった方が近い。
稔之の母親から、無言の制止を感じ取っていたからだ。
そして、稔之も男と一緒に居る時の母親は好きではなかった。
その男の隣に居る時の母親は、稔之が見た中でも一番美しかったが、
反面、自分を突き放すような鋭い雰囲気があった。

稔之は二人と目を合わさないように、横をすり抜け
部屋の隅にある玩具箱に手を突っ込むと、ラジコンカーを取り出した。
「おっSV-10 GT2じゃないか。
 なかなかセンス良いの持ってるね」
稔之の機嫌を取ろうとして立ち上がった男を無視して、稔之はリモコンを操作し始めた。
ラジコンカーは急発進し、そのまま勢いよく男の爪先に激突した。
激痛に顔をしかめた男の目が一転して、憎しみに染まる。
「稔之!謝りなさい」
母親の注意する声を振り切って、稔之はラジコンカーを素早く拾い上げると、外に飛び出した。

そのまま空き地へと向かった稔之は一人でラジコンカーを無我夢中で操っていた。
車は自由に空き地を駆け巡る。
しかし、稔之の意識はそこへはなかった。
喉の奥に熱い塊がつっかかり、視界は涙で曇る。
●挿絵1
擦れ違いの多い両親に甘えたくても甘えられない寂しさと、
母親を男に取られた悔しさが、稔之の心を支配していた。
涙が眼から零れそうになった時。
「あ、いた!としゆきー」
少し間の抜けた、でも明るい声が道路の方から聞こえた。
両親が不在の時、世話になっている所の娘、綾香だ。
いつもワンピースと揃った色のリボンで長い髪を結わえている。

綾香は稔之を見かけるなり、拙い足取りで駆け寄って来た。
「さっき家の前を通り過ぎたの、やっぱ稔之だったんだー
 お母さんがね、ホットケーキを焼いたから、おいでってー」
こっちが恥ずかしくなるような大声で走りながら話し掛けてくる。
稔之は慌てて涙を手の甲で拭いた。
顔立ちも急に大人びる。
勢いよく走ると危ない、と稔之が言い出す前に、
綾香は空き地の中央で見事にずっこけた。
「うう、服が汚れちゃったよ」
●挿絵2
声は困っているが、綾香自身はそんなに困っていない様子だ。
座り込んでいる綾香の前に稔之は歩み寄って、手を差し出す。
「ほら、起きろよ。
 おばさんには、一緒に謝ってやる」
綾香は迷う事無く、稔之の手を握った。
稔之の掌に、柔らかい温かさが伝わる。
「ありがと。稔之はいつも優しいね」
屈託のない笑顔で礼を言う綾香。

しかし、本当は稔之の方が救われているのだ。
『この娘は、俺を必要としていてくれるんだ』
二人は並んで綾香の家へと向かった。
稔之にとって、安らぎの場はここにあった。

「成る程、母親から得られなかった愛情を
 水瀬さんに求めているのか・・・
 実によくある話だ。
 そりゃ、水瀬さんも段々重く感じて来るわな」
亮哉は腕を組んだまま、動じる事なく、呟いた。
・・・じ、自分から頼んで話を聞いて、その態度かよぅ・・・
西谷は、密かに買っておいたペットボトルのジュースを中田に渡しながら
亮哉に対して愕然とした。
見ているこちらが冷や汗をかきそうである。
中田は気に触った様子でもなく、苦笑しながら話を続けた。
「それから、間もなく
 稔の両親は離婚したらしい。
 稔は父親と一緒に水瀬さんの家の近くのアパートに移り住んで
 その頃から、食事は水瀬さん家で。
 小学校でのプールの一件は、大体
 水瀬さんの話と一緒だな。
 稔は、中学に入ってからも、その事件は相当引きずったみたいだ」
中田の話は、稔之の中学時代へと移った。

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