Act.2「稔之の過去(中学編)」
綾香は中学入試に成功し、現在通う学校の付属中学へと進んだ。 稔之はそのまま、地元の公立中学へ。 稔之は、相変わらず綾香の家へと通い続けていたが、 二人の生活パターンが大きく違うせいで、滅多に顔を合わせることはなかった。 中学二年の時、稔之の父親は転勤でニューヨークに。 稔之は一人暮らしを始めるようになった。 母親の居ない生活に慣れていたので、そう苦にはならなかった。 部活と、家事に追われて成績は芳しくなかったが、綾香の両親は勉強の面では何も言わなかった。 しかし、稔之も14歳の少年。 誰にも甘えられない孤独と、自分に対する不信感から 校舎の裏庭で煙草を吸う習慣がついていた。 ●挿絵3 薄暗く、少し冷たいコンクリート壁に寄りかかる稔之の指の間から一筋の煙が立ち昇る。 その煙を見つめる時だけ、自分の苛立ちを忘れる事が出来た。 綾香はあの件以来、自分を避けている。 表面的には飄々と和やかだが、自分を踏み込ませない距離を作っている事は分かっていた。 あからさまに無視しないのは稔之を追い詰めない為。 だけど、幼い頃見せた憧れの眼差しで綾香が自分を見る事は決して無かった。 そして裏庭に居所を求める稔之の周囲に、いつの間にか、 稔之と同じ様に、若い時にはどうしようもない不満を抱えた少年達が集うようになっていった。 「うーむ。やはり俺の予想通り、 プールの一件以来、グレていたんだ。 全く、関谷って思考回路が恐ろしく単純なんだな」 亮哉が唸りながら、中田の話に口を挟んだ。 ●挿絵4 ・・・関谷の親友を目の前に、何て事を・・・ 西谷はうな垂れたまま、ペットボトルのお茶を口にした。 中田は淡々と続ける。 「稔はバスケ部で目覚しい活躍をする反面、 グループでつるんで、他校の生徒達と喧嘩をする事が多くなっていった。 後でクラスの奴から聞いたけど、 S中の関谷って近隣付近の中学の奴らから、かなり恐れられていたみたいだ」 そして、稔之が中学三年に進級する直前の春休みの事だった。 稔之は、待ち合わせ場所のコンビニに向かって急いで自転車を走らせていた。 稔之にしては珍しく、寝坊したのである。 慌てて自転車を止め、コンビニの裏側に回った稔之は、目の前の光景に立ち尽くした。 約束していた友達三人全員が、顔を自分の血で汚し、全身を痣だらけにして倒れていたからだ。 原因はすぐに分かった。 店の角に立っている大柄な少年だ。 稔之も中学生にしては背の高い方であるが、少年の身長は190cmはありそうだ。 体格もがっしりとして、格闘技の選手にでもなれそうだ。 「関谷稔之ってのは、お前か?」 少年は憎悪を込めて稔之を見た。 稔之は睨み返して、そうだ、という意志を示した。 少年はいきなり、稔之の襟元を掴み上げる。 「この間は、俺の連れを相当エライ目に合わせてくれたじゃねーか」 少年はその仕返しにやって来たのだ。 二人の足元から、倒れた友人達の呻き声が響いてくる。 「・・・先に、手を出してきたのは、おめーの連れの方だったぞ」 挑発的な細目になった稔之は、次の瞬間アスファルトの地面を舐める事になった。 少年の拳が稔之の腹にめり込んだのだ。 今までの喧嘩相手とは格が違う。 稔之は相手の動きを全く予測出来なかった。 倒れた稔之の頬を少年は思い切り踏みつけた。 振動に耐え切れなくなった稔之の口に砂利が入り込む。 「こいつらは、お前の連れじゃなかったら、 こんな目には合わなかったのにな」 少年は足に力を込めて、嘲笑した。 その時、コンビニで買い物を済ませたらしい、一人の少女が少年の傍に寄って来た。 「なあに?また弱いもの苛めしてるの?」 その甘ったるい声に、稔之は聞き覚えがあった。 そう、少女はプール事件で綾香を突き落とした、張本人だったのである。 派手な化粧をして容姿は随分変わっているが間違いない。 少女の姿を認めた瞬間。 稔之の中に、今まで感じた事のない激しい怒りが湧いてきた。 何故、俺の大切な物を奪う? ・・・母親を。 ・・・綾香を。 ・・・友人を。 俺が何をしたというんだ? 一体俺の何が駄目なんだ! 怒りは、他者に対する攻撃へと変わる。 稔之は、少年の踝を両手で掴んで渾身の力を込めた。 少年は、突然の稔之の反撃に驚いて、足を抜こうとするが動かない。 もがく少年の足は、やがてボキッと鈍い音をたてた。 立ち上がった稔之は、苦痛の声をあげる少年の喉を拳で突いた。 あっけなく崩れ落ちた少年を引き倒した稔之は 悲鳴をあげて逃げ出す少女を全速力で追いかけ、長い髪の毛を掴んだ。 稔之の表情は憎しみで歪んでいる。 助けて、と懇願する少女の哀訴を無視して、稔之は二、三度、少女の顔を力を込めて殴りつけた。 「関谷、もう止めろよ!死んでしまうよ!」 「君、もう止めるんだ!」 何とか起き上がった友人達と、騒ぎに気付いたコンビニの店員の四人がかりで、ようやく稔之を押し止める事が出来た。 四人に組み伏せられた、稔之の目は再び悔しさに涙溢れる。 曇った視界に、昏倒した少女の姿がかすんで見える。 悔しさは、少女に向けられた物ではない。 ・・・自分自身に。 『もし、あんたに会わなかったら。 俺は、俺の心の弱さに気付く事はなかったんだ』 稔之は、四人の腕の中で、大声を上げて泣き始めた。 ●挿絵5 その日の夜。 綾香の家のリビングルーム。 綾香の両親、弘明と晶子は沈痛な面持ちで、向かい合っていた。 事件を聞きつけ、二人は飛ぶように警察に行き、帰ってきた直後だった。 両親の只ならぬ様子に気付いた綾香は、心配そうにドアの隙間から顔を覗かせた。 綾香の存在に気付いた弘明は、顔を上げた。 「綾香。明日は友達と尾道へ旅行に行くんだろう? もう早く寝なさい」 「そうよ、今の尾道は桜が綺麗よ。写真撮って来たらどう?」と晶子。 綾香は黙って頷くと、ドアを閉めた。 ・・・稔之に何かあったんだ。 綾香は階段を上がりながら、事態を察した。 プールの件以来、稔之の心は荒んでいる。 一瞬、稔之に対する怒りと哀れみが激しく綾香の心を交錯した。 稔之の苦しみを和らげたい。 でも、自分を裏切った稔之を許すことは出来ない。 綾香は、小学時代の事を思い出した。 大人しかった自分は、小学校時代、よく苛められた。 が、父親と一緒に行った山歩きの時に見た風景に、慰められたものだ。 心をいつも、慰める事は出来ないのだろうか? 結論は、出なかった。 『でも、明日は桜の写真を撮ろう』 人に安らぎを求める事は、決して間違っていない。 しかし、人間は皆、自分の為に生きているのだ。 人を労ってばかりだと、自分が潰れる事にもなりかねない。 だから、自分を自分で癒せるようにならねば。 綾香は、父親のカメラを旅行鞄の中へと収めた。 「私達、稔之を預かった事・・・間違っていたのかしら?」 この日、一度だけ、晶子はかつて選んだ自分の決断に疑問を持った。 今日の事件だけで、言っているのではない。 ある日を境に、女の子らしかった自分の娘が変わってしまった事。 綾香の両親は、プールでの事件を知らない。 しかし、原因は稔之にある事に、綾香の母親は勘付いていた。 「仕方ないさ・・・ 新しい父親が、稔之を敬遠していたのだろう」 晶子を慰める弘明であった。 「あら、私は稔之が新しい父親に懐こうとしなかった と聞いていたけど・・・?」 どちらの言っている事も真実。 人は自分に都合の良いように現実を解釈する。 「この事件で補導歴がついた稔は、 他の高校はすべてアウトになっちゃったんだ。 だけど、たまたま、 うちの学校は体育科にバスケの強い生徒が欲しかった。 それで、稔はこの学校に入学する事が出来た。 勿論、稔の父親は、相当な寄付金を積んだらしいけどね でも、入学までの経緯はどうであれ、 稔がここまで、やって来れたのは 本人の努力と実力だと俺は思うよ」 話を終えた中田は、溜息を一つつくと、一気にジュースを飲み干した。 「ありがとう。中田君。大体の話は分った 今日はもう、遅いので、もうお暇する」 亮哉は、深く頭を下げて礼を言うと、さっさと部屋の外へと出て行ってしまった。 残された西谷は、済まなそうに中田の方を見た。 「何だか、ごめんな。中田。 彩賀は、悪い奴じゃないんだけど、融通が聞かない所があるんだ。 それに、君は関谷の親友だろ? 良いのかい?彩賀にあそこまで話して・・・」 中田は、穏やか表情で応えた。 「何が、本当に稔の為になるかなんて、俺には分らないよ」 |